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士師記3章

 士師記3章を学びます。

 Ⅰ.主が残しておかれた異邦の民(1-6)

まず1~6節までをご覧ください。「1 次が、【主】が残しておかれた異邦の民である。主がそうされたのは、カナンでの戦いを全く知らないすべてのイスラエルを試みるためであり、2 ただ、イスラエルの次世代の者、特にまだ戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためであった。3 すなわち、ペリシテ人の五人の領主たち、またすべてのカナン人、シドン人、そしてヒビ人である。ヒビ人は、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテにまで及ぶレバノンの山地に住んでいた。4 これは、彼らによってイスラエルを試み、【主】がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうかを知るためであった。5 イスラエル人は、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただ中に住み、6 彼らの娘を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた。」

 1節には「次が、主が残しておられた異邦の民である」とあります。ヨシュアの死後、イスラエルの民は神が約束された地を聖絶しなければなりませんでしたが、彼はその地の住民を追い払うことができませんでした。ここには、それは「主が残しておられた異邦の民」とあります。確かにイスラエルはその地の住民を追い払うことができませんでしたが、それは同時に主がなされたことでもありました。いったいなぜ主はその地に異邦の民を残しておられたのでしょうか。ここには、「主がそうされたのは、カナンでの戦いを全く知らなかったすべてのイスラエルを試すためであり、ただ、イスラエルの次世代の者、特にまだ戦いを知らない者たちに、戦を教え、知らせるためであった」(1-2)とあります。そのために主は、その地に異邦の民を残し、彼らによってイスラエルを試み、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、彼らが聞き従うかどうかを知ろうとされたのです。

結果はどうだったでしょうか。5節、6節をご覧ください。残念ながら、彼らはこの信仰のテストに合格できませんでした。彼らはその地に住んでいたカナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただ中に住み、彼らの娘を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えてしまいました。つまり彼らはその地の住民と同化してしまったのです。モーセを通して与えられた神の命令は、その地の住民と縁を結んではならないということでしたが(申命記7:3)、彼らはその命令に背いてしまったのです。なぜでしょうか。イスラエルの民にとっては、戦って町を手に入れるよりはその地の住民と結婚し、平和的に暮らした方がずっと得策のように思われたからです。しかし、その結果、イスラエルの民は、主の目に悪であることを行い、彼らの神、主を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えるようになってしまいました。

ローマ人への手紙12章2節には、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」とあります。神の民であるクリスチャンはこの世にあっても、この世と調子を合わせてはいけません。唯一まことの神を知り、その神の愛と聖さに生きる者であるならば、その光を輝かせなければならないのです。しかし、イスラエルの民は、その神の選びとその責任を忘れてしまいました。イスラエルの民の課題は、私たちの課題でもあります。聖書の真理を世に伝え、神の恵みの福音を語り伝える信仰的な戦いを意識できなければ、結局はこの世に流されてしまうことになります。神は戦いを教え、知らせようとされていることを忘れてはいけません。主がともにおられることを覚え、信仰の戦いに勝利させていただきましょう。

Ⅱ.最初の士師オテニエル(7-11)

次に、7~11節をご覧ください。「7 こうしてイスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを行い、彼らの神、【主】を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えた。8 【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡されたので、イスラエルの子らは八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。9 イスラエルの子らが【主】に叫び求めたとき、【主】はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われた。それはカレブの同族ケナズの子オテニエルである。10 【主】の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。彼が戦いに出て行くと、【主】はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡されたので、彼の手はクシャン・リシュアタイムを抑えた。11 国は四十年の間、穏やかであった。こうして、ケナズの子オテニエルは死んだ。」

「こうして」とは、イスラエルの子らがその地の住民と婚姻関係を結んだことによって、彼らがバアルやアシェラに仕えるようになって、ということです。するとどうなりましたか?主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に渡されたので、彼らは8年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えることを余儀なくされました。アラム・ナハライムはメソポタミアのことであり、現在のシリヤの北部に位置します。つまり、ずっと北に位置していた王がイスラエルまでやって来て、彼らを支配したのです。

前回の学びの中で、士師記の中には背信→さばき→助けを求める叫び→さばきつかさによる救い、という図式が繰り返されると申し上げましたが、ここでもそれが繰り返されています。彼らは主の目に悪であることを行ったので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、敵の攻撃などによって困難な状況に陥ることになりました。

その時、イスラエルはどうしましたか?9節をご覧ください。イスラエルの子らは主に叫び求めました。それで主は、イスラエルのために一人の救助者を起こして彼らを救われます。それがオテニエルです。彼が最初の士師です。オテニエルはどんな人物だったでしょうか?彼はユダ族の出で、カレブの弟ケナズの子でした。すなわち、カレブの甥にあたります。彼については1章11節で紹介されてあります。カレブがキルヤテ・セフェルに攻め入った際その地をなかなか攻略することができなかったとき、「キルヤテ・セフェルを打って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」と言うと、このオテニエルが手を挙げ、それを攻め取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えました(1:13)。ですから彼はとても勇敢な者であったことがわかります。
しかし、それは彼が勇敢だったというよりも、主の霊が彼の上にあったからです。10節には、「主の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。」とあります。彼には主の霊が望んでいました。ですから、彼は勝利することができたのです。主は、このオテニエルを最初の士師としてイスラエルを救うために遣わされたのです。オテニエルがイスラエルをさばいていた40年間、イスラエルは穏やかでした。しかし、オテニエルが死ぬと状況は一変します。

Ⅲ.エフデとシャムガル(12―31)

12~14節をご覧ください。「12 イスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを重ねて行った。そこで【主】はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。彼らが【主】の目に悪であることを行ったからである。13 エグロンはアンモン人とアマレク人を彼のもとに集め、イスラエルを攻めて打ち破った。彼らはなつめ椰子の町を占領した。14 こうして、イスラエルの子らは十八年の間、モアブの王エグロンに仕えた。」
オテニエルが死ぬと、イスラエルはどうなりましたか?彼らは主の目に悪であることを重ねて行うようになりました。あの図式の「背信」に当たります。そこで主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせます。

エグロンはアモン人とアマレク人を彼のもとに集めると、イスラエルを攻めて打ち破り、彼らはなつめやしの町を占領しました。「なつめやしの町」とはエリコのことです。モアブはヨルダン川の東側に住んでいる民ですが、ヨルダン川の西側にまでやって来て、エリコを占拠していたのです。こうして、イスラエルの子らは18年の間、モアブの王エグロンに仕えました。するとイスラエルの民はどうしたでしょうか。

彼らは再び主に叫び求めます。15~25節をご覧ください。「15 イスラエルの子らが【主】に叫び求めたとき、【主】は彼らのために、一人の救助者を起こされた。ベニヤミン人ゲラの子で、左利きのエフデである。イスラエルの子らは、彼の手に託してモアブの王エグロンに貢ぎ物を送った。16 エフデは長さ約一キュビトの両刃の剣を作り、それを衣の下、右ももの上に帯で締め、17 モアブの王エグロンに貢ぎ物を携えて行った。エグロンはたいへん太った男であった。18 貢ぎ物を献げ終わると、エフデは貢ぎ物を運んで来た者たちを見送り、19 彼自身はギルガルのそばの石切り場のところから引き返して来て、こう言った。「王様、私はあなたに秘密のお知らせがあります。」すると王は「今は、言うな」と言ったので、そばに立っていた者たちはみな、彼のところから出て行った。20 エフデが王のところに行くと、王は、屋上にある彼専用の涼しい部屋に一人で座していた。エフデが「あなたに神のお告げがあります」と言うと、王はその座から立ち上がった。21 このとき、エフデは左手を伸ばし、右ももから剣を取り出して、王の腹を刺した。22 柄も刃と一緒に入ってしまった。彼が剣を王の腹から抜かなかったので、脂肪が刃をふさいでしまった。エフデは小窓から出た。23 エフデは廊下へ出て行き、屋上の部屋の戸を閉じた。このようにして、彼はかんぬきをかけた。
24 彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来た。彼らが見ると、屋上の部屋にかんぬきがかけられていたので、彼らは「王はきっと涼み部屋で用をたしておられるのだろう」と思った。25 しかし、いつまで待っても、王が屋上の部屋の戸を一向に開けようとしないので、しもべたちは鍵を取って戸を開けた。すると、なんと、彼らの主人は床に倒れて死んでいた。」

彼らが主に叫び求めると、主は彼らのために一人の救助者を起こされました。誰ですか?エフデです。彼は2番目の士師です。エフデにはどんな特徴がありましたか?彼はベニヤミン人ゲラの子でしたが、左利きでした。なぜここに、わざわざ左利きであったと強調されているのでしようか。左利きでも右利きでもどうでもいいじゃないか。その理由は後で明らかにされます。ここには、イスラエルの子らは、そのエフデの手に託してモアブの王エグロンに貢ぎ物を送ったとあります。

するとエフデはどうしましたか?彼は長さ約1キュビト(約44.5センチ)の両刃の剣を作り、それを衣の下、右ももの上に帯で結びました。そしてモアブの王エグロンのもとに貢ぎ物を携えて行きました。なぜ彼は右ももの上に両刃の剣を結んだのでしょうか?エグロンを討つためです。彼に貢ぎ物を献げようと近づいた時、その剣で突き刺そうと考えていたのです。
エフデは用意周到な男でした。彼は貢ぎ物を献げ終わると、一緒に来た者たちを見送り、ギルガルの石切り場のところから引き返してエグロンのもとに戻って来て、こう言いました。「王様、私はあなたに秘密のお知らせあります」エフデは実に巧妙でした。彼はエグロンに「私はあなたに秘密のお知らせがあります」と言うことによって、そこにいた人たちを出て行かせ、エグロンと1対1になる状況を作り出したのですから。エグロンは「今は、言うな」と言いました。誰にもしられたくないと思ったのでしょう。彼はそこにいた者たちをみな彼のところから追い出すと、エフデを自分のもとに引き寄せます。

この時彼は屋上にある彼専用の涼しい部屋に一人で座っていました。その時エフデが「あなたに神のお告げがあります」と告げたので、エグロンはその場から立ち上がりました。その秘密の話を聞こうとエフデに近づいたのです。エフデはこの時を待っていました。エグロンが立って自分のそばに来たとき、例の両刃の剣を取って突き刺そうと計画していたのです。そのところをブスッです。彼はエグロンを剣で刺しました。

21節をご覧ください。彼はどのようにエグロンを刺しましたか?ここには「エフデは左手を伸ばし、右のももから剣を取り出して、王の腹を刺した」とあります。ここがミソです。右利きであれば逆です。右手を伸ばし、左のももから剣を取り出します。でもエフデは左手を伸ばし、右ももから剣を取り出して、王の腹を指しました。左利きだったからです。エフデがなぜ左利きであることが記録されていたのかがわかりますね。もし右利きだったら相手も警戒したでしょうが、左利きだったので相手は全く警戒しませんでした。それが有利に働いたのです。主はモアブの王エグロンからイスラエルを救い出すために、そのようなエフデを用いられたのです。今でこそ左利きでもあまり問題ではありませんが、昔は左利きの人は字を書く時などは右手で書くようにさせられたこともありました。その方が何かと便利だからです。また、昔は左利きの人を「ギッチョ」と差別用語で呼ぶこともありました。しかし、神はこうした人とは違うような特徴や恥ずかしいと思うような性質を、ご自分の栄光のために用いられるのです。

23節をご覧ください。エフデはエグロンを刺すと小窓から廊下に出て、王のいる屋上の部屋の戸を閉じ、かんぬきで締めました。時間かせぎをするためです。案の定、彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来ますが、王のいる屋上の部屋にかんぬきがかけられているのを見ると、王は涼み部屋で用をたしていると思い、戸をあけませんでした。しかし、いつまで待っても出て来ないので、しもべたちが鍵を取って戸を開けると、王は床に倒れて死んでいました。

26~30節をご覧ください。「26 エフデは、しもべたちが手間取っている間に逃れ、石切り場のところを通って、セイラに逃れた。27 到着すると、彼はエフライムの山地で角笛を吹き鳴らした。イスラエルの子らは、彼と一緒に山地から下って行った。彼がその先頭に立った。28 エフデは彼らに言った。「私の後について来なさい。【主】はあなたがたの敵モアブ人を、あなたがたの手に渡されたから。」そこで彼らはエフデの後について下り、モアブへ通じるヨルダン川の渡し場を攻め取って、一人もそこを渡らせなかった。29 このとき彼らは約一万人のモアブ人を討ち取った。そのモアブ人はみな、頑強で、力のある者たちだったが、一人として逃れた者はいなかった。30 こうして、モアブはその日イスラエルの手に下り、国は八十年の間、穏やかであった。」

エフデはしもべたちが手間取っている間に、石切り場のところを通って、セイラに逃れました。そしてセイラに到着すると、エフライムの山地で角笛を吹き鳴らし、イスラエルを招集しました。何のためでしょうか。28節にあるように、モアブに通じるヨルダン川の渡し場を攻め取って、彼らを打つためです。ヨルダン川の西側にもたくさんのモアブ人がいました。彼らが自分たちの国に戻ろうとするのをエフデは阻止しようとしたのです。そのようにしてイスラエル人は約1万人のモアブ人を討ち取りました。モアブ人はみな、頑強で、力のある者たちでしたが、一人として逃れた者はいませんでした。
このようにして、モアブはその日イスラエルの手に下り、イスラエルはエフデのもとで80年間、穏やかに過ごすことができました。これは士師の中で最も長く続いた平和の期間です。

最後に31節をご覧ください。ここに、3番目の士師が登場します。それは「シャムガル」です。「31 エフデの後にアナトの子シャムガルが起こり、牛を追う棒でペリシテ人六百人を打ち殺した。彼もまた、イスラエルを救った。」
エフデの後にアナトの子シャムガルが起こり、ペリシテ人600人を討ち殺しました。彼はどのようにペリシテ人を討ち殺しましたか?牛を追う棒によって、です。これは、牛が畑を耕しているときに余計な動作をしないように突いて正すための棒です。片方の先はとがっていて、もう一方はのみのようになっていました。シャムガルは、おそらくは農作業をしていた普通の人だったのでしょう。そのシャムガルが、牛を追う棒でペリシテ人600人を撃ち殺したのです。

これはどういうことかというと、牛を追っているような普通の人でも用いられるということです。伝道とか牧会というと、神学校を出た人でないとできないと思っている方がいますが、そうではありません。主はその置かれたところで、その人が持っているもので仕えることができるように用いてくださるのです。

エッサイの根株から新芽が生え イザヤ書11章1~9節エッサイの根株から新芽が生え 


聖書箇所:イザヤ書11章1~9節
タイトル:「エッサイの根株から新芽が生え」

今日は、アドヘント(待降節)の第1週です。キリストはある日突然生まれたのではなく、その誕生は昔から旧約聖書の中に預言されていました。たとえば、預言者イザヤは、紀元前700年ごろに活躍した預言者ですが、キリストの誕生を700年も前に預言していました。キリストの誕生以前にどこで生まれるのか、どのようにして生まれるのか、どこから出てくるのか、その名は何かなど、全ての事を詳しく預言していたのです。そして、その一つが今日の個所です。今日はこのイザヤ書11章から、主がどのように来られるのかをご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.若枝から出るメシヤ(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」とあります。
イザヤは、やがて来られるメシヤはエッサイの根株から出ると預言しました。エッサイとは、ダビデの父親の名前です。息子のダビデは非常に有名な王様でしたが、エッサイはそうではありませんでした。エッサイという名前を聞いて「おお、あれがあのエッサイか」と感動する人は、おそらく一人もいなかったでしょう。せいぜいご近所の人が知っているという程度でした。「ダビデのことは知っているけれども、エッサイのことはえっさい(一切)知らない」という感じでした。それなのに預言者イザヤは、そのエッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶと言いました。どういうことでしょうか?これには二つの意味があります。

一つは、やがて来られるメシヤはへりくだった救い主であるということです。エッサイの仕事は羊飼いでした。当時、羊飼いというのは社会的に身分の低い人たちの仕事と考えられていました。ですから、エッサイの根株から新芽が生えというのは、多少なりとも見下げられた表現だったのです。しかし、イザヤはダビデの根株から新芽が生えとは言わないで、エッサイの根株から新芽が生え、と言いました。どうせなら有名な人の名前を使った方が効果的なのに、そうではなく名もない羊飼いのエッサイの名前を使いました。それは、やがて来られるメシヤがダビデの家系から生まれるみどり子でありながら、そのようにへりくだった状態で生まれて来られるということを示すためだったのです。

もう一つの理由は、エッサイがダビデの父親の名前だと申し上げましたが、やがて来られるメシヤはダビデの家系から生まれることを伝えたかったからです。エッサイの子であるダビデ王が築いたユダ王国はその後子孫によって受け継がれて行きますが、やがて神の審判によってダビデ王朝は切り倒されて根株のようになりますが、その根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ、すなわち、メシア(救い主)が生まれるというのが、この1節で語られている預言が意味していることです。

ダビデ王朝について言えば、実はその国は永遠に続くという約束が神から与えられていました。Ⅱサムエル記7章16節にこうあります。「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
しかし、実際の歴史はそうではありませんでした。ダビデの家と王国はB.C.586年にバビロンによって滅ぼされてしまいます。
では、ダビデに告げられた約束は嘘だったのでしょうか?神はダビデに約束してくだったことを反故にされてしまったのでしょうか?そうではありません。確かに目に見えるダビデ王朝は滅ぼされましたが、この神の約束はダビデの血を引くメシヤ、イエス・キリストによって成就したのです。それはエレミヤ書22章で学んだ通りです。神はヨセフの系図からではなくマリヤの系図を通して、このダビデの血を引くメシヤの誕生を実現してくださいました。それがイエス・キリストです。ですから、あなたの家とあなたの王国は、あなたの前に確かなものとなり、あなたの王座はとこしえに堅く立つという神の約束は、イエス・キリストによって成就することになるのです。
すばらしいですね。このことから、神は約束に忠実な方であるということを知ることができます。

ところで、イザヤはそのエッサイの家から新芽が生え、とは言いませんでした。そうではなく彼は、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」と言いました。これはどういうことでしょうか。
「根株」とは「切株」のことです。このことをよく表現しているのが10章33,34節です。ここには、「見よ、万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払われる。丈の高いものは切り倒され、そびえたものは低くなる。主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒される。」(10:33-34)とあります。
これは、当時世界を治めていたアッシリア帝国に対するさばきの預言です。アッシリアは、周囲の国を次々と征服し、大帝国として栄えていました。それは神の道具として神がそのように用いたからなのに、何を血迷ったのか道具としての自分の立場を忘れ、高ぶってしまったので、神はアッシリアよりも強力な国バビロン帝国を興してアッシリアをも滅ぼそうとしたのです。万軍の主が、恐ろしい勢いで枝を切り払われます。主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒されます。まさに切り倒された株、切株です。それはアッシリアだけでなくユダも同じです。主に背き続けたユダもアッシリア同様切り倒されることになります。しかし、違いがあります。それは何かというと、神はそこに「残りの者」を残してくださるということです。その残りの者は、力ある神に立ち返るようになるということです。それが10章20~22節で言われていることです。「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。」
そしてそのような人達の末裔からメシヤが生まれるのです。それがここで言われていることです。神はエッサイの根株から新芽を生えさせ、その根から若枝が出て実を結ぶようにしてくださるのです。

皆さん、ここに希望があります。切り倒されて切株しか残っていないような中で、だれもが絶望している時に、誰もが期待していないような中で、神の救いが現れるのです。もう何の望みもないと思われるような中に、神の救いが始まるのです。それが新芽であり、若枝なるメシヤ、救い主イエス・キリストです。

ところで、この「若枝」という言葉ですが、これはやがて来られるメシヤのことを表しています。これはヘブル語では「ネイツァー」と言いますが、「ナザレ」の語源になった言葉です。マタイ2章23節に「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。」とありますが、これはこのイザヤ11章1節の預言が成就したということを示しているのです。この預言がナザレのイエスによって成就したのです。来るべきメシヤはエッサイの根株から生える若枝として実を結ぶのです。メシヤはナザレ人と呼ばれるのです。そこには四つの意味があります。

第一に、それは王として来られるメシヤを表していました。エレミヤ23章5節に、「見よ、その時代が来る。─主のことば─そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。」とありますが、これはやがて来るメシヤが王であられることを示しています。その「若枝」、メシヤは、王となって治めるのです。
第二に、それはしもべとして来られるメシヤを表しています。ゼカリヤ3章8節には、「聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼らはしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。」ここでは「若枝」のことが「しもべ」と言われています。神はご自身のしもべ、若枝を来させるのです。
第三に、それは人としてのメシヤです。ゼカリヤ6章12節にこうあります。「彼にこう言え。『万軍の主はこう言われる。見よ、一人の人を。その名は若枝。彼は自分のいるところから芽を出し、主の神殿を建てる。」ここでは、この「若枝」のことが「一人の人」と言われています。
第四に、それは神としてのメシヤです。イザヤ4章2節には「その日、主の若枝は麗しいものとなり、栄光となる。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなる。」とあります。ここでは、この「若枝」のことが「主の若枝」と言われています。それは神としての若枝のことです。それは麗しいものとなり、栄光となります。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなるのです。

このように主の若枝には四つの意味があります。それはちょうど新約聖書にある四つの福音書が、それぞれマタイの福音書が王としてのイエスを、マルコの福音書はしもべとしてのイエスを、ルカの福音書は人としてのイエスを、そしてヨハネの福音書が神としてのイエスを表しているように、やがて来られるメシヤは王の王として、人々に仕えるしもべとなって人間の姿をとり十字架で死なれるまことの神であることを表しているのです。それは私たちを罪から救うためでした。全く罪のない神ご自身が、人となられ十字架に掛かって死んでくださいました。キリストは、エッサイの根株から出る新芽として、その根から出た若枝としてこの世に来てくださったのです。

皆さん、ここに救いがあります。もしかするとあなたの人生は切り倒され、何も残っていないかのような根株のような状態かもしれません。しかし、神はその根株からも新芽を生えさせ、若枝を出させ、実を結ぶようにしてくださいました。どんなに切り倒され、さげすまれても、神は決してあなたを見捨てるようなことはなさいません。必ず回復させてくださるのです。

Ⅱ.若枝にとどまる主の霊(2-5)

次に、この若枝の性質について見ていきたいと思います。2~5節をご覧ください。2節には、「2 その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。」とあります。「主の霊」とは神の霊のこと、聖霊のことです。「それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である」とあるように、「七つの霊」として表現されています。それは主の霊であり、知恵と悟りの霊であり、思慮と力の霊であり、主を恐れる、知識の霊です。これは七つの霊があるということではなく、一つの聖霊に七つの働きがあるということです。「七」というのは聖書では完全数を表していますから、御霊は完全な方であるということを表していることもわかります。そして、イエス・キリスト、救い主、メシヤには、この主の霊、神の御霊に待たされた方でした。

イエスはルカ4章18~19節で、このように言われました。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」
また、ヨハネ3章34節には、「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。」と言われました。イエスは神の霊に満たされたお方でした。

また、この方には「知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊」がありました。それは3~5節に「この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。」とある通りです。
人間は目に見えるところによってしばしば判断し、内に隠された問題や真理を見失ってしまう間違いを犯しますが、主はそのような方ではありません。表面に現れたものではなく、私たちの心を見られるからのです。また、聞きかじりの知識ではなくて、物事の本質によって判断されるからです。

たとえば、イエスのもとに姦淫の現場で捕らえられた女が連れて来られたとき、律法学者とパリサイ人は、モーセの律法には、こういう女を石打にするように命じているが、あなたは何と言われますか、という問いに、イエスはこう言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
すると、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、女とイエスだけが残されたとき、イエスは彼女にこう言われました。「わたしもあなたにさばきをくださない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)
イエスはなぜそのように言われたのでしょうか?それはその女の心を見られたからです。人はうわべを見るが、主は心を見られます。この女は自分の罪にうちひしがれ、もうさばかれても当然、とんでもないことをしてしまった、取り返しのつかないことをしてしまった、罪に定められ石で打ち殺されてもしょうがないという思いを持っていたでしょう。それを十分承知のうえで、彼女は必死になって主のあわれみを求めたのです。主はその心を見られたのです。イエスは、その目の見えるところでさばかず、その耳の聞こえるところで判決を下されませんでした。それが私たちの主イエス・キリストです。

その一方で、いつまでも踏みにじられている人たち、弱い者、地の貧しい者たち、しいたげられている人たちがいますが、そういう人たちには、正義と公正をもって正しくさばいてくださいます。主が来られる時、主はこれを実現してくださいます。これこそ、ほんとうの希望ではないでしょうか。

Ⅲ.メシヤの支配(6-9)

最後に、このメシヤによってもたらされる王国がどのようなものであるかを見て終わりたいと思います。6~9節までをご覧ください。「6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。」

ここにメシヤによってもたらされる王国がどのようなものであるかが描写されています。それは一言でいえば「平和な世界」です。羊と狼、子やぎと豹が共に戯れ、小さな子どもが牛やライオンを追って行きます。乳飲み子がコブラと戯れ、まむしの巣に手を伸ばすのです。そんなことをしたら危ないじゃないですか、と心配する方もおられると思いますが、大丈夫です。主が支配する王国は、このような平和の国ですから。まるで地球全体がエデンの園のような状態に回復されるのです。この時代には弱肉強食の動物界に完全な平和が訪れることになります。そもそもアダムとエバが罪を犯す前は、弱肉強食などありませんでした。動物たちはみな草を食べていたのです。牛も、熊も、獅子も、みんな草を食べていました。草を食べるのはうさぎだけではありません。大きな熊もそうです。今でもパンダは竹を食べていますが、それは今に始まったことではありません。ずっと昔からそうなのです。それが変わったのは人間が罪を犯し、その罪の影響が人類ばかりではなく、こうした動物界をはじめ自然界全体に及んだからです。そうした世界に、完全な平和がもたらされるのです。

これは文字通りにはキリストが再臨された後の千年王国の時に実現するものです。しかしその本質である愛が支配する世界は、私たちがこの平和の王であられる主イエスを信じるとき、その瞬間に、私たちの中に始まるのです。どうしてですか?それは9節にあるように、主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからです。9節をご一緒に読みましょう。「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」(9)
すばらしい御言葉ですね。「主を知ることが、海をおおう水のように地を満たすからである。」主を知ることとは、主を信じることと言っても良いでしょう。主を知ることが、主を信じる人たちが、海をおおう水のようにこの地を満たすとき、このような平和が訪れるのです。

ですから、大切なのは「主を知る」ということです。これは今年の教会の年間テーマでしたね。主を知るとは表面的に知るということではなく、主がどのような方なのかを深く知るということです。やがて世の終わりにもたらされる千年王国では、この主を知る知識がこの地を満たします。主が支配される千年間の平和な時代がやってくるのです。

しかし、それは千年王国においでだけではありません。それは既にもたらされているのです。もしあなたが主を知るなら、このメシヤによって支配される目に見えない千年王国が、私たちの心を支配し、神の平和があなたの心を満たすようになります。ルカ17章20~21には、パリサイ人たちが神の国はいつ来るのかという質問に対して、イエスはこう言われました。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」
神の国はあなたがたのただ中にあるのです。ですから、イエス・キリストがいつ来られるかということよりも、いつ来られても大丈夫なように、このメシヤなるキリストを信じて、罪を赦していただき、主の再臨に備えておくことが大切なのです。それが主を知るということです。その時、神の平和があなたの心と思いを満たすでしょう。

あなたは、このエッサイの根株から出る新芽、その根から出る若枝を迎える準備が出来ているでしょうか。主はあなたを罪から救うために今から約二千年前にこの世に来てくださいました。そして十字架で死なれ、三日目によみがえられ、天に昇り、全能の父なる神の右に着座されました。あなたの救いの御業を完成してくださったのです。あなたがこのイエスを救い主として信じて受け入れるなら、神の国はあなたの中にあります。あなたは主のご支配の中で完全な愛と平和を受けることができます。そして、主が再び来られるとき、文字通り千年王国において、この愛と平和を生きることになるのです。あなたも、あなたのために来られたメシヤ、救い主、イエス・キリストを信じて、主の来臨に備えてください。これこそ本当のクリスマスの喜びと希望なのです。

神の時がある エレミヤ書27章1~22節神の時がある 

2023年11月19日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書27章1~22節(エレミヤ書講解説教50回目)
タイトル:「神の時がある」
きょうは、エレミヤ書27章からお話します。タイトルは、「神の時がある」です。私たちは、自分の欲しいものがあると、すぐにでも欲しいと願います。けれども、すべてのことに神の時があります。その時を待つことが大切です。そうするなら、ちょうど良い時に神は与えてくださいます。きょうは、そのことについて語っておられる主のことばを聞きたいと思います。
Ⅰ.縄とかせを作り、あなたの首に付けよ(1-8)
まず、1~8節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの治世の初めに、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 【主】は私にこう言われた。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。3 そうして、エルサレムのユダの王ゼデキヤのところに来る使者たちによって、エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ツロの王、シドンの王に伝言を送り、4 彼らがそれぞれの主君に次のことを言うように命じよ。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは主君にこう言え。5 わたしは、大いなる力と伸ばした腕をもって、地と、地の面にいる人と獣を造った。わたしは、わたしの目にかなった者に、この地を与える。6 今わたしは、これらすべての地域をわたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の生き物も彼に与えて彼に仕えさせる。7 彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。8 バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──【主】のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。」
1節に「ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの治世の初めに」とありますが、これは写本に書き写す際の間違いです。正しくは下の欄外の説明にあるように、「ゼデキヤ」の治世です。聖書は誤りがない神のことばですが、それは原本において誤りがないという意味で、このように非常に稀ですが写本において間違うことがあります。特に、エレミヤ書は年代順に書かれたわけではないので、書き写す際に間違えたのではないかと考えられています。なぜそこがゼデキヤなのかというと、前後の文脈をみるとわかりますが、ゼデキヤということばが何回も出てくるので、そのように読むのが自然だからです。
ゼデキヤは南王国ユダの最後の王です。彼が王の時にユダは滅ぼされバビロンの捕囚にされます。そのゼデキヤの治世の初めに、主からエレミヤに次のようなことばがありました。2節です。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ」これは13章に「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」という命令がありましたが、それと同じように、エレミヤに行動によって預言を行なわせるものです。かせとは、二頭の牛の首にかけて農作業などをさせるくびきのことです。横木ですね。そこに縄を付けたものです。勿論、普通はそんなものを付けて歩いている人はいません。そんなものを首につけていたら、頭がおかしいのではないかと思われるでしょう。でも主はそのように命じられたのです。それによって主がご自分の思いを伝えるためです。その思いとはどんな思いでしょうか。
その思いが、3節から8節で具体的に語られます。それはユダと周辺諸国はバビロンの王ネブカドネツァルによって滅ぼされ、首にかせをかけられるようになるということです。すなわち、バビロン捕囚の民となるということです。しかしゼデキヤはエレミヤのことばを嫌って受け入れませんでした。3節にあるように、エドム、モアブ、アンモン、ツロ、シドンという5つの国々と軍事同盟を結んでバビロンに対抗しようとしたのです。彼はエレミヤのことばを信じようとしませんでした。バビロンによって滅ぼされるなんてあり得ない。自分たちは神の民である。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」。だれも手を出すことはできないといった偽りの預言者たちのことばに騙されて、周辺諸国と手を組んでバビロンに対抗しようとしたのです。
でもそれは実に愚かなことでした。なぜなら、もう既にバビロン捕囚が始まっていたからです。バビロン捕囚は全部で3回行われましたが、既に第二回目が完了していました。もうすぐ三回目の捕囚が行われようとしていました。それはB.C.586年に起こることですが、エルサレムは完全に滅ぼされ、ユダの民は捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになります。それなのにゼデキヤは、その前のエホヤキンという王がバビロンの捕囚になると、バビロンによって擁立された王であるにも関わらず、ネブカドネツァルに反逆して、このような外交ルートを作ってバビロンに対抗しようとしたのです。だから主はエレミヤを通して、そのようなことをしても無駄であること、バビロンの王のくびきに服するようにと伝えるために、エレミヤにこのような格好をさせたのです
それはいつまでもということではありません。7節に「彼の地に時が来るまで」とあります。「彼の地」とはバビロンのことを指しています。それはバビロンに時が来るまでのことです。それまですべての国は彼とその子と、その子の子に仕えますが、その後で多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にします。どういうことかというと、その子とはネブカドネツァルの子のエビル・メロダク(Ⅱ列王25:27)のことで、そしてその子の子とはベルシャツァルのことでが、その子の子であるベルシャツァルまでの70年間は、すべての国がバビロンの奴隷となってバビロンに仕えることになりますが、その後は、多くの民や大王たちが、逆に彼を自分たちの奴隷にするということです。果たして、それがこの通りになります。バビロンの王ベルシャツァルは、メディヤとペルシャの連合軍との戦いに敗れ、彼らに服することになるのです。ここに書かれてあるとおりです。
いずれにしても、神の時があります。神の時が来たら、そのことがわかります。それまでは我慢しなければなりません。それまで耐え忍んでください。そうするなら、神はあなたに祝福をもたらしてくださいます。
メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーは有名ですが、彼はオックスフォード大学で学ぶと、最初は英国国教会の聖職者となりました。オックスフォード大学在学中に信仰熱心な友人たちとともに「ホーリー・クラブ」というクラブを作ると、これが「メソジスト」と呼ばれ、その後のメソジスト派の名前となっていきました。彼は、弟のチャールズ・ウェスレーやホイットフィールドとともに、英国にリバイバルをもたらす器となります。そのウェスレーの日記を見ると、その働きが必ずしも順調ではなかったことがわかります。
5月5日(日)午前、聖アンナ教会で説教する。もう二度と来なくてよい、と言われる。午後、聖ヨハネ教会で説教する。執事の一人に、「出て行け、ここに近寄るな!」と言われる。
5月12日(日)午前、聖ユダ教会で説教する。あそこにも、もう行かれない。午後、聖ジョージ教会で説教する。またつまみ出される。
5月19日(日)午前、聖ペテロ教会で説教する。執事が特別会議を開き、私は招かれざる客だ、と言い渡される。午後、路傍で説教する。路傍からも追い出される。
5月6日(日)午前、野原で説教する。説教中に野原に放たれた雄牛に追いかけまわされて、走って逃げる。
6月2日(日)、町はずれで説教する。道路から立ち退かされる。午後の集会、放牧地で説教する。なんと1万人もの人が来る!
(Bob Hartman, Plugged In Used by Permission from Preaching Today.com)
ジョン・ウェスレーは、実に忍耐深い伝道者でした。どんなに人々に無視され、拒絶されても、神を信じてあきらめませんでした。そして、神の時が来た時、神はそれを祝福に変えてくださいました。
ゼデキヤは、この神の時を見分けることができませんでした。8節に、「バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──【主】のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。」とありますが、彼はバビロンに仕えず、バビロンに首を差し出さなかったので、彼の息子は虐殺され、彼自身も目をえぐり取られて殺されてしまうことになってしまいました。ここに警告されているとおりです。
主イエスは、パリサイ人たちやサドカイ人たちが、天からのしるしを見せてほしいと求められた時、こう言われました。「「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。」(マタイ16:2-3)
「時のしるしを見分けることができないのですか」。時のしるしを見分けることができないと、この時のゼデキヤのようになってしまいます。今がどういう時なのかをしっかり見分けなければなりません。そのためには、いつもイエス様と親しく交わっている必要があります。日々のディボーションを通して自分の置かれている状況がどういう時なのかを見分け、神の時を待ち望みたいと思います。
Ⅱ.にせ預言者に聞き従ってはならない(9-18)
第二のことは、だから、にせ預言者に聞き従ってはならないということです。9~11節をご覧ください。「9 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはないと言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞き従ってはならない。10 彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは自分たちの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたは滅びることになる。11 しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──【主】のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。』」
だからエレミヤは、偽りの預言をしている者たちのことばを聞き従ってはならないと警告しています。彼らは自分たちに都合の良いことばかり主張していました。14節にあるように、「バビロンの王に仕えることはできない」と語っていたのです。なぜ彼らはそのように語っていたのでしょうか。それは、彼らがエレミヤのさばきの預言を聞いた時、神のことばに信頼しないで自分の感情、自分の思いに支配されていたからです。危機に直面したとき、感情的になるか、それとも、神のことばに信頼するかによって、正反対の結果が生じます。にせ預言者たちはエレミヤのことばを聞いて感情的になり、神のみこころに反する預言を語りましたが、そのような反応はただ滅びをもたらすだけでした。大切なのは感情的になることではなく、神のことばに信頼することです。
では、このときの神のことば、神のみこころは何だったのでしょうか。それは11節にあるように、バビロンの王に仕えることでした。11節をご一緒に読みましょう。
「しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──【主】のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。」
バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕えるとは、バビロンの捕囚の民となることです。そうすれば、主はその土地にとどまらせてくださいます。これが彼らのすべきことでした。自分がとどまりたいところにとどまるのではなく、神がとどまらせたいところにとどまらなければなりません。自分が行きたいところに行くのではなく、神が行かせたいところに行かなければなりません。そうすれば、主はその土地にとどまらせてくださいます。新改訳第三版ではこの「とどまらせる」を「いこわせる」と訳しています。「その土地にいこわせる」と。それが私たちに求められていることです。そこにいこいがあります。それは、具体的にはバビロンの王のくびきに首を差し出すことです。バビロンの捕囚の民となることです。しかし、にせ預言者たちは反対のことを語っていました。そこにいこいはないと。あくまでも反バビロン同盟を組んでバビロンと戦うべきだと。バビロンの王に仕えることはできないし仕えるべきではない。あくまでも徹底抗戦すべきだと語っていたのです。でも神のみことばに逆らうなら、その身にわざわいを招くことになります。
16~18節をご覧ください。ここでは、祭司とすべての民に向けてメッセージが語られています。「16 私はまた、祭司たちとこの民全体に向かって語った。「【主】はこう言われる。あなたがたは、『見よ、【主】の宮の器は、バビロンから今すぐにも戻される』とあなたがたに預言している、あなたがたの預言者のことばに聞き従ってはならない。彼らはあなたがたに偽りを預言しているのだ。17 彼らに聞き従ってはならない。バビロンの王に仕えて生きよ。どうして、この都が廃墟になってよいであろうか。18 もし彼らが預言者であるなら、もし彼らに【主】のことばがあるなら、彼らは、【主】の宮、ユダの王の宮殿、またエルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の【主】にとりなしをするはずだ。」
バビロンによって持ち去られた神殿の器について、にせ預言者たちは、祭司とユダの民のすべてに向かって偽りを預言していました。それらはすぐにバビロンから戻されると。でもそれはただの気休めのことばにすぎない偽りのことばでした。返還されるどころかさらに奪われる危機に直面していたからです。というのは、これが語られたのは第二回目のバビロン捕囚の直後(B.C.597年)でしたが、B.C.586年の第三回目の捕囚、これが最後の捕囚となりますが、この時エルサレムは完全に廃墟となり、そのすべてがバビロンにもって行かれることになるからです。ですから、もし彼らが真の預言者ならば、逆にそういうことがないように、主にとりなすはずなのにそういうことをせず、ただ自分たちに都合が良いこと、耳障りの良いことを語り、神の真理のことばを語りませんでした。でもたとえそれが心地よいことば、慰めのことばであっても、そういう偽りの預言に聞き従ってはなりません。
聖書には、世の終わりが近くなると、こうした偽りの預言をする者がたくさん現れるようになるとあります。イエス様は、マタイ24:11で「偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。」と言われました。まさに今はそういう時ではないでしょうか。聖書のことばを私的に解釈し、自分に都合が良いように語って多くの人を惑わす偽預言者が大勢現れています。
苫小牧福音教会牧師の水草修治先生は、「神を愛するための神学講座」という本を書いておられますが、その中で、主イエスが話された偽預言者の特徴を次のようにまとめておられます。
1.偽預言者は表面的には羊のように見えるが、中身は狼のように貪欲である。彼らは「私は偽預言者です」とは自己紹介しない。表面的にはとても良い人である。「こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。」(2コリント12:13-15)
2.偽預言者は主イエスの名によって預言し、主イエスの名によって悪霊を追い出し、主イエスの名によって奇跡を行い、そういう行いが自分が真の預言者である証拠であると思っている。つまり偽預言者は教えの正しさよりも、ある種の霊的体験を優先する。イエスの名によって不思議なことをし、霊的体験を与えてくれるからといって、それが本物の預言者とはかぎらないから、むしろ警戒すべきである。教理よりも体験を重んじがちなタイプの信者は欺かれる。
3.偽預言者は、「悪い実」「不法」を行う。すなわち、彼らは表面的には「羊のなり」をしてよい人なのだが、注意深くその行動を見ると、「悪い実」をみのらせている。「悪い実」とはガラテヤ書で言えば「肉のわざ」である。「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」(ガラテヤ5:19-21)
4.偽預言者は世の終わり(携挙・再臨)が何年何月何日に来ると予言する。だが主イエスは言われた。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:35,36)
5.偽預言者による世の終わりの預言を信じた人は落ち着きを失ってしまうが、正しく聖書の終末預言を学んだ人は、神を愛し隣人を愛する落ち着いた生活をする。主が再び来られたときに、主のもとに引き上げられるのは、その日をあらかじめ知って騒ぎ立てている人ではなく、神を愛し隣人を愛し、地道に落ち着いた生活をしている人である。「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」(1テサロニケ4:11)
実に、的を得た指摘だと思います。世の終わりになると、こういう預言者がはびこるようになります。ですから、私たちも注意しなければなりません。自分にとって都合が良いこと、心地よいこと、耳障りの良いことばではなく、神が語っておられる神のことばを聞かなければなりません。
Ⅲ.この場所に戻す(19-22)
最後に、19~22節をご覧ください。ここに真の預言者であるエレミヤのすばらしい預言のことばが記されてあります。
このようにバビロンに運ばれた神殿の器とエルサレムに残された器に付いて、エレミヤはこう預言します。19~22節をご覧ください。「19 まことに万軍の【主】は、神殿の柱、『海』、車輪付きの台、また、この都に残されているほかの器について、こう言われる。20 ──これらの物は、バビロンの王ネブカドネツァルがユダの王、エホヤキムの子エコンヤ、およびユダとエルサレムのすべてのおもだった人々をエルサレムからバビロンへ引いて行ったときに、奪い取らなかったものである──21 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】は、【主】の宮とユダの王の宮殿とエルサレムに残された器について、こう言われる。22 『それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある──【主】のことば──。そしてわたしはそれらを携え上り、この場所に戻す。』」
19~20節には、バビロンに奪われずエルサレムに残された神殿の器について記録されています。「神殿の柱」とは、神殿の玄関に立てられた2本の青銅の柱のことです。「海」とは、鋳物でできた円形の器のこと。そこに海のようにたくさんの水がためられていました。「車輪付きの台」とは、洗盤を載せる青銅の台のことです。これらの物は、バビロンの王ネブカドネツァルがユダの王とエルサレムのおもだった人たちをバビロンへ引いて行ったときに、奪い取りませんでした。そのままエルサレムに残されたのです。それらのものは、バビロンへ持ち去られ、主が顧みる日まで、そこにとどめ置かれることになりますが、主はこれらの物をこの場所に戻してくださいます。
これが真の預言者のことばです。確かにエルサレム神殿は崩壊し、そこにあったすべての物はバビロンに奪い去られますが、主が顧みられる日に、これらの物をこの場所に戻してくださいます。真の預言者は良いことばかり預言するわけではありません。彼らの罪の結果、受けなければならない神のさばきを語りますが、同時に主の慰めと希望も語るのです。主が顧みられる時に、主は必ず戻してくださると。
エレミヤは、ユダの民がバビロンに捕囚とされて行く中で、やがて主がそれらをこの場所に戻すという希望のメッセージを語ったのです。それは今ではありません。それは主がそれを顧みる日まで、そこにあります。しかし、その日が満ちるとき、主はユダの民がそれらを携えて、この場所に戻すようにしてくださいます。すばらしい約束ですね。バビロンの支配は一時的であり、その期間が過ぎるとき、それは70年間ですが、バビロンに捕えられていた民が、これらの物を携えてエルサレムに帰ってくるようになるというのです。この預言は、確かに捕囚の70年後に成就しました(B.C.536年)。エズラ記1章に、そのとおりに成就したことが記録されてあります。
ここでエレミヤが預言したとおり、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して、自分の神々の宮に置いていた主の宮の器が、運び出されました。この預言を聞いた祭司たちは、どんなに励まされたことでしょうか。将来の神殿の回復が約束されたからです。ですから、私たちは希望を失ってはなりません。必ず、神の約束が成就する時が来るからです。それは今ではないかもしれません。しかし、すべてのことに神の時があります。神のなさることは時にかなって美しいのです。神に信頼しましょう。神に信頼してこの時を待ち望みましょう。そうするなら、神は必ずあなたの人生にも良いことをしてくださいますから。

士師記2章

士師記2章

 士師記2章を学びます。

 Ⅰ.声を上げて泣いたイスラエル(1-5)

まず1~5節までをご覧ください。「さて、主の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」主の使いがこれらのことばをイスラエル人全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。それで、その場所の名をボキムと呼んだ。彼らはその場所で主にいけにえをささげた。」

 前回の箇所には、イスラエルの民が神の命令に反してその地の住民を完全に追い払わなかったので、多くの未占領地を残す結果となったことが記されてありました。その結果どうなったのかが今回の箇所に記されてあります。1節から3節までのところに、主の使いがギルガルからボキムに上って来て、神のみことばを伝えます。ギルガルはヨシュアがヨルダン川を渡って、エリコに行く前に宿営していたところです。そこを他の土地を占領するときの戦いの拠点にしました。そこからボキムに上って来てこう言ったのです。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」
 つまり、神がイスラエルの民をエジプトから上らせ、彼らの先祖に誓ったカナンの地に導き入れる時、イスラエルの民に命じた約束を彼らが守らなかったので、神が彼らの前から彼らを追い払わないだけでなく、彼らはイスラエルの敵となり、彼らの神々はイスラエルにとって罠となるということです。神がイスラエルに命じた命令とは申命記7章1~4節にあるように、主がその地の住民をイスラエルに渡すとき、イスラエルは彼らを必ず聖絶しなければならないということでした。彼らと何の契約も結んではなりませんでした。彼らにあわれみさえも示してはなりませんでした。それなのに彼らは神の声に聞き従わず、その地の住民を聖絶しませんでした。それゆえ神は彼らを追い払わず、彼らはイスラエルの敵となって彼らを苦しめることになるというのです。

 4節と5節を見てください。主の使いがこれらのことばを語ったとき、イスラエルの民はみな声をあげて泣きました。それでその場所の名は「ボキム」と呼ばれるようになりました。意味は「泣く者たち」です。そこでイスラエルの民は、神にいけにえを献げました。このようなことになったのは、イスラエルの民が神のみことばを完全に守らなかったからです。イスラエルの民が妥協して神の命令に従わず、偶像崇拝をするカナン人を完全に追い払わなかったからなのです。

 このようなことは、私たちにもあるのではないでしょうか。どこか割り引いて神のことばを聞いてしまうということが。そして自分の首を絞めるようなことがあります。それは神が悪いのではありません。私たちが悪いのです。神がこのようにしなさいと命じても、そこまでしなくてもとか、そんなに熱心になる必要はない、信仰はほどほどがいいとか言って、徹底して従うことを嫌うのです。むしろ、そこまで従おうとする人たちはバランスを崩しているとか言って非難することもあります。しかしそれはこの時のイスラエルのようにカナン人が敵となり、彼らの神々が自分たちにとって罠となる結果となり、声をあげて泣くことになるのです。幸いな人とは詩篇1篇にあるように、主のおしえを喜びと死、昼も夜もその教えを口ずさむ人です。その人は水路のそばに植えられた木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄えるのです。

 Ⅱ.主を知らない別の世代(6-15)

 次に6~15節までをご覧ください。まず10節までをお読みします。「ヨシュアが民を送り出したので、イスラエル人はそれぞれ地を自分の相続地として占領するために出て行った。民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。ヨシュアが葬られた記録です。その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあそれで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。とに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」

この箇所は、ヨシュア記24章28~31節までの繰り返しとなっています。それでこの箇所はヨシュア記と士師記を直接結び付ける役割をしているのではないかと考えられています。その中心的なことは、ヨシュアが生きていた時と死んでからとでは、イスラエルの民はどのように変わったかということです。6節と7節には、ヨシュアが生きていた時のイスラエルの様子が描かれています。ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの子らはそれぞれ自分の相続する土地を占領しようと出て行きました。彼らはヨシュアが生きていた間、また、主がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、主に仕えました。ところが、主のしもべヨシュアが死ぬと、10節にあるように、「彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない」別の世代が起こりました。つまりヨシュアが生きていたときは、みな主に仕えましたが、ヨシュアが死ぬと、そこには「主を知らず、主のわざも知らない」世代が起こったのです。この「知る」ということは抽象的な概念ではなく、出エジプトや、荒野での奇跡、ヨルダン渡河、さらにはエリコやアイといった町々を攻略した神の奇跡を体験したということ、つまり、彼らをエジプトから救ってくださった神が今も生きて働いているということを信じる信仰を持っているということです。なぜ彼らは主を知らず、主のわざも知らなかったのでしょうか。それはイスラエルの民がその子孫に信仰教育と歴史教育をきちんと行わなかったからです。

このことは信仰の継承について大切なことを私たちに教えています。先日、国際ギデオン協会の田村兄弟が来られ、西那須野教会の初期の頃のことを証してくださいました。初めは5人しかいなかったそうです。そうした中で福本先生が牧師として赴任して来られた時、これからは農業の時代だから農業を研修する施設を作らなければならないと、全県に農業研修の施設を作ろうとされました。その一つがアジア学院でした。ただ農業研修の施設を作ったのではありません。それを通して地域に福音を宣べ伝えていくというビジョンがありました。そのビジョンが教会の力となりました。ですからみんなでよく祈りました。ところが、あれから何十年と経って行く中でそうしたビジョンが無くなり、信仰が形骸化していったと言います。それはこの時のイスラエルのように主を知らない、主のわざを知らない世代が起こったからです。そういう世代になっても心から主を愛する人となるように教会は次世代を担うこどもたちにしっかりと信仰を継承していかなければなりません。

その結果、彼らはどのようになっていったでしょうか。11~15節までをご覧ください。「それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。」

読んで字のごとくです。すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えました。彼らは、自分たちをエジプトの地から導き出された父祖の神、主を捨てて、ほかの神々を拝み、それらに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡されました。彼らがどこへ行っても、主の手は彼らにわざわいをもたらしたのです。
バアルとは、カナン人が当時拝んでいた神でした。農耕を行なっていたので、豊穣の神と考えられていました。そしてアシュタロテはバアルの妻であり、女神です。これも豊穣の神と考えられていました。アシュタロテについては、バビロンのイシュタル、ギリシヤのビーナスも同じ起源であるとされています。カナン人のバアルとアシュタロテ信仰は、それがみだらな性的行為と密接に関わっていただけでなく、自分の子供たちを火の中にくぐらせたり、建物の柱の中に入れたりして、いけにえとしてささげていました。主を忘れたイスラエルの子らは、こうしたバアルやアシュタロテに仕え、主の目の前に悪であることを行い、主の怒りをかい、彼らがどこへ行っても、わざわいを受けることになってしまいました。

イスラエルは初め、周囲の住民を追い払うことをせず、いわば、殺さないで共存しました。その結果、他の神々に仕え、それらを拝み、神の怒りを招くことになってしまいました。私たちも肉をそのままにしておくと、結果的にその肉に仕えることになり、神の怒りを受けることになってしまいます。コロサイ3:5に「地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とある通りです。それらを殺さなければなりません。妥協してはならないのです。学校や職場で未信者と一緒にいるうちに、神を忘れて自堕落な生活に陥ってしまったということはないでしょうか。そうした未信者と一緒にいることも大切ですが、しかし、主を忘れてもろもろのバアルやアシュタロテに仕えるようなことがあるとしたら、この時のイスラエルのようにわざわいを招くことを覚えておかなければなりません。

Ⅲ.信仰の試練(16-23)

次に16~23節までをご覧ください。「そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかった。主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかそれで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだときに残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」の神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。」

「そのとき」とは、主がイスラエルを略奪する者の手に渡されたので、彼らが大いに苦しんだときのことです。そのとき、主はさばきつかさを起こして略奪する者の手から彼らを救われました。ここでわかることは、神がイスラエルをさばかれるのは神が契約に不忠実な方であるとか、愛がないからではなく、どこまでも罪を憎まれるからです。にもかかわらず神は、罪と背信のイスラエルを滅ぼすことをせず、さばきつかさを起こして、彼らを救われました。具体的には3章から16章にかけて、14人の士師が出てきますが、そのたびに主はイスラエルを救い出されます。ところが19節を見ていただくと、そのさばきつかさが死ぬと彼らは元に戻ってしまいます。そして、先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝むということが繰り返されます。イスラエルはそうした頑なな生き方から離れませんでした。それゆえ、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らの前から異邦の民を追い払わないと言われたのです。その結果、彼らはまた苦しみ、叫び、助けを求めます。実に、背信→さばき→助けを求める叫び→さばきつかさによる救い、という図式が繰り返されるのです。それはなぜでしょうか。22節には、「試みるためである」とあります。これは「彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」どういうことでしょうか。

これは、3章1節にもあるように、イスラエルを試みるためでした。つまり、そのように異邦の民を残しておくことによって、カナンでの戦いを全く知らないイスラエルの民がどのようにそれを乗り越えるのかをテストするためだったのです。神はしばしばこのように私たちの信仰を試すことがあります。創世記22章1節には、神はアブラハムを試練にあわせられました。自分のひとり子イサクを主にささげなさいと命じました。考えられないことです。いったいなぜ神はそんなことを言われたのでしょうか。それは彼を試みるためでした。信仰の試練です。その命令に対して彼がどのように従うのかを試したのです。アブラハムはそのテストに合格しました。荒野の民もマナによって信仰を試されました(出16:4,申8:16)。このように私たちの信仰もしばしば試される時があるのです。神が起こされたさばきつかさは「家庭教師」のようなもので、イスラエルはその家庭教師に助けられている間だけ成績があがる不良学生のようなものでした。

私たちにもこうした異邦の民が残しておかれることがあります。しかし、それは私たちを倒すためではなく、反対に私たちの信仰を強くするためです。そのような試練の中で主はどのような方なのか、どのように偉大な方なのかを知り、この方にますますより頼む者となるためなのです。ヤコブ1章2~4節にはこうあります。「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところがない、成熟した、完全な者となります。」
また、へブル12章7~11節にもこうあります。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練をしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。・・・・すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

いったいどうやって私たちは主を知ることができるのでしょうか。残された異邦の民を通してです。その試練の中で主がどのような方なのかを知り、この方に心からより頼むことができるようになるのです。主を知らない別の世代が起こります。どんな世代が起こっても、彼らが主を知るようになるのはこの試練を通してであるということを覚え、試練が来るときには、それをこの上もない喜びと思って受け止めようではありませんか。

人生の海の嵐に エレミヤ書26章1~24節人生の海の嵐に 

2023年11月5日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書26章1~24節(エレミヤ書講解説教49目)
タイトル:「人生の海の嵐に」
きょうは、エレミヤ書26章全体から、「人生の海の嵐に」というタイトルでお話します。エレミヤ書の通読をマラソンにたとえるなら、折り返し地点を通過し、ゴールを目指して復路に入ったあたりが、この26章から29章です。マラソンではこのあたりが一番苦しい地点ですが、エレミヤ書もこのあたりに試練の頂点ともいえる出来事が集められています。エレミヤはいろいろな迫害を受けます。それこそ死に直面するような迫害を、です。それはエレミヤだけではありません。私たちもそのような苦難を受けることがあります。そのような時、いったいどうしたらそれを乗り越えることができるのでしょうか。今日は、エレミヤが死の危機を乗り越えた出来事を通して、そのことをご一緒に学びたいと思います。
Ⅰ.エレミヤの苦難(1-11)
まず、1~11節をご覧ください。6節までをお読みします。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの治世の初めに、【主】から次のようなことばがあった。2 【主】はこう言われた。「【主】の宮の庭に立ち、【主】の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。3 彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすればわたしは、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直す。4 彼らに言え。『【主】はこう言われる。もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、あなたがたの前に置いたわたしの律法に歩まず、5 あなたがたに早くからたびたび遣わしてきた、わたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら──実際、あなたがたは聞き従わなかった──6 わたしはこの宮をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の、ののしりの的とする。』」」
ユダの王エホヤキムの治世の初めの年は、B.C.609年です。25章はこのエホヤキムの治世の第四年とありますので、年代がさらに遡っていることがわかります。エレミヤ書は年代順に書かれているわけではないので、そのことを注意して読まなければなりません。そのエホヤキムの治世の最初の年に、エレミヤに主のことばがありました。それは、主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るすべての町の者に、主が語れと命じたことばを語れということでした。イスラエルでは、成人男性は、年に3回エルサレムに上るように律法で命じられていました。それは過越の祭り、七週の祭り(五旬節)、仮庵の祭りです。エレミヤは、そのそのいずれかの祭りの期間にこのメッセージを語ったのでしょう。そのメッセージの内容は、3節から6節にあるように、このメッセージを聞いて、もしそれぞれ悪の道から立ち返るなら、彼らの悪い行いのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直すが、そうでなければ、神のさばきが下るというものでした。しかし、残念ながら彼らは聞き従いませんでした。それで主はこの宮をシロのようにし、この都を地上のすべての国々の、ののしりの的とするということでした。
「この宮」とはエルサレム神殿のことです。そのエルサレム神殿をシロのようにするというのです。どういうことでしょうか。「シロ」とは南ユダ王国にある町ではなく、北イスラエル王国にある町ですが、そこにはかつて神の幕屋がありました。その幕屋の中心は神の箱です。それは神の臨在の象徴でもありましたが、サムエルの時代、イスラエルがペリシテと戦った時に敗れ、ペリシテ人に奪われてしまいました。神の箱がない神殿、それは廃墟と同じです。どんなにそこに立派な神殿があっても、どんなにすばらしい宗教儀式が執り行われても、神の臨在がなければ何の意味もありません。かつてシロがそのようになったように、このエルサレム神殿もそのようになるというのです。
それを聞いた祭司と預言者とすべての民は、どのように反応したでしょうか。7~11節をご覧ください。「7 祭司と預言者と民全体は、エレミヤがこのことばを【主】の宮で語るのを聞いた。8 【主】が民全体に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえて言った。「あなたは必ず死ななければならない。9 なぜ、この宮がシロのようになり、この都がだれも住む者のいない廃墟となると、【主】の名によって預言したのか。」そこで、民全体は【主】の宮のエレミヤのところに集まった。10 これらのことを聞いてユダの首長たちは、王の宮殿から【主】の宮に上り、【主】の宮の新しい門の入り口で座に着いた。11 祭司たちと預言者たちは、首長たちと民全体に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの都に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」」
エレミヤのメッセージを聞いた祭司と預言者とすべての民は、ただちにエレミヤを捕らえ、彼を攻撃しました。彼らはエレミヤをにせ預言者だと判断したのです。それで申命記18:20の規定に従って処刑しなければならないと思いました。すなわち、そのような預言者は死ななければならないということです。それにしても、「あなたは必ず死ななければならない」というのはすごい脅しですね。私が礼拝で説教が終わった時、それを聞いた会衆から「あなたは必ず死ななければならない」と言われたら、どういうリアクションをするでしょう。まだそこまで言われたことがないのでわかりませんが、相当ビビルのではないかと思います。たまにメールで脅されることがありますが、気の弱い私はシューンとなってしまいます。神のことばを忠実に語れば、必ずといってよいほど脅しがかかるので、そんな脅しにひるむようであってはならないと思うのですが、ついついひるんでしまいます。ましてエレミヤの場合は、逮捕されて面と向かって言われたのですから、相当ビビッタのではないかと思います。でも彼はそれで黙ったかというとそうではなく、全く口をつむぐこともなく語り続けました。すごいですね。彼の気迫を感じます。
これらのことを聞いたユダの首長たちは、王の宮殿から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入り口で座に着きました。「新しい門」というのは、現代の裁判所のようなところです。そこでは行政も行われていましたが、法廷にもなりました。ユダの指導者たちは、そこで尋問しようとしたのです。彼らはユダの首長たちの前で、エレミヤは死刑に値すると主張しました。
エレミヤにとってはどうみても不利な状況でした。周りの者たちはみな彼の敵でした。誰一人味方する者はいませんでした。もし皆さんがエレミヤの立場だったらどういう心境だったでしょうか。それは、決して容易なことではなかったと思います。しかし彼は、自分は神のことばを語っているという確信が、彼に力と情熱を与えました。というのは、彼には神の約束のことばが与えられていたからです。それは彼が預言者として召された時に与えられたことばです。1:7~8です。自分は若くて、何をどう語ったらいいのかわかりませんというエレミヤに、主は次のように言われました。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──【主】のことば。」
一見、エレミヤはたった一人、被告人席に立たされているように見えます。でも、その傍らには主が立っておられました。そして、すべてが悪い方にしか向いていない状況、不利にしか働いていないこの状況において、弁護者として彼を助け、その状況を打開し、そこから救い出してくださるという約束が与えられていたのです。
1:19にもこのような約束が与えられていました。「彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──【主】のことば──あなたを救い出すからだ。」
神がともにおられるならば、神が私たちの見方であるなら、だれが敵対できるでしょうか。誰もできません。神があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。
神は私たちを迫害に遭わせないとは言っておられません。神は私たちを試練に遭わせない、苦難に遭わせないとは約束しません。神が約束しておられることは、たとえあなたが迫害に直面しても、試練のただ中にあったとしても、苦難の悲劇のどん底にいたとしても、あなたとともにいるということです。あなたともにいて、あなたを助け出されるということです。これが神の約束です。エレミヤはこの神の約束を信じることができたので、「あなたは必ず死ななければならない」と脅されても、ひるまずに大胆に神のことばを語り続けることができたのです。いくら罵声を浴びても、いくら脅迫されても、自分にはイエスがともにいて救い出してくださる。ひるむ必要はない。だってイエスが共にいるんだから。エレミヤはこの約束を信じ、神にすべてをゆだねていたのです。
イエスがいるから 明日は怖くない
because we have Jesus we’re not afraid of tomorrow
イエスがいるから恐れは消え
because we have Jesus all fears disappear
イエスがいるから人生は素晴らしい
because we have Jesus our life is wonderful
彼に全てを委ねたいまは
now that we surrendered everything to him
(「イエスがいるから」  詞・曲:Gloria & William J. Gaither)
それは私たちも同じです。私たちもエレミヤのようにすべてを敵に回し、自分が一人ぼっちになってしまったかのような状況に陥ることがあります。でも、どんなに四面楚歌になっても、あなたは独りぼっちではないということを、神があなたとともにいるということを知っていただきたいと思います。イエスは「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われました。イエスは世の終わりまで、いつもあなたと共にいてくださいます。その約束を信じなければなりません。
Ⅱ.エレミヤの弁明(12-19)
第二に、12~19節をご覧ください。15節までをご覧ください。「12 エレミヤは、すべての首長と民に告げた。「【主】が、この神殿とこの都に対して、あなたがたの聞いたすべてのことばを預言するよう、私を遣わされたのです。13 さあ今、あなたがたの生き方と行いを改め、あなたがたの神、【主】の御声に聞き従いなさい。そうすれば、【主】も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されます。14 このとおり、私自身はあなたがたの手の中にあります。私を、あなたがたの目に良いと思うよう、気に入るようにしなさい。15 ただ、もしあなたがたが私を殺すなら、あなたがた自身が咎なき者の血の責任を、自分たちと、この都と、その住民に及ぼすのだということを、はっきり知っておきなさい。なぜなら、本当に【主】が私をあなたがたのもとに送り、これらすべてのことばをあなたがたの耳に語らせたのですから。」
裁判の席でエレミヤは、自らの行動の弁明として、彼がそのように語るのは、神ご自身がそのように預言するよう、自分を遣わされたからだと言いました。その上で彼は、もし悔い改めるなら、神は彼らに語られたわざわいを思い直されるであろうと伝えます。これはエレミヤの一貫したメッセージです。どんなに脅されても彼のメッセージは変わりませんでした。ブレることがなかったのです。すごいですね。エレミヤはいのちの危険を顧みず、ずっと一貫したメッセージを語ったのです。さらに彼は、自分を殺すなら殺してもよいが、罪のない者を殺すようなことがあるとしたら、その血の責任を負わなければならないと言いました。エレミヤは自分のいのちを完全に神にゆだねたのです。彼は、自分のいのちは自分の手の中にはないという自覚をもっていました。それはすべて神の御手の中にあると。だから、すべてを神にゆだねたのです。具体的には、裁判官の手に自分のいのちをゆだねました。なぜなら、この裁判官を立てたのは神ご自身であられるからです。それがエレミヤの理解であり、パウロの理解であり、聖書が教えておられることです。ローマ13:1にこうあります。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」。勿論、例外はあります。もし上に立つ権威が信仰に抵触することを無理やり強制するようなことがあれば、断固として拒絶すべきです。たとえば、上に立つ権威がイエス・キリストを否定しなさい、というようなことがあるとしたら、それに従うことはできません。あるいは、キリスト教を捨ててしまえと言うようなことがあるとしたら、それに従うことはできません。それに対しては「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒5:29)の原則を適用すべきです。しかし、そうでない限り、私たちは上に立つ権威に従うべきです。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。だからエレミヤは自分のいのちを裁判官の手にゆだねたのです。それが神にゆだねるということだからです。
私たちもそれでいいのです。あなたがたの正しいと思うことをしなさい。煮るなり、焼くなり、お好きにどうぞ!ただ、もしそれが不正な裁きであるなら、その責任は必ずあなたがたが負わなければならない。あなたを裁く方がおられるということを知っておきなさいと。
その結果、どうなったでしょうか。16~19節をご覧ください。「16 すると、首長たちと民全体は、祭司たちと預言者たちに言った。「この人は死刑に当たらない。彼は私たちの神、【主】の名によって、私たちに語ったのだから。」17 それで、この地の長老たちの何人かが立って、民全体に言った。18 「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダの民全体にこう語ったことがある。万軍の【主】はこう言われる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。19 そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべては彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが【主】を恐れ、【主】に願ったので、【主】も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちはわが身に大きなわざわいを招こうとしている。」」
すると、首長たちと民全体は、「この人は死刑にあたらない。」と言いました。なぜなら、エレミヤが、自分の神、主の名によって語ったのだからです。彼らは訳のわからないことを言っています。最初からそのつもりだったのに、エレミヤの迫力に圧倒されたのでしょう。皮肉なことに、彼らはエレミヤが主の名によって語る真の預言者であることを認めました。そればかりか、その地の長老たちの幾人かが立って、モレシェテ人ミカについて、かつてイスラエルの歴史に起こった出来事を引用し、エレミヤの無罪を主張したのです。
この「モリシェテ人ミカ」とは、ミカ書を書いたミカです。ミカは、イザヤと同時代の預言者で、エレミヤよりも約100年前の預言者です。そのミカが神のメッセージを取り次いだとき、当時ユダの王であったヒゼキヤが悔い改めました。そのメッセージは18節にありますが、「万軍の【主】はこう言われる。シオンは畑のように耕され、エルサレムは瓦礫の山となり、神殿の山は木々におおわれた丘となる。」というものです。そのときヒゼキヤとユダのすべての民はミカを殺したかというとそういうことはなく、むしろ主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されました。つまり、ユダとエルサレムは、アッシリアの王セナケリブによる侵略を免れることができました。
このような長老たちの発言は、聖書の中の他の個所にも見られます。たとえば、使徒5章には、律法の教師でガマリエルという人の助言が記されてあります。イエスの弟子たちが、神はイエスをよみがえらせたと語ったとき、パリサイ人たちやサドカイ人たちは怒り狂い、彼らを殺そうとした時、このガマリエルが立ち上がり、少し以前に起きたテウダの事件を取り上げて、彼が自分をあたかもメシアであるかのように標榜し、四百人もの人たちが従ったが、結局のところ彼は殺され、従った者たちもみな散らされて、跡形もなくなったように、もしそれが人間から出たものなら自滅するでしょうから、放っておくがいい。でも、それが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、それによって神に敵対する者になってしまうかもしれない。だから、もう少し様子を見た方がいい。今、クリスチャンに手を出すべきではないと言ったのです。すると当時のユダヤ教の指導者たちも賛同して、「あなたのおっしゃるとおり」となり、殺すことを思い止まらせました。
エレミヤの時代のこの地の長老たちも同じです。遡ること100年も前に起こった出来事を例に取り上げ、エレミヤを殺すことに反対したのです。エレミヤのいのちは、歴史から学ぶ人々によって救い出されました。と同時に、ユダの民もまた、重大な罪を犯すことから救い出されました。
このように歴史から学ぶことは重要なことです。歴史から学ばない人は自分の経験から学ぼうとしますが、それはあまりにも損失を被らなければなりません。多くの失敗を繰り返さなければ多くを学ぶことができないからです。だから自分の経験だけから学ぶ必要はないのです。他人の経験や歴史からも学ぶことができます。その方が高い代償を払わなくて済みます。その中でも聖書の歴史から学ぶなら、多くの益を受けることができます。というのは、聖書はたくさんの失敗談と、それをどのように乗り越えてきたかについて記されてあるからです。なぜ聖書にはそこまで赤裸々な人間の姿、人間の罪や過ち、汚れ、失敗、醜さがあからさまに記されてあるのでしょうか。それは私たちにとって半面教師となるためです。ここから私たちは多くのことを学ぶことができるのです。新約聖書にもそうありますね。旧約聖書は教訓として与えられていると。先ほどのシロのこともそうでしたね。聖書に記されて歴史を見ると、私たちはどうあるべきなのかが見えてきます。そこから得られた知識は、現代の問題を解決するヒントになるのです。きょうのエレミヤ書の個所も、エレミヤがかつて神のことばを語ったときに捕らえられ、殺されそうになったときどうしたのか、どのように乗り越えたのかという歴史上の出来事から教えられているわけですが、これが現代を生きる私たちの知恵、力、助け、励まし、ヒントになるのです。
Ⅲ.そこに神の助けがある(20-24)
その聖書の歴史が終える第三のことは、そこに神の助けがあるということです。20~24節をご覧ください。「20 【主】の御名によって預言している人がもう一人いた。キルヤテ・エアリム出身のシェマヤの子ウリヤで、彼はこの都とこの地に対して、エレミヤのことばすべてと同じような預言をしていた。21 エホヤキム王、すべての勇士、首長たちは、彼のことばを聞いた。王は彼を殺そうとしたが、ウリヤはこれを聞いて恐れ、エジプトへ逃げて行った。22 そこで、エホヤキム王は人々をエジプトに遣わした。すなわち、アクボルの子エルナタンに人々を随行させて、エジプトに送った。23 彼らはウリヤをエジプトから導き出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、その屍を共同墓地に捨てさせた。24 しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。」
ここに「ウリヤ」という預言者のことが取り上げられています。彼はエレミヤと同じ時代に活躍した預言者です。彼もまた主の御名によって預言していた預言者で、エレミヤとすべて同じような預言をしていました。つまり、エレミヤは独りぼっちではなかったということです。少なくてもウリヤという同じメッセージを語っていた預言者がいました。他にも無名の人がいたかもしれません。私たちもついつい自分は独りぼっちだと思うことがあります。家族の中でも私だけかクリスチャンです。学校のクラスの中でもクリスチャンは私だけ。職場でもクリスチャンは私だけです。この近隣でもクリスチャンはほとんどいないでしょう。そして、だからだれからも理解されないし、むしろ疎(うと)まれ、嫌われているんですと。でも、あなただけが一人で戦っているわけではないということを知ってほしいと思います。あなただけが一人で辛い思いをしているわけではないのです。
エリヤのことを思い出していただきたいと思います。彼も主の預言者は自分だけだと思っていました。なんで自分だけが苦しまなければならないのかと思うと辛くて、苦しくて、とうとう彼はうつになってしまいました。ひきこもってしまったのです。現実逃避をして逃げ回りました。そして、もういいです。もう死にたいです、と言ったとき、主からこのように告げられるのです。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」(Ⅰ列王記19:9)何をしているのかって、見ればわかるでしょ。私は主に熱心に仕えてきました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨てて、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残ったのです。彼らは私のいのちをも捕ろうとしています。だからこうして隠れているのです。
それに対する主の答えはこうでした。「わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」(Ⅰ列王記19:18)
「私だけが」と思っていたらそうではなく、神は、自分と同じようにバアルに膝をかがめない七千人を残しておられました。自分一人ではなかったのです。このように、神が残しておられる者があるということを知っていただきたいと思います。あなたは一人じゃないのです。あなただけが辛い思いをしているわけではない。あなたには神の家族が与えられています。そのことを忘れないでください。自分だけが特別だと思ってはいけません。むしろそれが普通です。クリスチャンであれば、必ず苦難があります。イエスも言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)主イエスにあって敬虔に生きようと思う者はみな、迫害を受けるのです。これが普通です。あなただけが特別なのではありません。あなたと同じように、バアルに膝をかがめない人七千人がいるのです。主はそういう人たちをちゃんと用意しておられるのです。
ところで、このウリヤですが、いったい何のために彼のことがここに記されてあるのでしょうか。21~23節を見ると、彼はエレミヤのように主のことばをストレートに語っていましたが、エホヤキム王がそれを聞いた時彼を殺そうとしたので、彼はエジプトに逃れました。すると、エホヤキム王は人々をエジプトに遣わし、彼を殺しました。一方エレミヤはどうかというと、同じメッセージを語りましたが殺されませんでした。その違いは何でしょうか。それは、エレミヤはエルサレムにとどまったのに対して、ウリヤはエジプトに逃れたということです。どういうことでしょうか。ここで言わんとしていることは、ウリヤは怖くなって逃げたので殺されたということではありません。逃げたからといって必ずしも殺されるとは限らないからです。たとえば、エリヤがそうでした。彼も逃げましたが、彼は殺されませんでした。ですから、逃げた者は負け犬だから殺されるということではないのです。ここで言わんとしていることは、私たちのいのちは主の御手の中にあるということです。そして、主に従う者を、主はご自身の御使いをもって守ってくださるということです。ウリヤの場合、本来は助かるいのちが助からなかったということではありません。エレミヤの場合は、このような形では殺されなかったのは、そこに神の別のご計画があったからなのです。エレミヤにはエレミヤの召しがあったということです。だから、エレミヤとウリヤを比較して、どちらが正しくてどちらが間違っているのか、どちらがすぐれていて、どちらが劣っているのかという話ではないのです。わかることは、そこに神のご計画があったということです。いいえ、私たちのすべての出来事の背後には、神の御手が働いているのです。
それが24節で言われていることです。ここには「しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。」とあります。エレミヤの場合、彼が生き延びて神のご計画を果たすために、シャファンの子アヒカムを備えてくださいました。シャファンの子アヒカムがエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることがないようにしたのです。調べてみるとシャファンはエホヤキムの父ヨシヤ王の時代に書記官を務めました。また彼は祭司の一人であっと言われています(Ⅰ列王22:14)。そしてヨシヤ王の時代に破壊されていたエルサレム神殿の修復をしますが、その修復作業にも携わりました。つまり、シャファンという人物はとても敬虔な人であったのです。その息子のアヒカムがエレミヤを助けました。勿論、エレミヤはヨシヤ王の時代の預言者でしたから、当然シャファンとも面識があったでしょう。非常に綿密なつながりがありました。だからこそ、その息子のアヒカムがいのちを張ってまでエレミヤを助けたのです。だれもがエレミヤの敵だったのに、アヒカムはいのちを張って自分が盾となってエレミヤを守ったのです。
こういう人が、あなたにも与えられています。あなたにもアヒカムが与えられています。あなたのためにいのちを張ってくれる人。そういう人がいるのです。だったら何を恐れる必要があるでしょうか。何を心配しているのですか。あなたがどんなに恐ろしい状況にあっても、神はあなたとともにいてあなたを救い出してくださいます。その方法はいろいろですが、このようにアヒカムを与えて救い出してくださるのです。
パウロは、Ⅱコリント1:10でこう言っています。「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」
これは私たちの告白でもあります。パウロは、自分の経験として神が救ってくださると信じていました。だから、これからも救い出してくださると信じることができ、この神に希望を置くことができたのです。
あなたはどうですか。あなたはどこに希望を置いていますか。神は、それほど大きな危険からもあなたを救い出してくださった。だからこれからも救い出してくださると信じることができるのです。エレミヤもそうでした。神は死の危険からも自分を救い出してくださったという経験を通して、この神に希望を置いたのです。それは私たちも同じです。私たちもいろいろな患難や苦難が襲ってくるでしょう。まさに私たちの人生の海にはさまざまな嵐が襲ってきます。でも神はその危険から救い出してくださいます。この神に希望を置いて、エレミヤのように神から与えられた使命を、大胆に、力強く担っていきたいと思います。

憤りのぶどう酒の杯 エレミヤ書25章15~38節憤りのぶどう酒の杯 


聖書箇所:エレミヤ書25章15~38節(エレミヤ書講解説教48回目)
タイトル:「憤りのぶどう酒の杯」
きょうは、エレミヤ書25:14~38から「憤りのぶどう酒の杯」というタイトルでお話します。15節に「この憤りのぶどう酒の杯」とあります。これは、神のさばきを象徴しています。神はユダの民に対して、エレミヤを通して絶えず、しきりに語りかけたのに聞かなかったので、この憤りのぶどう酒の杯を飲ませるようにと言われました。それはユダの民だけではありません。神に敵対するすべての人にも言えることです。神はご自身に敵対するすべての人に、この憤りの杯を飲ませます。いったいだれがこの杯から逃れることができるでしょうか。だれもできません。ただ私たちが飲むべきその神の憤りの杯を身代わりに飲んでくださった罪なき神の御子イエス・キリストを信じ、彼を受け入れる人だけが逃れることができます。イエスを救い主として受け入れた人はみな神の怒りから逃れることができ、安心して神の前に立つことができるのです。その人は、詩篇23篇にあるように神の怒りの杯ではなく、神の祝福の杯に溢れるようになります。
Ⅰ.憤りのぶどう酒の杯(15-29)
まず、15~29節をご覧ください。17節までをお読みします。「15 まことにイスラエルの神、【主】は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。16 彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のゆえである。」17 そこで、私は【主】の御手からその杯を受け取り、【主】が私を遣わされたすべての国々の民に飲ませた。」
主は、エレミヤにこの憤りのぶどう酒の杯をご自分の手から取り、それをご自身が遣わすすべての国々に飲ませるようにと言われました。「この憤りのぶどうの杯」とは、神がさばきのために送られる剣を象徴しています。これを飲むと、もう自分では立っていられないほどふらつき、狂ったようになります。そのような神の怒りがさばきとして注がれるのです。この憤りの杯のたとえは、聖書の中には頻繁に用いられています。たとえば、エレミヤ13:12~14でも用いられましたし、他にもいろいろな預言者がこのたとえを用いています。そして、私たちの主イエスもこの杯について言及しています。主イエスはゲッセマネの園でこの神の憤りの杯についてこう祈られました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)
それはユダだけに対して語られたのではなく、当時の周辺諸国全体に対しても語られました。それが「わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。」と言われていることです。ですから、エレミヤは主の御手からその杯を取り、主が遣わされるすべての国々に飲ませました。それは世界規模のさばきだったということです。それはエルサレムから始まり、エジプト、さらにはバビロンに至る当時の周辺諸国全体に対して語られていたさばきだったのです。
ここには、それらの国々が具体的に列挙されています。18~26節をご覧ください。「18 まず、エルサレムとユダの町々とその王たち、高官たちに。彼らを今日のように廃墟とし、恐怖のもと、嘲りとののしりの的とするためである。19 また、エジプトの王ファラオと、その家来たち、首長たち、そのすべての民、20 すべての混血の民、ウツの地のすべての王たち、ペリシテ人の地のすべての王たち、すなわちアシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドデの残りの者たち、21 エドム、モアブ、アンモン人、22 ツロのすべての王たち、シドンのすべての王たち、海のかなたにある島の王たち、23 デダン、テマ、ブズ、もみ上げを刈り上げているすべての者たち、24 アラビアのすべての王たち、荒野に住む混血の民のすべての王たち、25 ジムリのすべての王たち、エラムのすべての王たち、メディアのすべての王たち、26 北国のすべての王たち、近い者も遠い者も一人ひとり、地の面のすべての王国である。そして、彼らの後でバビロンの王が飲む。」
まずエルサレムとユダの町々とその王たち、高官たちです。また19節にあるように、南はエジプトの王ファラオと、その家来たち、首長たち、そのすべての民です。そしてすべての混血の民、ウツの地のすべての王たちです。ウツの地とは、あのヨブの出身地です。死海の南にあります。さらにそこから北上してペリシテ人の地のすべての王たちに及びます。すなわちアシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドデの残りの者たちです。これらはみな地中海沿いにあるペリシテ人の地にある都市でした。さらに、エドム、モアブ、アンモン人たちです。これはヨルダン川の東側にある地です。今でいうとヨルダンの辺りの地域になります。さらにツロ、シドンのすべての王たちです。ツロとシドンはイスラエルの北にある地域です。現在のレバノンの辺りです。さらにデダン、テマ、ブズ、もみ上げを刈り上げているすべての者たちです。これはアラビア半島の辺りに住んでいる人たちのことを指します。さらにその範囲は広がり、25節にはジムリのすべての王たち、エラムのすべての王たち、メディアのすべての王たちとあります。エラムとは、ペルシャの昔の呼び名で、現在のイランのことです。メディアはイラクの北部クルド人が住んでいる地域です。そして最終的にそれはバビロンに至ります。26節には「バビロンの王が飲む」とあります。バビロンはイスラエルをさばく神の道具として用いられますが、そのバビロンも神に敵対したので、この杯を飲むことになるのです。ですから、イスラエルばかりでなく、こうした周辺諸国も神の憤りのぶどう酒を飲むことになるのです。これはどういうことでしょうか。
27~29節をご覧ください。ここにこうあります。「27 「あなたは彼らに言え。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしがあなたがたの間に送る剣のゆえに、飲め、酔え、吐け。倒れて起き上がるな。』28 もし、彼らが、あなたの手からその杯を取って飲むことを拒むなら、彼らに言え。『万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは必ず飲むことになる。29 見よ。わたしの名がつけられているこの都に対して、わたしはわざわいを下し始めているからだ。あなたがたは罰を免れようとするのか。免れることはできない。わたしがこの地の全住民の上に、剣を呼び寄せているからだ──万軍の【主】のことば。』」
彼らがどんなにその杯を飲むことを拒んでも、そこから逃れることはできません。それほど神のさばきは徹底しています。実はこれは二重の預言になっています。近い未来における預言と遠い未来における預言です。近い未来においては、バビロンによって神のさばきが周辺諸国にもたらされるということですが、遠い未来においては、世の終わりに神が全世界をさばかれるということを表しています。イエスは今から二千年前に世の罪を取り除く神の小羊としてこの世に来られましたが、世の終わりにはすべてをさばくさばき主として来られます。黙示録14:10にこうあります。「その者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた、神の憤りのぶどう酒を飲み、聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。」
「その者」とは、神を恐れず、獣とその像を拝み、自分の額か手に刻印を受けている者のことです。すなわち、イエス・キリストを信じていない者たち、イエス・キリストの贖いを受けていない者たちのことです。そのような人たちは世の終わりにおいて必ず神にさばかれ、この憤りのぶどうの杯を飲むようになります。それは徹底したもので、だれもそれから逃れることはできません。それから逃れる唯一の道は、私たちの代わりに神のさばきを受けてくださった神の子イエス・キリストを信じて受け入れることです。先ほども申し上げましたが、イエスはゲッセマネの園でその怒りの杯を飲み干されました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)
罪なき神の御子が、どうして神の怒りの杯を飲まなければならなかったのでしょうか。それは、私たちをこの神の怒りから救うためでした。イエスは、罪のゆえに私たちが飲まなければならない杯を身代わりに飲んでくださったのです。ここに罪の赦しがあります。だから、絶対に神にさばかれることはありません。ヨハネ5:24を開いてください。ここにはこうあります。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5:24)
「さばきに会うことはない」とは、この神のさばきのことです。イエスのことばを聞いて、イエスを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っているのです。絶対に神のさばきにあうことがありません。神の憤りのぶどう酒の杯を飲まされることはないのです。
最近、ある方からメールをいただきました。それは救いの確信に関することでした。救いと永遠の命を信じて与えられることは聖書の言葉として知っておりますが、「確固たる確信」を得るにはどうすればいいでしょうか?教えてください。という内容でした。日曜学校の出身で、20才で洗礼を受け50代になっておられます。いろいろなご事情がおありだったのでしょう。イエス様を信じていますが、しばらく教会生活からは離れておられるとのことでした。でも2ヶ月前にクリスチャンの母親が脳梗塞で亡くなり、今は再会が唯一の望みです。しかし永遠の命の確信がないので、毎日泣いておられるとのことでした。もしも確信があれば、「再会につながる希望」を持てるはず、とわかってはいるのですが。
皆さん、永遠のいのちの確信がないと、毎日泣いて過ごすようになります。もしも確信があれば「再開につながる希望」を持てるはずです。私はすぐに返信を差し上げ、感情ではなく聖書の御言葉を信じるようにと伝えました。すにわち、イエスを信じるなら救われる、永遠のいのちを持つという聖書の言葉です。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ6:47)
「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(Ⅰヨハネ5:11-12)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
皆さん、これが神の約束です。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちが受けなければならない罪のさばきを受けてくださったので、この方を信じるなら永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。その瞬間、移ります。それ以外に、この神の怒りから逃れる道はありません。もしあなたがこの神の愛を受け入れ、あなたの身代わりとして十字架で死んでくださった救い主を受け入れるなら、あなたのすべての罪は赦され、あなたに対する神の怒りの杯は完全に取り除かれるのです。そしていつでも安心して神の前に立つことかできるのです。あなたはその準備が出来ていますか。
イ・ドンウォン牧師の著書「わがたましいのナビゲーション」に、このような話があります。ケネディ大統領は、この世を去る数か月前、国家朝祷会に出席し、ビリー・グラハム牧師の「永遠を準備せよ」というメッセージを聞きました。朝祷会後、ケネディ大統領はビリー・グラハム牧師に、説教の内容についてもう少し話を聞きたいのでホワイトハウスに来てもらえないかと頼みました。しかし、その時ビリー・グラハム牧師は風邪をひいて、大統領にうつしたくなかったので、今度話をしましょうと断りました。ケネディ大統領が暗殺された11月3日、このニュースを聞いたビリー・グラハムは、数か月前にもう少し話をしてくれないかと頼んだ大統領の切ない顔が浮かんだそうです。あの日、風邪を口実にケネディと永遠についての話を分かち合うことができず、福音を十分に伝えられなかったことが人生最大の後悔だと、ビリー・グラハムは伝記の中で告白しています。
私たちには明日のことはわかりません。いつ、どこで、どんな死を迎えるかわかりません。聖書は「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と言っています。どれだけ多くの人々が過ぎ去ったチャンスを振り返り、すすり泣くことでしょうか。今、愛する人々を永遠の国へ招待すべきです。愛する家族や隣人に、神の愛を伝える時です。永遠を準備しましょう。私たちのために十字架で死なれ、罪の贖いを成し遂げてくださった救い主イエス・キリストを信じ、神の怒りのぶどう酒の杯を取り除いていただきましょう。
Ⅱ.主の再臨に備えて(30-33)
次に、30~33節をご覧ください。「30 あなたは彼らにこのすべてのことばを預言して言え。『【主】は高い所からほえ、聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって猛々しくほえ、ぶどう踏みをする者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。31 その叫び声は地の果てまでも響き渡る。【主】が諸国の民と争い、すべての肉なる者をさばき、悪者どもを剣に渡されるからだ。──【主】のことば──32 万軍の【主】はこう言われる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大いなる暴風が地の果てから起こる。33 その日、【主】に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らは悼み悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。』」」
ここでは、主の諸国への怒り、あらゆる罪人への怒りが三つの比喩によって表現されています。第一に30節にあるように、主の怒りは獅子の叫び声のように全地に響き渡ります。第二に、これも30節にありますが、主の怒りは酒ふねでぶどう踏みをする者たちのように、地の全住民に向けられます(30)。第三に、主の怒りは戦いの時の騒音のように地の果てまでも響き渡ります。このように主のさばきが詩的な表現で3回も繰り返して強調されています。それはこの神の怒りがどれほど激しいものであるかを物語っているからです。そのまとめが33節です。ご一緒に読みましょう。
「その日、【主】に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らは悼み悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。」
「その日」とは、世の終わりのことを表しているキーワードの一つです。近い未来においては、それはバビロンによって諸国の民を征服することを表していますが、遠い未来においては、世の終わりに神の小羊であられるキリストが再臨のさばき主として来られることを表しています。ですから、ここに「主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び」とあるのです。バビロンによって殺されるのではありません。主によって殺されるのです。それは主がさばき主として来られるからです。その日、主によって殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らは悼み悲しまれることなく、集められることもなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなります。何とも恐ろしい光景です。そして、その日、すなわち、キリストが再臨される日が刻一刻と近づいています。ロシアのウクライナ侵攻やハマスのイスラエルへの攻撃を見てもわかります。聖書の預言のとおり、世の終わりが着実に近づいています。その日、キリストを信じた人は永遠のいのちを受け神の怒りから救われますが、信じない人たちはこの神の憤りの杯を飲むことになります。私たちがこの神のさばきから逃れる唯一の道は、神の救いを受け入れることしかありません。神の救いイエス・キリストを信じ、主とともに歩むということです。そうすれば、どのようなさばきが来ようとも、恐れる必要は全くありません。その人はイエス・キリストにあって神と和解し、神の平和をいただくからです。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」(詩篇4:8)とある通りです。
Ⅲ.神の和解を受け入れなさい(34~38)  
ですから、第三のことは、神の和解を受け入れなさい、ということです。34~38節をご覧ください。「34 牧者たちよ、泣き叫べ。群れの飼い主たちよ、灰の中を転げ回れ。あなたがたが屠られ、散らされる日が来たからだ。あなたがたは、尊い器が砕かれるように倒れる。35 逃げ場は牧者たちのうちから消え失せる。逃れ場は、群れの飼い主たちのうちから。36 牧者たちの叫ぶ声がする。群れの飼い主たちの泣き声が。【主】が彼らの牧場を荒らしておられるからだ。37 平和な牧場も、【主】の燃える怒りによって荒れすたれる。38 主は若獅子のように仮庵を捨てた。虐げる者の怒り、主の燃える怒りによって、彼らの国が荒れ果てるからだ。」
「牧者たち」とは、政治的、霊的リーダーたちのことです。その日、国の支配者たち、政治的、霊的リーダーたちも、悲嘆の涙に暮れることになります。彼らは尊い器が砕かれるように倒れるのです。新改訳第三版はこれを「あなたがたは美しい雄羊のように倒れる。」と訳しています。どちらも言わんとしていることは同じです。美しい雄羊が倒れるように倒れる、尊い器が粉々に砕かれてしまうように粉々に砕かれてしまうことになるということです。逃げ場は牧者たちのうちから消えうせ、逃れ場は、群れの飼い主たちのうちから消え失せます。主が彼らの牧場を荒らしておられるからです。平和な牧場も、主の燃える怒りによってあれ果てることになるのです。ですから、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。
これが預言者の役割です。預言者は神のさばきを宣言とともに神のあわれみに立ち返るように勧めなければなりません。これが神のみこころです。神は一人も滅びることを望んでおらず、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。さばくことが目的なのではなく、救うことが目的なのです。神はあなたが救われることを望んでおられます。自らを滅びに至らせる必要はありません。自らを地獄に落とす必要はないのです。わざわざ神に罰せられる必要はありません。この神のさばきと救いを宣言しなければなりません。これが預言者の務め、私たちに与えられている務めです。エレミヤはそれを忠実に果たしました。私たちもそれを忠実に果たさなければなりません。世の終わりは刻一刻と近づいています。エレミヤの時代はバビロンが周辺諸国をさばきましたが、世の終わりには、神が逃げ場を失った人たちをさばくことになります。尊い器が砕かれるように砕かれることになるのです。だから、イエスを信じなければなりません。イエスを信じない人の最後は悲惨です。そういうことがないように、キリストの福音によって救われた私たちは、滅び行くたましいに向かってこの福音を伝えていかなければならないのです。聖書にこうある通りです。「20こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:20-21)
ナイアガラの滝のそばへ行くと、急流が滝に落ちる手前の最後に渦巻く地点がありますが、そこにこういう標識があるそうです。「この地点を越えると救助不可能」(Past Redemption Point)。固い地盤を踏んでいても、その下の滝の水を眺めると、「この地点を越えると救助不可能」という意味が伝わってくるそうです。そこを越えれば、永遠に戻って来られないからです。
聖書には、ぶどう園の主人の息子を殺した農夫たちの話があります(マタイ21:33-46)。彼らは「この地点を越えると救助不可能」の表示を無視して超えてしまい、永遠に戻って来ることができない救助不可能の領域に落ちてしまいました。「この地点を越えると救助不可能」という表示を無視したのには、主人が遠くにいたからでもあったでしょう。
人々は神が遠くにいる不在人のように考え、神の御子であるイエス・キリストを無視したり、あざけることもあります。しかし、神は確かに生きておられ、この世の歴史を治めておられます。それにもかかわらず神が介入されないかのように感じるのは、それは一重に神が忍耐しておられるからです。しかし、神は永遠に忍耐されるのではありません。イエス・キリストを拒んだものたちについにはさばかれ、憤りのぶどう酒の杯を飲ませることになります。そうならないように、神の和解を受け入れてください。神は、罪を知らない方をあなたのために罪とされました。それは、あなたがこの方にあって神の義となるためです。そうすれば、あなたは神の憤りのぶどう酒の杯から逃れることができます。私たちは神の怒りではなく、神の愛の中を生きる者でありたいと思います。

士師記1章

士師記1章

 今回から士師記の学びに入ります。士師記は「ヨシュアの死後」から始まります。そしてサムエルが没するまでの約300年間(B.C.1381-1050)、イスラエルの民がどのような歩みをしていたのかの歴史が記されてあります。

「士師」とは、「さばきつかさ」のことです。それは一言でいえばイスラエルの指導者のことです。イスラエルが敵によって苦しめられているとき、軍事的指導者として戦い、また行政的にも司法的にも指導的役割を果たしました。

 Ⅰ.アドニ・ベゼク(1-21)

 それでは、早速1章を見ていきたいと思います。まず1節から21節までをご覧ください。まず7節までをお読みします。「1 ヨシュアの死後、イスラエルの子らは【主】に尋ねた。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦うべきでしょうか。」2 すると、【主】は言われた。「ユダが上って行くべきである。見よ、わたしはその地を彼の手に渡した。」3 ユダは自分の兄弟シメオンに言った。「私と一緒に、私に割り当てられた地に上ってください。私たちはカナン人と戦うのです。私も、あなたに割り当てられた地に一緒に行きます。」そこでシメオンは彼と一緒に行った。4 ユダが上って行くと、【主】はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らはベゼクで一万人を討ち取った。5 彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会い、彼と戦ってカナン人とペリジ人を討った。6 ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らは後を追って捕らえ、その両手両足の親指を切り落とした。7 アドニ・ベゼクは言った。「かつて、両手両足の親指を切り落とされた七十人の王たちが、私の食卓の下でパン屑を拾い集めていたものだ。私がしたとおりに、神は私に報いを返された。」彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行き、彼はそこで死んだ。」

ヨシュアの死後、イスラエル人は主に尋ねました。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦うべきでしょうか。」
なぜイスラエル人はこのように主に尋ねたのでしょうか。イスラエルには、まだ占領すべき地が残っていたからです。イスラエルはカナン人と戦って勝利し、既にヨシュアによってその地の割り当て地が与えられていましたが、完全に占領していたというわけではなく、まだ占領すべき地が残っていたのです。ヨシュア記13章1節には「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」とあります。神の約束にしたがって、確かにヨシュアはその地を自分たちのものにすることができましたが、それでもなお占領すべき地は残っていたのです。ですから、ヨシュアが死んだ後も彼らは戦い続けなければならなかったのです。

「すると、主は仰せられた。「ユダが上って行かなければならない。」」ユダ族はカレブによって導かれた最も勇敢な部族です。ですから、上って行ってその地の住民と戦うのに最もふさわしい部族だったのでしょう。それでユダは兄弟シメオンと一緒に上って行きました。シメオン族はユダ族に吸収されるかのように、ユダ族の中に割り当て地を受けていたので、ユダとしては兄弟の中でも特に親しみを感じていたのでしょう。兄弟の中の兄弟という感覚があったに違いありません。

それで彼らが上って行くと、主がカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らは1万人を討ちました。ベゼクとは、マナセ族の領地のちょうど真ん中ぐらいにある町です。すなわちユダとシメオンは北上してこの町の王アドニ・ベゼグと戦ったのです。そして、そこに住んでいたカナン人とペリジ人を討ったのです。

ところが、その時アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らは後を追って捕らえ、その両手両足の親指を切り落としました。これは何とも残虐な行為のようですが、相手を戦うことができないよう状態にしたということです。手の親指がなければ剣を持って戦うことができないし、足の親指がなければ、体全体のバランスをとることができず、立って歩くこともできません。結局彼はエルサレムに連れて行かれて死にました。

その時彼が言ったことばに注目してください。7節です。彼は「私がしたとおりに、神は私に報いを返された」と言いました。かつて自分が行なった罪深い行為の報いを受けていると思ったのです。かつて70人の王たちにした報いを受けて、自分の同じようにされていると思いました。確かに神は人の悪を憎まれます。そしてその悪に対して正しく報いを与えられます。しかし、もし彼が神は愛と憐れみの満ちておられる方であると知っていたら、同じ状況になっても違うことを言ったのではないでしょうか。「神様、私は罪人です、私の罪を許して下さい。私の両手両足の親指が失われた事は自業自得です。でも、私の人生はあなたのものですし、あなたが始められたのですから、たとえ人が私の親指を奪い去っても、あなたの愛と計画を持ち去ることは出来ないでしょう。あなたはきっと私の人生を癒して生き返らせて下さいます。どうか私を助けて下さい。」その時、彼の指は回復しなかったとしても彼の霊的な手足は回復して、失意から希望に変えられたに違いありません。私たちも自業自得というようなことがよくありますが、それでも神は愛と憐みに満ちた方であると信じて、この神の前にへりくだり、神のあわれみを受ける者でありたいと思います。

次に8節から15節までをご覧ください。「8 ユダ族は、エルサレムを攻めてこれを取り、剣の刃で討って町に火を放った。9 その後、ユダ族は、山地やネゲブやシェフェラに住んでいるカナン人と戦うために下って行った。10 ユダはヘブロンに住んでいるカナン人を攻めた。ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバであった。彼らはシェシャイとアヒマンとタルマイを討った。11 彼らは、そこから進んでデビルの住民を攻めた。デビルの名は、かつてはキルヤテ・セフェルであった。12 そのときカレブは言った。「キルヤテ・セフェルを討って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」13 カレブの同族ケナズの子オテニエルがそれを攻め取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。14 嫁ぐとき、彼女は夫に、自分の父に畑を求めるよう、しきりに促した。彼女がろばから降りると、カレブは「何が欲しいのか」と彼女に言った。15 アクサは彼に言った。「どうか私にお祝いを下さい。ネゲブの地を私に下さるのですから、湧き水を下さい。」そこでカレブは上の泉と下の泉を彼女に与えた。」

その後、ユダ族はエルサレムを攻めてこれを取りました。そこにはエブス人という強力な敵がいましたが、そこも攻め取りました。その後彼らは南下して、山地やネゲブやシェフェラに住んでいたカナン人を攻めました。ネゲブとは砂漠地帯、シェフェラとは山地と平地の間の丘陵地帯、すなわち、低地のことです。ですからこれは、ユダ族が山地と低地と砂漠地帯一体で戦いを繰り広げたということです。そしてヘブロンに住んでいたカナン人も攻めました。ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバと言います。ヨシュア記14章15節には、このアルバという人物はアナク人の中で最も偉大な人物であったとあります。そのアルバの三人の息子シェシャイとアヒマンとタルマイが住んでいましたが、それも攻めて討ちました。

しかし、そんなカレブでしたが、かなり厳しい戦いを強いられました。それはキルヤテ・セフェルとの戦いです。その戦いにおいてカレブはこう言いました。「キルヤテ・セフェルを討って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」(12)と言って、自分の娘を褒美として与えてまでもこの地を攻め取ろうとしたのです。そのとき手を上げたのがケナズの子オテニエルでした。彼はこのキルヤテ・セフェルを攻め取ったので、カレブは彼に自分の娘のアクサを妻として与えました。

彼女が嫁ぐとき、彼女は夫に畑を求めるようにしきりに促すも、彼女が求めたものは湧き水でした。それでカレブは彼女に、上の泉と下の泉を与えました。どうして彼女は畑ではなく湧き水を求めたのでしょうか。それは15節にあるように、そこがネゲブの地、すなわち、砂漠地帯だったからです。どんなに畑を求めてもその畑を耕して収穫を得るためには水が必要です。それでアクサは湧き水を求めたのです。カレブは娘のこの要求を非常に喜び、上の泉だけでなく下の泉も与えました。この泉とはため池のことです。ため池は、降水量が少なく、流域の大きな河川に恵まれない地域などでは農業用水を確保するために水を貯え取水ができるよう、人工的に造成されました。カレブはこの泉を与えたのです。

これは私たちの信仰生活においてとても重要なことです。すなわち、私たちには土地が必要ですが、収穫のためにはより根源的なものが必要であるということです。ではより根源的なものとは何でしょうか。それが泉なのです。とかく私たちは表面的なものに関心が向き、それを求めがちですがもっと重要なのはより本質的なもの、より根源的なものです。それは、祈りとみことばであり、そこから湧き出てくる神のいのち、聖霊の満たしです。私たちがまず求めなければならないものはこの神の国とその義であって、そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられ、神の御業があらわされるようになります。そうでないと、私たちの信仰は極めて表面的で、薄っぺらなものになってしまいます。そして人間としての本来の在り方というものを失ってしまうことになってしまうことになります。そのようにならないように、私たちはいつも私たちの中に祈りの祭壇を築き、神のいのちに満ち溢れることを求めていかなければなりません。

次に16節から21節までをご覧ください。「16 モーセのしゅうとがその一族であるケニ人たちは、ユダ族と一緒に、なつめ椰子の町からアラドの南にあるユダの荒野に上って行き、そこの民とともに住んだ。17 ユダは兄弟シメオンと一緒に行って、ツェファテに住んでいたカナン人を討ち、それを聖絶し、その町にホルマという名をつけた。18 ユダは、ガザとその地域、アシュケロンとその地域、エクロンとその地域を攻め取った。19 【主】がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、平地の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払えなかった。20 モーセが約束したとおり、ヘブロンはカレブに与えられ、カレブはそこからアナクの三人の息子を追い払った。21 エルサレムに住んでいるエブス人に関しては、ベニヤミン族がこれを追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族とともにエルサレムに住んでいる。」

モーセは、ミデヤンの祭司イテロのところに住み、そこでチッポラを妻としました。ですからモーセにはイテロの息子たちである義兄弟がいたのです。それがケニ人です。そのケニ人の子孫がユダ族といっしょになつめやしの町からアラドの南にある荒野に上って行き、そこの民とともに住みました。「なつめやしの町」とはエリコのことです。エリコから南にあるユダの荒野に上って行きました。彼らにとって荒野の方が住みやすかったのでしょう。

ユダ族の快進撃は続きます。今度は兄弟シメオンと一緒に行って、ツェファテに住んでいたカナン人を討ち、そこを聖絶しました。さらにアシュケロンとその地域、エクロンとその地域も攻め取りました。このアシュケロン、エクロンは海岸地域です。後にペリシテ人が住むようになる土地です。ですから、彼らはかなり広範囲にわたって攻め取ったことがわかります。どうしてこのように広範囲にわたって攻め取ることができたのでしょうか。それは主がともにおられたからです。主がともにおられたので、ユダは山地を占領することができました。しかし、平地の住民は追い出すことができませんでした。鉄の戦車を持っていたからです。けれども、それは理由になりません。主がともにおられるのであれば、たとえ敵が鉄の戦車を持っていても何の問題もないからです。それなのに追い出すことができなかったのは、神の約束よりもその置かれた状況を見て恐れたからです。主ご自身よりも鉄の戦車の方が大きくなってしまったのです。主ご自身がともにおられその敵と戦われるのですから、彼らにとって必要だったのはただ主に聞き従うことだったのです。それなのに彼らは敵の戦車を見て恐れてしまいました。ユダは完全に聞き従わなかったのです。

このようなことが私たちにもあります。主に従ってはいるけれども中途半端な従い方をしてしまうということが・・・。私たちは、自分で克服できる問題には信仰をもって対処しますが、克服できないと思うことに対しては逃げてしまうことがあるのです。ちょうど「鉄の戦車があるから」という言い訳をしてしまうのです。けれども、このように信仰において妥協があると、最終的に肉が共存し、自分自身を苦しめてしまうことになってしまいます。

21節をご覧ください。それはベニヤミン族も同じでした。ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住むようになりました。エルサレムも、谷にいた住民のように、地形的に敵が入り込めないようになっており、自然の要塞となっていました。けれども、それでエブス人を倒すことができないという言い訳にはなりません。彼らには全能の主がついておられたのですから。実際に後にダビデがエブス人と戦うようになりますが、その時まで何百年も本当は攻略することができたのに攻略せず、戦いを先延ばしにしていただけなのです。私たちは逃げることはできません。ただ前進して戦うのみです。主がともにおられるなら、主が勝利を与えてくださいます。それを信じて前進するかどうかです。鉄の戦車を見ておびえてはなりません。難攻不落の要塞を見てあきらめてはならないのです。主が戦ってくださることを信じて、主の命令に従って前進しなければならないのです。

Ⅱ.ヨセフの一族によるべテル奪回(22-26)

次に22節から26節までご覧ください。ここにはヨセフ一族によるベテルの奪回のことが記されてあります。「22 ヨセフの一族もまた、ベテルに上って行った。【主】は彼らとともにおられた。23 ヨセフの一族はベテルを探った。この町の名は、かつてはルズであった。24 見張りの者たちは、その町から出て来た人を見て言った。「この町に入るところを教えてほしい。そうすれば私たちも、あなたに誠意を尽くすから。」25 彼が町の出入り口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を討った。しかし、その人とその氏族の者はみな自由にしてやった。26 その人はヒッタイト人の地に行って町を建て、その名をルズと呼んだ。これが今日までその名である。」

「ヨセフの一族」とは、マナセ族とエフライム族のことです。彼らはベテルに上って行きました。ベテルはエルサレムの北19キロに位置し、ベツレヘムとエフライムの境にある町です。以前は、ルズと呼ばれていました。しかし、ヤコブが兄エサウのもとから逃れてハランに住む叔父ラバンのもとへ向かう途中ここで天からのはしごの夢を見たことで、ここをベテル、「神の家」と呼ぶようになりました。かつてアブラハムもネゲブに向かう途中でこのベテルに滞在して、祭壇を築きました。そういう意味ではとても霊的に重要な町です。

ヨセフ一族はこのベテルを攻略するにあたりその町を探るも、なかなか攻略の糸口が見つかりませんでした。そこで彼らはその町から出てきた人を見て、「この町に入るところを教えてほしい。」と言います。「そうすれば私たちも、あなたに誠意を尽くすから。」と。かつてイスラエルがエリコを攻略した際にラハブにしたように、です。するとその人は町の出入り口を教えてくれたので、彼らは剣の刃でこの町を討ちました。しかし、教えてくれたその人とその氏族の者はみな約束したとおり自由にしてやりました。自由になったその人はどうしたかというと、ヒッタイト人の地に行って町を建て、その町をルズと呼びました。

Ⅲ.カナン人を追い払い得なかった村落のリスト(27-36)

最後に27節から36節までを見て終わりたいと思います。ここにはマナセ、エフライム、ゼブルン、アシェル、ナフタリ、ダンといったカナンの中部と北部に定住した部族がカナン人を追い払わなかった村落のリストが記されてあります。

まずマナセ部族です。27節と28節をご覧ください。「27 マナセは、ベテ・シェアンとそれに属する村々、タアナクとそれに属する村々、ドルの住民とそれに属する村々、イブレアムの住民とそれに属する村々、メギドの住民とそれに属する村々は占領しなかった。それで、カナン人はその土地に住み続けた。28 イスラエルは強くなったとき、カナン人を苦役に服させたが、彼らを完全に追い払うことはしなかった。」

エフライムも同じです。29節です。「29 エフライムはゲゼルの住民であるカナン人を追い払わなかったので、カナン人はゲゼルで彼らのただ中に住んだ。」
マナセとエフライムはカナン人を苦役に服させましたが、完全に追い払うことをしませんでした。苦役に服させるのと追い払うのでは大きな違いがあります。私たちは、肉を十字架につけて殺してしまわなければいけません。それなのに、その肉をそのままにして表面的に対処しようとすると、それが共存して逆にそれによって悩まされることになってしまうのです。彼らはいつもこうした弱さがありました。ヨシュア記17章16節にも、かつてヨシュアがマナセとエフライムに「戦いなさい」と鼓舞したのに、彼らはヨシュアにこういう言い訳をしました。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。(ヨシュア17:16)」
鉄の戦車が問題なのではありません。問題はだれとともに戦うのかということです。主が共に戦ってくださるのであれば何の問題でもありません。しかし、彼らは自分たちにできるかできないかを計算することで、信仰によって踏み出すことをしませんでした。

次はゼブルンです。30節には、彼らはキテロンの住民とナハロルの住民を追い払わなかったので、カナン人は彼らのただ中に住み、苦役に服しました。

次はアシェルです31,32節をご覧ください。彼らもアッコの住民やシドンの住民などを追い払わなかったので、その土地の住民の中に住みました。ここではカナン人が彼らの中に住んだのではなく、彼らがカナン人の中に住んだとあります。霊と肉が逆転しています。追い払うことをしないと支配していると思っていても、逆に支配されるようになってしまいます。

次はナフタリです。33節です。彼らもベテ・シェメェシュの住民やベテ・アナトの住民を追い払わなかったので、その土地に住むカナン人の中に住みました。

最後はダン族です。34節から36節です。「34 アモリ人はダン族を山地に追いつめ、平地に下りることを許さなかった。35 こうしてアモリ人は、ハル・ヘレス、アヤロン、そしてシャアルビムに住み続けたが、ヨセフの一族が勢力を増すと、彼らは苦役に服した。36 アモリ人の領地は、アクラビムの坂からセラを経た上の方であった。」
ダン族がもっとも状況がひどいです。彼らは自分たちの割り当て地に住むことさえできませんでした。追い払うのではなく、追い払われてしまいました。ヨセフの一族とはエフライム族のことです。彼らが強くなったとき、エモリ人を苦役に服させました。

モーセ(申命記7章)とヨシュア(ヨシュア記23章)の警告を聞き入れなかった結果が、この士師記の種々のエピソードにつながっていきます。どんなに自分の目で良いと思えることでもそれが神の命令にかなったものでなければ、神に従うべきです。「十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(ヨシュア23:11)とヨシュアは警告したが、真に、私たちは自らの霊性を守る歩みが求められています。そのことに気づかされ、この世の倫理、この世の考え方に流されず、それらを超えた聖書の教えに立つことができるように、祈り歩ませていただきましょう。

ヨシュア記24章

ヨシュア記24章

 いよいよヨシュア記の最後の学びとなります。まず1~13節までをご覧ください。

 Ⅰ.神の恵みを思い起こして(1-13)

「1 ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、2 ヨシュアは民全体に言った。「イスラエルの神、【主】はこう告げられる。『あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。3 わたしはあなたがたの父祖アブラハムを、あの大河の向こうから連れて来てカナンの全土を歩かせ、子孫を増し、イサクを与えた。4 そして、わたしはイサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えてそれを所有させた。一方、ヤコブと彼の子たちはエジプトに下った。5 わたしはモーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがそのただ中で行ったとおりである。その後、わたしはあなたがたを導き出した。6 わたしはあなたがたの父祖たちをエジプトから導き出した。あなたがたが海まで来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵であなたがたの父祖たちを葦の海まで追いつめた。7 彼らは【主】に叫び求め、主はあなたがたとエジプト人の間に暗闇を置き、海に彼らを襲わせ、彼らをおおわせた。あなたがたの目は、わたしがエジプトで行ったことを見た。そして、あなたがたは長い間、荒野に住んだ。8 わたしは、ヨルダンの川向こうに住んでいたアモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、あなたがたは彼らの地を占領した。わたしはあなたがたの前から彼らを一掃した。9 モアブの王、ツィポルの子バラクは立ってイスラエルと戦い、あなたがたを呪うために、人を遣わしてベオルの子バラムを呼び寄せた。10 しかし、わたしはバラムに耳を傾けようとしなかった。彼はかえって、あなたがたを祝福し、こうして、わたしはあなたがたをバラクの手から救い出した。11 あなたがたはヨルダン川を渡り、エリコに来た。エリコの住民やアモリ人、ペリジ人、カナン人、ヒッタイト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人はあなたがたと戦った。しかし、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、12 あなたがたの前にスズメバチを送ったので、スズメバチがアモリ人の二人の王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、あなたがたの弓にもよらなかった。13 わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。』」

ここでもヨシュアは決別の言葉を再び語っています。しかし前章とは異なり、全イスラエルをシェケムに集めて語っています。シェケムは、いろいろな意味で霊的に重要な場所です。前章の最後のところに、「【主】があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。」(23:14)とありますが、主がこの地を子孫に与えるとアブラハムに約束されたのは、このシュケムの町でした(創世記12:7)。それでアブラハムはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈ったのです。また、アブラハムの孫ヤコブが兄エサウから逃れ叔父のラバンのもとに行ったとき、その帰路の途中でエサウに会いましたが、その祈りと葛藤の中で主に拠りすがりすべての障壁を乗り越えた時、ここに祭壇を築きました(創世記33:20)。

このように霊的に非常に重要な場所でヨシュアがイスラエルの民に語った最初のことは、イスラエルの歴史の回顧でした。いったいなぜヨシュアはイスラエルの過去を回顧したのでしょうか。2節からの内容を見てわかることは、そこに神の恵みが想起されているということです。ヨシュアは過去の歴史を語ることを通して、神がいかに素晴らしいことをしてくださったか、いかに慈しみに満ち、恵み深いかを思い起こさせたのです。

まず2~4節にはアブラハムの選びを取り上げています。ここで注目すべきことは、アブラハムが父の家にいたとき、ほかの神々に仕えていたということです。信仰の父と呼ばれているアブラハムは私たちと同じように偶像礼拝者だったのに、そこから一方的に選び出されたのです。また、5~7節にはイスラエルの民がエジプトから救われたことが、また、8~10節までにはヨルダンの東側における戦いでの勝利が、そして11~13節には、ヨルダンのこちら側、すなわち、カナンにおける戦いと征服の記録が語られています。これらのことに共通して言えることは何でしょうか。これらすべてのことは神の恵みによるものであったということです。

13節には「わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。」とあります。それは決して彼らが何もしなかったということでありませんが、それ以上にこうしたイスラエルの民の努力や勝利も実は神の恵みによるのであって、神の支えと助けなくしては成し遂げられなかったということであり、そのことを常に思い起こし、肝に銘じるようにと語っているのです。

実にイスラエル民族の偉大さは、神の恵みを常に思い起こして感謝し、それを記念し、祝祭化して、心に深く刻みつけていったという点です。私たちも常に神の恵みを思い起こし、感謝をささげなければなりません。そしてここにこそ神の大きな祝福が注がれるということを覚えなければなりません。

Ⅱ.決断と選択(14-28)

次に14~28節までをご覧ください。まず14~18節をお読みします。「14 今、あなたがたは【主】を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、【主】に仕えなさい。15 【主】に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は【主】に仕える。」16 民は答えた。「私たちが【主】を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。17 私たちの神、【主】は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たちの目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを守ってくださった方だからです。18 【主】はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、【主】に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」」

ヨシュアはイスラエルの民に対して神の恵みを思い起こさせると、続いて、この民に向かってこの主に従うかどうかの決断と選択を迫ります。人生は出会いで決まると言われますが、同時に、決断と選択によって決定されます。その典型的な例が結婚でしょう。人はだれと結婚するかによって人生が大きく左右され、決定的な影響を受けることになります。

しかし、人間にとって結婚以上に重要な選択があります。それはいかなる神を信じるかという信仰の問題です。だから宗教は嫌いなんですと、自分が無宗教であることをことさら強調する人がいますが、そういう人は実は自分という神を信じていることに気付いていないだけのことです。自分の考えや思いに従って生きています。つまり、自分が神となっているのです。ですから無宗教というのはあり得ないわけです。そしてどの宗教を信じるかによってその人の生涯のみならず、死後の在り方や永遠の生き方さえも決定されてしまうことになります。ここでヨシュアはイスラエルの民に、この重要な選択と決断を迫りました。あなたがたは真実な神、主に仕えるのか、それとも偶像の神々に仕えるのか、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい、と言っています。信仰の選択に妥協はありません。それぞれの責任による選択と決断を迫り、ヨシュア自らは、「私と私の家とは主に仕える。」と宣言するのです。

これに対して16節以下のところに、イスラエルの民の応答が記されてあります。民は答えて言いました。「16私たちが【主】を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。17 私たちの神、【主】は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たちの目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを守ってくださった方だからです。18 【主】はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、【主】に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」
主がこれだけのことをしてくださったのに、なぜ主を捨てることができるでしょうか。絶対にそんなことはできません。この方が自分たちの神ですからと、宣言したのです。こうした信仰の宣言と決断はとても重要なことです。ややもすると私たちは、どっちつかずの方が融通が利くというか、家族との間に波風を立たせずに済ませることができるので曖昧にしがちになりますが、このように決断することによって自分が依って立っているものが何であるのかが明確になり、それまで以上に主に仕えることができるようになります。

しかし、それに対するヨシュアの答えは以外なものでした。19節をご覧ください。「ヨシュアは民に言った。「あなたがたは【主】に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。」
どういうことでしょうか?ヨシュアは選択を迫り、民が主に仕えると表明するやいなや、今度はあなたがたにはできないと否定するのです。ヨシュアがこのように言ったのは、イスラエルの民が自分の意思や自分の力に頼って信仰の決断をしたことを見抜いていたからです。自分の肉の力に頼っていたのでは主に従うことはできません。必ず失敗します。ヨシュアはそれを見て取ったのです。そしてヨシュアの予想とおり、ヨシュアの死後、士師記の時代に入るやいなや、イスラエルの民は何度も何度も主に背き、偶像に仕えることになります。神を捨てたイスラエルは神の刑罰を受け、異邦の民の侵略を受け、苦しみの中に落ち込み、やがて悔い改めて神に立ち返るということを繰り返すのです。なぜそのようなことになるのでしょうか。ここでこんなにも強く決心したにもかかわずそんなに簡単に手のひらを返すようなことになるとは考えられません。実はそれほど私たちの意思や決意はそれほど弱いのです。何かあるとすぐに躓いてしまうほどもろいものなのです。

十字架を目前にして、イエスが弟子たちに「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。」と言うと、ペテロは勢い込んで「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)と言いました。しかしイエスは彼に「今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」と預言されると、そのとおりになりました。ペテロはどんなにかショックだったかと思います。しかし、人間の意思の力はそれほどもろいのなのです。彼はそのことに気付いていなかっただけです。人はつい簡単に約束をしたり決断したりします。このようにしようと堅く心に誓いますが、そのたびに裏切ってしまうのです。それほどに人間の肉の力は弱いのです。ヨシュアはそのことを重々知っていました。だから彼はここで「あなたがたはできない。」と言ったのです。

それではどうしたらいいのでしょうか。使徒パウロはこう言っています。「1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。5 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。7 なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。9 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。10 キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。11 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(ローマ8:1-11)
パウロには深い悩みがありました。それは、自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているということでした。自分がしたいと思う事ができないのです。それは自分の中に住んでいる罪のためです。いったいどうしたらいいのか、だれがこの死のからだから自分を救ってくれるのでしょうか。パウロはそのように嘆きつつ、ここにその解決を見出しました。それが、いのちの御霊の原理です。確かに自分の内に罪と死の法則があって、自分の力ではどうすることもできませんが、イエス・キリストを信じたことで与えられた主の御霊、キリストにある命の御霊の原理が働いているので、このいのちの御霊の原理によって勝利することができると言ったのです。

このキリストにあるいのちの御霊の原理は、キリストを信じた時に私たちに与えられた原理です。キリストを信じていのちの御霊が私たちのうちに住まわれると、その御霊の力が肉の力に勝利し、死ぬべきからだをも生かしてくださいます。なぜなら、それはキリストを死者の中からよみがえらさせたほどの力ですから。これが私たちの信仰生活であるということをパウロは発見したのです。つまり、もし人が救われてクリスチャンになったなら内なる罪と死の原理がすべて消滅し、そこから完全に解放されるというのではなく、そのところに新しくいのちの御霊の法則が働き始めて、御霊の力によって勝利することができるのです。

私たちはキリストを信じたときキリストとともに十字架につけられ、もはや私が生きているのでなく、キリストが私のうちに生きているのですと告白しましたが、罪の力に敗北し、悪魔に誘惑されて罪を犯してしまうことがあります。それは決して意思が弱いからではなく、むしろ意思の力に頼りすぎているからです。もし自分の意思を過信するなら、それはパウロがここで嘆いたように、いつも敗北感を味わいながら生きることになるでしょう。しかし、うちに住んでおられる御霊にゆだねるなら、御霊の力によって勝利することができるのです。

ヨシュア記に戻りましょう。ヨシュアが、「あなたがたは主に仕えることはできない。」と言うと、民はヨシュアに言いました。「いいえ。私たちは主に仕えます。」それでヨシュアは民に言いました。「主を選んで、主に仕えることの証人はあなたがたです。」すると彼らは「私たちが証人です。」と言いました。それでヨシュアは、だったら「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」と勧めました。そうでないと、主を主とすることができないからです。人はだれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を軽んじて他方を軽んじることになるからです。(マタイ6:24)ですから、まず自分たちの中から偶像を取り除かなければなりません。偶像を取り除き主に心を傾けることによって、主に仕えることができるからです。すると民はヨシュアに言いました。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」

こうしてヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで彼らのために掟と定めを置きました。そして、イスラエルが主に聞き従うと言ったことばを石に書き記し、主の聖所にある樫の木の下にそれを立てました。それは彼らが主を礼拝しに来たときに、確かに自分が主に聞き従うといったことを彼らが思い出すためです。私たちも自分の意思によってはすぐ神との契約さえも破ってしまうような弱い者ですが、このような契約を御霊によって心に刻み、いつも心から主に従う者でありたいと思います。

Ⅲ.ヨシュアの死 (29-33)

最後に29~33節までを見て終わります。「29 これらのことの後、【主】のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。30 人々は彼をガアシュ山の北、エフライムの山地にある、彼の相続地の領域にあるティムナテ・セラフに葬った。31 ヨシュアがいた間、また、【主】がイスラエルのために行われたすべてのわざを経験して、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、イスラエルは【主】に仕えた。32 イスラエルの子らがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸は、シェケムの地、すなわち、ヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子たちから買い取った野の一画に葬った。そこはヨセフ族の相続地となっていた。33 アロンの子エルアザルは死んだ。彼は、自分の子ピネハスに与えられた、エフライムの山地にあるギブアに葬られた。」

これらの出来事の後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは110歳で死にました。ここには簡単にヨシュアが110歳で死んだとありますが、これはヨシュアが果たすべきことのすべてをなし終えた後で召されたということを示しています。それは、ヨシュアの生涯が神のしもべとして神の御旨のために一切を捧げ尽くした生涯であったことを意味しています。彼は自らの使命、目的を明確に自覚し、そのために自分を徹底的に捧げたのです。彼に与えられた使命はこのヨシュア記の冒頭に記されてあります(1:1-9)。彼はこれを自らの生きる目的、使命として受け取り、その使命の達成のために生きたのです。私たちも、ヨシュアのごとく人生に明確な使命、明確な目的を持ち、それに向かって前進していくものでありたいと思います。

31節には、「ヨシュアがいた間、また、【主】がイスラエルのために行われたすべてのわざを経験して、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、イスラエルは【主】に仕えた。」とあります。どういうことでしょうか。ヨシュアが生きている間、また主のわざを見た長老たちが生きている間は、イスラエルは主に従っていましたが、この世代がいなくなると彼らは他の神々に心を寄せるようになっていくということです。私たちはこのような弱さを持っています。指導者がいれば主に従うことができても、いなくなったら簡単に主から離れてしまうのです。そうならないためにはどうしたらいいのでしょうか。主を体験するということです。主のわざを見て、主のみことばの真実、力、知恵、満たしなど、自分自身で体験するのです。そうすれば、たとえ指導者がいなくなっても、主に従うことができるようになります。

32節をご覧ください。ここには、「イスラエルの子らがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸は、シェケムの地、すなわち、ヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子たちから買い取った野の一画に葬った。そこはヨセフ族の相続地となっていた。」とあります。ここに突然イスラエルの父祖ヤコブの息子、ヨセフの遺骨がこのシェケムの地に葬られたことが語られています。なぜここに何百年も前に死んだヨセフの遺骸の葬りのことが記されているのでしょうか。

これを解く重要な聖書の記述は、創世記50:24~25節にあります。「24 ヨセフは兄弟たちに言った。「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたがたを顧みて、あなたがたをこの地から、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」25 ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださいます。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上ってください」と言った。」つまり、このヨシュア記24:32のメッセージは、このヨセフの預言の成就であり、そのことを銘記するようにということを伝えたかったのです。
イスラエルのカナン征服は、もとよりヨシュア一人の力によるものではありませんでした。それは既に数百年も前に神がヨセフに約束されていたことであり、それ故にエジプトの苦難の中にあっても、それはイスラエル民族にとって希望であり続けました。そしてそれが時至りモーセに受け継がれ、ヨシュアに受け継がれて、その偉大な救済の御業は、イスラエルの歴史の中で着々と進められ、遂に成就し実現したのです。このことを忘れてはならないというのです。

それは罪が贖われ、約束の地に向かっている私たちクリスチャンにとっても言えることです。私たちはまさに今イスラエルの民がモーセやヨシュアに導かれてカナンの地に向かって進んでいるように、神の約束の地に向かって進んでいるものです。時には目の前の困難のゆえに、本当にそれが実現するのだろうかと疑ってみたり、それよりもこの世での生活が満たされていればそれでいいのではないかという思いにかられることがありますが、神が約束してくださったことは必ず成就するのです。私たちはこのイスラエルの歴史を通して、その中に働かれた神の御業を見ながら、ますます熱心に御国を待ち望まなければなりません。イエス・キリストによってなされた贖いに感謝して、主の大いなる使命のために、全力で進んでいこうではありませんか。

最後はアロンの子エルアザルの死をもって、この書が閉じます。なぜ最後がエルアザルの死で終わっているのでしょうか。ヨシュア記を読むと、随所に「祭司エルアザルとヌンの子ヨシュア」という表現が出てくるが、それはヨシュアの勝利の陰に、陰の功労者として祭司エルアザルの存在があったことを強調したかったからと思われます。彼は表面にはあまり出てこない、きわめて地味な人物でしたが、しかし彼の祈りを通してヨシュアの働きが支えられました。この陰での祈りなしには、カナン征服の偉業は成し遂げられなかったのです。すべての目に見える業の陰にあって、しかし目に見えない祈りの力が、イスラエルをカナンに導いたことを忘れてはなりません。

それは主の教会にも言えることです。ある面で牧師はヨシュアのように民の前面に立って導くような者かもしれませんが、その働きを成功に導くのは主ご自身であられます。その主の助けと支えを願って陰でとりなしてくださる信徒の方々の祈りがあってこそ、それが主の大いなる力を引き出し、偉大な御業となって現われてくるのです。もしかすると祭司エルアザルのように地味で、陰での働きに徹するような存在かもしれませんが、こうした存在があってこそ主の御業が前進していくということを忘れてはなりません。イスラエルのカナン征服という偉大な御業は指導者ヨシュアとこのような陰での祈りというパートナーシップがあってこそ実現した御業だったのです。

70年の終わりに エレミヤ書25章1~14節70年の終わりに 

聖書箇所:エレミヤ書25章1~14節(エレミヤ書講解説教47回目)
タイトル:「70年の終わりに」
エレミヤ書25章に入ります。今日は1~14節から「70年の終わりに」というタイトルでお話します。このことばは14節から取りました。「七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──【主】のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」
ユダの民は、主のことばに聞き従わなかったのでバビロンの王に七十年間仕えることになります。しかし、その七十年の終わりに、主はそのバビロンを滅ぼし、これを永遠に荒れ果てた地とします。そして代わりに世界を治めたペルシャによって、彼らは主のことばのとおり、約束の地に帰還することになるのです。それは期間限定の捕囚、期間限定の神のさばきでした。その70年の終わりに、主はご自身の約束のとおり、彼らを元の場所に帰らせます。確かに苦難、困難があるでしょう。でも、その先をしっかり見ている人は幸いです。国の滅亡のかなたに希望がある、回復があるということを見つめている人は、どんな苦難に遭っても堅く信仰に立ち続けることができます。今日は、そのことを考えながら、この箇所を読んでいきましょう。
Ⅰ.しきりに語りかけたのに(1-7)
まず、1~7節をご覧ください。1節には「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年、バビロンの王ネブカドネツァルの元年に、ユダの民全体についてエレミヤにあったみことば。」とあります。
ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年とは、B.C.605年のことです。この年に、ネブカドネツァルがバビロンの王に即位しました。その元年に、主がエレミヤを通して、ユダとエルサレムの民全体に語られたことばがこれです。24:1には、「バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕え移してバビロンに連れて行ったあとのこと」とありますが、それは、B.C.597年のことでした。ですから、ここでは時代が遡っていることがわかります。本来であれば、年代順で言えば、この25章は21章の前に来る内容ですが、それがどういうわけか、ここに納められているのです。
エレミヤは、その年に主が語られたことばをユダの民全体とエルサレムの全住民に語りました。その内容は3~7節にあることです。「3 「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に【主】のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。4 また、【主】はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび遣わされたのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けもしなかった。5 主は言われた。『さあ、それぞれ悪の道から、あなたがたの悪い行いから立ち返り、【主】があなたがたと先祖たちに与えた土地に、いつまでも、とこしえに住め。6 ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。あなたがたが手で造った物によって、わたしの怒りを引き起こしてはならない。そのようにすれば、わたしも、あなたがたにわざわいを下さない。7 しかし、あなたがたはわたしに聞き従わなかった──【主】のことば──。そして、あなたがたは手で造った物でわたしの怒りを引き起こし、身にわざわいを招いた。』」
ヨシヤ王の治世の第十三年とは、B.C.627年のことです。エレミヤはその年に預言者として召され、主が語られることばを語り続けてきました。その期間は23年間です。彼は23年間主がユダの民に語られることばを絶えず、しきりに語りかけたのに、彼ら聞きませんでした。それはどういう内容だったかというと、5節と6節にあるように、いたってシンプルなものでした。それは、それぞれ悪の道から立ち返り、主が彼らの先祖たちに与えた土地に、いつまでも、とこしえまでも住むように、というものでした。ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。ただ神を愛し、神のみことばに従って歩むようにという、実にシンプルなメッセージでした。
しかし、彼らはそのエレミヤが語る主のことばを聞きませんでした。彼が23年間もしきりに語りかけたのに、だれも彼の話に耳を傾けなかったのです。だれも彼の招きに応えようとしませんでした。エレミヤは23年間もしきりに主のことばを語ったのに収穫はゼロでした。だれも彼のことばに耳を傾けようとしなかったのです。それは、エレミヤにとってどれだけ忍耐を要することであったかと思います。いや、神にとってどれほど忍耐を要することだったでしょう。私は牧会を始めて40年になりますが、もしだれも神に立ち返らなかったら、だれも神を信じなかったらどうしただろうと考えると、おそらく牧師を辞めていたんじゃないかと思います。やっていられない・・と。それはそうでしょう。だれも聞いてくれない、だれも信じようとしないとしたら、いったい何のために語っているのかわからなくなってしまいます。や~めた!と、早々に辞めていたと思いのです。でもエレミヤはそうではありませんでした。彼は23年間主のことばをしきりに語りかけ、だれも聞かなくても神のことばを語り続けました。たとえ目に見える収穫がなくても、たとえ目に見える成果がなくても、彼は語り続けたのです。しきりにかたりかけたのに、彼らは聞きませんでした。それは実のところは神が語りかけておられたことでした。神がエレミヤを通して語っておられたのです。だれもご自身に立ち返らなくても、神はずっと語り続けてくださいました。ここに、神がどれほど忍耐深い方であられるか、どれほどあわれみに富んでおられる方であるかがわかります。そして、そのようにして私たちがご自身の下に立ち返るのを待っていてくださったということを思うと、感動で胸が熱くなります。こんな自分勝手で罪深い者のために、神に立ち返るためにしきりに語りかけ、忍耐してずっと待っておられたのですから。十字架を立てて。新聖歌188番に「救い主は待っておられる」という讃美歌がありますが、その歌詞にあるとおりです。救い主はずっと待っておられました。あなたが心の戸を開くのを、ずっとずっと待っておられたのです。それこそ23年間どころじゃない、もっともっと長い間待っておられたのです。
神が私たちに願っておられることは、私たちが聞き従うことです。聞き従うことはいけにえにまさります。それなのに彼らは聞き従いませんでした。しきりに語りかけたのに、です。この「聞かなかった」ということばに注目してください。ここには「聞かなかった」とか、「耳を傾けなかった」ということばが繰り返して出てきます。それが強調されています。8節にも「聞き従わなかった」ということばがあります。皆さん、イスラエルの歴史は、一言で言えば、神への反逆の歴史です。あなたの歴史はどうでしょうか。あなたの生活はどうでしょうか。あなたの人生はどうですか。しきりに神が語りかけているのに聞かないということはないでしょうか。いつも聖霊に逆らっている歴史、逆らっている毎日、逆らっている人生であるということはないでしょうか。
リビングライフというディボーションの月刊誌の中に、こんなエッセイがありました。これはキム・ウォンテという韓国の牧師が書いたものです。
サハラ砂漠の西側には「サハラの中心」と呼ばれる小さな町があり、多くの旅行客がこの町を訪問しようと砂漠を訪れます。しかし、レビンという人がこの町に来る前までは、その町は全く開放されていない立ち遅れた場所でした。町の人々は一度も砂漠を出たことがありませんでした。何もない砂漠から出ようと試みましたが、一度も成功できませんでした。レビンは町から抜け出せない理由を尋ねました。すると、返ってくる答えはすべて同じでした。「どこに向かって歩いても、出発した場所に戻って来てしまうのです。」
そこでそれが本当かを試すために、レビンは北に向かって歩きました。すると三日で砂漠を抜け出すことができました。では、なぜ町の人々は抜け出すことができなかったのでしょうか。次にレビンは町の青年を一人連れて、青年が行く方向について行きました。昼も夜も歩き、11日目には再び町に戻ってきました。ついに、レビンはその町の人々が砂漠を抜け出せない理由を見つけました。誰も北極星を知らなかったのです。レビンは前回の実験に参加した青年に、昼は十分休んで、夜になったら北極星の後についていくようにと言いました。その青年がレビンの言葉通りにすると、3日で砂漠を抜け出すことかできたのです。後日、青年は砂漠の開拓者となり、開拓地の中心には彼の銅像が立てられました。その銅像にはこのような文字が刻まれているそうです。「新しい人生は、方向をしっかりと見つけた時に始まる!」
皆さん、これは私たちの人生にも言えることではないでしょうか。新しい人生は、方向をしっかりと見つけた時に始まります。私たちの歴史は、イスラエルの民のように神への反逆の歴史です。神がしきりに語りかけているのに聞こうとしないで、神に逆らい続けています。でもそんな不従順な道から立ち返り、神のもとに帰れば、いつでも主は私たちをいやし、触れてくださり、もう一度神の子どもらしく歩めるように回復してくださいます。あなたに求められていることは、主のみことばに聞き従うことです。主が遣わされた預言者たち、主の働き人たちの権威を認めて、彼らが伝えることばに耳を傾けて従うことなのです。新しい人生は、方向をしっかり見つけた時に始まります。私たちはその方向を軌道修正し、神に立ち返り、神のことばに従って歩んでいかなければなりません。そうすれば、あなたは神の取り扱いを受けることができ、神にしかできない御業があなたの内になされ、あなたは良いものに変えられるのです。初なりのいちじくのように、みずみずしく、魅力的で、本当に価値のある、美味しい実に作り変えられるのです。
Ⅱ.70年のバビロン捕囚(8-11)
次に、8~11節をご覧ください。エレミヤが主のことばを絶えず、しきりに語りかけたのに、それを聞かなかったユダの民に対して、主はどうなさるでしょうか。9~11節にこうあります。「9 見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる──【主】のことば──。わたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルを呼び寄せて、この国とその住民、その周りのすべての国々を攻めさせ、これを聖絶して、恐怖のもと、嘲りの的、永遠の廃墟とする。10 わたしは彼らから楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光を消し去る。11 この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。」
そうしたユダの民の不従順に対して、主はバビロンの王ネブカドネツァルを呼び寄せて、その国とその住民、その周りのすべての国々を攻めさせて、これを聖絶し、恐怖のもと、嘲りの的、永遠の廃墟とします。その結果、10節にあるように、それまで日常で普通になされていた営みが、すべて消えてしまうことになります。楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光が消えてしまうことになるのです。ひき臼の音とは、結婚して料理を作る時、包丁でまな板を叩きますよね、その音です。それはまさに平和な暮らしのシンボルのような音ですが、その音が消えてしまうのです。現代風に言うならば、電子レンジの「チン」が聞こえなくなるということでしょうか。ご飯を温める時に60秒にセットして、出来上がったら「チン」と音がして「できた!」となるあの「チン」の音が聞こえなくなってしまうのです。あるいは、お湯が沸いた時に鳴る「ピー、ピー、ピー」という音でしょうか、そういう台所の音が聞こえなくなってしまいます。バビロンによってそうした平和な生活が破壊されてしまうからです。
また、ここには「ともしびの光を消し去る」とあります。これは部屋を明るく照らしていた電気が消えて暗くなってしまうということです。もうそこに住んでいる人はいなくなります。そこはすっかり廃屋となってしまうのです。それは、彼らが主のことばに聞き従わなかったから、聞き従わなかったからです。その結果、バビロンの王ネブカデネツァルによる70年に及ぶ支配に甘んじることになるのです。
ところで、ここにはバビロンの王ネブカデネツァルのことが、「わたしのしもべ」と呼ばれています。4節にも「主のしもべである預言者たち」ということばが使われています。主の預言者であれば「主のしもべ」と言われても納得できますが、異教の王、しかもユダの民を虐殺するような悪辣で非道な者が神のしもべと呼ばれていることには少なからず抵抗を感じるかもしれません。いったいこれはどういうことでしょうか。確かにダニエル書4章を見ると、ネブカドネツァルはダニエルを通してダニエルが信じていた真の神を信じて回心します。そしてこの神をあがめ、賛美し、ほめたたえるようになります。そういう意味では、確かに彼は神のしもべであったと言えるでしょう。でもここで彼が「主のしもべ」と呼ばれているのはそういう意味ではなく、あくまでも神のさばきを実行する器として「主のしもべ」と呼ばれているのです。ということはどういうことかというと、主なる神の支配は、こうした異教の指導者にも及ぶということです。神は、こうした異教の指導者さえも用いてまでも、ご自身の民を懲らしめられるのです。それは彼らが主のことばに聞き従わなかったからです。神のみこころは5節にあるように、いつでも、とこしえに、彼らが約束の地に住むことだったのに、そんな神のみこころを踏みにじり、神のことばに聞き従わないことを選んだために、自らにわざわいを招いてしまったのです。その神の懲らしめ、神のさばきの道具の一つが、バビロンの王ネブカドネツァルだったのです。そういう意味で彼は「主のしもべ」と呼ばれているのです。
それはユダの民だけに言えることではありません。私たちにも言えることです。もし私たちが口先では、「神様愛します」「あなたをあがめます」と言いながら、心にたくさんの偶像を抱え、神がしきりに警告を語りかけてもそれを全く無視して背信に背信を重ねるなら、神はご自身のしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルを呼び寄せて、あなたを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖のもと、嘲りの的、永遠の廃墟とします。神はありとあらゆるものを道具として、ご自身に背く神の民を懲らしめるのです。そういう意味では、今あなたが抱えている苦しみも、その結果であると言えるかもしれません。
でも、安心してください。あなたのその苦しみは、あなたが神に愛されているという証拠でもあるのですから。それは、あなたが神の子どもであることの証拠でもあるのです。そうでなかったら、懲らしめや訓練を与えることはなさいません。神はあなたを愛しておられるのでむちを加えられるのです。へブル12:5~6にこのように書いてあり通りです。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」
だから、悲観しないでください。だから、私はもうだめだと思わないでください。私にはもう希望がないと言わないでください。あなたが素直になって神のことばに聞き従うなら、あなたは神の御取り扱いを受け、義という平安の実を結ぶことになるからです。
Ⅲ.70年の終わりに(12~14)  
最後に、12~14節をご覧ください。「12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──【主】のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。13 わたしは、この地の上にわたしが語ったすべてのことばを実現させる。それは、エレミヤが万国について預言したことで、この書に記されているすべての事柄である。14 多くの国々と大王たちは彼らを奴隷にして使い、わたしも彼らに、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる。』」
ここに「70年の終わりに」とあります。バビロンは、イスラエルを懲らしめる器、道具として神に用いられますが、そのバビロンも70年の終わりには、彼らの咎のゆえに罰せられ、永遠に荒れ果ててしまうことになります。一時は権勢を振るったバビロンも、創造主なる神のことばに聞き従わなければ、さばかれることになるのです。そして主は、バビロンの次に、世界を治めたペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせ、ユダの民をエルサレムへ帰還させる道を開かれます(エズラ1:1-4)。主は、ユダの民ばかりでなく、すべての国民、すべての国を治めておられるお方なのです。
ところで、ここには「70年の終わりに」とあります。ユダの民がバビロンで捕囚の生活を送るのは70年間であると預言されているのです。それは期間限定の捕囚、期間限定の懲らしめであったということです。この期間限定というのがいいですね。今は秋ですが、秋の期間限定のスイーツが販売されています。期間限定のマロンケーキとか、期間限定の紫芋フラペチーノとか、なんだかスイーツばかりですが、甘いものが大好きな私は、この期間限定のスイーツが大好きです。そしてここにも期間限定が登場します。ユダの民がバビロンに捕えられる期間です。それは70年と定められていました。それがいつまでなのかわからないと、忍耐のない私たちにはお先真っ暗となってしまいますが、主は本当に優しい方ですね。捕囚という悲劇が起こる前に、その期間をちゃんと定めておられました。70年間です。これはユダの民にとってどんなに大きな希望だったでしょうか。確かに70年という年月は途方もない年月ですが、それはいつまでも続くものではない、その先には回復がある、希望があるという約束は、彼らにとって大きな励ましとなったに違いありません。
ところで、皆さん、この70年という期間がどのようにして定められたかご存知ですか。ある人は、この「7」が完全数であり、「10」も完全数なので、これは神のさばきの完全さと徹底さを表している象徴的な数字だと考えていますが、そうではありません。これは、律法の書に予め定められていた期間でした。Ⅱ歴代誌36:21を開いてください。ここにはこうあります。「これは、エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。その荒廃の全期間が七十年を満たすまで、この地は安息を得た。」
イスラエルの民が約束の地に入ってから490年間ずっと破り続けてきた掟がありました。それがこの安息年の定めです。それはレビ記25章にありますが、7年ごとに農地を休ませなければならないという規定です。それなのに彼らは、約束の地に入ってから490年の間、ずっとこれを破り続けてきました。それで神は490年を7年で割った年数、すなわち70年間をバビロン捕囚の期間として定められたのです。この規定を破ればどうなるかということを、この中で定めておられたわけです。ですからこれは人の思い付きでも、偶然その期間になったというのでもなく、予め神が定めておられた期間だったのです。
でも、だれもこの70年間というエレミヤの預言を信じていませんでした。ただ捕囚の民としてバビロンに連れて来られたという悲惨な現実を呪うばかりでした。しかしそんな中でこのエレミヤの預言に目を留め、信じ、しっかりと待ち望んでいた人物がいました。誰ですか。ダニエルです。ダニエルは、第一次バビロン捕囚の時(B.C.605)にネブカドネツァル王によってバビロンに連れて行かれ、ずっとそこにいました。その後、バビロンはメド・ペルシャ帝国によって滅ぼされ、メド・ペルシャの時代になりますが、ダニエルはそこでもペルシャの王たちに仕えました。そのダニエルに、このエレミヤのことばが大きな影響を与えたのです。ダニエル書9:2にはこうあります。「すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった【主】のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」
捕囚の民としてバビロンにいたダニエルはペルシャの王ダレイオスが、カルデア人の国の王となったその元年、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が70年であることを悟ったのです。それが、今私たちが見ているエレミヤ書25:11~12のみことばです。彼は私たちが今見ている同じエレミヤ書の箇所を見ていたのです。そこで彼はその期間が70年であることを悟り、そのメッセージをしっかりと心に留めて、その期間をずっと待ち続けたのです。これは期間限定の懲らしめであるということ、国が滅亡したかなたに希望があるということ、回復があるということを信じたのです。だからダニエルはどんな迫害に遭っても堅く信仰に立ち続けることができたのです。たとえライオンの穴の中に投げ入れられてもへっちゃらでした。神のことばによってその先が見えていたからです。
これは私たちにも言えることです。私たちの人生にもいろいろな苦しみや困難があるでしょう。でもみことばによってそれがどういうことなのかを悟り、その先にあるものをしっかりと見るなら、そこにどんな苦難があってもそれを乗り越えることができます。パウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)と言っています。確かに、将来に希望を持っている人は、試練を乗り越えることができるのです。ダニエルがみことばによって今まさに自分がそこにいることを知り、奮い立ったように、私たちもみことばによって自分がいる場所を知り、それがどういうことなのかを悟るなら、どんな境遇にあっても奮い立つことができるのです。
その代表的な聖句を見て終わりたいと思います。エレミヤ29:10~14です。「10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」
この29:11は非常に有名な箇所です。この聖句がどのような文脈で語られているのかというと、この70年の期間限定が満ちる時、彼らを約束の地に帰らせるという神のご計画がいかに将来と希望を与えるものなのかを伝えることの中で語られたことでした。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだと。あなたもこの神のご計画を知るなら、それがわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものであることを知ることかできるでしょう。
ですから、私たちも主のことばを読んで、主がいま何を考えておられるかを知り、すべてを主にゆだね、その約束がなるようにと祈り、心を尽くして主を求めるようになります。そして、たとえ試練の中にあっても神のことばは必ず成ると信じて、将来に希望を持つことができるのです。その人の信仰は、生きて働くからです。

二かごのいちじく エレミヤ書24章1~10節二かごのいちじく 

聖書箇所:エレミヤ書24章1~10節(エレミヤ書講解説教46目)
タイトル:「二かごのいちじく」
エレミヤ書24章に入ります。今日は、「二かごのいちじく」というタイトルでお話します。いちじくはイスラエルを代表する木で、その葉と実を含め、聖書によく登場します。エレミヤはある時、主の神殿の前で、このいちじくの幻を見せられるのです。それは、二かごに盛られたいちじくでした。主はその幻を通して、当時のユダの民に大切な真理を語ろうとされたのです。それは、主のみこころに従う者を、主は初なりのいちじくのようにするということです。反対に、主のみこころに従わない者は、腐って、非常に悪いいちじくのようにするということです。
Ⅰ.エレミヤが見た幻(1-3)
まず、1~3節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のこと、【主】は私にこのように示された。見よ、【主】の神殿の前に、二かごのいちじくが置かれていた。2 一つのかごにあるのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごにあるのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものであった。3 そのとき、【主】が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」」
それは、バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エコンヤ(エホヤキン)と、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のことです。バビロン捕囚は、計3回にわたって行われました。一回目はB.C.605年です。この時、ネブカデネザルはエルサレムを完全に包囲し南ユダを属国としましたが、陥落させるまではいかず、多くのユダの民を捕虜としてバビロンに連れて行くことにとどまりました。この時、ダニエルと3人の友人たちも捕虜として連れて行かれることになります。二回目はB.C.597年です。この時、エゼキエルもバビロンに捕え移されます。そして三回目がB.C.586年です。これが最終的な捕囚です。この時、エルサレム神殿は完全に崩壊し、神殿も破壊されます。この24章の出来事は、その二回目の捕囚直後の出来事です。このとき、ユダの王、エコンヤと、ユダの高官たち、鍛冶職人といった技術者たちが、エルサレムに連れて行かれました。詳しいことはⅡ列王記24章に記されてありますが、かなり大がかりな捕囚だったようです。何といっても、この時ユダの王エコンヤ(エホヤキン)と、彼の母、彼の妻たち、その宦官たち、この国の主だった人々が、捕囚の民としてエルサレムからバビロンに連れて行かれたというのは大きかったと思います。それでネブカドネツァルは、エホヤキンのおじのゼデキヤをエホヤキンの代わりに王としたのです。そのゼデキヤはやがてネブカデネザルに反逆してクーデターを起こしますが失敗し、目をえぐり取られて殺されるという悲惨な結果を招くことになります。
ですから、この24章の出来事は、第二回目のバビロン捕囚直後の出来事なのです。その時、何がありましたか。主がエレミヤに一つの幻を示されました。それは、主の神殿の前に、二つのかごのいちじくが置かれてあったというものです。
一つのかごにあったのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようでした。初なりのいちじくというのは、とっても美味しくて、貴重で、高価ないちじくという意味です。イスラエルでは、いちじくは年2回に分けて収穫されます。1回は6月頃で、もう1回は8~9月頃です。ここには初なりのいちじくとありますから、6月頃に収穫されるいちじくのことです。これは本当に良いいちじくで、美味しく、非常に高価で貴重なものでした。
もう一つのかごにあったのは、非常に悪いいちじくでした。悪いというのは腐っていてという意味です。もう腐っていてとても食べられるものではありませんでした。これは2回目に収穫されるいちじくのことではなく、収穫されないでそのままいちじくの木に残されていたものです。収穫されてないでそのままにしておくとどうなるかというと、完熟して地面に落ちてしまいます。いちじくは繊細で傷みやすい果物なので、そのままにしておくとあっという間に腐ってしまうのです。ここで言われている非常に悪いいちじくとは、そのようないちじくのことです。それは非常に悪いもので、もう食べられなくなっていました。非常に対照的ないちじくが、二つのかごに盛ってありました。エレミヤはそのような幻を見たのです。いったいこれは何を表していたのでしょうか。
Ⅱ.良いいちじく(4-7)
まず良いいちじくから見ていきましょう。4~7節をご覧ください。「4 すると、私に次のような【主】のことばがあった。5 「イスラエルの神、【主】はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。6 わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。7 わたしは、わたしが【主】であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」
主はこう言われました。「わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」(5)
「カルデア人」とは「バビロン人」のことです。ですから、ユダの捕囚の民とはバビロン捕囚となった民のことを指しています。その民を良いいちじくのようにしよう、良いものであると見なそうというのです。つまり良いいちじくとは、バビロンへ捕え移された捕囚の民のことを表していたのです。これは不思議なことです。なぜなら、彼らはバビロンによって侵略され、みじめにも降伏して、捕虜となっていたからです。どう見たってみじめです。それなのに主は、そんな者を良いいちじくのように、初なりのいちじくのように見なそうと言われたのです。ちょっとピンときません。合点がいかないという方もおられるでしょう。いったいどうしてそれが良いいちじくなのか。逆じゃないですか。敵に敗れ、捕虜として連れて行かれ、奴隷として生きなければならないとしたら、それこそ腐ったいちじくのようなものです。かつては良かったかもしれません。しかし、今は地面に落ちて腐ってしまい、とても食べることなどできなくなった悪いいちじくのようです。イメージとしてはこっちの方がピッタリくると思います。でも、神はそうじゃないとおっしゃられました。バビロン捕囚として連れて行かれたユダの民こそ良いいちじくであると言われたのです。これは人間的な物の見方、考え方と全く逆です。
聖書を読んでいるとこういうことが往々にしてあります。たとえば、イエス様は山上の説教の冒頭でこう言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)不思議なことばですね。心が豊かな者、心が満ちている者は幸いですというのならわかりやすいのですが、心の貧しい者は幸いですと言われたのです。それは勿論心の卑しい人とか心の狭い人のことではありません。神様の前に自分の霊的貧しさを知っている人、すなわち、自分の心の貧しさを正直に認め、心が砕かれた人のことを指しています。神様が忌み嫌われるリストが聖書の中にあるのですが、その一番最初に来るのが高ぶる者、すなわち、傲慢さや高慢さです。自分の傲慢さを認めることは勇気が必要です。しかし、それを認めてへりくだる者にこそ、神様は本当の幸いを与えてくださるということなのですが、このように説明されると「あっ、そういうことですね」とわかりやすいのですが、そうでないと「えっ」と首をかしげたくなります。このように聖書の中には、神様の驚くべき物の捉え方というか考え方、価値観が、いたるところに記されてあるのです。
ここもそうです。敵の攻撃に敗れ、捕虜として、捕囚の民として連れて行かれたら不幸なはずなのに、神の目ではそういう人が幸いであって、良いいちじくのようだ、というのです。いったいどうしてそれが良いいちじくのようなのでしょうか。
第一に、それが神のみこころだったからです。5節にこうあります。「わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」
確かに彼らは神に背き、悔い改めなかったので、バビロンに捕え移されるという懲らしめを受けることになりましたが、神のご計画はそれで終わりませんでした。そのことを通して彼らをもっと良いものにしようと考えておられたのです。そのことは、既に21:8-10で語られていたことでした。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。「10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ──【主】のことば──。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」
ここで主は彼らの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。いのちの道とは、捕囚の民としてバビロンに行くことです。逆に死の道とは、エルサレムにとどまることでした。最後まで徹底抗戦してバビロンと戦い、エルサレムに留まることです。一見最後までとどまって戦った方がいのちの道のようですが、そうではなく、それは死の道を選択することでした。なぜなら、彼らがバビロンの捕虜として連れて行かれることが神のみこころだったからです。神のみこころに従うことがいのちの道です。逆に従わないことが死の道です。彼らが神のことばに従わなかったので神はバビロンという国を用いて彼らを懲らしめようとされたのです。それが神のみこころだったのです。まさにヘブル12:11にある通りです。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」で言われていることです。」
神のみこころは彼らを滅ぼすことではなく、彼らを良いものにすることだったのです。そのためには訓練が必要でした。それがバビロン捕囚だったのです。それは神からの訓練、神からの懲らしめだったのです。その懲らしめを通して神は彼らを良いものにしようとされたのです。それは彼らにとっては喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思えることでしたが、しかし後になると、これによって鍛えられた人たちに、義という平安の実を結ばせることになるのです。
これが神のご計画でした。ですからバビロンによって捕囚の民として連れて行かれることは悲惨なようですが、実際はその逆で、そのことによって彼らは鍛えられ、もっと良いものにされたのです。初なりのいちじくのように。
第二のことは、彼らがバビロンに捕え移されても、それで終わりではなかったからです。主はやがて彼らを約束の地に帰らせ、その国を永遠に確立すると約束されました。6節にこうあります。「わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。」(6)
何とすばらしい約束でしょうか。ここで主は彼らを幸せにしようと彼らに目をかけると言われました。どういうことでしょうか。彼らを幸せにするために懲らしめを与えるということです。そうです。バビロン捕囚は、彼らに対する神の懲らしめだったのです。彼らを痛めつけるために懲らしめるのではありません。彼らを幸せにするために、彼らを良いものにするための懲らしめです。その幸せとは何というと、彼らをこの地に帰らせ、立て直し、壊すことなく、飢えて、引き抜くことはないということです。すなわち、イスラエルは永遠に堅く立てられるということです。そのためにはこのバビロン捕囚が必要だったのです。これは、彼らがバビロンに連れて行かれてから70年後にそこから解放されるということを通して実現しますが、そればかりではなく、世の終わりにおいて全面的に成就することになります。事実、今でもこれが実現しています。世界中に散らされたユダヤ人が、約束の地に戻って来ているのです。1948年にはイスラエルが国として独立しました。そういう神様の深いご計画があったのです。
第三に、このバビロン捕囚という出来事を通して、神様は彼らに主こそ神であるということを知る心を与えるからです。彼らが心を尽くして主に立ち返るためです。7節にこうあります。「わたしは、わたしが【主】であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」
これもすばらしい約束です。私たちが主を知ることができるのは、主が、ご自身を知る心を与えくださるからです。そうでなければ、主を知ることはできません。というのは、この「知る」という語は単に頭で知るということ以上のことだからです。これはヘブル語で「ヤダー」という語であることは何度も言っていますが、これは深く知るという意味です。単に知識で知るという以上のことで、人格的に知るということです。それは主がそのような心を与えてくださって初めてできることです。そしてこの神を知ることこそ、永遠のいのちそのものなのです。
ヨハネ17:3をご覧ください。ここにはこうあります。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」
皆さん、永遠のいのちとは何ですか。ここには、永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです、とあります。神を知ること、イエス・キリストを知ることが永遠のいのちです。ですから、主を知る心をいただくということは、永遠のいのちをいただくということ、すなわち、救いをいただくということなのです。神との回復をいただくということ、神の子としていただくということです。失われていた神との関係を回復し、神との親しい交わりの中にいれていただくことなのです。
Ⅰヨハネ5:20にはこうあります。「また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」
イエス・キリストこそ、まことの神、永遠のいのちです。私たちはどうやってそれを知ることができたのでしょうか。それは神の御子イエス・キリストが来て、真実な方を知る理解力を与えてくださることによってです。自分の力で知ることはできません。自分の力で永遠のいのちを獲得することはできないのです。神がこの心を与えてくれない限り知ることはできません。逆に言うと、どんなに聖書がわからない人でも、神様がこの心を与えてくださるならだれでも知ることができます。だれでも救われるのです。だから、聖書の教える救いは神の恵みでしかないわけです。
それを、自らの罪の結果バビロン捕囚という憂き目にあった彼らに与えられたのです。彼らにはそんな資格はありませんでした。自分の力では主を知ることなんて全くできなかったのに、バビロン捕囚という出来事を通して彼らにその心が与えられたのです。それは恵みではないでしょうか。
このように、絶望的に見えるバビロン捕囚は、かえって主に目をかけられ、信仰が立て直されるきっかけとなったのです。人の目には悪く見えても、捕囚という試練、懲らしめは主から見ると「良いいちじく」なのです。それはまさしくイザヤ書55:8~9で言われていることです。ご一緒に読みましょう。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
当時、大部分の人は、幸いなのはエルサレムに残った人たちであると思ったことでしょう。しかし、神の思いは異なっていました。神の思いは全く逆だったのです。神のみこころは、神のことばを信じて、バビロンの捕囚の民としてエルサレムからカルデア人の地、すなわちバビロンに捕え移されることだったのです。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。であれば、私たちがどう思うか、どう考えるかということではなく、神の思いは何なのかを知り、それに従うことこそ幸いな道であり、良いいちじくとなるということがわかります。
それは私たちにも言えることです。一見、悪いと思える出来事が良き導きのきっかけとなる場合があります。逆に、見せかけの平安や幸せが、悲劇につながることもあるのです。ですから、私たちは目先の結果に揺さぶられることなく、「すべてのことを働かせて益としてくださる主」に信頼し、主のみこころに歩まなければなりません。
Ⅲ.悪いいちじく(8-10)
最後に、悪いいちじくを見て終わりたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように──まことに【主】は言われる──わたしはユダの王ゼデキヤと、その高官たち、エルサレムの残りの者と、この地に残されている者、およびエジプトの地に住んでいる者を、このようにする。9 わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもと、悪しきものとする。また、わたしが追い散らす、すべての場所で、そしりと嘲りの的、物笑いの種、ののしりの的とする。10 わたしは彼らのうちに、剣と飢饉と疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」」
ここには悪くて食べられない、悪いいちじくについて言及されています。それは南ユダ王国の最後の王であるゼデキヤをはじめとする、エルサレムに残った人たちのことを指しています。ゼデキヤについては先ほども述べたように、エホンヤ(エホヤキン)がバビロンに連れて行かれた後、バビロンの王ネブカデネザルによって擁立された王です。彼が南ユダ最後の王となります。彼は本来バビロンのパペット、操り人形にすぎませんでしたが、後にバビロンに反旗を翻しクーデターを起こしました。しかしその結果、ネブカドネツァルに殺されることになります。目の前で息子が虐殺され、その目をえぐり取られたのです。ですから、彼が最後に見たものは、息子が虐殺されるというシーンでした。何とも惨めな死に方です。その前にバビロンに捕えられ、幽閉されたエコンヤ、エホヤキンとは大違いです。いったいなぜ彼はこんな惨めに死んで行ったのでしょうか。神のみこころに従わなかったからです。神のみこころは、彼らがバビロン捕囚として懲らしめを受けることだったのに、それをしなかったからです。
一方、その前にバビロンに連れて行かれたエコンヤはどうなったでしょうか。22:30では、彼は「子を残さず、一生栄えない男」と記録せよ、とのろいを宣告されたにもかかわらず、バビロンに移されてから37年目に、バビロンの王エビル・メロダクによって牢獄から呼び出され、優しいことばをかけられ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くされます。彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも主の前で食事をすることが許されたのです。彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されました(Ⅰ列王記25:27-30)。

いったいこの差はどこから生じたのでしょうか。それは、神のみこころに従ったかどうかという一点です。エコンヤも決して敬虔な王ではありませんでした。でもバビロン捕囚に素直に従ったので、彼は後に良いいちじくに、良いものに変えられたのです。そして、このエコンヤの子孫にイエスの養父ヨセフが生まれることになります。エコンヤの息子たちは王位に就くことはありませんでしたが、でも彼らはバビロン捕囚によって殺されることなく、投獄されましたが最後は良い目に遭いました。一生奴隷のように扱われて、獣のように鎖につながれて惨めに檻の中で死んで行ったのではなく、そこから出されて再び王宮に住むことが許されたのです。大どんでん返しが起こったのです。なぜでしょうか。それは6節にあるように、主が彼を幸せにしようと、良いものにしようと目をかけてくださったからです。彼は悔しいけれども従いました。納得いかなかったけれども従いました。神の希望の約束があったから。その先が見えていたからです。
皆さん、神のみこころは物事が順調に行くこととは限りません。神のみこころは、目の前の困難に常に勝利し続けるということとは限りません。神のみこころは、時に敗北したかのように見えることもあり得るのです。でも神のみこころなら、それが勝利につながるという大どんでん返しが起こり得るのです。
ですから、結論はこれです。Ⅰペテロ5:5~7を開いてください。ご一緒に読みましょう。「「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
神は高ぶる者には敵対し、へりくだる者には恵みを与えられます。神のみこころはバビロンに捕虜として連れて行かれることなのに、そんなの嫌だと、自分たちの知恵と力で最後まで抵抗した人たちは腐って食べられない悪いいちじくになってしまいました。一方、へりくだる者には恵みを与えてくださいます。バビロン捕囚は、神が繰り返し警告しておられたことなのに、それを受け入れないで自分勝手に歩んだ結果がこれ。今さらジタバタしても無駄なこと。むしろ、このバビロン捕囚を招いてしまった自分たちの罪を嘆き、本当に神に申し訳ないことをしてしまった。この屈辱を、この悔しさを、この涙を、この苦しみを、この悲しみを、この痛みを甘んじて受けよう。これがへりくだる者の姿です。そして、このようにへりくだる者に、神は恵みを与えてくださいます。彼らを幸せにしようと彼らに目をかけてくださり、良いいちじくに、初なりの最高のいちじくにしてくださるのです。
ですから、私たちに求められていることは、神の力強い御手の下にへりくだることです。そうすれば、ちょうど良い時に神が高くしてくださいます。たとえあなたが承服できなくても、たとえあなたが納得できなくても、たとえ屈辱的な扱いを受けたとしても、たとえすべてを失うことがあったとしても、たとえどんな悲しみに落ちようと、主は良いものにしてくださるという約束を信じて、力強い神の御手の下にへりくだらなければならないのです。多くの場合、納得がいかないと神に従がおうとしません。すべてを失うのは嫌です。でもそれが神のみこころなら、たとえ納得できなくても、たとえ理解することができなくても、たとえ悔しくても、それでも従わなければならないのです。その向こうに希望があるからです。
皆さん、私たちの前には常に二者択一の選択が置かれています。いのちの道を選ぶか死の道を選ぶか、初なりの非常に良いいちじくになるかそれとも、腐って食べられない悪いいちじくになるのかです。バビロンに降伏することは大変屈辱的なことのようですが、それが神のみこころならやがて良いいちじくとなるのです。なぜなら、主があなたを幸せにしようとあなたに目をかけておられるからです。この力強い主の御手の下にへりくだり、主のみこころに従いましょう。あなたにも初なりの良いいちじくのように、良いものであると見なしていただこうではありませんか。