ローマ人への手紙1章8~15節「返さなければならない負債」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「返さなければならない負債」というタイトルでお話したいと思います。先週は、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちに自分を紹介するにあたり、パウロが「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」と紹介したことを学びました。パウロは、自分がこの福音のために選び分けられた者であるという強い自覚と使命感がありました。このような使命感があったからこそ、彼は本気で福音のために献身することができたのです。

 さて、きょうのところは先週に引き続きこの手紙全体の導入の部分ですが、きょうのところでパウロは、自分がなぜローマに行きたかったのか、その理由を述べています。11節を見るとここには、「私があなたがたに会いたいと切に望むのは」とか、13節にも、「何度もあなたがたのところに行こうとした」とか、15節のところにも、「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」とあります。いったいパウロはなぜそんなにローマに行きたかったのでしょうか。きょうはその理由を三つのポイントでお話したいと思います。

 第一のことは、それは彼らの信仰が全世界に言い伝えられていたからです。第二のことは、互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいと願っていたからです。そして第三のことは、それが返さなければならない負債であると思っていたからです。

 Ⅰ.全世界に言い伝えられている信仰(8)

 それではまず8節をご覧ください。パウロがローマに行きたかったのは、ローマのクリスチャンたちの信仰が全世界に伝えられていたからです。

「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」

 パウロはまずローマのクリスチャンたちのことで、神に感謝しています。それは、彼らの信仰が全世界に言い伝えられていたからです。全世界に言い伝えられていた信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。これと同じようなことがテサロニケ人への手紙の中にも記されてありますのでご覧いただきたいと思います。Iテサロニケ1章8節です。

「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

 ここで言われている信仰とは、彼らの聖い生活とか、愛に満ちた生活ということではなく、神に対する信仰です。それはどのような信仰かというと、キリスト信仰のことです。キリストによって罪から救われ、新しい人生に導かれた者として、そのキリストとともに生きる信仰のことなのです。パウロはその信仰をガラテヤ人への手紙の中で次のように告白しました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

 この信仰です。ローマのクリスチャンたちは、この信仰に生きていました。皇帝を神としてあがめるローマ帝国の首都にあって、この信仰に生きることはどんなに大変なことだったでしょう。けれども彼らはこの信仰に生き、キリストを立派にあかししていたのです。それはローマ全体から見たならほんの一握りの人々であったかもしれません。しかし、彼らのそうした不撓不屈(ふとうふくつ:どんな困難に出あっても心がくじけないこと)の信仰は、ほかの地にいるクリスチャンにとって大きな励ましであり、また良い模範となりました。パウロはこのローマのクリスチャンたちがそのような信仰を持つようになったことを神に感謝したのです。

 それは昔から信仰に生きた人たちに共通して見られるものです。たとえば、ダニエル書にはシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴという三人の少年たちが登場しますが、彼らはバビロンの王ネブカデネザル王から、もろもろの楽器の音を聞く時には、ひれ伏して、彼が造った像を拝むようにと命じられても、決して拝もうとしませんでした。それによってたとえ火の燃える炉の中に投げ込まれてもです。その時彼らは王に次のように答えました。

「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17,18)

 「しかし、もしそうでなくても・・」というのがすばらしいと思います。私の神は、私の信じている神は、そのような火の燃える炉から救い出すことができますが、たとえそうでなくても、決して金の像を拝むようなことはしない、そう言ったのです。彼らは自分たちのいのちに優先する信仰として、どんな状況にあっても揺るがない、ただ神だけに拠り頼む、そのような信仰を持っていたのです。

 皆さんはいかがですか。皆さんには、「もし、そうでなくても」という信仰がおありでしょうか。もし自分の思うように進まなくても、もし自分の願いが叶わなくても、もし、このことによって苦難を受けるようなことがあっても、それでも私はこの神に拠り頼むという信仰がおありでしょうか。

 スウェーデンの宣教師デヴィッド・フラッドという人の伝記を読みました。彼は福音を伝えるために、妻と2歳の息子とともに1921年、アフリカのコンゴに向かいました。飢餓と病気、敵対的な部族の人々の中で困難な働きを続けました。宣教の唯一の実は、一人の幼い少年だけでした。彼はそこで毎週日曜日にその幼い少年に聖書を教えました。そんな中、妻が娘を出産して七日目に世を去ってしまったのです。度重なる困難に疲れ果てたフラッドは、妻まで失ったことで自暴自棄に陥りました。神に失望し、殉教まで覚悟していた信仰を捨てて、現地の宣教本部に娘を預け、息子だけを連れて本国に戻ったのです。
 その後、73歳になった彼は、40年ぶりにはじめて会った娘から驚くべき事実を聞くのです。娘は、父に会いに来る途中、ロンドンのある集会で黒人の牧師に会ったのですが、それがあのコンゴの少年だったのです。その少年は立派に成長して牧師になり、福音の不毛地と言われたコンゴで神に仕える器となったのです。そして今では32カ国に宣教師を送り、11万人ものクリスチャンのいる教会の牧師となりました。父の献身と母の殉教によって、コンゴに新しいいのちがたくさん生まれていたのです。娘が「お父さんのしたことは決して無駄ではなかったのです」という言葉に、フラッドは涙して悔い改めたのでした。
 主のために努力したのに、結果が思ったとおりでないとき、私たちは失望します。しかし、たとえそうでなくても、それでもただ神に従うという信仰が重要です。まことの神を信じるなら、あらゆる結果を感謝して受け入れることができるようになるのです。

 実にローマのクリスチャンたちにはそのような信仰がありました。この世のこと、この地上のものを求めてやまないこの世の人たちとは違って、神のこと、永遠のことを求めて生きていたのです。そういう原理に生きていました。信仰が生きていたのです。ローマのクリスチャンたちはパウロによって信仰に導かれたわけではありませんでしたが、彼らがそのような信仰を持って歩んでいるというあかしを聞き、そのように導かれた神に感謝をささげると同時に、そういう彼らに何とかして会いたいと願っていたのです。

 Ⅱ.ともに励ましを受けるため(9-12)

 パウロがローマに行きたかったもう一つの理由は、ともに励ましを受けたかったからです。9~12節をご覧ください。

「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」

 まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちではありますが、パウロはいつも彼らのことを思っていました。どのように?祈りによってです。祈りによって彼は、いつも彼らのことを思い、神のみこころによって、何とかして道が開かれて、彼らのところに行けるようにと願っていたのです。いったいなぜパウロはそんなにも彼らのところに行くことを切望していたのでしょうか。それは11、12節にあるように、御霊の賜物をいくらかでも彼らに分け与えて、彼らの信仰を強くしたかったからです。なぜ彼らの信仰を強くしたかったのでしょう。伝道者、牧師であればそれは当然のことです。そのために自分が用いられるのであれば、喜んでそうしたいと思うのが普通です。しかしパウロの場合はただそのような理由だけではありませんでした。この手紙の終わりの方、15章を見ていただくとわかりますが、どうも彼はもっと遠く西方に、イスパニヤ、今のスペインですね、そこまで福音を宣べ伝えたいと願っていたようです。その宣教の拠点としてこのローマ教会に立ってほしかった。そのために必要だったことは、彼らが福音によってその信仰がしっかりと立っているということでした。なぜなら、福音に力があるからです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって神の力です。その福音にしっかりととどまっていてほしかった。だからこの手紙を書いたのです。本当なら、ローマまで行って直に会い、顔と顔とを合わせて教えるのに越したことはありません。しかし今はそれができないので、こうやって手紙を書いて彼らを強めようとしているのです。

 しかし、パウロがローマに行きたかったのは、そのように彼に与えられた御霊の賜物を分け与えて、彼らを強くするためだけではありませんでした。12節、「というよりも、彼らの間にいて、互いの信仰によって、ともに励ましを受けたかったからなのです。」

 皆さん、私たちクリスチャンには、それぞれ御霊の賜物が与えられています。この御霊の賜物についてパウロは、ローマ書12章3~8節のところで次のように言っています。

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」

 一つのからだには器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとりが互いに器官なのです。ですから、その与えられた御霊の賜物を、主に喜ばれるように、ほかの人々のために用いていかなければなりません。パウロには預言の賜物があったでしょう。教える賜物も、勧める賜物も、指導する賜物もあったかもしれません。かといって、彼がオールマイティーであったかというとそうではありません。おそらく、人を励ますという賜物は弱かったのではないかと思います。それはあのバルナバとの激しい反目をみるとわかります。彼らが第二次伝道旅行に出かけて行こうとした時、マルコを連れて行くかどうかで話し合った時、彼らの間に激しい反目が起こりました。先の伝道で途中から戻った者など伝道者としてふさわしくないと主張したパウロと、いや、人はみな弱さがあって完全ということはないんだから、そういう人をも受け入れていく必要があると主張したバルナバとの間に、激しい口論が生じたのです。結局、マルコを連れて行ったのはバルナバでした。パウロはなかなか受け入れることができなかった。もちろん、後でパウロはそのマルコさえも心から許し、受け入れましたが・・・。どちらが正しかったのかというよりも、人にはいろいろな性格や賜物、考え方があるので、そのような違いが生じてくるのです。しかし、それはやはりパウロの度量のなさというか、弱さからくる限界でした。やはり人を励ますという点ではバルナバの方が優れていました。とは言ってもみながバルナバだったらいいのかというとそうではありません。バルナバのような人がいて、パウロのような人がいて、それぞれに与えられた賜物を用いることによってともに励ましを受けることが大切なのです。神様は、そのために必要な人材してそれぞれを教会に置いてくださったのです。ですから、それぞれに与えられた賜物を用いて、互いに主に仕え合わなければなりません。そのためには、自分に与えられている霊的賜物を、ほかの兄弟姉妹に喜んで分け与えようという愛と、自分もまた教えられ、祝福を受ける必要があるということを十分認識し、そうした欠けを補いたいという謙虚さが必要です。この両者のあるところにクリスチャンの交わりがあり、それは大きな恵みをもたらしていくのです。

 19世紀のアメリカの偉大なリバイバリスト、D・L・ムーディの周りには、彼を支えた多くの人たちがいました。賛美の奉仕をしたのはサンキという人ですが、この人は生涯ムーディとともに働きました。ムーディーが行く先々で、まずサンキが賛美して人々の心を開き、熱くしました。ムーディとサンキの関係は、まさに同労者の関係でした。またムーディはサンキだけでなく、R・A・トーレイという神学者もいつも連れて行きました。この人は、それほど説教がすぐれていたわけではありませんでしたが、しっかりとした神学的背景を持っていたので、靴屋から献身し、それほど教育を受けられなかったムーディにとっては、そうした神学的知識で理路整然に文章をまとめ、説教の原稿を作ったり、バイブルスタディの教材を作ったりしてもらえたことは、大きな助けでした。

 パウロは、「あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」と言いました。私たちはこのような励ましをみな必要としているのです。お互いに心を開き、このような交わりを持つように励みたいものです。

 Ⅲ.返さなければならない負債(13-15)

 パウロがどうしてもローマに行きたかった第三の理由は、それが返さなければならない負債だったからです。13~15節までをご覧ください。ここでパウロは、

「兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」

と言っています。パウロは、何度もローマに行こうとしましたが、なかなかそれを果たすことができませんでした。なお妨げられていたのです。パウロがこの手紙を書いたのは、第三次伝道旅行でエペソに3年間滞在したのち、マケドニヤ、アカヤを訪れた時でした。コリントに三ヶ月間滞在していた時でした。コリントといったらローマまでひとっ飛びです。もう少しで行けるというところまで来ていましたが、マケドニヤからの献金を携えてエルサレムに行かなければなりませんでした。今なお妨げられているのです。しょうがないから彼はそこで手紙を書いて、隣町ケンクレヤの女執事フィベに託して手紙を送り届けたのです。それにしてもなぜパウロはローマに行くことをそれほど願ったのでしょうか。その理由は14節にあります。

「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」

 パウロはそれを「返さなければならない負債」だと思っていました。「負債」とは、辞書で調べてみると、「他から金銭や物品を借りて、返済の義務を負うこと。また、その借りたもの。借金。債務。」とあります。それは義務なのです。ローマ人やギリシャ人に対して実際に負債を負っていたというのではなく、その人たちに返さなければならない負債を「神に対して」負っていたという意味です。つまり、神がそのことを要求しておられるとパウロは考えていたのです。

 パウロはその使命を負債のように感じていました。負債を負っている人なら、あるいはかつて負ったことのある人ならパウロの気持ちがよくわかるのではないでしょうか。それが常に重荷となってのし掛かってきます。「返さなければならない」というプレッシャーとなって日々全身に重く感じるのです。パウロがローマに行って福音を伝えたいと思ったのは、それは神から与えられた大きな恵みのゆえに、どうしても返さなければならない負債だったのです。

 ここに私たちクリスチャンのあるべき姿がよく表されているのではないかと思うのです。つまり、私たちは自分が何をしたいのか、どこに行きたいのかといった個人的な思いからあれをしよう、これをしようと選択して生きているのではなく、神が何をしてほしいのかを知り、それを行っていくことが大切であるということです。そういう基準で生きる(行動する、選択する)ことです。

 現代の人は「こうしなければならない」ということを極端に嫌います。代わりに「権利、権利」と、権利ばかりを主張するのです。しかし、すべての状態が自分の都合に合致しなければ喜べないというのは自己中心的であり、幼い人で、その心を変えなければ、いつまでたっても成長はありません。すべての事が自分の思うとおりにはいくとは限らないからです。神から与えられた仕事を、神のために、神のお喜びのためにやるという心を持つ時に、大人のような立派なクリスチャンになることができるのです。パウロはそうでした。彼はいつも神のために何が一番良いことなのかを求めて生きました。たとえばコリント第一の手紙9章には、彼は飲み食いする権利、妻を連れて歩く権利、まあ、これは結婚のことですが、それから働きのために報酬を受ける権利があるが、そのような権利を一つも用いなかったと告白しています。なぜでしょうか?より多くの人を獲得するためです。

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(Iコリント9:19)

 彼はすべてのことを福音のためにしました。パウロは信仰によって、福音のために何が一番良いのかという選択をしました。それが霊的大人の考え方です。そのように考えるなら、このような義務は祝福であることがわかります。また、そのような務めが私たちに与えられているということは、神がそのような者として私たちを認め期待しておられるということの裏返しでもあるわけですから、本当に感謝なことなのです。数年前のペットの流行は「ホーランドロップ」といううさぎだそうですが、どんなにホーランドロップが癒し系のかわいいうさぎだからといって、そのうさぎに家中を掃除することを期待するでしょうか。しないです。そのようなものとして認めていないからです。家にはかわいいフェレットがいますが、このフェレットに何らかの責任を与えたりするでしょうか。「フェレットちゃん、きょうはおとなしくお留守番しているのよ」なんて言いません。そのようなことを期待していないからです。カエルにお買い物を頼みますか?「頼むから美味しい食べ物を買ってきてくれませんか」なんて・・。しません。できないからです。そんなこと言ったら、「もうカ~エル!」なんて言われるでしょう。そのように責任を与えるということは、それができると認めているからであって、できなかったら与えません。神様は私たちにそのような務めを与えてくださったというのは、そのような者として私たちを見ておられるからなのです。もし私たちが神から与えられた義務と責任をすばらしいものとしてとらえることができれば、一人の人間として、クリスチャンとして、必ず成長していくことになるのです。

 パウロは、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と言いました。「ギリシャ人にも未開人にも」とか、「知識のある人にも知識のない人にも」というのは、世界中のあらゆる人々にという意味です。パウロの関心は、世界中のどこにおいても、この福音を宣べ伝えることでした。それが自分に与えられた使命であり、どうしてもしなければならない負債だと考えたのです。それはパウロだけではありません。私たちも同じです。私たちも同じ負債を負っているのです。私たちはそれほど大きな神の恵みを受けたからです。神の御子をこの世に与え、十字架につけて死なせ、三日目によみがえらせることによって、この方を信じる者はだれでも救われるという道を開いてくださったのです。そのおかげで、私たちはたましいの救いを得ることができました。何と大きな恵みでしょうか。私たちはそれほどの恵みを受けたのならば、その恵みを何らかの形でお返ししたいと思うのが当然ではないでしょうか。パウロはその神の大きな恵みのゆえに、この福音宣教を、どうしても返さなければならない負債だと感じていたのです。それは私たちも同じです。私たちも恵みを受けたのです。ですから、これがどうしても返さなければならない負債、いや、それこそ私たちの願いであると受け止めるられるなら、神の国がますます大きく前進していくだけでなく、私たち自身の祝福ともなるのです。

 ですからパウロは何とかしてローマに行きたかった。ローマにいる彼らにも、ぜひ福音を伝えたかったのです。私たちもパウロのような情熱をもって、神のみこころに生きることを求めていきたいものです。



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ローマ人への手紙1章1~7節「神の福音」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうからしばらくローマ人への手紙からご一緒に学んでいきたいと思います。あるアメリカ人のアルコール中毒患者が、どうしても酒を断ち切ることができず、病院で二ヶ月以上治療を受けました。その治療期間が終わって退院した帰りに、ある酒場の前を通りかかりました。雀が精米所の前を通り過ぎることができないように、その人に酒の誘惑が強力に襲いかかってきて、そこを通り過ぎることができなくなってしまいました。ところがそのすぐそばに、2ドル30セントで牛乳飲み放題の「牛乳バイキング」の店がありました。そこでこの人はそのお店に入って、満腹になるまで牛乳を飲んで出てきました。そして再び酒場の前を通りかかったときには、もうお酒の誘惑は全く無くなっていました。簡単に通り過ぎることかできたのです。牛乳でお腹が一杯になったからです。

 これから学ぼうとしているローマ人への手紙全体のテーマは福音の力です。このアルコール中毒の患者が牛乳に満たされたことでアルコールに勝利したように、私たちは福音の力によって勝利ある人生を送ることができるのです。なぜなら、福音には力があるからです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」(1:16)です。この福音をよく理解し、この福音に堅く立ち、福音によって生きるなら、私たちはみこころにかなった歩みをすることができるのです。

 きょうはこの福音について三つのことをお話したいと思います。第一に、パウロの召命感です。パウロは、この福音のために選び分けられ、使徒として召されたという確信をもっていました。第二のことはこの福音の内容です。それは御子に関することですとあるように、イエス・キリストのことです。そして第三のことは、この福音がもたらされた目的です。それは、あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためでした。それは、この福音であるイエス・キリストによってのみできるということです。

 Ⅰ.神の福音のために選び分けられたパウロ(1)

 まず、パウロの召命感について見ていきたいと思います。1節をご覧ください。
「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ。」
 新約聖書の中にあるパウロの手紙は全部で十三ありますが、このローマ人への手紙は、その中でもきわめてユニークな手紙です。パウロのほかの手紙はすべて、彼が自分で伝道したか、あるいはパウロの弟子たちが伝道して生まれた教会に宛てて書かれた手紙ですが、このローマ人への手紙だけはそうではないからです。おそらくあのペンテコステの時に回心した人たちがローマに帰って伝道し、そういう人たちによって生まれていたのでしょう。ですから彼らとは一度も会ったことがありませんでしたし、全く面識がありませんでした。それではなぜパウロはローマの教会に手紙を書き送る必要があったのでしょうか。それは、このローマの教会が福音によってしっかりと立っていてほしかったからです。この手紙の後半の方、15章を見ると、どうもパウロはイスパニヤ、今のスペインですね、そこまで行って伝道しようと願っていたようです。その伝道を彼らに担ってほしいと考えていたのです。そのためには彼はローマに行って福音の奥義を語って教え、彼らの信仰を養うのが一番ですが、今はそれができませんでした。パウロがこの手紙を書いたのは彼が第三次伝道旅行でコリントを訪れ、そこに三ヶ月間滞在した時でした。彼はこの後でマケドニヤの諸教会から集めた献金を持ってエルサレムに行かなければなりませんでした。ローマに行くことも大切なことですが、迫害で苦しみ、経済的に困窮していたエルサレムの兄弟姉妹を助けることはもっと大切なひとでした。そこで彼はケンクレヤという隣町の女執事フィベにこの手紙を託して届けさせたのです。

その手紙の最初のところで彼は、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちに対して、自分のことをどのように初回したかというと、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」でした。

 「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」という表現は、きわめて珍しい言い方です。皆さんは、まだ一度も会ったことのない人に手紙を書き送る時、このような言い方をするでしょうか。ここにはパウロの強い思いと確信がにじみ出ています。それは、自分は福音宣教のために選ばれ、召し出された者であるということです。だからこそ彼は、使徒の働き20章24節に「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません。」と言うことができたのです。これが彼の献身の原動力だったのです。

 皆さん、なぜ私たちはここに存在しているのでしょうか。私たちは何の目的もなく、意味もなく、ただ偶然にここにいるのではありません。神様に偶然などあり得ないからです。神様は一羽の雀が地に落ちるのも知っておられ、二十万本以上あると言われている私たちの髪の毛一本一本の数まで知っておられる方です。その神様は、私たちひとりひとりの人間に、その人生の目的なり、計画を持っておられるのです。それは何かというと、神の福音を宣べ伝えることです。福音をあかしすること、それが私たちに対する神のみこころなのです。イエス様を信じるすべての人は救いを得ていますが、なぜ神様は私たちを救ってくださったのかというと、この神の福音を宣べ伝えるためなのです。この目的をしっかりと握っている人は、どんな誘惑に直面しても決して揺らぐことがありません。そして確信をもって献身することができるのです。この意識が重要です。

 毎年自殺者が3万人を越えています。その予備軍を入れたら、その数字はもっと多くなります。どうしてそんなに多くの方が自ら命を絶つのでしょうか。それは、人生の目的がわからないからです。人は何のために生きているかがわからないと、人生が虚しく感じられます。しかし、自分は何のために生きているのか、その目的が明確であればあるほど充実した人生を送ることができるのです。

以前、「この日本人がスゴイらしい」というテレビ番組で、核廃絶を世界に訴えた二重被爆者、山口彊(つとむ)さんの生涯が紹介されました。山口さんは1945年8月6日、会社の出張先の広島で被爆し、さらに8月9日、故郷の長崎でも被爆された二重被爆者です。それで左耳の聴力を失い、急性白血病となり、原爆の後遺症に苦しめられますが、被爆に対する偏見や差別などから自分が被爆者であることを隠していました。しかし妻と息子を亡くしたことがきっかけで、自分の命はいったい何のためにあるのか、ここに存在しているのは何のためなのかを考えるようになりました。そして、それはこの核の恐ろしさを世界に訴えるためではないかと、自分が二重被爆者であることを公表するわけです。そして90歳になってからアメリカへ行き、ニューヨークの国連本部で反核、世界平和について訴えたのです。それから被爆をテーマにした映画を観てみたいと、「アバター」で有名な映画監督のジェームズ・キャメロンに手紙を書き送るのです。
 すると2008年12月22日に、がんで長崎の病院に入院していた山口さんのもとに、このジェームズ・キャメロン監督がやって来て、やがて核廃絶をテーマにした映画を作ると約束したのです。その映画は「The Last Train from Hiroshima :The Survivors Look Back」というノンフィクションの著書を元にした映画で、この山口さんの体験が重要な部分を占めている映画です。
 それにしても90を過ぎてから国連で訴えたり、ジェームズ・キャメロンに手紙を書き送ったりという力はどこから生まれて来たのでしょうか。それは、自分が生きているのはこのためだという使命感からです。その使命感が山口さんを動かしたのです。それは私たちも同じです。

 パウロは、自分が神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたという確信を持っていました。明確な目的意識があったのです。それが彼の生きる原動力だったのです。パウロはそのような召命感を持っていたので、すべてのことを犠牲にしても福音のために献身していきたいと思ったのです。

皆さんは何のために救いに導かれたのでしょうか。それはこの神の福音に仕えるためです。そのために選び分けられ、そのために召され、そのために存在しているのです。このことがわかるとき、たとえすべてのものを犠牲にしても、福音に献身するようになります。

 Ⅱ.福音はイエス・キリスト(2-4)

 では、その福音とは何でしょうか。第二のことは、その福音の内容についてです。2~4節までをご覧ください。
 パウロは自己紹介をしたのち、この手紙の受取人であるローマにいるすべての聖徒たちへ、すなわち7節に進むはずでしたが、ちょっと横道にそれて、とうとうこの手紙の中心主題である神の福音について語り始めました。彼としては、それが言いたくて、言いたくて、ムズムズしていたのでしょう。人は頭にあることを話します。食べ物のことばかり話す人は、いつも食べ物のことばかり考えているからです。人は頭で考え、心で思っていることを話します。私は24時間いつも教会のことばかり考えているので、いつも教会のことばかり話します。頭のてっぺんを押されても、横っ腹をつつかれても、足の裏をくすぐられても、その口から出てくるのは「教会」のことです。パウロが考え、パウロが思っていたことは、神の福音のことでした。彼はいつも福音のことばかり考えていたので、自己紹介からその受取人について書き記す間に、横道にそれてしまったのです。それほど彼は福音に心が捕らえられていたのです。しかし、ここではすべてを語りません。食事でいうなら前菜のようなもので、フルコースのメニューのわずかなものだけちらつかせて、フルコースへの関心をかき立てようとしているのです。では、その神の福音とはどのようなものなのでしょうか。

「―この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」 

 それは旧約聖書の預言者たちを通してずっと昔から約束されていたもので、御子に関することです。この御子は、「肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神に御子として示された方」です。「肉によれば」というのは、人間的に見ればという意味です。つまり、人間的に見れば、御子は旧約聖書の預言に記されてあるとおりダビデの子孫としてお生まれになられ方であるということです。すなわち、まことの救い主であられるということです。それだけではありません。聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方です。つまりキリストは十字架で死なれましたが、その死から復活されることによってご自身が神であることを証明されたのです。「この方が死につながれていることなどあり得ないからです。」(使徒2:24)つまり、この方は旧約聖書の預言の通りに生まれた方であり、死者の中からよみがえられることによって、神の御子であるということをはっきりと示された方であるということです。私たちは、この主イエス・キリストによって罪がきよめられるのです。これが福音です。いや、このイエス・キリストこそ福音なのです。

 皆さん、福音とは、決して観念やイデオロギーではありません。この生きておられる主イエス・キリストとの交わりなのです。この方に堅く結びついていれば、神のいのちにあふれることができます。パウロが信じていた福音とは、そのように自ら体験していたものであり、確かな力であり、いのちだったのです。16節のところで彼が、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と言っているのはそういうことです。福音は単なる知らせではなく、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。

 イエス様は、ピリポ・カイザリヤというところで弟子たちに、「人々はわたしのことを誰だと言ってるか?」とお尋ねになられました。すると弟子たちは、「ある人は預言者だと言い、ある人はエリヤ、また別の人はほかの預言者だと言っています」と答えました。するとイエス様は弟子たちに向かって、「では、あなたがたはわたしを誰だと言うか?」とお尋ねになられました。他の人々の主張はそのくらいにして、それではあなたがたはわたしを誰だというのかと、彼ら自身の告白を求められたのです。
 すると弟子の一人のペテロが言いました。「あなたこそ、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)するとイエス様は、ペテロを称賛し、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」と言われました。イエス様はほかの人が何と言っているかではなく、あなたは何と言うか、あなた自身の告白を聞くことを願っておられるのです。

 しかし、私たちは自分の告白をしません。「ある人の話ですが、イエスを信じると救われるらしいです」とか、「だれかが言っていたのですが、祈ると答えられるらしいよ」と言うのです。これは福音宣教ではありません。福音宣教とは、自分が見たこと、聞いたこと、体験したことを証することなのです。「イエスが力です。十字架が救いの力です。祈りは必ず答えられます。イエス様だけが唯一の望みです。」とはっきり言えなければならないのです。そのように言える自分の信仰、証がなければなりません。私が信じているイエス様、私が信じている福音、私が体験した福音を証しなければなりません。今はそうでなくても、少しずつ確信が与えられて、そのように言うことができたら幸いです。それが力の源なのです。福音には力があるので、みことばをそのまま読むだけでもすばらしい力がありますが、もっと力があるのはそのみことばを実際に味わっていることを証することです。福音はイエス・キリストであり、単なる考えや知識ではなく、力だからです。

 Ⅲ.このキリストによって(5-7)

 最後に、このようにパウロがローマの教会に福音を宣べ伝えた目的とその手段についてを見て終わりたいと思います。5-7節をご覧ください。

「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。―このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

 パウロは自己紹介をしながら、横道というか、福音そのものについて少し触れましたが、巧みに話を元に戻し、差出人から宛先へと進めていきます。今ここで紹介した福音の本質とはイエス・キリストであるという話から、このキリストによって、自分が使徒としての務めを受けたのだと結びつけていくのです。ここには「恵みと使徒の務め」とありますが、これは、「恵み、すなわち使徒の務め」という意味で、「使徒の務めという恵み」のことです。パウロは福音そのものである主イエス・キリストによって、この尊い務めを受けたのです。いったいそれは何のためでしょうか。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。「信仰の従順」とは何でしょうか。「信仰の従順」ということばは、ギリシャ語では「信仰、つまり神への従順」となっています。ですから、信仰の従順とは信仰の内容である神に従う生活のことなのです。パウロが使徒の務めという恵みを受けたのは、あらゆる国の人たちがこの福音を信じ、神の用意してくださった救いを受け入れることによって、神に従う生活をすることができるようにするためだったのです。それはパウロだけではありません。「あなたがたも」、すなわち、ローマのクリスチャンたちも同じです。そしてそれは私たちも言えることなのです。なぜなら、私たちも、イエス・キリストによって召された者だからです。私たちも神に愛され、召された者として、パウロのように、あらゆる国の人々に信仰の従順をもたらしていかなければなりません。どうやってそれができるのでしょうか。ここに「このキリストによって」とあります。「このキリスト」とは、神の福音そのもののことです。ですから、これは神の福音によってということになります。神の福音によって私たちは、あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすことができるのです。それは決して人間の力や方策によってではないのです。

 ネヘミヤは、バビロン捕囚からエルサレムに戻ってきたイスラエルの民に何をしたでしょうか。ネヘミヤ記8章を見ると、彼は、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように学者エズラにお願いしました。それを水の門の広場に集まっていた民に、夜明けから真昼まで、朗読しました。その結果消滅していた仮庵の祭りが復活し、異邦人との婚姻が解消され、安息日を守る運動が徹底され、什一献金が行われるようになり、イスラエルに信仰の改革が起こっていったのです。これは「水の門」のところで起こったので、ウォーターゲートのリバイバルと呼ばれています。それはイスラエルが神のみことばに立ち返り、みことばに堅く立つことによってもたらされたものだったのです。。

 それは使徒の働きの中に見られる初代教会も同じです。例えば、使徒の働き19章にはパウロがエペソで伝道した時のことが記されてありますが、彼らはパウロを通してみことばを伝えられるとすぐに、魔術を行っていた人々は魔術の本を集めて燃やしてしまいました。その額なんと銀貨5万枚、今の価値で300万円相当だったと言われています。それは彼らが神のみことばを聞いて、それを理解したからです。みことばを本当に理解すると、自然と、その行動にも変化が起こってくるのです。

 1903年にウェールズで起こったリバイバルもそうでした。神様のみことばに対する覚醒が起こると、劇場や酒場が門を閉ざすようになりました。また工場の労働者たちが盗んだ品物を返しにやって来て、それが山のように積まれるようになったのです。なぜそういうことが起こったのかというと、いつもむちで虐待していた主人たちが、神の恵みを受けてからは優しくなり、ロバを抱いて涙する人までになったからです。神のみことばによって人々の内側が変革したことが社会的な改革へとつながっていったのです。

 1907年に今の北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で起こったリバイバルもそうでした。みことばで目覚めた聖徒たちが日曜日になると一斉に仕事を休んだので、平壌の経済が麻痺してしまいました。10%の聖徒たちが商店の門を閉めたので、平壌全体が日曜日は一斉に休むようになったのです。クリスチャンが10%になると、社会全体に大きな影響を及ぼすようになります。

 それまでは少し忍耐が必要です。日本では今のところクリスチャンの人口は全体の1%にも満ちていませんが、これが10%になると、大きなうねりなって社会全体を変革していくことになります。その鍵は何でしょうか。神の福音です。神の福音に立ち返り、この福音にしっかりと立ち続けることであって、それ以外にはないのです。決して人間的な方法やプログラムによるものではありません。

 猪(いのしし)が最も好んで食べる物はどんぐりだそうです。猪はどんぐりに目がなく、夢中になります。しかし猪は頭が悪いのか、どんぐりがなくなると、どんぐりが地面から出てくると思って地面を掘り返してしまうのです。もし私たちが猪のことばを知っているとしたら、そんな猪に何とことばをかけてやるでしょうか?「猪さん。地面を掘ったってドングリは出て来ないよ。どんぐりは上から落ちてくるの。だからそんなにどんぐりを食べたければ、木の根元を打つか、枝を揺らさないと・・。」このように言ってやるのではないでしょうか。

 同じです。コロサイ人への手紙3章1,2節には、「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」とあります。何か良い方法はないかと地面を掘ったりするのではなく、天にあるものを求めていかなければなりません。「天にあるものを求めなさい」それが私たちに求められていることです。

 私たちはこの一年がそのような年でありますようにと祈ります。「このキリストによって」「この神の福音によって」皆さんの心が奮い立たせられる一年でありますように。いつもみことばに立ち返りながら、そこから恵みと力をいただいて、このすばらしい務めを全うしていくことができますように。この教会がこの福音に堅く立ち、キリストの恵みと力によって前進していく教会でありますように。



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Ⅰヨハネ1章5~10節 「光の中を歩む」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 ヨハネの手紙第一から学んでおりますが、今回はその二回目のメッセージです。前回のところでヨハネは、どうしても伝えたいことがあると言いました。それは永遠のいのちであるイエス・キリストが現れたということです。なぜなら、このキリストにこそいのちがあるからです。ヨハネはこれを自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の手でさわりました。人は何を見るかによってその結果が決まります。この方をじっと見続けるならそこにいのちがあふれてきます。

 ヨハネがこの手紙を書いた当時はまさに闇でした。なぜなら、多くの反キリストが現れていたからです。そのような時代にあっても惑わされることなく、信仰に堅く立ち続けるためにはどうしたらいいのでしょうか。それはイエス・キリストを見ることです。イエス様をじっと見て、イエス様との交わりに入れられるなら、そうした闇の中にあっても希望と力が与えられ、喜びに満ちあふれた人生を歩むことができるのです。

 きょうの箇所でヨハネはもう一つの真理を伝えています。それは、神は光であられるということです。神は光であって全く闇がありません。ですから、この光の中を歩むなら、決して闇の中を歩むことはありません。きょうはこの「光の中を歩む」ことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.もし光の中を歩んでいるなら(5-6)

 まず、5節と6節をご覧ください。
「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」

 ヨハネがキリストから聞いて彼らに伝えたかったことは、神は光であって、神には全く闇がないということでした。光と闇が交わることはありません。どんな闇でも光が差し込めば消え去ります。ですから、神には全く闇がないのです。ヨハネの福音書には、このことについて次のように記されてあります。
「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)
キリストが光であるとはどういうことでしょうか。それは、キリストはいのちであり、道を照らすともしびであり、生きる希望であるということです。しかしここでキリストは光であったというのは闇に対する光のことであり、それは汚れに対するきよさを表しています。ですから神は光であって、私たち人間のような「闇」、すなわち罪や汚れなどは一つもないということです。それなのにもし私たちが神と交わりがあると言いながら闇の中を歩んでいるとしたらどうでしょうか。私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいないということになります。

ここでヨハネは、「もし・・・と言いながら」と言っていますが、このような言い方は続く8節と10節にも出てきます。「もし、罪はないと言うなら」と、「もし、罪は犯していないと言うなら」です。どういうことでしょうか。ここでヨハネはこの手紙の読者たちに、この真理を自分の生活に適用して点検するようにと勧めているのです。私たちが言っていることと、行なっていることが異なるということがしばしば起こります。ここでは、「私は、神さまとの交わりを持っています」と言いながら、交わりを持っているとは思えない行動をしていることがあるということです。神は光ですから、神と交わりを持っているなら、私たちもまた光の中を歩んでいるはずですが、そうでなはなく悪を行なっていることがあります。もしそうであるなら、もし神と交わりがあると言っても、それは真実ではない、偽りであると言うのです。

 私たちクリスチャンは、とかくこのような過ちに陥ります。自分は神との交わりがあると言いながら、神との交わりから外れているようなことをしていることがあるのです。確かに、毎週日曜日には教会に行き、クリスチャンらしい宗教的なことを行なっているかもしれませんが、家庭や職場ではそれとかけ離れたことをしていることが意外とあります。
私はこうして毎週講壇から神のみことばを語りますが、講壇で語っていることと実際の生活にギャップを感じることがあります。講壇では「さばいてはなりません。さばかれないためです」と言いながら平気で人をさばいてみたり、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」と言いながら、自分ほどいい人間はいないと思ってしまいます。「同じように、夫たちよ。妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに生活しなさい」と言っておきながら、妻のことをいたわることはほとんどありません。「うちの夫は講壇にいる時が一番すばらしい。そこから降りてきてほしくない」と言った牧師の奥様がおられたそうですが、わかるような気がします。言っていることとやっていることが一致しないことがあるからです。言っていることはすばらしいですが、やっていることはどうもいまいちだということがよくあるのです。もちろん、神のみこころに歩みたいと願いそのようにしたいと努めていますが、闇の中を歩んでいることがあります。もしそういうことがあるなら、神と交わりがあるとは言っても、それは偽りであって、真理を行っていないというのです。

とても心に刺さることばですが、ここで間違えないでいただきたいことは、だからだめだと言っているのではないということです。ヨハネはこの手紙の中で、クリスチャンが永遠のいのちであられる神との交わりを持ってほしいのです。もしあなたが神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるとしたら神との交わりは断絶し、神の臨在を感じることができなくなるばかりか、自分のたましいはカラカラに乾ききり、礼拝は儀式的なものとなってしまうでしょう。私たちはイエス様を信じて永遠のいのちをいただいていますが、その主と交わりそこに喜びが全うされるためには、この罪の問題が処理されなければならないのです。いったいどうすればいいのでしょうか。

Ⅱ.御子イエスの血がきよめてくださる(7)

7節をご覧ください。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」

ここには、もし私たちが光の中を歩んでいるなら、光であられる神と交わりを持っているということになります。すなわち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださっているということです。この「きよめる」ということばですが、これは現在進行形で書かれています。すなわち、今もきよめられ続けているということを表しています。御子イエスの血は私たちがイエスを信じた時にすべての罪からきよめてくださったというだけでなく、今も日々の生活においてきよめられているということです。絶えず、その血によってきよめられていることによって、聖なる神と私たちが一つとなることができるのです。

これはすばらしい約束ではないでしょうか。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。心の中に染み付いている頑固な汚れも、自分ではどうしようもないという悪しき習慣からも、すべての罪から私たちをきよめてくださるのです。イエスの血がきよめることができない罪などありません。ですから私たちはこのイエスの血によって神と一つになることができるのです。

「きよめる」というと私たち日本人には、禊(みそぎ)とかお祓いをしてもらうというイメージがありますが、ここで言われている「きよめる」というのは、単に汚れを取り除くというだけでなく、神様の前に出ることができるように変えらることを意味しています。神様の目から見て聖なる者としていただくことです。たとえば、この手紙を書いたヨハネは以前「雷の子」とあだ名が付けられるほど短気な者でしたが、のちに「愛の人」と呼ばれるほどに変えられました。私たちも光の中を歩み、神様と交わりを持つことによって、そのような者に変えられていくのです。つまり、キリスト信じて救われた時だけでなく、救われた後も、年を老いてからも、いつでも、私たち十字架のもとに行くなら、御子イエスの血が、あなたをすべての罪からきよめ、キリストのように変えてくださるということです。

私たちは神様の光に照らされる時、自分の罪や汚れ、自分の弱さや愚かさに気付かされて落ち込むことがあります。このように礼拝に出て神様の語りかけを聞く時、「そういう生き方はよくないなぁ」とか「あの考えは間違っていた」ということが示されて打ちのめされそうになることがあります。私たちは罪赦されて神様との交わりの中に入れられましたが、実際には罪を犯さずには生きていけないからです。いや、クリスチャンになってからの方が罪について敏感になりました。それまでは何でもないように思っていたことが、それが大きな罪であったことに気づかされるからです。そのような時、私たちはどうしたらいいのでしょうか。そのまま落ち込んで、「私はやっぱり駄目な人間なんだ」と自分を責め続ければよいのでしょうか。あるいは、「私は罪人で駄目な者なんです」とうなだれながら生きていったらいいのでしょうか。そうではありません。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。この御子の血にお頼りすればいいのです。そして罪をきよめていただき、この神との交わりに入れていただけばいいのです。

Ⅲ.罪を認め、悔い改める(8-10)

では、そのためにどうしたらいいのでしょうか。8節から10節までをご覧ください。「もし自分に罪がないというなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

神が備えてくださったキリストの十字架の血は私たちの罪に対して無限の力を持っていることがわかりました。では私たちはこのキリストの無限の血に対してどのような態度をとるべきでしょうか。ここには絶対にとってはならない態度と、逆に取るべき態度が教えられています。まず、絶対にとってはならない態度は何かというと、8節に「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」とあるように、「自分には罪はない」という態度です。いったいだれがこんなことを言っていたのでしょうか。ここには「私たち」とありますから、当時のクリスチャンの中にそういう考え方をもっている人たちがいたようです。当時のクリスチャンの中に、グノーシス主義と呼ばれる誤った教えによってこのような考え方を持っている人たちがいました。このグノーシス主義の特徴は物質と霊の二元論にあり、肉体はたましいを宿す単なる器にすぎず、その肉体がどんなことをしてもたましいは何の影響も受けることはないと考えていたので、何をしても自分には罪がないと、自分の肉欲のままに生きていたのです。

しかし、こうした考えはグノーシス主義に限らず、私たちクリスチャンも持ってしまいがちなものです。私たちはイエス様を信じて罪が取り除かれたのだから、私には罪はないと思っていますが、これは、間違っています。確かに、立場的にはキリストにあって正しい者とみなされましたが、罪の性質は持ったままなのです。それなのに自分はクリスチャンになったのだから、ある程度正しさは身に付いたのではないかと考えるとしたら、それは大間違いなのです。
ここでヨハネは、もし自分に罪がないと言うなら、その人は自分自身を欺いていると言っています。本当の自分の姿から目をそらしているからです。聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:23)と言っています。また、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ6:23)と言っています。すべての人は生まれながらに罪を持っているのに罪がないと言うのなら、その人は自分自身を欺いているのであって、その人のうちに真理はありません。

しかし、私たちにはこのように自分を美化する心があるため、悪いのは他人だと決め込み、自分を被害者の立場に置こうとする思いが働くのです。
最初の人アダムとエバがそうでした。彼らは取ってはならないと命じられた園の中央にある木の実をとって食べ、そのことを神から咎められた時、何と言いましたか。
「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)
悪いのは私ではない、悪いのはあの女で。あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って食べたので、私は食べたのです。悪いのは自分ではない、あの女であり、突き詰めれば、あの女を私のそばにおいたあなたが悪いんです、と言ったのです。
それに対してエバはどうだったでしょうか。神がエバに「あなたは何ということをしたのか」と言われると、エバもこう言いました。
「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」(創世記3:13)
同じです。彼女も自分には罪がないと言いました。蛇が私を惑わしたので、それで私は食べたんですと、蛇のせいにしました。
これが人間の姿です。私たちの中には罪があっても、それを認めようとしない性質があるのです。自分には罪はないと言ってうそぶくのです。

しかしこのように考えるなら、きよめられる必要がなくなってしまいます。あの祈るために宮に上って行ったパリサイ人がそうでした。彼は心の中でこんな祈りをしました。
「神よ。私がほかの人のように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないことを、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。」(ルカ18:11)
このように祈れる人はそれほど多くはいません。でもこのパリサイ人は大胆にもこのように祈りました。なぜ彼はこのように祈れたのでしょうか。聖書にはこのように書かれてあります。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちには、イエスはこのようなたとえを話された。」(ルカ18:9)
そうです、彼は、自分は正しい人であり、間違ったことはしていない。自分には罪がないと思っていたからです。そういう人にはきよめが必要ないというか、きよめられる必要さえ感じません。
一方、取税人はどうだったでしょうか。彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)
この二人のうち、いったいどちらが義と認められて家に帰ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人の方でした。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
同じように、自分に罪がないと言うなら、きよめられることはありません。その人は自分を欺いているのであって、真理はその人のうちにはないからです。私たちはそのようにならないために、まず自分の罪を認めなければなりません。

次に、キリストの血に対して私たちが取るべき態度とはどのようなものでしょうか。9節と10節をご覧ください。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

新改訳聖書第三版には、「もし私たちが自分の罪を言い表すなら」とあります。個人的にはこちらの方が好きです。「言い表すなら」も「告白するなら」も、どちらも同じです。この言葉は原語のギリシャ語は「ホモロゲオー」という言葉で、「同じことを言う」という意味です。それは、心にある事実をそっくりそのまま神に申し上げることを意味しています。それは自分の罪を認め、悔い改めて祈ることです。そのようにするなら、神はその罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。つまり、罪の悔い改めを通して、神の光が注がれるのです。罪を悔い改めることは、神の愛と赦しの光が差し込んでくる窓なのです。窓を閉じて心の部屋を閉ざすなら、愛の光は差し込んできません。しかし自分の罪を認め、神様に向かって心を開くとき、罪を赦しくださる神の光が差し込んで来るのです。

私たちが罪を犯すとき、その罪にどのように向かい、どのように対処するかはとても重要です。もし自分には罪かせないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。しかし、もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるのです。

ダビデはバテ・シェバと姦淫の罪を犯したとき黙って自分の心の奥に隠しました。するとそれがバレないようにと今度は彼女の夫を戦いの最前線に立たせて戦死させました。これでバレないだろうと思っていましたが逆に彼の骨は疲れきり、一日中うめきました。昼も夜も 御手が彼の上にのしかかり、骨の髄さえ、夏の日照りで乾ききりました。
しかし、彼が自分の罪を神に告白したとき、神は彼の罪のとがめを赦してくださいました。そのときダビデはこう言って賛美しました。
「幸いなことよ その背きを赦され 罪を赦され 罪を覆われた人は、幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」(詩篇32:1-2)

私たちも同じです。私たちもイエス様を信じて罪赦された者ですが、それは罪がないということではありません。日々罪を犯すような者ですが、もし私たちがその罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。神様は決して「またやったのか。愚か者めが」とは言われません。むしろその罪を認めて神の前に悔い改めるなら、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。

あなたはどうでしょうか。悔い改めていない罪はありませんか。きょう主の御前に自分の罪を認めて、悔い改めましょう。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるという神のみことば約束に信頼しましょう。そのような人こそ光であられる神と交わりを持ち、光の中を歩んでいる人です。この光の中を歩むことで、神のいのちと喜びに満ちあふれた日々を送らせていただきましょう。



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クリスマスイヴ・キャンドルサービスのご案内

2016年12月24日は、教会でクリスマスイブをお過ごししませんか。

初めて教会に来られる方も大歓迎です。皆様がよく知っている讃美曲を、キャンドルに灯をともしながら一緒に歌いましょう。聞いているだけでも、もちろんだいじょうぶですよ。クリスマスの本当の意味について、お話を聞いてみてください。

お一人でも大歓迎します。お子様連れでも、学生の方でもお年寄りのかたも、お越しください。温かくて不思議な出会いがきっとありますよ。

会場 :さくらコミュニティチャーチ
日時 :2016年12月24日
時間 :18:00 - 19:00
住所 :さくら市櫻野2035−27
電話 :028−681−8317
WEB :http://sakura-church.com

入場料 : もちろん無料です。

 

12/10 「回復の集い」を始めます

「どうして・自分だけが・こんなに・苦しい」

と、思っていらっしゃる方はいませんか。

  • 生きる目的がわからない
  • 死にたい 離婚
  • ひきこもり 心が痛い 誰か助けて
  • 親を殺したい 死の恐れ
  • あの人を許せない
  • 登校拒否、いじめ
  • 難病、ガン、小児麻痺
  • どうして我が子に障害があるの
  • 大切な人が自殺した
  • 自分はいつもひとりぼっち
  • 誤解 リストラ
  • こんな自分に自信がない
  • 依存症 自分の罪に苦しむ
  • 借金 やる気がでてこない

などの思いの中で、つらく苦しんでおられますか?

今の状況から抜け出したい。自分の心の中に平安がない。やめたいけど、やめられない。自分はどうして生まれてきたんだろう。何のために生きているの? 自分がいなくなっても誰も気にもとめないはず。。私の中からの怒りを抑えられない。

などの思いで苦しんでいる、あなたのための「居場所」があります。そのままのあなたで、ぜひとも、お気軽にお越しください。何ももたずに、何の力も入れずに来てだいじょうぶな場所ですよ。

教会はあなたのための場所です。はじめは、小さな勇気が必要かもしれませんが、不思議な「温かさ」と「安心」と「希望」に出会える場所がここにあります。あなたの次の一歩につながる大切な不思議な出会いがあることを約束します。あなたとお会い出来ることを、心よりお待ちもうしあげます。

電話やメールなどでお気軽にお問い合わせください。

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回復の集い

9/24 kids adventure !!

EnglishとBibleを、楽しく学びます!
ネイティブスピーカーによる英語の歌とGAME、English Lesson、そしてバイブルタイム(日本語)

日時:9/24(土)
時間:13:30 – 15:30 (毎月1回・第四土曜日に開催予定です)
場所:さくらコミュニティチャーチ
電話:0287-23-8317
対象:幼稚園児から小学生
費用:無料

珈琲とケーキを食べながらの、お父さんお母さん向けのバイブルタイムもあります。(参加は自由です)

お申込・お問合せ

住所、お子様・保護者の氏名、年齢(学年)、電話番号をmail@sakura-church.comまでお送りください。

kids adventureちらし

8/24(水) みんなのカフェ(バイブルカフェ)

みんなのカフェ(バイブルカフェ) 8/24(水)10:30〜

ケーキメニュー:お楽しみ
バイブル・カフェ

「おいしいケーキとおいしいコーヒー!」お話を咲かせるものとして、これ以上のメニューがあるでしょうか(喜)

ケーキとコーヒーを囲みながら、牧師と一緒に、わかりやすく聖書を読んでいきます。聖書の奥深さをぜひ、感じ取って頂きたいです。初めて聖書を読む方々にとっても、絶好の機会となるはずです。聖書は大変不思議な書物です。聖書と接すれば接するほど(聖書の世界の中を味わっていくときに)、わたし達の心が明るくなり希望に満たされていくことに驚くことでしょう。永遠のベストセラーといわれているこの聖書をご一緒に学んでみてはいかがでしょうか。あなたのお越しをお待ちしております。

みんなのカフェ 7/13

みんなのカフェ 7/13(水)10:30〜

ケーキメニュー:ブルーベリーレモンブレッド
ゲストスピーカ:万年純一先生

「おいしいケーキとおいしいコーヒー!」お話を咲かせるものとして、これ以上のメニューがあるでしょうか(喜)

万年純一先生は、ヴィンヤード・クリスチャン・フェローシップ矢板キリス ト教会の牧師です。牧師の家庭で生まれ、賛美歌を子守歌 に育ったほど、幼い頃から賛美が大好きでした。中学校の 部活動でフルートを始め、今も教会や地域で演奏しておら れます。今回はこのフルートの演奏に合わせてお話をしてくださいます。

皆様のご参加をお待ちしております。