民数記8章

民数記8章

 

 民数記8章を学びます。まず1節から4節までをご覧ください。

 

Ⅰ.燭台のともしび(1-4) 

 

「主はモーセに告げられた。「アロンに告げよ。『あなたがともしび皿を載せるとき、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい』と。」アロンはそのようにした。主がモーセに命じられたとおりに、燭台の前に向けてともしび皿を載せた。燭台の作りは次のとおりであった。それは金の打ち物で、その台座から花弁に至るまで打ち物であった。主がモーセに示された型のとおりに、この燭台は作られていた。」

 

主はモーセに、アロンに告げて言うようにと命じられました。七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにと。それでアロンは、主がモーセに命じられたとおりに、前に向けて燭台のともしび皿を、取り付けました。

 

至聖所には神の臨在の栄光の輝きがありますが、聖所は真っ暗でした。この燭台のともしびによって明るくなります。主はこのようにして聖所の中に光があることを望まれたのです。それにしても、いったいなぜ急に燭台のともしびの話が出てくるのでしょうか。少し不思議な感じがします。しかし、その後の箇所を読むと、その意味が明らかになります。

 

Ⅱ.レビ人のきよめ(5-13)

 

では次に、5節から13節までを見ましょう。「主はモーセにこう告げられた。 「レビ人をイスラエの子らの中から取って、彼らをきよめよ。あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らにかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめる。そして若い雄牛と油を混ぜた小麦粉の穀物のささげ物を取る。あなたはまた別の若い雄牛を罪のきよめのささげ物として取る。あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエルの全会衆を集め、レビ人を主の前に進ませる。イスラエルの子らは手をレビ人の上に置く。 アロンはレビ人を、イスラエルの子らからの奉献物として主の前に献げる。これは彼らが主の奉仕をするためである。レビ人は、雄牛の頭に手を置く。そこであなたは一頭を罪のきよめのささげ物として、また一頭を全焼のささげ物として主に献げ、レビ人のために宥めを行う。あなたはレビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉献物として主に献げる。」

 

主は、レビ人を幕屋の奉仕を行なうためにささげるように命じられます。聖所における奉仕は、アロンとその子孫が祭司として任命を受け、祭司たちが行ないます。また祭壇における奉仕も祭司が行ないます。しかしながら、彼らだけでは人数が足りないためすべての務めを行なうことはできません。そこで主は、幕屋の中で奉仕するために、レビ人を取るように命じられたのです。

 

レビ人は、まずきよめられなければなりませんでした。その方法は7節以降にあります。まず、罪のきよめの水を彼らに振りかけます。次に、彼らは全身の毛をそり、その衣服を洗います。このようにして身をきよめなければなりませんでした。このように、レビ人の奉献式は水の洗いから始まりました。このことは、クリスチャンがどのようにきよめられるのかを教えています。クリスチャンは、イスラエル人のようにささげ物をするだけではなく、レビ人のように自分自身をささげる者ですが(ローマ12:1)、そのときに必要なのが、身をきよめるということです。どうやってきよめたら良いのでしょうか?Ⅰヨハネ1章9節には、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。私たちをきよめるのは御子イエスの血です。そして、そのようにイエスの血によってきよめられた者は、イエスの御姿に変えられていくために、神のみことばによってきよめられるのです(ヨハネ17:17,エペソ5:26)。しかし、ここで注意しなければならないのは、自分をきよめるということを、多くのクリスチャンは自分の内側を見つめて、自分の肉と罪深さを探っていくことであると考えていることです。そのため、自分は汚れた者であり、主に受け入れられる資格はない、奉仕する資格はないと思ってしまうのです。しかし、それは誤っています。主が私たちをきよめてくださるのは、ただご自身の血と聖霊の恵みによって成されていくものなのです。

 

 それが、燭台のともしびが表していたことでした。ここで1節から4節までに記されてあった燭台のともしびの意味が明らかになります。このレビ人のきよめの前に、燭台のともしびを整えなければならなかったのは、このレビ人のきよめの前提というか土台が、燭台のともしびであったということです。つまり、イエス・キリストと聖霊ご自身であるということです。ヨハネ8章12節には、「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」とあります。またゼカリヤ書4章をみると、ともしび皿の油は主の御霊である聖霊のことを指していることがわかります。御霊がキリストの栄光を照らし出し、私たち(教会)の心を明るくされるのです。この燭台の光があるからこそ、水の洗いがあるのです。この順番が大切です。私たちが自分をきよめるということは、自分の考えで自分自身の内側を見つめるということではなく、聖霊によってキリストの光を照らしていただくことなのです。それによって私たちはきよめられるのです。ゼカリヤ書に「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と書かれてあるとおりです。私たちの働きは、私たちの能力や力によって行われるのではなく、ただ神の恵みと神の力によって成されていくものなのです。燭台であられるキリストと、油であられる聖霊の働きことが、レビ人のきよめに必要なものであり、その前提、土台にあるものなのです。

 

 9~11節には、「あなたはレビ人を会見の天幕の前に近づかせ、イスラエルの全会衆を集め、レビ人を主の前に進ませる。イスラエルの子らは手をレビ人の上に置く。アロンはレビ人を、イスラエルの子らからの奉献物として主の前に献げる。これは彼らが主の奉仕をするためである。」とあります。
 モーセがレビ人を会見の天幕の前に近づかせると、イスラエルの全会衆を集め、彼らはレビ人の上に手を置きます。これはどういうことかというと、レビ人がイスラエル全会衆を代表していたということです。イスラエルの代表として、その働きをゆだねられていたのです。それはレビ人だけではなく、イスラエルのすべての人も一緒に奉仕をしていることを意味していました。つまり、イスラエル人は今、レビ人を自分たちのものとして、主の前にささげているのです。レビ人は、その手を雄牛の頭の上に置き、レビ人の罪を贖うために、一頭を罪のためのいけにえとし、一頭を全焼のいけにえとして主にささげます。このようにしてレビ人を奉献物として主にささげたのです。

 

 Ⅲ.レビ人の奉仕(14-22)

 

 次に14~22節をご覧ください。「こうして、あなたはレビ人をイスラエルの子らのうちから分け、レビ人はわたしのものとなる。この後、レビ人は会見の天幕に入って奉仕をすることができる。あなたは彼らをきよめ、彼らを奉献物として献げなければならない。彼らはイスラエルの子らのうちから正式にわたしに与えられたものだからである。すべてのイスラエルの子らのうちで、最初に胎を開いた、すべての長子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。イスラエルの子らのうちでは、人でも家畜でも、すべての長子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての長子を打った日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした。わたしは、イスラエルの子らのうちのすべての長子の代わりにレビ人を取った。わたしは、イスラエルの子らのうちからレビ人をアロンとその子らに正式に付け、会見の天幕でイスラエルの子らの奉仕をし、イスラエルの子らのために宥めを行うようにした。それは、イスラエルの子らが聖所に近づいて、彼らにわざわいが及ぶことのないようにするためである。」モーセとアロンとイスラエルの全会衆は、レビ人に対してそのようにした。主がレビ人についてモーセに命じられたことすべてにしたがって、イスラエルの子らは彼らに行った。レビ人は身の汚れを除き、その衣服を洗った。そうしてアロンは彼らを奉献物として主の前に献げた。またアロンは彼らのために宥めを行い、彼らをきよめた。この後、レビ人は会見の天幕に入って、アロンとその子らの前で自分たちの奉仕をした。人々は主がレビ人についてモーセに命じられたとおりに、レビ人に行った。」

 

このようにしてレビ人は、主の奉仕に就くことができました。彼らはイスラエル人のうちから正式に主のものとなったからです。すべてのイスラエル人のうちで最初に生まれた初子の代わりに、主は彼らをご自身のものとして取られました。イスラエル人のうちでは、人でも家畜でも、すべての初子は主のものです。エジプトの地で、主がすべての初子を打ち殺した日に、主は彼らを聖別してご自身のものとされたからです。主はそのイスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取ったのです。

 それで主はイスラエル人のうちからレビ人をアロンとその子らに正式にあてがい、会見の天幕で奉仕ができるようにしました。ですから、主の奉仕をするときに必要なことは「私は主のものである」という確信です。主が私をここに置いてくださり、ご自身のみこころに従って用いられるという思いです。私たちが奉仕をしているときに感じることの一つは、孤独です。主が私のことを気にかけておられるのか、ちゃんと見ていてくださるのか、といった思いです。しかし、主はいつもともにいてくださいます。なぜなら、私たちは主のものとされているからです。モーセとアロンとイスラエル人の全会衆は、すべて主がレビ人についてモーセに命じられたところに従って、レビ人に対して行ないました。

 

Ⅳ.レビ人の奉仕(23-26)

 

最後に、23~26節までを見て終わりたいと思います。「主はモーセにこう告げられた。「これはレビ人に関わることである。二十五歳以上の者は、会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。しかし、五十歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕してはならない。その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務に当たるのを助けることはできるが、自分で奉仕をしてはならない。あなたはレビ人に、彼らの任務に関してこのようにしなければならない。」」

 4章3節には、会見の天幕で務めにつき、仕事をすることができるのは30歳以上50歳までの男子であると言われていましたが、ここでは25歳以上となっているのは、おそらくインターンの期間も含めてのことでしょう。インターンとして5年間奉仕し、30歳から50歳までフルに仕えるようにと定められていたのです。Ⅰテモテ3章には監督の資質が書かれてありますが、そこには「信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(3:6)とあります。25歳からでも奉仕できますが、実際にはよく経験を積んで30歳から奉仕するようになっていたのです。また、50歳からは奉仕の務めから退き、もう奉仕できませんでした。会見の天幕での奉仕は、それほど肉体的にも、精神的にも、霊的にも、集中を要したからでしょう。その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務を果たすのを助けることはできましたが、自分で奉仕することはできませんでした。50歳以上の人は、サポートする側、監督をする側に回り、実際の奉仕をすることはなかったのです。

ただ一つの願い 雅歌1章9~17節

2021年5月30日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:雅歌1章9~17節(雅歌シリーズ③)

タイトル:「ただ一つの願い」

 

 雅歌から学んでいます。きょうはその3回目となります。これは花婿と花嫁の関係を歌った歌ですが、神とイスラエル、また、キリストと教会との関係をたえとて歌われています。前回のところで花嫁は、「私は黒いけれども美しい」と言いました。なぜなら、花婿がそのように見てくださるからです。自分がどんなに汚れた者だと思っていても、花婿なる主が、「女の中で最も美しいひとよ」と呼んでくださる。それゆえ、花嫁なるクリスチャンは、黒くても美しい、と告白できるのです。きょうはその続きです。

 

Ⅰ.わが愛する者よ(9-11)

 

まず9~11節をご覧ください。「わが愛する者よ。私はあなたをファラオの戦車の間にいる雌馬になぞらえよう。飾り輪のあるあなたの頬は美しい。宝石の首飾りがかけられたあなたの首も。私たちは金の飾り輪をあなたのために作ろう。そこに銀をちりばめて。」

 

これは、花婿のことばです。「わが愛する者よ」という呼びかけは、雅歌全体で9回も用いられています。これが雅歌における重要な概念です。花婿にとって花嫁は「愛する者」なのです。

 

花婿はここで花嫁をファラオの戦車を引く雌馬になぞらえています。当時エジプトの馬は最高の馬でした。それは王だけが乗ることができる馬だったのです。今で言うと、ロールスロイスとかベントレーといった車です。ロールスロイスとかベントレーといっても皆さんはわからないでしょう。これらは、ロイヤルファミリーが乗る世界最高の乗り物です。ネットで調べてみたら実に美しい車で、価格は何と16億円もします。女性を乗り物になぞらえるなんて嫌だ!という方もおられるかもしれませんが、それほど美しいということです。最高であると。私たちは時々自分を見て「私はなんて黒いんだろう」と思うことがありますが、イエス様はそんなあなたを見て「ファラオの雌馬のように美しい」と言ってくださるのです。

 

10節をご覧ください。ここには「飾り輪のあるあなたの頬は美しい。宝石の首飾りがかけられたあなたの首も。」とあります。どういうことでしょうか。これは、ファラオの雌馬を飾り立てられていた装飾品のことでしょう。ファラオの雌馬には様々な装飾品が飾り立てられていました。そのように、花嫁も種々の装飾品を身に着け美しく輝いています。

 

11節には、「私たちは金の飾り輪をあなたのために作ろう。それに銀をちりばめて。」とあります。「金の飾り輪」とは、王宮の皇族が身に着けるものです。現代で言うなら「ティアラ」のようなものです。日本でも皇族の女性方が美しいドレスとティアラの装飾を身に着けている姿を見ることがありますが、とてもきれいですね。ここには銀をちりばめた金の飾り輪を作ろうとあります。どういうことでしょうか。聖書では「銀」は贖いの象徴として用いられています。また「金」は神性の象徴です。つまり、キリストの贖いによって救われ火で精錬することによって、神のご性質に作り変えるということです。

 

時として私たちは火で精錬されるような痛みや苦しみを負うことがありますが、それはいったい何のためかというと、金の飾り輪を作るため、すなわち、そのことによって、あなたを神のご性質に似た者として造り変えるためであるということです。神はあなたを美しく飾るために、あえて精錬されることがあるのです。それは私たちの罪に対する刑罰ではなく、私たちをキリストに似た者とするためなのです。私たちの罪の刑罰は、キリストが十字架で代わりに受けてくださいました。キリストが贖いとなってくださったので、私たちはもう裁かれることはありません。神が私たちを打たれるのは、私たちをもっときよめてくだるためなのです。

 

Ⅰペテロ3章3~4節には、「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」とあります。神の御前で価値あるものは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりといった外面的なものではなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄です。こうしたもので飾ってくださるのです。

 

ところで、ここに突然「私たちは」とあります。急に複数形になっているのです。いったいどういうことでしょうか。これは花婿のことばですから、「私は」となるはずなのに「私たち」と複数形になっているのです。ある人たちはこれを、1章3節の「おとめたち」のことではないかと考えています。つまり、花婿がおとめたちと一緒に金の飾り輪を作ると言っているのではないかというのです。またある人たちは、これを尊厳の複数といって、ヘブル語では尊厳なものを表現する時には複数形をとることがあるので、「私たち」と言っているのではないかと考えています。

 

しかし、そうではありません。ここで花婿が「私たち」と言っているのは、実際に花婿がそのような方であられるからです。そうです、ここで「私たち」と複数形になっているのは、花婿はキリストのことですから、三位一体の神を表しているのです。旧約聖書にはこのような表現が他にもあります。たとえば、創世記1章26節には、神が人を造られたとき「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」と言われました。神はここでご自分のことを「われわれ」と言われたのです。なぜ「わたし」ではなく「われわれ」なのでしょうか。神様は三人おられるからです。三人ですが一人、これが三位一体です。神様は三位一体なるお方なのです。エホバの証人の方はこれを受け入れることができないので、これを尊厳の複数だと考えています。神様は尊厳な方なので「わたし」とは言わないで「われわれ」と言われたのだと。しかし、そうではありません。神は三位一体のお方なので「われわれ」と言われたのです。花嫁を金の飾り輪で美しく飾ってくださるのは花婿なるキリストの御業ですが、それは父なる神と子なる神キリスト、聖霊なる神の、三位一体の神による共同の御業なのです。三位一体の神が、金の飾り輪であなたをさらに美しく飾ってくださいます。銀をちりばめて。イエス・キリストの贖いを通して、私たちをご自身の似姿に造り変えてくださるのです。感謝ですね。

 

であれば、私たちが人生の中で試練や困難に直面したとき、それは三位一体の神が私たちをさらに美しく整えるためになされている愛の御業であると受け止め、神がなさることに期待して、すべてを神に任せなければなりません。

 

Ⅱ.私の愛する方は(12-14)

 

次に12~14節をご覧ください。「王が長椅子に座っておられる間、私のナルドは香りを放っていました。私の愛する方は、私にとって、私の乳房の間に宿る没薬の袋。私の愛する方は、私にとって、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花房。」

 

これは花嫁のことばです。「王が長椅子に座っている間」とは、婚宴のテーブルについている間ということです。そのテーブルに着いている間、花嫁が放つナルドの香りは、王である花婿をうっとりさせるほど放たれていました。ナルドとは、ヒマラヤやチベットといった標高の高いところに生息する植物で、古代からインド人により、薬用や香料として使われてきました。それが油に混ぜ合わされたものがナルドの香油です。それは標高が高いところに生息していたことから、非常に高価なものでした。「ナルド」という名前には、「かぐわしい」という意味があります。

 

新約聖書を見ると、ベタニヤのマリヤが十字架を目前にイエス様に注いだのは、このナルドの香油でした。彼女がこの香油をイエスの足に塗り、自分の髪の毛でめぐったとき、家は香油の香りでいっぱいになったとありますが(ヨハネ12:3)、それほど強い香りでした。それは簡単に消えるものではありませんでした。ですから、イエス様が十字架に付けられたときも、また死んで葬られたときにも残っていたでしょう。マリヤがイエス様に香油を注いだのはそのためでした。彼女はイエス様の埋葬の備えにと、前もってイエスのからだに香油を塗ったのです。もっともマリヤは自分ではそんな意識はなかったでしょう。しかし、結果的にそうなりました。それはイエス様にとってどれほどの大きな慰めであったでしょうか。ひとり十字架に付けられたときに、このナルドの香油が慰めとなり、その苦しみを乗り越える一助となったに違いありません。

 

このナルドの香油は、花婿を祝福するものです。それがこの宴の席で放たれました。花嫁は花婿を愛するがゆえに、自分にとって大切な宝物である高価なナルドの香油をささげたのです。あなたはどうでしょうか。あなたは、あなたを愛して自分のいのちをささげてくださった花婿に何をささげるでしょうか。

 

そればかりではありません。13節には、「私の愛する方は、私にとって、私の乳房の間に宿る没薬の袋。」とあります。何でしょうか、「乳房の間に宿る没薬の袋」とは。これは当時の習慣からきています。当時、婦人たちは体臭を消すために没薬の袋を胸の間に潜めていました。没薬は、着物や体によい香りを付けるために用いられたものです。今でいうと柔軟剤のようなものでしょうか。中には強力に消臭するだけでなく、良い臭いがずっと持続するものもあります。しかし、これは単に体臭を消すためではなく、あることを預言していました。それはイエスの死です。というのは、イエス様が誕生したときも、十字架で死なれたときもこの没薬が用いられたからです。

 

イエス様が誕生したとき東方の博士たちがイエスに幼子イエスに贈り物を持ってやって来ました。黄金、乳香、没薬です。なぜ黄金と乳香と没薬だったのでしょうか。黄金は、キリストが王であることを表していました。ですから、王なるキリストにとってふさわしい贈り物でした。乳香は、一般の家庭では用いられず神殿での礼拝に用いられていたことから、神にとってふさわしい贈り物でした。そして没薬は、死体が腐るのを防ぐ防腐剤として埋葬の際に用いられていました。すなわち、これはキリストが犠牲的な死によって人々を救いに導く方、救い主であることを表していたのです。ですから、キリストがお生まれになられたとき東方の博士たちが黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのは、まことに王であり、神であり、救い主であるキリストにふさわしいものだったのです。

 

ここでは、その没薬です。これは常に死と関わりがある香りでした。これが乳房の間に宿したのは、そのことを忘れないためです。つまり、イエス様が私たちを救うために十字架で死んでくださったことを忘れないためです。本当にイエス様を愛する人は、このことを忘れません。いつも自分の胸に刻むのです。それは女性が首につけるネックレスのロケットのようなものです。ロケットとは飛行機のロケットのことではなく、チャームが開閉式になっていて中に写真や薬などを入れられるようになっているものです。よくバレンタインとか、バプテスマ式とか、婚約式とかに贈り物として贈られます。愛する人の写真をその中に入れてネックレスにしていつも胸の間に置くわけです。遺骨の一部をその中に入れている人もいます。イエス様を愛する人はそのことを忘れません。自分の真っ黒い罪のために十字架で死んでくださったという神の恵みを、いつも心に留めるのです。

 

「恵」という漢字は、十字架を思うと書きます。十字架を忘れません。常に胸の間に十字架があるのです。十字架のネックレスのようですね。十字架が神と私たちのアクセスとなりました。このことを思うのです。このことを思うことが、私の乳房の間に宿る没薬の袋です。

 

さらに、花嫁は花婿にこのように言っています。14節をご覧ください。「私の愛する方は、私にとって、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花房。」

「ヘンナ樹」とは「へんな木」のことではありません。これはエジプト、インド、北アフリカ、イランなどの乾燥した水はけの良い丘陵に育つ、ミソハギ科の植物で、3メートルから6メートルほどの常緑低木です。白またはピンク系の花を咲かせます。ここにはエン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹とありますね。エン・ゲディは、死海の西岸にある荒野です。かつてダビデがサウルに追われて隠れたのがこのエン・ゲディの荒野でした。それは、荒野にある唯一のオアシスでした。いのちがみなぎるところ、それがエン・ゲディです。

 

このヘンナ樹ですが、この木は長さ2センチ、幅1センチほどの楕円形の小さな葉をつけます。主にマニュキュアとかタトゥーなどの染料として使用されます。ヘナの白髪染めがありますが、それがこのヘンナ樹です。ですから変な木ではありません。花はバラの花のような甘い香りがします。それを求めて花嫁は花婿に引き寄せられるのです。

 

ところで、この「ヘンナ樹」ですが、へブル語では「コーフェル」(כֹּפֶר)と言います。ですから、新共同訳ではこれを「コフェルの花房」と訳しています。この「コーフェル」(כֹּפֶר)ということばは、創世記6章14節では「やに」とか「樹脂」表す「タール」と訳されています。また、詩篇49篇8節では、「贖いの代価」と訳されています。「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(詩篇49:8)この「贖いの代価」が「コーフェル」です。つまり、この「コーフェル」という語は、贖いという概念をもっているのです。ですから、ここで花嫁が花婿のことを「ヘンナ樹の花房」と言うとき、それは花嫁なる教会が花婿なるキリストの血によって贖い出された存在であることをも表しているのです。イエス様は私たちにとってヘンナ樹の花房なのです。ご自身の尊い血によって贖い出してくださいました。そのように麗しいお方であるからこそ、私たちはこの方を慕い求めるのです。

 

Ⅲ.私たちの家(15-17)

 

最後に15~17節をご覧ください。15節をお読みします。「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。」

これは、花婿が花嫁に語っていることばです。ここで花婿は花嫁に、「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。」と言っています。皆さんは自分の奥さんにこんなことばかけたことがあるでしょうか。「ああ、あなたは美しい。わが愛する妻よ。」アメリカでは自分の気持ちを正直にことば表現しますが、日本人はことばで表現するのが苦手です。「あなたは私を愛しているの」と聞かれると「言わなくてもわかるでしょ」とか、「もうそんな年じゃないよ」などと言うのです。でもここで花婿は花嫁に対して「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。」と呼び掛けています。すごいですね。何がそんなに美しいのでしょうか。目です。

 

花婿はここで、「あなたの目は鳩」と言っています。ポッ、ポッ、ポッ、鳩ポッポです。「嫌だ!鳩なんて」と思われる方もいるかもしれませんが、鳩は美しいものを形容しているのです。それほど美しい、それほど清らかであるということです。目は人の心を映し出す鏡とも言われますから、あなたの目は鳩というとき、それは最高の誉めことばでもあるのです。あなたの目は「蛇」なんて言われたらどうでしょう。どうも人を惑わしそうなイメージがあって気持ち悪いですが、あなたの目は鳩と言われると、なんだか素直な人のようでうれしいいんじゃないですか。

 

興味深いことに鳩には、一夫一婦という習性があります。鳩ですから一雌一雄となるでしょうか、その人だけという習性です。その人だけをじっと見つめます。他の相手に目もくれません。その相手だけです。一生涯同じパートナーだけを見つめます。そのように花婿だけを一点に見つめる花嫁の一途な瞳に、花婿の心が奪われるのです。イエス様だけを見つめて離れない花嫁の目がどれほど麗しいかがわかります。

 

そして、何といっても聖書において鳩は聖霊のシンボルでもあります。ですから、花婿があなたの目は鳩のようだというとき、それは単に私たちの目が鳩のように美しいというだけでなく、私たちの中に住まわれる聖霊様の聖さ、聖霊様の美しさを見ておられるのです。見た目が美しいということ以上に、その内側の美しさを見られるのです。なぜなら、あなたの内側には聖霊様がおられるからです。花婿であられる主イエスは私たちの醜さ、愚かさ、汚さを見るのではなく、私たちの内におられる聖霊様をみておられるのです。それを見て、あなたは美しい、あなたの目は鳩のようだと言ってくださるのです。ここにおられる方々にも同じように言われます。なぜなら、イエス様はあなたの内におられるご自身のいのちを見ておられるからです。

 

これが、主があなたを見られるときのまなざしです。主はあなたを見下げたり、白い目で見たり、けなしたりすることは全くありません。ただ誉めことばと励ましのことばだけです。私たちの目はかすんだり、曇ったりしていてそんなにきれいじゃありませんが、主はそんなあなたの目を見て、あなたの目は鳩のようだと言ってくださるのです。

 

16節と17節をご覧ください。「私の愛する方。ああ、あなたはなんと美しく、慕わしい方。私たちの寝床も青々としています。私たちの家の梁は杉の木、私たちの垂木は糸杉。」

これは花嫁が花婿に歌っていることばです。「私たちの寝床も青々としています」彼女は花婿にほめられたことで、ますます彼を恋い慕っています。肉体的に感情的に燃えているのです。寝床が青々としているというのは、そのことを表現しています。別にベッドが青いということではありません。肉体が一体となることを求めているのです。これは詩篇23篇2節にもあります。「主は私をみどり牧場に付させ、いこいのみぎわに伴われます。」主は私を緑の牧場に付させるとは、その交わりの豊かさを表しているのです。

 

ではその家はどうでしょうか。花嫁はこう言っています。「私たちの家の梁は杉の木、私たちの垂木は糸杉。」

これは、私たちの家は最高の家であるということです。当時、杉の木は最高の建材でした。花婿と花嫁の家は、この杉の木でできていました。垂木とは、屋根の下地になる建材です。屋根の一番高い棟木から桁(けた)にかけて、斜めに取り付けられる部材のことです。屋根を拭く材料の重さによっても違いますが、和式の家の標準的な間隔は45㎝です。「屋根の善し悪しは垂木で決まる」と言われるほど重要な木です。その垂木が糸杉でできています。つまり、朽ち果てたボロ家ではないということです。欠陥住宅ではありません。しっかりとした作りで、安心して住める堅固な家です。いつ倒れるかわからないような心配もありません。これが、花婿が建ててくださる家です。

 

その家とは何でしょうか。ヨハネの福音書14章1~3節をご覧ください。私たちの花婿であられるキリストは、私たちのためにこのような家を用意してくださると言われました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

すばらしいですね。私たちにはこのような家が用意されています。この地上にあっては、部屋が狭いとか、気密性が悪いとか、フローリングが剥がれるとか、害虫が入り込んでくるとか、不便なこともありますが、イエス様が私たちのために天に用意しておられる家は、完璧です。虫やさびで傷物になったり、泥棒が壁に穴を開けて盗みに入り込むこともありません。また、強風で倒れる心配があるような貧弱なものではなく、どんな嵐が襲ってきてもびくともしない堅固な家です。

 

それはかつて主がダビデに約束されたことでした。主はダビデにこう言われました。「彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル記7:13) それはとこしえまでも堅く立つ王国、ダビデの子として生まれるキリストによって立てられる天の御国です。この家を用意してくださいました。これは杉の木でできた梁、糸杉でできた垂木の最高の家です。どんなに大きな嵐が襲ってきてもビクともすることがありません。これほど安心できる家はありません。私たちの愛する方は、私たちをこの家に導いてくださるのです。

 

であれば、私たちに求められていることは何でしょうか。それはこの花婿を慕い求めることです。鳩のように、花婿だけを見つめて生きることなのです。ダビデはこう言いました。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」(詩篇27:4)

あなたは何を求めていますか。ダビデは、ただ一つのことを主に願いました。それはいのちの日の限り主の家に住むことです。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすためです。私たちも一つのことを求めましょう。いのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。これが花婿なるキリストが私たちに願っておられることです。あなたが花婿のために何をするかではなく、花婿があなたのために何をしてくださったのかということです。花婿なるキリストは、私たちのために一つの家を建ててくださいました。そして私たちがその家に住むために、私たちの罪を贖ってくださいました。十字架の上で。それゆえに、私たちは美しいと言っていただけるのです。

 

ですから、私たちに求められているのはこの花婿を慕い求め、見つめて離すことなく、主の家に住まうことです。そこで花婿なるキリストし親しい交わりを持つことなのです。ベッドも青々としています。それは杉の木の梁、糸杉の垂木でできた堅固な家です。この方と一つになることを求めましょう。主との交わりがさらに祝福され、豊かなものになりますように。

民数記7章

民数記7章

 

きょうは民数記の7章から学びます。まず1節から9節までをお読みします。

 

1.ささげ物(1-9)

 

「モーセは幕屋を設営し終えた日に、これに油注ぎをして、聖別した。そのすべての器具と、祭壇およびそのすべての用具にもそうした。彼がそれらに油注ぎをして聖別したとき、イスラエルの族長たち、すなわち一族のかしらたちが近づいた。彼らは部族の長たちで、登録に当たった者たちである。彼らは自分たちのささげ物を主の前に持って来た。それは覆いのある台車六台と雄牛十二頭で、族長二人につき車一台、一人につき牛一頭であった。彼らはこれを幕屋の前に引いて来た。 すると主はモーセに告げられた。「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」そこでモーセは台車と雄牛を受け取り、それをレビ人に与えた。ゲルション族には、その奉仕に応じて台車二台と雄牛四頭を与え、メラリ族には、祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある彼らの奉仕に応じて、台車四台と雄牛八頭を与えた。しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものに関わる奉仕は、肩に担いで運ぶことだったからである。」

 

1節を見ると、「モーセは幕屋を設営し終えた日に」とあります。モーセが幕屋を建て終ったのは、イスラエルがエジプトを出てから二年目の、第一月の月の一日のことです。出エジプト記40章17節にそのように記録されてあります。それから一か月間、主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から、彼に告げて仰せられました。それがレビ記の内容です。その後、神はモーセに人口調査をするように命じられました。それが民数記の最初に記されてあることです。それは彼らがエジプトを出て二年目の第二の月の一日のことです。それなのに、ここにはモーセが幕屋を建て終った日の話にさかのぼっています。いったいなぜでしょうか?おそらく二つの理由があったと考えられます。

 

第一のことは、モーセは幕屋を完成させましたが、これからイスラエルが約束の地に向かって進んでいく上で、何か足りないものでしょう。それは、イスラエルが旅をするときの運搬用具です。旅をするときには、幕屋を分解して運ばなければなりません。それを運ぶトラックが必要でした。そこで彼らは、その車とそれを引っ張る牛をささげるのです。それが7章に記されてある内容です。ですから、幕屋は完成して聖別したけれども、これから旅立つにあたって、今度はそれを運ぶトラックが必要になったことを、ここで振り返って記録しているのです。

 

もう一つの理由は、この7章はささげものについて記録されていると申し上げましたが、そのささげものについて記す前に、奉仕について記す前に、それに先行することがあったということを示すためです。それは何でしょうか?それは神の恵みであり、神の祝福です。6章の終わりのところには、アロンによる神の祝福のことばが述べられていました。それはイスラエルが何かをしたからではありません。彼らはただ自分を主にささげたので、主は彼らを祝福してくださいました。彼らが何かをしたから祝福されたのではなく、神が一方的に祝福したのです。これが神の祝福です。神は私たちが奉仕をしたから、献金をしたから祝福してくださるのではなく、その前に一方的に祝福してくださる方なのです。つまり、私たちの奉仕やささげものの前に神の恵みが先行するということです。そうした神の愛や恵み、祝福があるからそれに応答してささげるのです。それが私たちの奉仕です。その逆ではありません。ですから、ここに一か月さかのぼってイスラエルのささげ物について記されているのです。

 

それでは2節から9節までをご覧ください。イスラエルの族長たち、すなわち彼らの父祖の家のかしらたちがささげ物をしました。それは覆いのある台車6台と雄牛12頭で、族長2人につき車1台、1人につき牛1頭でした。族長2人で車1台ですから、車は全部で6台、族長1人につき牛1頭ですから12頭になります。それを幕屋の前に連れてきました。

 

すると主はモーセに告げて仰せられました。「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」(5)そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えました。

 

レビ族には三つの氏族がいました。ゲルション族、メラリ族、ケハテ族です。まずゲルション族には車2台と雄牛4頭です。車は全部で6台、雄牛は全部で12頭ありましたので、それを三つに分ければ車2台と雄牛4頭というのは妥当な数です。しかし、メラリ族はそうではありませんでした。メラリ族には車4台と雄牛8頭です。つまり残りの車と雄牛のすべてがメラリ族に与えられたのです。ということは、残りはゼロになります。ですから、ケハテ族には何も与えられませんでした。これはどういうことでしょうか?

 

私たちはこういう記事を読むと不公平ではないかと感じます。ある人たちはたくさん受けているのに自分たちはそうではないと不満になります。特に格差社会が広がっているような今日の社会においてはそのような傾向があります。たとえば、コロナで時短要請が出されたとき、これに協力した飲食店には一律の協力金が支払われましたが、店の規模によって経費も違うので一律というのはおかしいのではないかという不満が出ました。ここではその逆で一律ではないということでの不満です。これは本当に不公平なのでしょうか?

 

ここで鍵になる言葉は「その奉仕に応じて」(5,7,8,)という言葉です。これは奉仕に応じて与えられました。民数記4章を見ると、彼らの奉仕が割り当てられていたかがわかります。ゲルション族にはどのようなに奉仕が割り当てられましたか。彼らには幕屋の幕、会見の天幕とその覆い、その上にかけるじゅごんの皮の覆い、会見の天幕の入り口の垂れ幕、・・およびこれらに関するすべての奉仕」でした(4:25,26)。それはかなりの重量がありました。ですから、人力で運ぶのは大変だったのです。彼らの奉仕には車2台と牛4頭が必要でした。メラリ族はどうでしょう。彼らは幕で覆うところの板、柱、釘、台座などを運ぶように任命されました(29-33)。彼らは幕屋の板や横木、台座といった重いものから、釘1本、ひも1本に至る小さな奉仕に至るまで行いました。ですから、もっと人手が必要でしたし、当然、車や牛といった運搬用具も必要だったのです。ではケハテ族はどうだったのでしょうか。ケハテ族に割り当てられていた奉仕は、最も聖なるものにかかわることでした。それは、聖所のすべての器具を運ぶというものでした(4:15)。それに触れてもいけませんでした。それに触れることがあると死んでしまうからです。ですから、それにかつぎ棒を通し、肩にかついで運ばなければならなかったのです。

 

Ⅱサムエル6章には、これとは違った方法で運んだ結果、神の怒りに触れて死んだ人の事件が記されてあります。そうです、ウザです。彼はダビデの命令によってユダのバアラから自分の町に神の箱を運び入れようとしました。それで彼らは、神の箱を新しい車に載せてアビナダブの家から運び出したのです。しかし、ナコンの打ち場まで来たとき、牛がそれをひっくり返そうとしたので、ウザが手を伸ばして神の箱を押さえたところ、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はそのかたわらで死んでしまいました。いったい何が問題だったのでしょうか。それはこの民数記に書いてあるような方法によって運ばなかったことです。それは肩にかついで運ばなければなりませんでした。箱に触れて死なないためです。それなのに彼らはそれを新しい車に載せて運ぼうとしました。それが問題だったのです。

 

ですから、ケハテ族には車も牛も必要ありませんでした。幕屋の燭台以外はかつぎ棒を通して、肩にかついで運んだからです。それは不公平ではないかと思われるかもしれませんが、そうではありません。彼らはそれを肩にかつぐことが許されていたのですから。栄光の主に密着するかのようにして奉仕することができました。主の臨在をもっとも近く感じることができたのです。それは何よりも特別な奉仕でした。そんなにすばらしい特権は他にはありません。車や牛によってではなく、聖なるものに密着しながら歩むことができたからです。それは不公平どころかむしろ、人もうらやむようなすばらしい恵みだったのです。

 

このところから教えられことは、私たちクリスチャンにとっての幸いは何かということです。私たちにとっての幸いは、このように主と共に歩むことです。マタイの福音書8章20節のところでイエス様は、「きつねには穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言いました。これがイエス様の生き方でした。イエス様は物質に振り回されるような生き方ではなく、神と親密な関係を求めてシンプルに生きられたのです。時として車や牛がどれだけあるかということが、神との関係を阻害することがあります。この世の情報に振り回されることで、神が見えなくなってしまうことがあるのです。

 

最近、前中国大使だった韓国のクリスチャンでキム・ハジュン氏が書かれた「神の大使」と本を読みました。この本は、著者がどのように神に頼り、どのように祈りに答えられたかというご自分の体験をまとめられたものですが、最後のエピローグに「聖霊に従って歩む人生」というタイトルで、どうしたら聖霊に従って歩むことができるかについて述べておられます。その一つに「神お一人に集中してください」という項目があります。霊的な祈りをささげるためには、もう少し生活を単純化させる必要があるということです。あれもこれもではなく、この一事に励むということです。生活が少し単純になると、余計な考えが減り、もっと祈りやすくなります。この著者は中国大使という仕事でかなり忙しい日々でしたが、そのような中にあって祈ることができたのは、仕事と祈りだけに酋長していたからではないかと言っています。ドラマや映画、スポーツ中継を見ていたら、神に集中することは難しかったと思うと。しかし、彼は自分の本来の仕事と勉強、そして祈ることに集中していたので、そのほかのことはよくわからないが、祈りに集中できたと証しています。

 

これを読んで教えられたことは、私たちが神との関係を親密なものとしたいのであれば、シンプルに生きなければならないということです。この世のものに振り回されるのではなく、どうしても必要なものに心を留めて、そこに集中することです。神の国とその義とを第一にするなら、それに加えて必要なものは与えられるのです。ですから、神に集中できるように、シンプルに生きることです。

車や牛が与えられていてもいなくも、神の臨在が与えられていることを感謝して受け止める信仰が求められるのです。

 

 2.祭壇奉献(10-11)

 

次に10節と11節をご覧ください。「祭壇に油注ぎが行われた日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物を献げた。族長たちが自分たちのささげ物を祭壇の前に近づけたとき、主はモーセに言われた。「族長たちは一日に一人ずつの割合で、祭壇奉献のために彼らのささげ物を献げなければならない。」」

 

幕屋が完成し祭壇に油が注がれる日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物を献げました。それは12節から終わりのところまでに記されていることですが、それは運搬用具の車や牛だけではなく、祭壇における奉仕に必要なものでした。

 11節を見ると、族長たちは一日にひとりずつの割合で、部族ごとにささげるようにと命じられました。なぜ一度に持ってくるようにしなかったのでしょうか?それは主が私たちのささげ物をしっかりと受け止めておられるからです。丁寧に、一日一日という間隔を空けて持って来ることによって、それを噛み締めるかのようにして受け取られたのです。私たちは効率主義の社会の中で動いていますが、そこでは一つの成果をあげるために、私たちの仕事がまるで機械のねじのように扱われることがあります。しかし、神の方法は違います。「わたしの弟子だということで、この小さい者たちのひとりに、水いっぱいでも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42)。とあるように、私たちの一つ一つの小さな奉仕が、一滴のしずくのように感じるものでも、主はそれをしっかりと心に留めておられ、それにしたがって報いをお与えになられるのです。その一つ一つの奉仕を覚えるためです。

 

3.主へのささげ物(12-89)

 

では、それぞれの部族はどのようにささげたでしょうか。12節から終わりまでを見てください。ここには、各部族の長たちが何をささげたのかが記されてあります。第一にささげたのは、ユダ部族のアミナダブの子ナフションでした。そのささげ物は、銀の皿一つ、銀の鉢一つ、これらには穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてありました。また香を満たした金のひしゃく、全焼のいけにえとして雄牛一頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊一頭、罪のためのいけにえとして雄山羊一頭、和解のいけにえとして雄牛二頭、雄羊五頭、雄山羊五頭、一歳の雄の子羊五頭です。これがアビナダブの子ナフションのささげ物でした。

 

そして、それを各部族が毎日順番でもってくるのです。二日目は18節にありますが、イッサカルの部族、ツアルの子ネタンエルです。三日目は24節にあります。ゼブルン族の族長、ヘロンの子エリアブです。四日目は30節にありますが、ルベン族の族長、シェデウルの子エリツルです。五日目は36節、シメオン族の族長、ツリシャダイの子シェルミエルです。六日目は42節、ガドの族長、デウエルの子エルヤサフ、七日目は48節、エフライム族の族長、アミフデの子エリシャマ、八日目は、マナセ族の族長、ペダツルの子ガムリエルです。九日目は、ベニヤミン族の族長、ギデオニの子アビタン、十日目は、ダン族の族長アミシャダイの子アヒエゼル、十一日目は、アシェル族の族長、オクランの子パグイエル、そして十二日目は、ナフタリ族の族長、エナンの子アヒラです。

 

この箇所を読み進めながら非常に驚くことは、それぞれの部族が携えてくるささげ物は、すべて同じものであるのにもかかわらず、繰り返してささげ物の内容が記されていることです。この章は、聖書の中で2番目に長い章であり89節もあります。一番長いのは詩篇119篇ですが、詩篇119篇にはみことばに関するさまざまな事について書かれてあり、私たちの魂を潤わせる内容となっていますが、この章は、ただささげ物の内容が12回繰り返されているだけです。いったいなぜ同じことが何回も繰り返してあるのでしょうか?いくつかの理由が考えられます。

 

第一のことは、主はささげることを大切にしておられるということです。主は、それぞれのささげ物を記録として残しておかれたいと願われたほど、彼らのささげ物に目を留めておられたのです。一日ごとに、それぞれのささげ物が省略されることなく列挙されているのは、神の目ではどんなに小さなささげものであっても、しっかりと記録されていることを教えるためです。

 

第二のことは、各部族はそれぞれ人数が異なるのに、同じささげ物がささげられていることに注目してください。成年男子の人数は、ユダ部族が最も多くマナセ族がもっとも少ないのですが、それでも全く同じささげものがささげられました。つまり、主の前にあって、どの部族がより多くの注目を集め、他の部族がそれほど注目に値しないということではなく、主の前では、どの部族も覚えられ、主に栄光が帰せられているのです。こうして平等となり、調和が保たれているのです。これは旧約のイスラエルの時代だけでなく、新約の時代も、あるいは今の時代にも適用できる原則です。それが十分の一の原則です。十分の一とは何でしょうか。それは私たちに与えられている財産のすべては神のものであるという信仰の表明として、それを十分の一ささげることによって表しました。新約の時代に生きる者としてこうした律法に縛られる必要はありませんが、これは律法が制定される前にすでに存在していた神の原則なのです。創世記14章20節を見ると、アブラハムはサレムの王メルキデゼクに戦利品の十分の一をささげたとあります。それは律法が制定される以前の話です。神は私たちがどれだけささげたかということではなく、どのような割合でささげたのかをご覧になられます。レプタ銅貨2枚をささげたやもめには、彼女は他のだれよりも多くささげたと称賛しました。多く集めた人も少なく集めた人も余ることがなく、また足りないことがないように、神は十分の一という原則を定めてささげることを願っておられるのです。

 

パウロはこう言っています。「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。多く集めた物も余るところがなく、少し集めた物も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。」(Ⅱコリント8:14)

 

私たちも自分に与えられたものは神のものであって、それを神に喜んでお返しするために、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりに、喜んで主にささげるものでありたいと思います。主は喜んでささげ人を愛してくださるのです。

 

84節以降は、12部族のささげ物の合計が記されてあります。ここには12という数字と7という数字になっていることに注目してください。完全なお方にふさわしく、それぞれの合計が完全数になっています。

 

89節には、「モーセは、主と語るために会見の天幕に入ると、あかしの箱の上にある「宥めの蓋」の上から、すなわち二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。」とあります。これらのささげ物がささげられた後で、主の御声がモーセにあったのは、民がささげた物を、主が受け入れられたということを表しています。モーセやアロン、そしてイスラエルの民にとって、それは大きな喜びであったに違いありません。さらに、このことによって、民がシナイの荒野を出発する日が近づいていることを知らされたのではないかと思います。

 

私たちも主イエスの贖いによって神と親しく交わる道が開かれました。約束の聖霊が与えられ、霊とまことによって礼拝することができるようになりました。それによって私たちは主の御声を聞き、賛美と感謝をささげ、神の知恵と力によって前進していくことができるようになりました。何という恵みでしょうか。

時には主の御声が聞こえないとい時があるかもしれません。しかし主は、その沈黙を通しても私たちに語りかけてくださいます。私たちの罪が贖われ、神と親しく交わることが許され、主を礼拝することによって主の御声を聞くことができるようになったのですから。今、あなたも出発するときです。主の御声を聞きながら、この人生の荒野を前進していこうではありませんか。

民数記1章

2021年2月24日(水)バイブル・カフェ

民数記1章

 

 きょうから民数記の学びに入ります。「民数記」は英語で「Numbers」と言いますが、ヘブル語では『ベミドバル』、「荒野で」という意味です。これが「民数記」となっているのは、イスラエルの民の人口調査に関する記述があることから、七十人訳聖書、これはヘブル語をギリシャ語に訳した聖書ですが、『アリスモイ』(数)と呼ばれたことから、民数記という名称がつけられました。しかし、元々は「荒野で」という名前で、エジプトから連れ出されたイスラエルが約束の地カナンに向かうその途上の荒野で、神がどんなことをしてくださったのかが記されたものです。この民数記は「不平不満の書」とか、「つぶやきの書」などとも言われていますが、それは彼らがこの荒野でつぶやいたことからつけられました。

 

Ⅰコリント10章は、この民数記の出来事が背景にありますが、その中でパウロはこう言っています。11節です。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためでふり、それが書かれたのは、世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。」ですから、これは私たちへの教訓のために書かれたものなのです。私たちの信仰生活は天の御国に向かっての荒野の旅です。その旅路においては、かつてエジプトの奴隷の状態から連れ出されたことを忘れ、ちょくちょくつぶやくことがありますが、そのことによっていったいどういうことになったでしょうか。結論から言うと、40年も荒野をさまようことになってしまったのです。そして、その時代の多くの人々は死に絶え、たった二人だけ、神に従ったヨシュアとカレブだけが新しい世代の人たちと共に約束に地に入ることができました。申命記1章2節を見ると、このホレブからカデシュ・バルネアまで、カデシュ・バルネアというのは荒野と約束の地の境にある地ですが、そこまではたった11日で行ける距離でしたが、、彼らは40年も荒野を彷徨うことになってしまいました。なぜてしょうか?つぶやいたからです。彼らは神の単純な約束を信じることができず、不従順であったので、そのような結果になってしまったのです。具体的には、モーセが12人の偵察隊を送ったとき、彼らは「敵は大きく強いので、そこに入って行くことはできない」と言って嘆きました。不平不満を言って神につぶやきました。それで彼らは40年も荒野をさまよわなければならなかったのです。

それは現代を生きる私たちクリスチャンに対する戒めでもあります。私たちの人生にも荒野があります。そこで神の約束のことばを信じるか、信じないかによって、その結果が決まるのです。信じるか、信じないかの差は大きいのです。民数記では、それが問われています。

 

民数記はモーセ五書の一つで、モーセによって書かれた四番目の書です。モーセによってずっと書かれているということは、それなりに流れがあるということです。まず創世記ですが、創世記のテーマは、神の民の選びと言えます。神は、罪に陥った人類を救うためにアブラハムを選ばれました。アブラハムから出る子を通して、人類を救おうと計画されたのです。それがイサクであり、ヤコブでした。ヤコブがイスラエルになりました。彼の12人の子どもたちを通してイスラエルの12部族が誕生したのです。

 

創世記の次は出エジプト記です。出エジプト記のテーマは、神の民の贖いと言えるでしょう。神によって選ばれたイスラエルが飢饉に直面したとき、神はヨセフを通してイスラエルをエジプトに導かれました。しかし、新しいエジプトに新しい王が誕生したとき、彼らはエジプトの奴隷として仕えるようになりました。その奴隷の状態から救い出したのはモーセでした。神はモーセを通して430年も奴隷としてエジプトに捕えられていたイスラエルを解放したのです。

 

そして、前回まで次のレビ記を学びました。レビ記のテーマは何でしょうか。神の民の礼拝です。神によって贖われた神の民に求めてられていたことは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」ということでした。聖別することが求められていたのです。そのために彼らはいけにえをささげなければなりませんでした。神に近づくためには、神が定められた方法によらなければ近づくことはできなかったのです。それがいけにえであり、それは神の小羊であるイエス・キリストを象徴していました。そして、その礼拝において聖なる者としての生き方とはどのようなものかが教えられました。

 

その次が民数記です。民数記のテーマは、神の民の奉仕です。この場合の奉仕とは、戦いと言ってもいいでしょう。神の民として贖われ、聖なる者としてされた者が、実際に約束の地に向かって歩み出すのです。私たちの信仰生活には様々な戦いがあります。それは外敵との戦いだけでなく、自分の肉との戦いなどです。その戦いにどのように勝利することができるのかを、この民数記から学ぶことができます。それでは本文を見ていきましょう。

 

  1. 人口調査(1-16)

 

まず1~16節までをご覧ください1節には、「1 人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。」とあります。これはイスラエルの民がエジプトを出て二年目の第二月の一日に、主がシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられたことです。エジプトを出てから1年間は、イスラエルの民をシナイ山へと導き、そこで神の戒め、十戒を与え、幕屋を建設されました。モーセは今、そのシナイ山のふもとにある会見の天幕にいます。

 

出エジプト記40章2節を見ると、イスラエルが会見の天幕である幕屋を建てられたのはエジプトを出て二年目の第一月の一日でした。したがって、ここに1ヶ月間の空白があるのがわかります。この空白の1か月の期間に何があったのでしょうか。この期間にレビ記が入ります。神の幕屋が完成したとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました(出エジプト40:34)。主はその会見の天幕からモーセを呼び寄せ、彼に告げて仰せられました(レビ記1:1)。その内容がレビ記です。私たちはレビ記を学ぶのに半年くらいかかりましたが、実際は1か月です。その1か月の間に神の民としてのあり方を学び、そして今いよいよ約束の地カナンに向けて出発するのです。その旅の準備が12章まで語られます。

 

その準備の最初にしたことはどんなことだったでしょうか?2節から16節までをご覧ください。 「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。また部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない。あなたがたの助手となるはずの者の名は次のとおりである。ルベンからはシェデウルの子エリツル。シメオンからはツリシャダイの子ナフション。ユダからはアミナダブの子ナフション。イッサカルからはツアルの子ネタヌエル。ゼブルンからはへロンの子エリアブ。ヨセフの子のうちからは、エフライムからアミフデの子エリシャマ、マナセからペダツルの子ガムリエル。ベニヤミンからはギデオニの子アビダン。ダンからはアミシャダイの子アヒエゼル。アシェルからはオクランの子パグイエル。ガドからはデウエルの子エルヤサフ。ナフタリからはエナンの子アヒラ。」これらの者が会衆から召し出された者で、その父祖の部族の長たちである。彼らがイスラエルの分団のかしらたちである。」

 

ここで、神はモーセにイスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ、と命じました。なぜでしょうか?戦うためです。これは20歳以上の者で、すべての軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えるためでした。戦うためには軍隊を整えなければならなかったのです。神の軍隊の陣営を組織し、その戦いに備えなければなりませんでした。それで部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられたのです。

 

エペソ人への手紙6章を見ると、クリスチャンの生涯も悪霊との戦いであると言われています。私たちがクリスチャンとなり、そして教会から出て、この世の中で歩もうとすると、必ず戦いがあります。その戦いにおいて悪魔の策略に立ち向かうために、神のすべての武具を身に着けなければなりません。

 

 そのために選ばれたのが父祖の家のかしらたちです。部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者たちが選ばれ、モーセやアロンたちとともにいなければなりませんでした。すなわち、彼らの助手となる人たちです。モーセとアロンたちがそのすべてを行なうのではなく、部族ごとにかしらを立てて、彼らの助手となりました。それが5節から15節までに記されている人たちです。この人たちの名前をよく見てみると、「エリ」とか「エル」という名前が多いことに気づきます。この「エリ」とか「エル」というのは「神」という意味で、彼らの名前は神の名が入った複合体であることがわかります。そこに彼らの信仰が表われています。彼らは皆、神に信頼し、神のために仕える勇士になるようにというに召された者たちだったのです。

 

  1. 神に数えられている民(17-46)

 

次に17節から46節までをご覧ください。ここに20歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記しました。なぜ登記する必要があったのでしょうか?彼らがどこの家の出身の者で、どこに属しているのかを明らかにするためでした。イスラエルの民の中で、自分の家系がわからないという人は一人もいませんでした。

 

これは私たちにも言えます。私たちが戦いに出ていくためには、まず自分がどこに所属しているのかを明らかにしなければなりません。そうでないと戦えないのです。私たちの家系は何でしょうか?私たちはどこに所属しているのでしょうか?私たちの家系は神の家族です。クリスチャンという家系に所属しています。自分がクリスチャンなのかどうかどうかがわからないというのは問題です。神によって罪が贖われて神の民、クリスチャンであるということがわからないと戦うことができないのです。戦うためにはまず、自分が神の民とされたということ、クリスチャンであるということを明らかにしなければなりません。どうやって明らかにすることができるのでしょうか?いつも教会に行っていればクリスチャンでしょうか。洗礼を受けていればクリスチャンなのでしょうか。そうではありません。私たちが救われてクリスチャンであるかどうかは、神の御霊が証してくださいます。ローマ8章16節を開いてください。ここには、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とあります。クリスチャンの内には聖霊の内住があります。私たちが神の子どもであることは、その聖霊が証してくださいます。ですから、自分がクリスチャンであるかどうか確信のない人はどうか真剣に祈ってください。そうすれば、神の聖霊が証してくださいます。神の働きをしていくためには、あなたが神の家族に登録されなければなりません。神の子どもであるということをはっきりさせる必要があるのです。そうでないと良い成果を上げることはできません。戦いに勝利することはできないのです。

 

それは同時に、あなたがどの家系に属しているのかをはっきりさせることでもあります。つまり、どの地域教会に属しているのかを明確にする必要があるということです。Ⅰコリント14章33節には、「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」とあります。この「平和の神」というのは「秩序の神」という意味です。神は混乱の神ではなく秩序の神なのです。一定の組織に加わっていることは、自分を守ることにもなります。この荒野で敵から攻撃された時、もしどこに加わっているのかがわからなかったら、誰も助けてくれる人がいなかったとしたら、一緒に戦ってくれる人がいなかったとしたら、敗残兵となってしまいます。私はどこの教会にも入りたくない、だれの指示も受けない、私はイエスさまの指示にだけ従うというのは、聞こえがいいみたいですが、勝手気ままで、無責任な態度なのです。アカンタビリティーということばがあります。報告責任と言いますが、どこかの群れに属していなければ、このアカンタビリティーを持つこともできません。クリスチャンは一匹狼で戦うことはできないのです。どこかの群れに属していなければなりません。私たちが救われたのは戦いに勝利するためです。敗北するためではありません。孤独で、不安定で、満足のない歩みをするためではないのです。私たちが救われたのは、私たちが勝利するためです。そして、そのためには私たちは登記されなければなりません。私たちが神の子どもであるということ、また、私たちはどの地域教会に属しているのかを登記することによって、私たちの身分が明らかとなり、この世での戦いに勝利することができるのです。

 

次に19節から46節までをご覧ください。ここにはそれぞれの部族の人数が記されています。ルベン部族46,500人、シメオン部族59,300人、ガド部族45,650人です。そして、ユダ部族74,600人です。イッサカル部族は54,400人、ゼブルン部族57,400人です。エフライム部族40,500人、マナセ部族32,200人、ベニヤミン部族35,400人です。そして、ダンは部族62,700人、アシェル部族41,500人、ナフタリ部族53,400人です。この12部族で合計60万3550人です。ものすごい数です。女や子どもを含めれば、おそらく300万人を越えていたでしょう。いったいなぜ、このように細かに人数が記録されているのでしょうか。

 

その大きな理由の一つは、アブラハムに対する約束が成就したことの確認です。創世記15章5節で、神はアブラハムを外に連れ出し、天を見上げさせ、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。神は彼の子孫を空の星、海辺の砂のように数多く増し加えると約束されたのです(同22:17)その約束がどのように成就したのかを、この民数記で見ることができます。ヤコブがエジプトを下るときには、たった70人しかいませんでした。それから約430年の歳月が経った今、その群れは20歳以上の男子で60万人以上、その他を含めると300万人以上に増えました。神はアブラハムとイサクとヤコブに約束されましたが、はたしてそのようになっているのです。 このことを見るとき、私たちは励ましを受けるのではないでしょうか。神は約束されたことを一つもたがわず成就してくださる真実な方なのです。

 

このように軍務につく者が登記されました。彼らは兵士として戦うために、まず自分たちが兵士として数えられなければいけませんでした。だれが兵士であるのかを、主が数えておられたのです。主は、だれが戦うのかをご自分で知っておられ、その者たちにご自分の力と知恵と資格を与え、彼らが戦うときに、主ご自身が戦ってくださったのです。神は数えておられるのです。私たちの中には数など気にするべきではない、大切なのは質だ!ということをよく聞きます。しかし、数えることも大切なのです。使徒の働きをみると、そこにはちゃんと数えられていることがわかります。最初の教会には3,000人が加えられました。すぐに5,000人の群れに成長していきました。数えることも大切なのです。しかし、それは自分たちの教会がどれだけ大きいかとか、どんなにすばらしい教会なのか、どんなに優れているのかを自慢するためではありません。プライドを助長するためではなく祈るためです。だれが出席しているのか、だれが休んだのかを数えることによって、そのために祈っていくのです。教会が神の家族であれば、当然いるべき人がいなければ心配になるでしょう。教会にはいてもいなくてもいいような人は一人もいません。みんな誰かのケアを必要としています。そのために互いに覚え、互いに祈り合っていかなければなりません。そのために数えるのです。だれが来たかなんて関係ない。自分さえちゃんとしていればそれでいいというのは、あまりにも自分よがりの信仰になってしまいます。互いにいたわり合い、互いに助け合い、互いに支え合っていくことが求められます。そのために数えるのです。

 

 Ⅰ歴代誌21章1節をご覧ください。ここにはダビデが人口調査をしたことが書いてあります。彼はいったい何のために数えたのでしょうか。「ここに、サタンがイスラエルに逆らって、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。」とあります。これはサタンの誘惑によるものでした。サタンはダビデに人口を調査させ、主の力よりも自分の力、自分がいかに優れているのか見せ、自分の力に頼らせようとしました。それは主のみこころを損なわせました。それで主のさばきが下ったのです。疫病によって7万人のいのちが奪われました。

 

ですから、このような動機で数えるのは罪です。自分たちの教会がどんなにすぐれているかとか、立派であるかを誇るための人口調査は神のみこころではありません。しかし、互いに祈り合うために、相手の状態を知りながら、神に助けを求めていくために数えることは大切です。だから、数を数える時にはその動機に注意し、バランスをよく考えなければなりません。ここで神が人口を調査したのは、イスラエルが軍隊を組織して荒野での戦いを戦っていくためだったのです。

 

  1. レビ族について(47-53)

 

 最後に47節から終わりまでのところを見てください。ここには、レビ人について説明されています。「しかしレビ人は、彼らの中で、父祖の部族ごとには、登録されなかった。はモーセに告げて仰せられた。 「レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録してはならない。また、その人口調査もしてはならない。あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。これに近づくほかの者は殺されなければならない。 イスラエル人は、軍団ごとに、おのおの自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない。怒りがイスラエル人の会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋の任務を果たさなければならない。」

 しかし、レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録されませんでした。なぜなら、彼らの奉仕は神の幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理することだったからです。彼らには他の部族とは異なる務めが与えられていたのです。神の幕屋に関する務めです。ですから、彼らは幕屋の回りに宿営しなければなりませんでした。それは、イスラエルの軍団が神の幕屋に近づくことがないためです。幕屋には主が住んでおられ、そこは聖なるところであったので、だれも近づいてはならなかったのです。ただレビ族だけは近づくことができました。彼らは神に一番近いところにいることができたのです。

 

 これは、今日の牧師の務めとも言えます。信じるすべての者が、主イエスによって生ける神に近づくことができるようになった今、奉仕に関してここまでの明確な境界線はないかもしれません。それどころか、たとえば牧師と信徒、男女の違いなどによる務めの境界線は、なくなってきているとさえ言えるかもしれません。

 けれども、建てられた牧師は、社会で戦っている愛する方々のために心を込めて祈り、社会で戦っている信徒も、牧師や役員のために祈り、仕えるという構図は同じです。そうして、それぞれに与えられた異なる務めを理解しながら、共に主に仕え、前進していくのです。

 

イスラエルの民は、このようにして、すべて主が命じられたとおりに行いました。彼らは約束の地カナンに向けて歩んでいくために、軍隊を組織して出て行ったのです。それは、私たちの信仰の旅路も同じです。私たちも約束の地、天の御国に向かって進んで行くために、神が仰せられたように軍隊を組織して敵からの攻撃に備え、神のすべての武具をもって悪摩との戦いに勝利する者でありたいと思います。

知恵は人を成功させる 伝道者の書10章1~11節

2021年2月21日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書10章1~11節(旧約P1151)

タイトル:「知恵は人を成功させる」

 

 伝道者の書10章に入ります。8章1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者ソロモンは、どのような人が知恵のある人なのかを、そうでない者、すなわち愚かな者との対比によって語ってきました。日の下で行われる一切のわざを見る限り、そこに見られる様々な不条理に、食べて飲んで楽しむよりほかに人にとって何の幸いもないのではないかと思える中で、彼は、すべてが神のみわざであることに気付かされます(8:17)。それがどういうことなのか、人がどんなに労苦して探し求めても、見極めることはできません。けれども、すべてが神のみわざなのです。そのことに気付くのです。

 

 しかし、すべての人に同じ結末が起こるのを見ると、同じ結末というのは死ぬということですが、やはり生きていることにどんな意味があるのだろうかと疑問を抱きます(9:2)。けれども、生きていること自体に意味があります。生きている犬は死んだ獅子にまさる(9:4)。生きているからこそ悔い改めて、神に立ち返ることができます。イエス・キリストを救い主として信じることができます。そして、神の恵みの中で、神が与えてくださる一つ一つの恵みに感謝して生きることができるわけです。死んでしまったらそれも叶いません。

 

ですから、確かにこの地上の営みを見ると、そこにある様々な不条理に空しさを感じることもありますが、神の知恵は力にまさるのです。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれます。一方、知恵がないとすべてをぶち壊してしまうことになります。今日は、その続きです。知恵は人を成功させるということです。

 

Ⅰ.少しの愚かさはすべてを台無しにする(1-4)

 

 まず、1~4節をご覧ください。「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。知恵のある者の心は右を向き、愚かな者の心は左を向く。愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」

 

「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。」伝道者は9章18節で語った「一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す」ということを、たとえで説明しています。良き物全体が、少しの愚かさによって台無しにしてしまうということです。たとえばここに調香師が調合した高価な香油があるとして、そこに一匹のハエが飛び込んで、死んでしまったとしたらどうでしょう。香油は悪臭を放ち、発酵し始めます。そんな香油をだれが使いたいでしょうか。たった一匹のハエが香油全体をダメにするのです。そのように、人間の評判も少しの愚かさで取り返しがつかないほど失墜してしまいます。それまでの業績や名声は、少しの失言や過ちによって台無しになってしまうのです。今巷を騒がせている女性蔑視発言もその一つでしょう。女性の話は長いと言っただけで、東京オリンピック・パラリンピックの組織の長が辞任することになりました。それに輪をかけるように、新たに就任した組織委員長を擁護しようとして発した「男勝り」ということばが破門を起こしました。一匹の死んだハエが、高価な香油全体をくさせてしまうのです。

 

2節には、「知恵のある者の心は右を向く。愚か者は左を向く」とあります。「右」とは正しい方向を指し、「左」とは悪の方向を指しています。創造訳聖書は「知恵のある人の心は、正しい道に行き、愚かな者の心は、悪の道に行く」と訳しています。知恵のある者の心は、自然に正しい方向に向かいますが、愚かな者の心は、悪い方に向かうのです。

 

3節には、「愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。」とあります。これは恐ろしいですね。愚か者はただ道を行く時でさえ、自分が愚かであることを皆に言いふらすというのです。「この人は黙っていれば賢く見えるのに」と言うことがありますが、言わなくてもいいようなことを言ったり、やらなくてもいいようなことをやったりして、自分がいかに愚かな者であるかを、周り人に露呈するのです。

 

4節をご覧ください。ここには「支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」とあります。これは、あなたの上に立つ人があなたに対して腹を立てるようなことがあっても、あなたはそこから離れてはならないということです。ではどうすれば良いのでしょうか?

 

そのためにはまず冷静になることです。冷静であれば、大きな罪は離れて行くことになります。つまり冷静になり、支配者の前で低くなり、ひたすら謝るなら、支配者からそれ以上の怒りを買うことはなくなるということです。これは結婚関係にも言えることですし、どのような関係にも言えることです。私たちはだれか支配者のような立場にある人から怒られるとすぐにカッとなってその場を離れようとする傾向がありますが、それはよくないことです。そのような時にはまず冷静になることが求められます。まあ、冷静になれるようであれば最初から問題も大きくならないと思いますが、問題はなかなか冷静になれないことです。すぐにカッとなってその場を離れようとします。些細なことでイライラし、怒りをぶちまけようとします。たとえば、車を運転している時に、前の車が遅かったりすると我慢できなくなって、カッとなってしまいます。「何だろう、40キロかよ。ここは50キロでしょ。何とかしてほしい・・」近年、あおり運転が問題になっていますが、そうしたニュースをみるとドキッとすることがあります。いつ自分がそうなってもおかしくないんじゃないか・・・と。だから自分はできるだけ車のハンドルを握らないようにしているというか、用がない限り運転しないようにしています。でも一番いいのは冷静でいることです。

 

箴言29章11節には「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる」(箴言29:11)とあります。この御言葉は、怒りやすい人は愚かな人であると教えています。箴言というのは、「安全に生きるためのマニュアル」です。聖書の時代の人たちは、隣人と争えば、命がけの戦争に巻き込まれてしまう可能性がありました。ですから、「どのようにすれば平和に生きることができるか」を、箴言から学んでいたわけです。箴言は、人間関係のマニュアルです。その箴言で言っていることは、「愚か者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれをおさめる」ということです。知恵のある者になりたいてだすね。

 

その箴言の別の個所には、こうあります。「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」(箴言25:28)

この聖句は、頭に血が上った時に思い出すべきものです。「ああ、今の私は城壁の壊れた、防御不能の町のようだ」と思えば、ちょっとは冷静になれるでしょう。現代人にも、平安な生活のためのマニュアルが必要です。怒りやすい人は、例外なしに人間関係の問題を抱えています。「怒りやすい人は愚かな人だ」ということを、思い出す必要があります。

 

では、どうすれば良いのでしょうか。アンガーマネージメントという怒りの感情をコントロールするノウハウが日本でも紹介されていますが、その中に「6秒ルール」と呼ばれるものがあります。この「6秒ルール」というのは、人間が怒りを覚えるとき、脳内では興奮物質のアドレナリンが激しく分泌されています。そのことによってより興奮してしまい、冷静ではいられなくなってしまうらしいのです。しかしこのアドレナリン分泌のピークは、怒りを発してから6秒後と言われていて、つまりその最初の6秒間を我慢してやり過ごすことができれば、その後は徐々に冷静さを取り戻すことができるというのです。だれかがあなたに腹を立てても、それにすぐに反応するのではなく6秒間待つのです。一番簡単な方法は、心の中で6秒数えるというものです。数を数えるといった単純な作業を行うことで、意識を自然とそちらに向けることができます。他にも「朝からの行動を順番に思い出してみる」とか、目に見えているものの名前、例えば、時計とか、本棚とか、パソコンとかを一つずつ心の中で読み上げる、などといったことも有効です。自分なりに「カッとなったらまずはこうする」というルールを作っておくことで、突発的な怒りに任せた行動を未然に防ぐことができるというのです。これは冷静であるためにはどうしたら良いのかを教える一つの助けになるでしょう。でも、怒りをおさめることは簡単なことではありません。どうすれば良いのでしょうか。自分はすぐに怒ってしまう愚かな者であると認め、それを悔い改めて、神に立ち返ることです。

 

そこが聖書のすばらしいところだと思います。私たち人間は本当に愚かな者で、すぐに左の方に行ってしまいます。冷静でいなければならないと分かっていても瞬間湯沸し器のようにすぐにカッとなってしまい、つまずいてしまいます。少しの愚かさどころか多くの愚かさによって、人生を台無しにしてしまうような者なのです。このような者に救いはあるのでしょうか。あります。それがイエス・キリストが来られた目的です。もしあなたがそのことを認め、悔い改めてイエス・キリストを信じるなら、あなたは何度でもやり直すことができます。それが、聖書が語っている主要なモチーフです。

 

ヨシュア記20章2節には、次のような御言葉があります。「イスラエルの子らに告げよ。「わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。」

ここに「逃れの町」が出てきます。これはイスラエルがカナンを制圧した直後に、主がヨシュアに語られたことです。この「逃れの町」とは、誤って人を殺してしまった者がそこに逃げ込むためなら、その人は仇討ちから免れ、罰を受けずに済むようになるためのものでした。イスラエル全体に6箇所定められていましたが、それは、だれでも、どこにいても逃げ込むことができるためでした。

 

なぜ神はこの逃れの町を制定されたのでしょうか。それはこの町の存在そのものが、神の本質を表していたからです。つまり神は私たちを裁くことを良しとし、その目を常に裁きに向けておられる方ではなく、私たちを愛し、赦すお方であられるということです。そういう愛のお方なのです。よく「神は愛なり」と言いますが、その「愛」とはどういうものなのでしょうか。神はこの逃れの町の制定によって具体的に愛するとはどういうことなのかを教えようとされたのです。それは私たち人間がいかに間違いやすく、失敗しやすい存在であるかということを神は知り尽くし、深く理解しておられるということです。逃れの町を作られた第一の理由は、ここにありました。

 

アメリカ第十六代大統領アブラハム・リンカーは、南北戦争の最中、自分の家族や側近者たちがこぞって南部の人たちを非難し、悪しざまに言うのを聞いて、「あまり悪く言うのはよしなさい。われわれだって立場を変えれば、きっと南部の人たちのようになるのだから。」と言いました。

リンカーンは、常に、盗人にも五部の理があるのを認め、断罪しない人物でした。相手の立場を見ることができました。その人にはその人なりの理由があるということを常に理解しようと努めたのです。彼の深い人間理解の故に、リンカーンは多くの人々に慕われ、今もなお尊敬され続けているのです。

 

へブル4章15~16節に、次のような御言葉があります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

キリストは私たち人間の弱さをすべて思いやることがおできになります。なぜなら、キリストご自身が罪は犯されませんでしたが、あらゆる試練に直面され、そこを通られたからです。キリストは私たちの弱さ、罪、醜さ、愚かさのすべてを知られ、理解しておられるのです。だから、私たちは安心して、折にかなった助けを受けるために、恵みの御座に近づくことができるのです。

 

ですから、この逃れの町が制定された目的は、愛の神が、誤った人々をもう一度立ち直らせるためであったということです。それが、聖書全体が語っている主要なモチーフなのです。すなわち、あなたはやり直すことができるということです。そのような実例を聖書から上げようと思えばきりがありません。モーセにしても、ダビデにしても、ペテロにしても、パウロにしても、皆神の赦しを体験し、信仰によって立ちあがった人たちです。それは神の愛に由来しています。パウロのように、ペテロのように、キリストは人々が立ち直り、やり直すことを願っておられるのです。神が用いられる人とは、何の過ちや欠点のない完璧な人ではなく、とりもなおさず失敗や過ちを悔い改めてやり直った人々であり、その人の失敗が大きければ大きいほど、神はそれに比例してその人を大きく用いられるのです。

 

イエス様の宣教の第一声は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)でしたが、これを現在の私たちの言葉で言い直すならば、「あなたはもう一度やり直すことができる。もう一度やりなおしなさい。」というメッセージなのです。そのためにキリストは十字架に掛かって死んでくださいました。私たちを失敗させ間違いを犯させる罪を打ち砕き、その罪から解放してくださるためです。この十字架の贖いこそ、私たちがもう一度やり直すことができる道筋です。ところが、多くの人はそれを知りません。環境を変え、場所を変えればやり直すことができるのではないかと考えるのです。しかし、それは錯覚であり無駄なことです。なぜなら、あなたの人生をやり直すことができる唯一の道は、十字架の前に立ち、その御前にへりくだって悔い改め、贖いの恵みを受け入れることだからです。キリストにあってすべての罪が洗い清められ、悪魔の力が粉砕されることによってのみ、私たちはもう一度新しくやり直すことかできるのです。

 

ですから、私たちは本当に愚かな者で、すぐにカッとなってその場を離れとしまう者ですが、そんな者でも神に深く愛されていることを覚え、悔い改めて、神に立ち返っていただきたいのです。そして、キリストとともに聖霊の力によって再スタートをきっていただきたいと思うのです。

 

Ⅱ.権力者から出る過失(5-7)

 

次に、5~7節までをご覧ください。「私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは、権力者から出る過失のようなもの。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に座しているのを、また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを、私は見た。」

 

伝道者が日の下で見たもう一つの悪は、権力者から出る過失のようなものでした。権力者に部下を見る目がないということです。その結果、資格も能力のない者が高い地位につけられたり、逆に、能力のある者が、雑務をこなすだけに時間を費やすということが起こるのです。また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くということが起こります。馬に乗るとは高い地位に着くということです。また、地を歩くとは、低い地位に下ろされるということです。権力者たちが見方を誤ると、このような結果となります。少しの愚かさが、大きな結果をもたらすことになります。人をどのように見るのか、その小さな知恵が、全く逆の結果をもたらすことになるのです。

 

ドイツを代表する文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)は、こう言いました。「彼らが当然そうあるべきように、人々を扱いなさい。そうすればあなたは、彼らがそうあるべきものになるのを助けることになるだろう」これは、人を育てる時の大原則です。彼らが当然そうあるべきものになるように助けるのです。

この原則を、教育の現場で実践した人がいます。物理学者の大学教授フロイド・ベーカー博士です。彼は、学期初めにいつも学生たちに言いました。私は勉強しない学生は好きではない。だからキミたちは全力を尽くして頑張らなければならない。念のために言っておくが、キミたちのうち50%はパスしないだろう。それが、自分にならないように気をつけたまえ!」

不思議なことに、彼の予想は常に実現しました。つまり50%の学生が、いつも落第したのです。そして仲間の大学教授とは、最も落第生を多く出した者が最も優秀な教授なのだ、と言い合っていました。

そんな時彼は、妻と一緒に教会に通い始めました。聖書を読むうちに自分の学生たちをみる目が、いかに間違ったものであったかを知るようになります。そして、コリント人への手紙第一13章を読んでいる時、自分は愛のない教授であることを悟ります。

それから、彼の学生たちに対する態度が変わりました。彼は、学生たちに向かってこう言いました。「私は、キミたち全ての者がパスすることを望んでいる。君たちがパスするのを見ることが私の職務なのだ。課題は難しい。しかし、キミたちなら必ずパスできるはずだ。」

するどうでしょう。この後、クラスの雰囲気が以前のものとは違ったものになりました。そして学生たちは、全員がパスしたのです。Cを取った学生もいましたが、多くの者はBかAの成績を取ったのです。

どのように人を見るかです。その見方を誤ると、とんでもないような結果となってしまいます。教育の目的は、生徒を傷つけることではなく、生徒を信じて期待し、その可能性を掘り起こしてやることなのです。「愛は、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Ⅰコリント13:7)

少しの愚かさが残念な結果をもたらすことがないように、知恵と知識の宝がすべて隠されているキリストに信頼し、神から知恵をいただいて、神のみこころに歩みたいと思います

 

Ⅲ.知恵は人を成功させる(8-11)

 

第三のことは、知恵は人を成功させるということです。8~11節までをご覧ください。「穴を掘る者

は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」

 

ここにも、少しの愚かさが、どんなに大きな危険をもたらすかが語られています。8節と9節には、「穴を掘る者は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。」とあります。穴を掘る者がそこに落ち込み、石垣を崩す者が、そこにいる蛇にかまれ、石を切り出す者が、その石に押しつぶされ、材木を切り出す者が、その木で危険にさらされるということがあるということです。しかし、知恵はこのような危険から守ってくれます。

 

10節には「斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。」とあります。斧がよく切れなければ、刃を研がないと、もっと多くの力を要することになります。余分な労力が必要になるということです。しかし、刃を研ぐなら、その時間が無駄であるかのように思われますが、必ず報われることになります。道具を整えないのは愚かなことです。知恵は人を成功させるのに益になるのです。

 

皆さんはどうでしょうか。斧を研いでいますか。よりよく神に仕えるために、自分の能力のどの部分を高めたらよいかを考え、それを高めるための努力をしているでしょうか。それとも、鈍くなった斧で切ってはいないでしょうか。「Oh, No!」なんて。鈍い斧のままでは、時間とエネルギーが無駄になるだけです。まずは自分という道具を磨かなければなりません。それが知恵です。どうやったら自分を磨くことができるのでしょうか。

 

ローマ人への手紙5章3~5節に、次のようにあります。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」

何が希望を生み出すのでしょうか。練られた品性です。では練られた品性は、どのようにしてもたらされるのでしょうか。忍耐です。その忍耐は苦難によって生み出されます。そうです、自分という斧が磨かれるためには、神が与えてくださる苦難とか試練を忍耐することが求められます。試練こそその人が成長するための最も大きな糧なのです。

 

あるご婦人が、スイスを旅行した時のことです。散歩の途中に山腹にある羊の囲いの所に来たとき、中を覗いて見ると羊飼いがいて、彼の周りに沢山の羊がいました。ところが一匹の羊が、群れから離れて横に倒れて苦しんでいました。彼女は、羊飼いに声をかけました。

「あの羊はどうして倒れているのですか」

「あの羊は、足が折れているんです」

「どうして足が折れたのですか」と聞くと、

「私がわざと折ったのです」と、答えました。

彼女はびっくりして、「どうしてそんな可哀想なことをしたのですか」と尋ねると、羊飼いはその理由を説明してくれました。

「ミセス、私の羊の中で、こいつが一番言うことを聞かないんです。私の声に、絶対に従いません。そして危ない崖の上や、深い藪の中に勝手にどんどん入って行くのです。そして自分が行くだけでなく、他の羊も惑わして道連れにしてしまうんです。だから私は、この羊の性質を直すために、この羊の命を救うためにこの羊の足を折ったのです。今では、すっかり従順な羊になりました。私の手から餌を食べ、私の手を舐め、私に寄り添ってくるんです。まもなく足も回復するでしょう。そうしたらこの羊は、今度は他の羊の模範となるでしょう。仲間を惑わす代わりに、迷った仲間を連れ戻すでしょう。その時、私がこの羊の足を折った目的が達成されるのです」

私たちは迷える子羊です。そんな者が研がれるために、神は試練を与えられるのです。その試練を通し

て私たちは、謙遜や忍耐や従順といった練られた品性を身に着けるのです。

 

詩篇の記者は、こう言いました。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)私たちは、試練を通して神のおきてを学びます。それによって成長いくのです。ですから、試練に出会って、そこから出てくるたびに、私たちの心の中に人生の真実を求める心が大きくなっていきます。そして、以前の自分よりも今の自分の方が、よりイエス様を愛するようになります。よりイエス様を愛しているなら、私たちは確実に成長しているのです。これが神の知恵です。あなたはこの知恵を働かせていますか。知恵を働かせることが、成功に至る鍵です。

 

しかし、もう一つのことがあります。それが11節の御言葉です。「もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」どういうことでしょうか。口語訳には「蛇がもし呪文をかけられる前に、かみつけば、蛇使いは益がない。」と訳されています。ここでは物事を行うタイミングの重要性を教えています。蛇に呪文をかける前に蛇がかみつけば、蛇使いの存在価値はなくなってしまいます。そのように、成すべきこととその方法を知っていても、タイミングを逃すなら、その人は何の役にも立ちません。これが知恵です。

 

知恵は、人を成功させるのに益になります。少しの愚かさがすべてを台無しにします。どのように人を見るかによって、その結果も違ってきます。私たちの日常生活でも常に危険が潜んでいます。そのような人生の中で成功に導くのは神の知恵です。斧が鈍くなったら、刃を研がなければなりません。もし蛇がまじないをかけられる前に、かみつけば、蛇使いに何の益にもならないのです。自分に与えられた賜物を磨き、開発する知恵も求められます。またそのタイミングを見極める知恵も必要です。知恵は人を成功させるのに益になります。私たちは矛盾したこの世に生きていますが、この神の知恵によって、最後まで信仰を貫き、忠実に主にお従いしたいと思います。

伝道者の書9章11~18節 知恵は力にまさる

2021年2月14日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書9章11~18節(旧約P1150)

タイトル:「知恵は力にまさる」

 

 今日は、9章後半の箇所から「知恵は力にまさる」というタイトルでお話しします。前回の9章前半のところで伝道者は、すべての人に臨む死の問題を取り上げ、すべての人が死人のところに行くのであれば、生きていることに何の意味もないのではないかと問いかける中で、しかし、人には拠り所があることに気付かされます。生きている犬は死んだ獅子にまさるのです。どんなに偉大なライオンであっても死んでしまったら何の力もないように、生きていること自体に意味があります。生きている限りまだ望みがあるのです。救い主を信じて永遠のいのちを持つことができます。そして、その神のいのち、神の与えてくださる一つ一つの恵みを楽しむことができるのです。どんな恵みですか。それはパンやぶどう酒といった日ごとの糧もそうですし、ここには「あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよい」とありますが、それぞれの伴侶もまた、神が与えてくださった恵みなのです。だからあなたはいつも白い衣を着よ、頭には油を絶やしてはならない、とあるのです(9:8)。「白い衣」とは祭りの装いのことでしたね。油は喜びの象徴です。ですから、私たちに与えられたこの地上でのいのちの日の間に救い主イエス・キリストを信じ、神が与えてくださった一つ一つの恵みを楽しめばいいのです。

 

今日はその続きです。伝道者が再び、日の下で行われていることを見て、その不条理に空しさを感じるわけですが、その中で知恵について三つのことを見出します。第一に、すべてのことに神の時があるということです。しかも、人は自分の時を知らないのです。であれば、その時を支配しておられる神にすべてをゆだね、たとえ問題にぶつかったとしても、神に信頼して祈るべきです。第二に、知恵は力にまさりますが、その知恵さえ蔑まれることがあるということです。その知恵とはだれのことでしょうか。イエス・キリストです。キリストは、私たちを敵の攻撃から守り、滅びから逃れるために十字架に掛かって死んでくださったにもかかわらず、人々はこのキリストの愛を受け入れず、信じることもせず、自分勝手な道に進みました。貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれないのです。しかし、十字架のことばは、滅びる人たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(Ⅰコリント1:18)ですから、第三のことは、この十字架のことばに信頼し、このことばに従いましょう、ということです。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の支配者の叫びよりもよく聞かれるのです。

 

Ⅰ.人は自分の時を知らない(11-12)

 

 まず、11~12節をご覧ください。「私は再び、日の下を見た。競走は足の速い人のものではなく、戦いは勇士のものではない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない。すべての人が時と機会に出会うからだ。しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、罠にかかった鳥のように、人の子らも、わざわいの時が突然彼らを襲うと罠にかかる。」

 

伝道者が再び日の下を見ると、そこにもう一つの不条理があるのを見ました。それは、競争は足の速い人のものではなく、戦いは勇士の者でもない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない、ということです。

 

「競争は足の速い人のものではなく」そうですね、足が速い人が、必ずしも競争に勝つかというとそうでもありません。今年の7月に延期になった東京オリンピック、開催されるかどうか微妙な状況ですが、たとえば、世界記録を持っているアスリートがオリンピックで必ずしも金メダルをとれるかというとそうとは限りません。思わぬハプニングが生じることがあるからです。

 

「戦いは勇士のものではない。」それでは、勇敢な兵士がいれば戦いに勝てるのかというと、そうでもありません。私は大河ドラマが好きでよく観ていますが、前回は「麒麟が来る」の最終回でした。戦国時代の武将たちを見ると、必ずしも力のある武将が天下を取ったかというとそうではありません。たとえば、武田信玄はその一人でしょう。「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」で、徳川軍を撃破すると、いよいよ織田信長の本拠地・尾張に攻め入ろうとした時、持病が悪化し、やむなく撤退を決めます。1572(元亀3年)年4月、武田信玄は病気が回復することなく、甲斐へ戻る途上で53歳の生涯を閉じました。戦国最強と謳われ、天下の織田信長を恐れさせながらも、天下を取ることは叶いませんでした。あの時、武田信玄が病気にならなかったら、歴史は代わっていたかもしれません。

 

「パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知恵のある人のものではない。」そうですよね、知恵があるからといって、裕福になるわけではないし、悟りがあるからといって、事業に成功するわけでもありません。「愛顧」とは、口語訳では「恵み」と訳しています。新共同訳では「好意」と訳していますね。「知識があるといって好意をもたれるのでもない。」と。そうですね、知恵があれば好意を持たれるかというとそうでもなく、逆に煙たがれることもあります。

 

いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。伝道者はその理由を次のように述べています。「すべての人が時と機会に出会うからだ」。どういうことでしょうか。すべての人が時と機会に出会うからだとは。これはすでに3章で言われてきたことです。3章1節に「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」とあります。たとえば、生まれるのに時があり、死ぬのに時があります。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時があります。この時と機会に恵まれなければ、成功することはできません。どんなに力があっても、どんなに知恵や悟りがあっても、必ずしも成功するとは限らないのです。問題は、人は自分の時を知らないということです。12節には、「しかも、人は自分の時を知らない」とあります。残念ながら、人はその時を知りません。魚が網にかかるように、また、鳥が罠にかかるように、人の子らにも、突如として試練や不幸が襲いかかることがあるのです。そのようにして人はわざわいの時に捕らえられ、最後は死を迎えることになります。それはあんまりではありませんか。しかし、それが私たちの人生なのです。であれば、私たちはそのような不確かな世界にあってどのように生きれば良いのでしょうか。この時と機会を支配しておられる神に信頼し、すべてを神にゆだねて祈るべきです。

 

私たちクリスチャンは、神の許しなしには何も起こらないと信じています。また、神の愛に応答して全力で生きることが、神に喜ばれることであることも知っています。ですから、この神の主権を認め、神を恐れて生きればいいのです。そうすれば、何も恐れることはありません。すべての出来事は神の御手、神の摂理の中で起こりますが、神はすべての出来事の中に働いて益としてくださるからです。すべてを神にゆだね、神のみこころを求めて祈るならば、すべてのことが自分にとって最善となるのです。

 

主イエスは弟子たちを伝道に遣わされる際に、そこで遭遇するであろう様々な迫害に対して、どのように対処したらよいかを次のように教えられました。マタイ10章28~33節です。

「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」(マタイ10:28-33)

 

有名なみことばですね、「そんな雀の一羽でさえ」。そんな雀の一羽でさえ、神の許しなしに地に落ちることはありません。そんな雀とはどんな雀なのかというと、ここに、二羽の雀が一アサリオンで売られているではありませんか、とありますね。一アサリオンというのはお金の単位ですが、当時の労働者の一日の賃金相当の額でした。そうですね、仮に時給1,000円とすると一日8,000円ですが、この十六分の一ですから、500円ということになります。そうすると一羽の雀の値段はその半分となりますから250円なのですが、そもそも雀は一羽では売りものにならないのです。二羽セットにしないと商品価値がありませんでした。「一羽の雀」とはそのように値がつかないくらい安いもの、価値の低いものを表しています。そんな一羽の雀でも、「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とイエス様はおっしゃったのです。つまり天の父である神様は、一羽では売り物にならないような全く無価値な雀でさえ、見守っておられ、心に留めておられるのです。であれば、勧めよりも価値があるあなたのために、神が何もしてくださらないということがあるでしょうか。私たちは自分のことを、全く価値がないとか、無力な者だと思っているかもしれません。自分の周囲には、立派な人がたくさんいて、あれも出来る、これも出来ると、いろいろな意味で恵まれている人が沢山いるのに、自分はその人たちに比べて何も出来ない、何もとりえがないと思っているかもしれない。あるいは、以前は自分もあれも出来たのにこれも出来たのに、社会の中である地位や役割を持っていたのに、年を取ってきて、あるいは病気になってしまったために、その地位や役割を失ってしまった、社会の人々の役に立たない者、むしろ迷惑をかける者になってしまったと思っている人もいるかもしれません。自分なんていなくなった方が世の中のためなのではないかと思っているかもしれません。私たちはそのように自分に自信が持てなくなり、無力感に苛まれ、生きている価値がないように思ってしまうことがあります。そういう私たちにイエス様はここで、神は一羽の雀さえも心に留め、見守っておられると言われたのです。

 

それは雀だけではありません。あなたの髪の毛のことも考えてみなさい、というわけです。30節には「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています」とあります。一本残らず数えられているのです。私たちは自分の髪の毛の数などありません。数えきれないのです。「ああ、また抜けたなぁ」とか、「大分少なくなってきたなあ」ということくらいはわかりますが、何本あるかなんて数えられません。しかし、神様はその数まで数えておられるというのです。つまり、私たちが自分のことを分かっていると思っている以上に神様は私たちのすべてのことを知っておられるということです。それだけしっかりと私たちのことを見ておられ、関心を持っておられ、私たちに関わろうとしておられるのです。だから、恐れることはないのです。問題は、あなたがこのすべてを支配しておられる神を認め、神を恐れて生きているかということです。あなたがこの神を認めるなら、神によってあなたも認められます。しかし、もし認めないなら、神に認められることもありません。人生の不条理の人生の中で神を恨み、人生を呪い、不平不満を言いながら生きるのではなく、神を認め、すべてを神にゆだね、神のみこころを求めて祈るべきです。そうすれば、すべてのことがあなたにとって最善となるのです。信じますか。

 

2014年10月号のリビングライフの中に、こんな証が載っています。白血病で闘病中の子どもがいました。その子の親はイエス様を信じていませんでした。ある日、教会学校の教師が子どもたちに「神様に送る手紙」を書かせました。そして子どもたちに「神様が住んでいるところは住所がなくて配達できないから、私が預かっておいて後から渡しますね」と伝えました。2,3年後、結婚して家の整理をしていたその教師は、子どもたちの手紙を見つけました。その中に、白血病を患って亡くなってしまったその子の手紙もありました。そこにはこのように書かれてありました。

「神様、ぼくは今、本当に痛くて死にそうです。でも、ぼくは自分よりもお父さんの方がかわいそうです。ぼくのせいで毎日やけ酒ばかり飲んでいるからです。ぼくは死んだら天国に行くけれど、お父さんはイエス様を信じていないので天国に行けません。神様!お父さんがイエス様に出会って救われて天国に行けますように。」

教師は子どもの家を探してその手紙を父親に渡しました。死んだ息子の手紙を、涙を流しながら読んでいた父親は、その場にひざまずいて叫びました。「神様、私を赦してください。あの子は今頃天国で私のために祈っているはずです。父である私が信じて救われてこそ、あの子の祈りが答えられるのではないでしょうか。私は、イエス様を信じます。」驚くべき救いのみわざが成し遂げられたのです。(リビングライフ、2014年10月号、P95「ついに答えられた祈り」)

 

私たちも様々な問題にぶつかることがあります。どうしてこのようなことが起こるのかわからないというような出来事に遭遇します。しかし、それがどういうことなのかがわからなくても、神はすべてをご存知であられます。すべてのことには定まった神の時があり、天の下のすべての営みには神の時があります。この神の主権を認め、すべてを神にゆだねて祈るとき、神があなたの人生にご介入くださり、ご自身のみわざをなさってくださいます。そう信じて、神に祈り続けましょう。

 

Ⅱ.知恵は力にまさる(13-16)

 

次に、13~16節までをご覧ください。「私はまた、知恵について、日の下でこのようなことを見た。それは私にとって大きなことであった。わずかの人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て包囲し、それに対して大きな土塁を築いた。その町に、貧しい一人の知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救った。しかし、だれもその貧しい人を記憶にとどめなかった。私は言う。「知恵は力にまさる。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれない」と。」

 

伝道者はまた、知恵について、日の下でもう一つの不条理を見ました。それは彼にとって大きなことでした。それはどんなことかというと、わずかな人々が住む小さな町がありましたが、そこに強大な王、大王が攻めて来て包囲し、それに対して大きな土塁を築いたのです。土塁とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれる防壁のことです。砦ですね。普通は攻めてくる敵の侵入を防ぐために築かれるものですが、ここでは逆に、その町を攻めるために築かれました。ですから、城壁を破って町に侵入するのも時間の問題です。

すると、その町に、一人の貧しい知恵のある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救いました。それで彼は町の英雄になりましたが、だれもその人のことを記憶にとどめておくことはありませんでした。彼の存在は完全に忘れられてしまったのです。

 

それを見た伝道者は、こう言って嘆きます。16節、「私は言う。「知恵は力にまさる。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれない」と。」どういうことでしょうか。

確かに、知恵は力にまさります。敵の攻撃から救い出す力があります。聖書は知恵の宝庫ですから、聖書からの知恵によって危機を脱出したという例がたくさん聞きます。しかし、その知恵がやがて蔑まれるようになり、だれにも顧みられなくなることがあるのです。そして、やがて忘れられてしまいます。つまり、知恵が無力に感じられことがあるというのです。

 

これは、私たちの信仰にも言えることではないでしょうか。この貧しい一人の知恵ある者ですが、これをイエス様に置き換えることがいます。だれですか?悪魔です。悪魔は、小さな町である私たちを攻め立てる大王です。そこに砦を築いて攻撃してくるので、私たちの力ではどうすることもできません。

しかし、その町にいる貧しい一人の知恵者が、その知恵を用いてその町を救ってくださいました。それが救い主イエス・キリストです。キリストは、私たちを敵の攻撃から守り、滅びから逃れる道を用意してくださいました。それが十字架のみわざです。神はキリストの十字架のみわざを通して、私たちを罪から救う道を用意してくださいました。にもかかわらず、多くの人はこの十字架のことばを受け入れず、キリストを信じることもせず、自分勝手な道に進んで行ってしまいました。貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれないのです。しかし、「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。

神はこの十字架のことばを通して、信じる人を救おうとされました。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かであっても、召された者たちにとってキリストは、神の力、神の知恵なのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。それゆえ、キリストのことば、十字架のことばを受け入れ、キリストを通して父なる神に感謝をささげる人こそ幸いな人なのです。

 

あなたは、この貧しい人の知恵のことばを聞いていますか。そのことばを受け入れているでしょうか。その知恵のことば、十字架のことばに生きていますか。私たちは忘れっぽい者です。すぐに忘れてしまいます。しかし、私たちの人生で多くのことを忘れても、このことだけは忘れないでください。十字架のことばは、滅びる人たちにとっては愚かであっても、救われる私たちには神の力なのです。

 

 Ⅲ.知恵は武器にまさる(17-18)

 

 第三に、17~18節までをご覧ください。「知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれる。知恵は武器にまさり、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す。」

 

 貧しい者の知恵は無視されたり、軽視されたり、忘れられたりしますが、それでも価値があります。ここには、「知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間で支配者の叫びよりも、よく聞かれる」とあります。愚かな権力者たちが大声で叫ぶよりも、知恵ある者が静かに語ることばの方が良く聞かれるのです。より力があるというのです。

 

例えば、Ⅰサムエル記を見ると、アビガイルという一人の女性が登場します。彼女はナバルという人の妻でした。ナバルはカルメルという所で事業をしていて、非常に裕福で、羊三千匹、やぎ千匹を持っていましたが、彼はその名のごとく「愚か者」でした。それで、そのすべての財を失いかけますが、その危機から救ったのが妻のアビガイルでした。

 ある日のこと、ダビデは彼のもとに10人の若者を遣わして、何か手もとにある物を与えてほしいと頼みました。長きにわたる放浪生活で食べ物がなく困窮していたのです。しかし、ナバルの答えはダビデの期待を裏切るというか、その気持ちを逆なでするようなものでした。彼はその若者たちに「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。私のパンと水、それに羊の毛を刈る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」(Ⅰサムエル25:10-11)と大口をたたいてダビデの要請をきっぱりと断ったのです。

それを聞いたダビデは激怒し、部下たちに「各自、自分の剣を帯よ。」と命じ、ただちにナバル討伐に向かいました。すると、その出来事を聞いた妻のアビガイルは、多くの食べ物をもってダビデのもとに出で生き、ダビデの足もとに触れ伏してこう言いました。

「ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください。ご主人様、どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です。はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません。ご主人様。今、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。主は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。今、はしためが、ご主人様に持って参りましたこの贈り物を、ご主人様につき従う若者たちにお与えください。どうか、はしための背きをお赦しください。主は必ず、ご主人様のために、確かな家をお建てになるでしょう。ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから。あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。人があなたを追って、いのちを狙おうとしても、ご主人様のいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれています。あなたの敵のいのちは、主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。主がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」(Ⅰサムエル25:24-31)

 

彼女は自分の罪を認めて告白した上で、その罪を赦してほしいと懇願しました。また、自分がダビデのもとに来たことで、ダビデが自分の手で復讐することを主が止められたのだと告げ、その主が復讐してくださるようにと祈ったのです。それなのに、もしダビデがナバルと戦うというのであればそれは単なる復讐にすぎず、ダビデの名を汚すことになるので、そういうことをせず、主がダビデを栄えさせてくださるようにと祈ったのです。

これは、感情的になっていたダビデにとっては最善のアドバイスでした。もしダビデが感情的になってナバルを攻撃していたとすれば、彼の人生にとって大きな汚点となっていたことでしょう。ですから、アビガイルのことばは、そんなダビデを悪からから救ったといっても過言ではありません。

 

それでダビデは、イスラエルの神をほめたたえ、ナバル討伐をやめました。そして、アビガイルが持って来た贈り物を受け取り、彼女の願いのすべてを聞き届けたのです。ダビデはこのアビガイルと出会わせてくださった神をほめたたえ、神に感謝しました。そして、その後、主がナバルを打たれたので彼は死に、アビガイルはダビデの妻になりましたが、本当に聡明な女性です。彼女の知恵によって、ナバルの家だけでなく、ダビデ自身も罪を犯すことがないように守られたのですから。その忠告に耳を傾けたダビデもさすがですが、その忠告をダビデにしたアビガイルは実に知恵のある賢明な人でした。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりも力があるのです。

 

 一方、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊します。知恵は武器にまさりますが、一人の愚か者によってすべてのものがぶち壊されることがあるのです。例えば、今のアビガイルの例で言うなら、ナバルはそうでしょう。「ダビデとは何者だ」と大口をたたいて、すべてをぶち壊そうとしました。

それは、10章1節に出てくる死んだハエと同じです。10章1節に「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」とあります。10章からは、その知恵ある者と愚かな者が対比されて語られていきますが、この愚かな者の言動がどのような影響を及ぼすのかを、死んだハエにたとえているのです。調香師が調合した香油には、高価な価値があります。しかし、そこに一匹のハエが飛び込んで来て、死んだとしたらどうでしょうか。すべてが台無しになってしまいます。香油は異臭を放ち、腐らせます。そんな香油を使いたいでしょうか。たった一匹のハエが香油全体をダメにするのです。ナバルの言動とは、まさにこの死んだハエのようでした。

 

 しかし、知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間で支配者の叫びよりも、よく聞かれます。知恵は武器にまさり、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す。私たちは愚かな人の叫びではなく、静かに聞こえる知恵ある者のことば、キリストのことばを心に刻まなければなりません。ひとりの知恵ある者が町を救ったのとは反対に、ひとりの罪人が共同体を壊すことがあります。私たちはこのような愚かな者にならないように、いつも悪魔の声、この世の声に警戒しなければなりません。そして、キリストのことばを心に蓄え、神の知恵、真理のことばによって共同体を建て上げる者でありたいと思います。この知恵によって歩む一人一人に、神の力、神の祝福が豊かにありますように。

出エジプト記40章

2021年2月10日(水)祈祷会

聖書箇所;出エジプト記40章

 

 いよいよ出エジプト記の最後の章になりました。今日は40章からご一緒に学びたいと思います。

 

 Ⅰ.モーセへの命令(1-15)

 

 まず、1~15節までをご覧ください。8節までをお読みします。「【主】はモーセに告げられた。 「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を設営しなければならない。あなたはその中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前をさえぎる。机を運び入れて備品を並べ、燭台を運び入れて、そのともしび皿を載せる。香のための金の祭壇をあかしの箱の前に置き、垂れ幕を幕屋の入り口に掛ける。会見の天幕である幕屋の入り口の前には、 全焼のささげ物の祭壇を据え、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を据えて、これに水を入れる。周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛ける。」

 

前回まで、主の知恵に満たされた人たちが、幕屋とその用具を作り、モーセがそれを点検したことを学びました。そして、イスラエルの子らが、すべて主が命じられたとおりに行ったことを見たモーセは、彼らを祝福しました。

いよいよ実際に幕屋を建設する時がやって来ました。主はモーセに、第一の月の一日に、会見の天幕である幕屋を建設するように告げられました。それはイスラエルがエジプトを出てから1年、シナイ山の麓に到着してから9カ月後のことでした(19:1)。その間、モーセは二度にわたってシナイ山で40日間を過ごしました。すなわち、イスラエルの民は約半年の間に幕屋のすべての部品を完成させたことになります。驚くほどのスピードです。

 

モーセはその中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前をさえぎらなければなりませんでした。そして、机を運び入れ備品を並べ、燭台を運び入れて、ともしび皿を載せます。香のための金の祭壇をあかしの箱の前に置き、垂れ幕を幕屋の入り口に掛けます。中庭には全焼のささげ物の祭壇を据え、その祭壇と会見の幕屋との間に洗盤を据え、これに水を入れます。また、庭の門に垂幕を掛けました。

 

この位置関係が非常に重要です。門は東側にありました。そこから入って行きますが、門から入ると正面に青銅の祭壇があります。次に洗盤があり、その先に幕屋がありました。そして幕屋の幕をくぐると、聖所に入ります。そこは燭台の光で輝き、板は金でおおわれ金色に輝いていました。正面に向かって右側に供えのパンの机が置かれ、左には燭台が置かれました。正面には、聖所と至聖所の仕切りになっている垂れ幕に接して、香壇が置かれました。その仕切りの垂れ幕の先が至聖所で、そこには契約の箱とその上に贖いの蓋が置かれました。

  これを礼拝の順番として考えると、次のようになります。私たちが礼拝するときは、まず東の門から入らなければなりません。その門とはキリストのことです。ある人は仏教、ある人は神道、ある人はイスラム教、ある人はお金、名声、結婚などなど、いろいろな方法で救われようとしますが、救いは唯一イエス・キリストによってのみです。主イエスが、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」(ヨハネ10:9)と言われました。イエスだけが救いに至る唯一の門であって、それ以外に救われる門はありません。

 

その門をくぐると青銅の祭壇があります。これは神のさばきを象徴していました。キリストは神のさばきを受けて十字架で死んでくださったということです。

 

そして聖所に向かいますが、その前に洗盤によって手足を洗わなければなりません。それはバプテスマを表していました。キリストの十字架の贖いを信じること、バプテスマはそのことを表しています。これは鏡で出来ていました。つまり、神のみことばによる洗いを受けなければならなかったのです。

 

そして聖所に入ると、供えのパンがありました。これはキリストご自身を指しています。キリストは、「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)と言われました。このパンを食べること、すなわち、聖餐にあずかり、キリストとの親密な交わりにあずかることができました。そしてともしびの油が表わしていた聖霊の働きを受け入れます。また、香壇が示しているように祈りをささげなればなりませんでした。そして、聖所と至聖所の仕切りの垂れ幕はキリストの肉体を表わしていました。この方の十字架のみわざによって、天におられる父なる神に大胆に近づくことができるのです。これを上空から見れば、十字架の形をしています。神の栄光はキリストご自身であり、その十字架のみわざによって現されたのです。

 

次に、9~15節までをご覧ください。「あなたは注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものの油注ぎを行い、それと、そのすべての用具を聖別する。それは聖なるものとなる。全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具の油注ぎを行い、その祭壇を聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。洗盤とその台の油注ぎを行い、これを聖別する。また、あなたはアロンとその子らを会見の天幕の入り口に近づかせ、水で洗い、アロンに聖なる装束を着せ、油注ぎを行って彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせる。また彼の子らを近づかせ、これに長服を着せる。彼らの父に油注ぎをしたように、彼らにも油注ぎをし、祭司としてわたしに仕えさせる。彼らが油注がれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」」

 

次に注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに注がなければなりませんでした。つまり、聖別しなければならなかったということです。祭司であるアロンとその子らにも油を注いで聖別しなければなりませんでした。この聖別によって、アロンの家系は「代々にわたる祭司職」とされました。これは聖霊の働きを意味しています。この地上において、主のために聖別されるためには、聖霊の油注ぎが必要なのです。どんな働きにも聖霊の油注ぎ、聖霊の満たしがなければ、神の働きを行なうことはできません。ですから、私たちはどんな時でも祈り、聖霊の油注ぎを受ける必要があります。

 

また、大祭司が油注がれたのは、キリストが神の聖霊を無限に受けた大祭司であることを表していました。それゆえ、私たちはキリストを通して、大胆に神に栄光の御座に近づくことができるのです。

 

Ⅱ.幕屋の完成(16-33)

 

次に、16~33節までをご覧ください。「モーセは、すべて【主】が彼に命じられたとおりに行い、そのようにした。 第二年の第一の月、その月の一日に幕屋は設営された。モーセは幕屋を設営した。まず、その台座を据え、その板を立て、その横木を通し、その柱を立て、幕屋の上に天幕を広げ、その上に天幕の覆いを掛けた。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、さとしの板を取って箱に納め、棒を箱に付け、「宥めの蓋」を箱の上に置き、箱を幕屋の中に入れ、仕切りの垂れ幕を掛け、あかしの箱の前をさえぎった。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、会見の天幕の中に、すなわち、幕屋の内部の北側、垂れ幕の外側に机を置いた。その上にパンを一列にして、【主】の前に並べた。【主】がモーセに命じられたとおりである。会見の天幕の中、机の反対側、幕屋の内部の南側に燭台を置き、【主】の前にともしび皿を掲げた。【主】がモーセに命じられたとおりである。それから、会見の天幕の中の垂れ幕の前に、金の祭壇を置き、その上で香り高い香をたいた。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、幕屋の入り口に垂れ幕を掛け、会見の天幕である幕屋の入り口に全焼のささげ物の祭壇を置き、その上に全焼のささげ物と穀物のささげ物を献げた。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗いのために、それに水を入れた。モーセとアロンとその子らは、それで手と足を洗った。会見の天幕に入るとき、また祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、幕屋と祭壇の周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうしてモーセはその仕事を終えた。」

 

モーセは、すべて主が命じられたとおりに行いました。前回までのところには、イスラエルの子らは、すべて主が命じられたとおりに行い、それを見たモーセが彼らを祝福しましたが、ここでは、モーセ自身が主から命じられたとおりに行い、その仕事を終えました。モーセは、主が命じられたとおりに行ったという記述が、ここに7回繰り返されていることに注目してください(19,21,23,25,27,29,32節)。7は完全数です。この表現は、幕屋が神の計画どおりに建設されたことを示しています。神が命じられたとおりに生きる人は幸いです。そのような人は、主に祝福された人生を歩むことができます。私のもとには毎日のように相談の依頼が舞い込んできますが、すべての問題の解決の鍵は、主が命じられたとおりに行うことです。自分の思いや考えではなく、主が何と語っておられるのかを正しく受け止め、その通りに行うことです。そうすれば、すべての問題が解決します。なぜなら、主のみことばは私たちが正しく生きるための完全な道しるべだからです。

イスラエル民は、金の子牛の事件から立ち直り、モーセに導かれて幕屋の建設を終了させました。だれも完璧な人などいません。だれでも失敗を犯します。しかし、大切なことは、それでも悔い改め、そこから立ち直ることです。私たちには、モーセ以上の解放者であられる主イエスがおられます。この主の恵みに信頼して、希望の明日に向かって歩み始めようではありませんか。

 

ところで、モーセは幕屋を建設しました。彼は、主が命じられたとおりに幕屋を建設したのです。そして、第二のモーセであられるイエスは、ご自身の教会を建設されました。マタイ16:18には「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」とあります。「この岩の上に」とは、ペテロが告白した信仰告白、すなわち、イエスこそ、神の御子キリストです、という信仰の告白の上にということです。教会はこの告白の上に建っています。したがって、これと違うものがその土台にあるとしたら、それは教会として成り立たないことになります。つまり、キリストの教会の土台は、キリストが私たちの罪のために死なれたこと、墓に葬られたこと、三日目によみがえられたことという、この福音を信じ、主イエスを救い主として受け入れることです。それを信じた者だけがこの神の幕屋、神の教会に加えられ、神との交わりを持つことができるのです。

 

イエスは地上でのすべての仕事を終えられました。イエスは酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われ、頭を垂れて、霊をお渡しになられました。最後まで、実に十字架の死に至るまで忠実に父なる神に従い、そのとおりに救いのみわざを成し遂げてくださいました。私たちもキリストにならい、主が命じられたとおりに歩む者でありたいと思います。

Ⅲ.栄光の雲(34-38)


 最後に、34~38節を見て終わります。「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。」


  そのとき、すなわち、モーセがすべての仕事を終えたとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました。それでモーセは会見の天幕に入ることができませんでした。この栄光は、人間が直視することができないほどの輝きだったからです。ヨハネ1:14には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とありますが、この「私たちの間に住まわれた」とは、「幕屋を張られた」という意味です。神が人間の肉体の姿を取られて現れてくださいました。イエス・キリストは、まさにイスラエル人が幕屋において栄光の雲を見るように、神の栄光の輝きとなって現われてくださったのです。ですから、私たちはキリストから目を離さないようにしなければなりません。キリストこそ神の栄光の現われであり、私たちをその栄光で照らしてくださるからです。

 

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立ちました。雲が上らないと、上る日まで、旅立ちませんでした。彼らが旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからです。雲がイスラエル民を導きました。昼は主の雲が幕屋の上にありました。それは雲が、彼らが行くべき道を示し日陰となって太陽の陽から守ってくださったということです。また、夜は火の柱が彼らとともにありました。それは、同じように彼らの行くべき方向性を示し、外敵から宿営を守られたということです。ですから、彼らがすべきことは何であったかというと、この雲を見上げることだけでした。主イエスは、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と言われました。いつもともにいてくださる主を見ること、それが私たちにゆだねられていることです。主がいつもともにおられると信じて、この主を見上げて、主の導きに従って、私たちの信仰の旅を歩んでまいりましょう。

神に会う備えをせよ 伝道者の書9章1~10節

2021年2月7日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書9章1~10節(旧約P1149)

タイトル:「神に会う備えをせよ」

 

 伝道者の書9章に入ります。今日は、9章前半の箇所から「神に会う備えをせよ」というタイトルでお話しします。伝道者ソロモンは、日の下で行われる一切のわざを見て、こう結論しました。8章17節です。「すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めて、見出すことはない。知恵のある者が死っていると思っても、見極めることはできない。」

 ただ確かなことは、すべてのことが、すべての人に同じように起こるということです。正しい人も正しくない人も、みな死人のところに行きます。では、私たちの人生には、いったいどんな意味があるというのでしょうか。今日のところで伝道者はこう言います。4節、「しかし、人には拠り所がある。」生きている犬は死んだ獅子にまさっています。生きている限り、拠り所、希望があります。救い主イエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得るという希望があるのです。だから、生きているってすばらしいことなのです。その主イエスを信じて、神によって与えられた一つ一つの恵みに感謝して生きることができます。あなたは、その救いを得ているでしょうか。神に会う備えができているでしょうか。

 

Ⅰ.死は終わりではない(1-3)

 

 まず、1~3節をご覧ください。「まことに、私はこの一切を心に留め、このことすべてを調べた。正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。彼らの前にあるすべてのものが、それが愛なのか、憎しみなのか、人には分からない。すべてのことは、すべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪しき者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえを献げる人にも、いけにえを献げない人にも来る。善人にも、罪人にも同様で、誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様だ。日の下で行われることすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。そのうえ、人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところに行くということだ。」

 

1節の「この一切」とか、「このことすべて」とは、8章9節にある「日の下で行われる一切のわざ」のことです。すなわち、この地上で行われるすべてのことであります。伝道者は、そのすべてを見て、心を注いだわけですが、その結果分かったことは何かというと、8章17節にあることでした。つまり、すべては神のみわざであるということ、そして、人は日の下で行われる神のみわざを見極めることはできないということです。どんなに労苦して探し求めても、どんなに知恵のある者が知っていると思っても、それを見極めることはできません。正しい人も、知恵のある人も、彼らの働きのすべてが神の御手の中にあるからです。それが愛から出ているのか、憎しみから出ているのかも、人には分かりません。

 

2節をご覧ください。すべてのことは、すべての人に同じように起こります。私たちの人生で最も不可解なことは、正しい人にも、正しくない人にも、善人にも、きよい人にも、信仰者も、不信仰者も、神に誓う人にも、誓うのを恐れる人にも、すべての人が同じ結末を迎えるということです。同じ結末とは何でしょうか。人はみな死ぬということです。死はすべての人にやって来ます、100パーセントの確立で。すべての人が死んで墓に葬られることになるのです。悪者が死んで墓に入るというのならわかりますが、正しい者も同じように死んで墓に入るというのは納得できません。このようにすべての人が同じ結末を迎えるならどういうことになるでしょうか。3節を見てくたさい。3節には、「人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり」とあります。どうせ死ぬのだから、自分の好きなように生きればいい、ということになります。良いことをしようが、悪いことをしようが関係ありません。悪いことをしても別に何も変わらないのなら、自分の心の赴くままにすればいいと、人の心がますます悪に傾くようになるのです。これは空しいことです。なぜなら、私たちの人生は、死は終わりではないからです。日の上でのいのち、死後のいのちが神によって用意されているからです。

 

皆さんは、「ヒアアフター」という映画をご存知でしょうか。この映画は、死を身近で体験した3人の登場人物が、それぞれアメリカ、フランス、イギリスに住んでいるのですが、死後と向き合いながら生きていく中で、やがて一つにつながっていくという物語です。周りの人々は、「死後の世界があるなら誰かが証明しているはずだ!」と本気にしないのですが、死を身近に体験した人たちにとってはそうではありません。それが生と向き合うきっかけとなり、その生き方に大きな影響を及ぼすことになるのです。

 

米国の伝道者にスタンレー・ジョーンズ(1884-1973)という人がいましたが、彼はよく次の伝道地に向かう汽車の中で説教の準備をしていたと言われています。しかし、長いトンネルの中に入るとトンネルと周りの人々の騒々しい声が耳にささって、説教づくりを妨害するのです。以前から他の乗客の騒音でイライラしていた彼は、ついに我慢しきりなくなり怒鳴ろうとした時、期待にふくらんだ一人の少年の声を聞くのです。

「見て、見て、お母さん。ほら、明日だよ。」

少年がそう叫んだのは、暗くて長いトンネルを出て、太陽がまぶしく輝く世界を目にしたからでした。

 

死の向こう側にあるものを見ることができる人は幸いです。私たちの人生はこの地上だけで終わるものではありません。すべての人生の終着駅は死ですが、死には二種類あるのです。一つは「信じる者の死」で、もう一つは「信じない者の死」です。信じる者の死は、主イエスを信じて罪の赦しと永遠のいのちを受け、永遠の御国に入る門であり、「信じない者」の死は、永遠の滅びに入る門、地獄の門です。私たちはどちらの死を迎えるのかを選択しなければなりません。

 

Ⅱ.神に会う備えをせよ(4-6)

 

次に、4~6節までをご覧ください。すべての人が同じ結末を迎えるのであれば、生きていることにどんな意味があるというのでしょうか。「しかし、人には拠り所がある。生ける者すべてのうちに数えられている者には。生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ。生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消え失せ、日の下で行われることすべてにおいて、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。」

 

「しかし、人には拠り所がある」何ですか、「拠り所」とは?新改訳第三版では「希望」と訳しています。「すべて生きている者に連なっている者には希望がある」つまり、人は死んだら終わりですが、生きている限り、何かしらの希望があるということです。そのことをわかりやすく伝えるために用いているたとえが、その後に出てくる、生きている犬と死んだ獅子の話です。「生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ」どういうことでしょうか。ここでは犬と獅子が対比されています。犬は最も劣った動物で、獅子は最も優れた動物であるという意味で対比されているのです。そんな犬でも、生きている限り、死んだライオンよりもまさっています。また、5節にあるように、生きている者は自分が死ぬことを知っていますが、死んだ者は何も知りません。生きているだけでましだということです。さらに、5節の後半には「彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる」とあります。死んでしまえば、もはや何の報いを受けることもなければ、その名前すら忘れられてしまいます。この地上での憎悪やみたみも消えうせ、この地上で起こることには全く関係が無くなってしまうのです。

 

しかし、これは、人は死ぬと眠りにつき意識がなくなるということを教えているのではありません。これまで何度も見てきたように、伝道者は「日の下」で行われているすべてのことを観察して、そのように語っているのです。すなわち、神様なしの、神様抜きの、人間の知恵と論理によって人生を観るならこうなるということです。つまり、聖書を持たない知者が、世界について、人生について、哲学的に思索を重ねると、このような結論に到達するということです。

 

しかし、このような人間的な思索の中でも、生きている限り希望があります。人は死ねば、神のさばきの前に立つ日が例外なくやって来ますが、生きている限り、そのことに備えてイエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得る機会があるからです。しかし、死んだ者には何の望みもありません。

 

ある人たちは、Ⅰペテロ3章18~20節から、死んでからでも救われるチャンスがあると主張しています。いわゆるセカンドチャンス論です。そこにはこうあります。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。」

 

この「キリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。」という言葉ですが、キリストは、よみに下り、囚われている人たちの霊のところに行って福音を宣べ伝えられた、と考えるのです。それはノアの時代に、箱舟を作られていた間に、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちのところです。しかし、これはそういう意味ではありません。確かにキリストは十字架で死なれ、よみに下って行かれ、キリストの福音を信じなかった人たち、すなわち、捕われの霊たちのところへ行って神のことばを語られましたが、それは救いのことばではなく、さばきのことばでした。さばきの宣言だったのです。聖書は一貫して、死んでからも救われるチャンスがあるなどとは語っていません。聖書が言っていることは、人は死んだら神のさばきがあるということです。へブル9章27節にこうあります。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」

つまり、人は100%の確率で誰もが死んで行きますが、同じように死後神の前に立ち、神の裁きを受けるようになることも100%であるということです。死後に救われるチャンスがあるのではなく、死後にさばきを受けるのです。であれば、生きているうちに、この神のさばきに備えなければなりません。死んでからでは遅いのです。生きているから希望があるのです。拠り所があります。死んだ者は何も知りません。

 

クリスチャン音楽家の森繁昇さんが、「君は死んでゆく。用意はできてるか? Ready To Die」という歌を歌っておられます。もうかなり前になりますが、初めて聞いたときドキッとしました。人は死ぬということをストレートに歌っているからです。どうぞ心を準備してお聞きください。いいだすか、心の準備は出来ましたか?

おじいちゃんが死ぬ。おばあちゃんが死ぬ。 父さんが死に、母さんが死に、兄さん、姉さんも。

弟が死ぬ。 妹が死ぬ。 妻に夫、奥さん、主人に、ポチもタマも死ぬ。

息子が死ぬ。 娘が死ぬ。 嫁が死に、婿が死に、孫に曽孫も。

おじさんが死ぬ。おばさんが死ぬ。いとこにはとこ、甥も姪も、義理の父も母も死ぬ。

 「死ぬんだなんて嫌な気持ち、そんな話は聞きたかないよ!」

できるだけ考えないようにしている内に、 自分が死ぬっていう事を、忘れてしまうのさ、

目を覚ませ! 君は死んでゆく。用意はできてるか?

街で死ぬ。 村で死ぬ。山で、川で、海で、畑で、そこらじゅうで死ぬ。

病院で死ぬ。 自分の家で死ぬ。 台所か、居間か、風呂か、トイレか、玄関先で死ぬ。

金持ちが死ぬ。貧乏人が死ぬ。知ってる人が、知らない人が、友達が死ぬ。

有名人が死ぬ。 ホームレスが死ぬ。 朝でも、昼でも、夕暮れ時でも、真夜中でも死ぬ。

あの人だけが死ぬんじゃないよ。 この人だけが死ぬんじゃないよ。

他の人だけが死ぬんじゃないよ。君の番もくるからさ。

そんなに泣かなくてもいいさ、 涙や悲しみを無駄にしなくても。

君は死んでゆく。用意はできてるか?

交通事故で死ぬ。 飛行機事故で死ぬ。病気の人も、元気な人も、思いがけなく、死ぬ。

戦争で死ぬ。 自殺して死ぬ。撃たれて、刺されて、締めれて、叩かれ、殺人犯も死ぬ。

歩いてて死ぬ。走ってて死ぬ。働いていて、遊んでいて、ブラブラしていて、死ぬ。

がんばる人も、がんばらない人も年寄り、若者、子供に 赤ちゃん 生まれる前に死ぬ
ちょうど車にはねられて死んだ犬が 何度もひかれているうちに だんだん乾いてきてついには埃となって 完全に吹き飛ばされて無くなるように人も死に至るのさ 

君は死んでいく用意はできてるか

笑ってる人が死ぬ 泣いてる人も死ぬ 親切な人 いじわるな人 ガッツのある人も
怒りっぽい人も 優しい人も 威張っている人 だましている人 だまされている人も

会長が死ぬ 社長が死ぬ 専務に常務、部長に次長に課長に係長。

新入社員が死ぬ。サラリーマン全部死ぬ。政治家、先生、警察、お医者、葬儀屋も、死ぬ。

たとえ人が世界を全部、自分のものとしても、何になろう? もし、永遠のいのちを損じたら。

しかし、創造主の愛をもらう者が、死んでもまた、生きるのなら、

誰がこの話を聞き捨てに出来ようか?

創造主に罪を赦される者が、死んでもまた、生きるのなら、誰がこの話を聞き捨てに出来ようか?

「死ぬんだなんて嫌な気持ち、そんな話は聞きたかないよ!」

できるだけ考えないようにしている内に、 自分が死ぬっていう事を、忘れてしまうのさ、

目を覚ませ! 君は死んでゆく。用意はできてるか?

君は死んでゆく。用意は、 君は死んでゆく。用意は、君は創造主に会う用意は、できてるか?

 

初めて聞いた方はドキッとしたのではないかと思いますが、福音のメッセージがストレートに語られているすばらしい歌ではないかと思います。だれも、自分が死ぬなんて考えられません。いや、考えたくありません。死んだら終わりだと思っているからです。でも、その先に希望があることがわかっていれば、それに備えて生きるのではないでしょうか。その希望こそイエス・キリストです。キリストは神の御子であられ、罪を犯したことがない方でしたが、私たち罪人を愛して、私たちの罪の刑罰を受けて十字架で死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることがなく、永遠のいのちを持つためです。この方を救い主と信じるなら、どんな人であっても罪に定められることがなく、天国に入ることができます。永遠のいのちを得ることができるのです。この曲の最後の方に、「君は創造主に会う用意は出来ているか」とありますが、これこそ、創造主に会うための用意です。あなたは、その用意ができているでしょうか。

 

旧約聖書の預言者アモスは、こう言いました。「それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4:12)

あなたは、神に会う備えが出来ていますか。それは生きている時でなければできません。生きているなら希望があります。4節にあるように、生ける者すべてのうちに数えられている者には、拠り所がるのです。死んでからでは遅いです。生きているうちに、その備えをしてください。それこそ、あなたが生かされている最大の目的です。この世での一番の祝福は何ですか。それは、多くの富や権力を持つことではありません。救い主イエスを信じて永遠のいのちを持つことです。救い主イエスを見出し、人生の正しい目的を見つけること、それが一番の祝福なのです。

 

2月4日の世界宣教祈祷課題は、ナイジェリアのために祈る日でしたが、2018年2月19日、ナイジェリア北部ヨベ州ダプチの科学技術教育学校から110名の女生徒と共に誘拐され、ボコ・ハラムの囚われの身となってしまったキリスト者の少女レア・シャリブ姉妹の事件に言及されていました。

ボコ・ハラムによる学生誘拐事件は、国際世論の非難の的となっていて、ナイジェリア政府や国際世論の強い圧力もあって、1ヶ月後の3月24日には、104名の少女らが解放されました。ところが当時14歳で、キリスト教徒のレアは、自身の信仰を棄ててムスリムに改宗することを拒んだため、彼女ひとりが残されてしまったのです。

解放された学友によると、全員が解放されたあの日、レアもすべての少女と一緒に解放されるはずでした。ところがボコ・ハラムは、レアがトラックに乗る直前、キリスト教徒からムスリムに改宗するためのいくつかの儀式的宣言をするように彼女に要求しましたが、彼女は「私はイスラム教徒ではないので、決してそれは言えません」と拒んだのです。

すると、彼らは怒って「お前がキリストを冒涜しないなら、我々とともに残ってもらおう!」と脅したのですが、なおも彼女はその要求を拒否しました。他の学友らも――おそらくは一時的なポーズだけでも――レアに改宗するよう促したのですが、このわずか14歳の少女は、決して主を否んで裏切ることはしなかったのです。

彼女は、自分だけが解放されないことを悟ると急いで母親への手紙を書き、それを解放される友人の手に託しました。その時の手紙には次のように記されてありました。

「お母さん、どうか私のことで心配しないでください。お母さんは、私がいなくなって、とても辛い思いをしていると思うけど、何処にいても私はきっと大丈夫だと伝えたくて、急いでこの手紙を書きました。私の神様は、このような試みの中でもずっと御自身を現わしてくださっています。お母さんが朝のデボーションで『神様は苦しんでいる人々により近く寄り添って下さる』と教えてくれた言葉の通りです。私は今、それが真実だと証明することができます。いつの日か、きっとお母さんに再会できると信じています。私は今お母さんのそばにいなくても、主なるイエス・キリストの内にいます。」 

レアの学友らは走り出すトラックから、ひとり残された彼女が見えなくなるまで見つめ、泣きながらいつまでも手を振っていたと言います。

 

私は、レアのことを思うと、信仰とは何なのかを考えさせられます。たった14歳の少女がいのちがけで守ろうとしたもの、それはまことの命ではないかと思うのです。人命尊重、人命尊重、と連呼される昨今、この14歳の少女は「人の人生には命よりも大切なものがある」ことを強烈に投げかけてやめないのです。

 

 Ⅲ.神が与えてくださった恵みを楽しむ(7-10)

 

 では、生きている間、私たちはどのように過ごせばよいのでしょうか。7~10節までをご覧ください。「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」

 

 7節には、「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」とあります。伝道者はここで、神が与えてくださるものを楽しむことが最善の生き方であると言っています。神がそれを許しておられるのだから、日々の生活を楽しめばよいというのです。これは、いわゆる快楽に溺れろということではありません。日ごとの糧に感謝して、それを喜び楽しみなさい、ということです。

 

 8節には、「いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。」とあります。「白い衣」とは祭りの装いのことだと言われています。頭に油を絶やしてはならないとは、油は聖書では人の心を喜ばせるものとありますから(箴言27:9)、神が与えてくださる恵みの中で、祭りのように楽しみ、喜ぶ人生を生きるようにということでしょう。

 

 そして、9節には「あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。」とあります。すなわち、結婚関係も最大限楽しむべきであるということです。尾山令仁先生は、これを「この地上でのむなしい人生においては、妻と生活を楽しむに越したことはない。それが、あなたがこの地上で生きている間、神があなたの労苦に対して創造主が与えてくださる恵みである。」と訳しています。その恵みを楽しむのがよいのです。結婚して何年も経つと、それが恵みであることも忘れて、自分のペースで勝手気ままに振る舞うことが多いですが、あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよいのです。アーメン。一緒に聖書を読んだり、祈ったり、チョコレートをかけてカードゲームするのもいいでしょう。たまには一緒に出かけるのもいいですね。いつも出かけていると有り難さに欠けるので、たまに出かけるのがいいのです。いずれにせよ、あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよい。これが神のことばです。

 

 また10節には、「あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。」とあります。今、自分の手でできることは、全力を尽くしてやりなさい、ということです。「あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」死んでからでは、働くことも、計画することも、知恵も知識もないからです。つまり、仕事であっても、知恵であっても、知識であっても、生きている今の時に、自分の手でできることは、全力を尽くしてやりなさい、というのです。

 

私の友人の牧師に、路傍伝道ネットワークの代表をしておられる菅野直基という牧師先生がいらっしゃいますが、フェイスブックで「今日を最後の日として生きよう」というショートメッセージをされました。

「私たちの人生はたった一度だけです。時間には限りがあり、あっという間に過ぎていくもの、だから人生はおもしろい。明日があると思えば、今日出来る事を明日に先延ばししてしまうことがあります。この世が永遠に続くと思うなら、後でしようと、急いだってしょうがないんじゃないの、ってなりますけれども、これは「もし」のことであって、聖書では、私たちの人生は70年、健やかであっても80年、どんなに生きても120年だとあります。そういう意味では、今日という日がどれほど大切でしょうか。もしかすると、今日が最後の日になるかもしれないのです。もし今日が最後の日だとしたらどう過ごしますか。誰と会うか、何をするか、どのように過ごしたいかを考えるのではないでしょうか。そして、そのように思い巡らす中で一番重要なことからやっていくのではないでしょうか。今日を最後の日として考えて生きるなら最高の一日になるはずです。それを毎日続けていったらものすごいことです。何気ない出会いも大切にしたいと思うでしょうし、険悪な関係だった人との関係も修復しておきたいと思うでしょう。今日を最高に生きるために、今日という日を、そして今を最後の日として生きていけたらいいですね。」

 

今日という日を、今を、最後の日として生きる。そうすれば、一番大切なことからやっていくはずです。一番大切なこと、それは、神に会う備えをするということです。そして、神が与えてくださった一つ一つの恵みに感謝し、これを喜び、楽しみ、自分の手でできることに、全力を尽くすということです。

 

あなたはどうですか。神に会う備えが出来ていますか。それはただイエス様を信じるというだけでなく、あなたの人生において神を認めて生きるということです。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5)

心を尽くして主に拠り頼みましょう。自分の悟りに頼るのではなく、あなたの行くすべてにおいて主を認めましょう。主が与えてくくださる恵みに感謝しましょう。そうすれば、主があなたの道をまっすぐにしてくださいます。

すべては神のみわざ 伝道者の書8章9~17節

2021年1月31日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書8章9~17節(旧約P1149)

タイトル:「すべては神のみわざ」

 

 きょうは、伝道者の書8章後半の御言葉から学びます。1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者は知恵のある者とされるのにあさわしいのはだれかを、正しい者と悪しき者を対比して語っています。きょうの箇所でも、知恵のある者とはどのような者なのかを、三つのポイントで語っています。すなわち、第一に、知恵のある者は、神を恐れ、神の御前に生きる人であるということです。第二に、私たちの人生は矛盾に満ちているかのように見えることが多いですが、すべてのことが神のご支配の中で起こっているわけですから、神が与えてくださることに感謝し、満足する生き方を学ばなければなりません。そして第三のことは、すべては神のみわざであって、人は神のみわざを見極めることはできません。ですからすべてを神にゆだね、神に信頼して歩まなければなりません。そのような人こそ知恵のある者なのです。

 

Ⅰ.悪しき者には幸せがない(9-13)

 

 まず、9~13節をご覧ください。9節と10節をお読みします。「私はこのすべてを見て、私の心を注いだ。日の下で行われる一切のわざについて、人が人を支配して、わざわいをもたらす時について。すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。」

 

「このすべて」とは、この地上で行われるすべてのことです。伝道者は、そのすべてを見て、心を注ぎました。すると、そこに人を支配し、傷つけている人がいるのを見たのです。また、10節、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見ました。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられます。これもまた空しい。どういうことでしょうか。実はここはちょっと難解な箇所です。「聖なる方のところ」とは「神」のこと、あるいは、「神の宮」のことを指しています。その聖なる方のところから悪しき者が離れ去って行くことはありません。なぜなら、彼らは元々神から離れているからです。またここには、悪しき者がわざを行ったその町で忘れられるとありますが、それは結構なことなのに、ここには「空しい」とあるのです。どういうことでしょうか。

 

そこで口語訳聖書は、この「忘れられる」という言葉、へブル語で「イシュタッケフー」という言葉ですが、これを「ほめられる」という言葉、へブル語の「イシュタッベフー」に修正し、次のように訳しました。「彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。」と「忘れられる」を「ほられる」に修正したんですね。そうすれば、悪しき者がほめられるのはおかしいですから、「これもまた空しい」ということになります。つながるわけです。

 

しかし、これはそういうことではありません。14節に「悪者」と「正しい者」とか対比されているように、ここでも悪者と正しい者が対比されているのです。つまり、悪しき者たちが葬られて去っていくことと、正しい者が、聖なる方の所を去り、そして、町で忘れられてしまうということです。ですから、新改訳第三版ではこのように訳しているのです。「そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行いの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。」ですから、この「彼ら」を「悪しき者」ではなく、「正しい者」と理解したわけです。これが、本文が語っていることです。この新改訳2017では「忘れられる」という原語を修正しなかったのは良かったのですが、主語を「彼ら」としたため、これが「悪しき者」を指しているように訳したため、意味が通じなくなってしまいました。正しい者が、聖なる方のところから離れ去り、その町で忘れられることがあるとしたら、それもまた空しいではないでしょうか。

 

そればかりではありません。11~12節前半までを見てください。「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている。悪を百回行っても、罪人は長生きしている。」

この世では悪い行いに対する宣告がすぐに下されるどころか、むしろ、悪人が称賛されることがあります。それを見て人の子らの心は悪を行う心で満ちるのです。彼らは悪を百回行っても、長生きしています。そんなことってありますか?あるんです。あの人はあんなに悪いことばかりしているんだから、罰が当たってすぐに死んでしまうだろうと思いきや、意外と長生きしているのです。しかも、祝福されたりして・・。そのような状況を見ると、何とも不条理な世の中だと思ってしまいます。だったら悪いことをしていた方が得じゃないかとさえなります。

 

しかし、伝道者はそのような不条理を嘆きつつ、悪者には真の幸せがないと強調しています。それが12節の真中にある「しかし」です。12節の「しかし」から13節までを読んでみましょう。「しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。」

悪者に対して神のさばきが下るどころか、もっと栄えているかのように見えることで、人々は大胆に悪を行っていますが、その生涯を影のように長くすることはできません。神の御前での恐れがないからです。しかし、神を恐れ、真実に生きる人を、神は必ず顧みてくださいます。そして、彼らの生涯を美しいものにしてくださるのです。

 

大正時代に八木重吉という詩人がいました。東京高等師範学校の学生の時、クリスチャンの同級生の勧めで聖書を読み始め、キリストと出会いクリスチャンとなりました。その後、千葉県の東葛飾中学校で英語の教師をしていましたが、大正15年、28歳の時、肺結核を発病し30歳で天に召されました。

しかし、この2年間の病床生活の中で、彼の信仰は飛躍的に成長しました。彼が親戚の人に送った手紙に次のように書き残しています。

「私は色々と経てきた後、死と生の問題におびえました。また善と悪の問題に迷いました。しかし遂に一人の人に出会いました。私はその人の言葉と行いに完全なる善を感じました。何とも言えぬ美しい魂のひらめき、崇高なる魂の魅力、それをその人に感じました。それこそ自分が長い間捜していたものだと信じます。霧が少しずつ晴れるように、私の生活は少しずつ明るく、しっかりと血色がよくなって来ました。ここにおいて、私の自らの心の問題、広く人生に対する問題が、氷が解けるように解けていくのを感じました。」

八木重吉は、イエス・キリストとの出会いによって、神を見出し、神の御前で恐れ、幸せであることを体験したのです。その八木重吉が、「雨」という詩を残しています。

雨の音がきこえる
 雨が降っていたのだ
 あの音のようにそっと 

世のためにはたらいていよう

雨があがるように

しずかに死んでいこう

とても含蓄のある詩だと思います。雨の音のように そっと世のために働いていよう、雨があがるように、しずかに死んでいこう。この世と真逆ですよね。この世ではいかに自分を見せるかと、自分が中心の世界ですが、キリストと出会った重吉は、神を恐れ、神の御前で生きる生涯へと変えられたのです。神を恐れて生きる人の人生を、神はこのように美しいものにしてくださるのです。

 

Ⅱ.神が与えてくださるささやかな幸せ(14-15)

 

次に、14~15節ご覧ください。14節には、「空しいことが地上で行われている。悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。私は言う。「これもまた空しい」と。」とあります。

ここで伝道者は、なおもこの世にはあまりにも不条理なことが多いことを嘆いています。例えば、悪しき者が受けるべき報いを正しい人が受けたり、正しい人が受けるべき報いを悪しき者が受けるというようなことです。これまでも伝道者は一般原則と例外的な事例とが頻繁に逆転するのを見て、人生の空しさを覚えてきましたが、ここでも同じです。悪しき者が受けるべき報いを悪しき者が受け、正しい人が受けるべき報いを正しい人が受けるとすれば納得できるのですが、そうでないことが起こると、人生は本当に空しいなぁと感じます。

 

そのような空しさを見た伝道者は、次のような結論に至ります。15節です。「だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。」

そうでしょう、そんな不条理なことがまかり通るのであれば、いったい私たちの人生にはどんな意味があるというのでしょうか。ここで伝道者が言っているように、日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない、ということになります。伝道者はこれまでも同じことを語ってきました。3章22節や5章18節にも、繰り返して語られてきました。人生には何の目的も、意味もなければ、食べて飲んで楽しむよりほかに、何の楽しみもありません。ここには「快楽を賛美する」とありますが、そういう人生になってしまいます。

 

実際、この世はそうじゃないですか。私も学校を出て4年間この世の企業で働いたことがありますが、みんなそうでしたよ。「大橋君、今晩は飲みにでも行こうか、パッと行こうぜ」。私はその頃はもうクリスチャンになっていたので別に行きたいわけではありませんでしたが、これも社会勉強になるかなぁと思ってついて行くと、みんな会社にいるときとは全然違う顔になるんです。快楽を賛美しているのです。これもまた空しいことです。酔っぱらっていい気分になったかと思ったら、また翌日には厳しい現実が載っていて、悪い気分になるのですから。

 

しかし、日の上には喜びがあります。神への賛美で溢れています。黙示録4:11には、天国での賛美の様子が描かれています。24人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、また、自分たちの冠を御座の前に投げ出してこう言いました。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉と力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(黙示録4:11)

救い主イエスを信じ、「神共にいまし」を体験した人は、日の下にあっても、このような神への賛美と感謝に満ち溢れた生活を送ることができるのですから。

 

パウロの時代にも、同じように快楽を賛美していた人たちがいました。彼らは、自分たちはどうせ死ぬのだから、今さら善を求めてもしかたがないと考えていたのです。そんな彼らに対してパウロはこのように言いました。「もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。」(Ⅰコリント15:32-33)

もし、どうせ死ぬのだから、という考えに立つなら、生きることにどんな意味があるというのでしょうか。何の意味もありません。であれば、生きている間、おもしろおかしく生きるしかありません。「さあ、食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから」ということになります。

 

けれども、私たちは死んで終わりではありません。よみがえるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパがなると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。霊のからだに復活するということです。これがクリスチャンの希望です。クリスチャンは死んで終わりではありません。やがてキリストがご再臨されるとき、朽ちないからだ、霊のからだによみがえるのです。そんなことあるはずないじゃないですか。あるなら、だれかが証明しているはずです。そう言うでしょう。そうです、ある方がそれを証明してくださいました。イエス様が十字架で死なれ三日目によみがえられたことで、キリストを信じる者が同じように復活するということを証明してくださったのです。聖書ではそれを「初穂」という言葉で表しています。イエス様はその初穂でした。同じように、私たちも復活するのです。

ですから、死は終わりではありません。死は永遠の入口にすぎないのです。死んでからのいのちがあります。そのいのち、永遠のいのちを与えるためにキリストはこの世に来てくださり、十字架に掛かって死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。

 

死んでからのいのちがあるのなら、私たちには希望があります。生きている意味があるのです。天からの報いを期待することができますから。この地上で行われていることだけを見たら、この世の矛盾に失望するだけでしょう。ここでソロモンが言っているように、「これもまた空しい」ということになります。「さあ、食べて飲んで楽しもう」ということになるのです。だって、それ以外に楽しみがないのですから。

しかし、日の上には喜びが満ち溢れています。ダビデは、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)と賛美しましたが、神の御前には喜びと楽しみが溢れています。であれば、たとえこの世がどんなに矛盾と混乱に満ちていても、私たちは神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足して生きることができるのです。

 

ナポレオンの時代に、シャネットという男が無実の罪で牢獄に入れられました。何か月もそこで過ごした彼は自暴自棄になり、死を覚悟しました。

その独房には毎日、わずかな日の光が差し込むスポットがありました。ある朝、驚いたことに固い土の中から小さな草が芽を出しているのにシャロネットは気が付きました。彼にはそれが、神が与えてくださった希望の光のように思えたので、感謝と喜びをもって、毎日その草に水をやりました。やがてその草は大きくなり、ついに美しい紫色と白色の花を咲かせました。

この一連の出来事を見守っていた看守たちは、この話を家に帰って妻たちに話しました。やがてこの話は、ナポレオンの妻ジョセフィーヌの耳にも届きました。彼女はこの話に心を動かされ、これほど花を愛する者が犯罪者であるはずがないと確信し、ナポレオンに裁判のやり直しを願い出ました。そしてその結果、彼は疑いが晴れて釈放され、自由の身になったのです。

私たちも同じです。日の下だけを見るなら自暴自棄になるでしょう。しかし、そこからわずかに差し込む神の光、神の恵みに感謝して生きるなら、そこに人生の意味を見出し、快楽ではなく神を賛美する人生へと変えられるのです。

 

聖書学者のマシュー・ヘンリーは、ある時、強盗に財布を盗まれました。彼はその日の日記にこう記しています。

「今日は感謝な日だった。まず強盗に遭ったのは初めてであり、今まで守られてきたことを感謝する。次に財布は盗まれたが、命は奪われなかったことを感謝する。さらに全財産を盗られたが、その額はたいしたものではなかったことを感謝する。最後に自分は強盗に遭ったのであって、自分が強盗をしたのではないことに感謝する。」

こうやってみると、私たちが心の目を開くとき、私たちには感謝すべき材料がいくらでもあることに気付きます。神は、あなたの一生の間にも、その労苦に添えて豊かな恵みを注いでおられるのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)

これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足しながら、神を賛美する人生を歩ませていただきましょう。

 

Ⅲ.すべては神のみわざ(16-17)

 

第三に、16~17節をご覧ください。「私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。」

 

伝道者は、不眠不休でこの地上で行われている人の営みを見極めようとしましたが、できませんでした。人はどんなに労苦して探し求めても、神がなさることを見極めることはできないのです。こうした人間の知恵の限界は、神のみわざがどれほど不思議なものであるのかを教えています。本当に神がなさることは不思議ですね。それは、私たちの考えや思いをはるかに超えています。

 

例えば、旧約聖書の中にエステル記という書があります。もちろん、主人公はエステルという一人の女性です。彼女の人生は時代の流れに翻弄されるところから始まります。祖国イスラエルはバビロンという国の捕囚の身となり強制移住させられ、彼女もその一人として流れ着きます。しかも両親は早くに亡くなり、養父モルデカイのもとで暮らす不幸な身の上でした。そんな彼女が、ペルシャ帝国下でやがて世界に君臨した王の妃として立てられるのです。

まさか自分がペルシャ王の王妃に選ばれようとは、夢にも思わなかったでしょう。ところが、「まさかそんな大それたことを、自分が」と叫びたくなるような事件に巻き込まれていくのです。

養父モルデカイがユダヤ人のため、当時の権力者であった王の家来ハマンに頭を下げなかったことで、ユダヤ人皆殺しの法令が発布されてしまったのです。

ユダヤ民族絶滅の危機に際して、もし救えるとしたら、王のすぐ隣の席にいたユダヤ人の王妃エステルしかいませんでした。逃げられない袋小路のような重圧の中で、彼女は信仰によってジャンプします。いくら王妃とはいえ、当時、王の許可なく勝手に王の許に進み出るようなことをすれば、死刑に処せられました。けれども、彼女はそのことを百も承知で、ユダヤ民族救出のために決心したのです。

「たとい法令に背いても私は王のところにまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)

その結果、ユダヤ人絶滅を謀ったハマンは、自らがユダヤ人モルデカイをつけるために作った処刑柱にかけられ、ユダヤ人は絶滅の危機から救われたのです。悲しみが喜びに、敗北が勝利に一変しました。

ユダヤ人はこのことを記念してプリムの祭りを制定し、今日でも祝い続けています。このエステル記には神ということばも奇跡も出てきませんが、背後に神がおられるとしか説明のしようがない、不思議な神のみわざが記されてあるのです。

 

そうです、すべては神のみわざなのです。であれば、私たちに出来ることは何でしょうか。私たちに出来ることは、私たちの人生も神が用意されたパズルであることを覚え、すべてを神にゆだね、神が定められたことに従って生きていくことです。そのとき、私たちの思いをはるかに超えた、神の偉大なみわざが、私たちの人生にも現されることになります。

 

昔、殿様のお気に入りの梅の絵を描くために、有名な絵師が城に招かれました。いざ描こうとした時、猫が一匹現れて真っ白い紙の上をトコトコ駆け抜けて行きました。紙の上には猫の足跡がくっきりと残りました。

家来たちは大慌てで、切腹を覚悟した者もいました。しかし、その時、絵師は何事もなかったかのように筆を取り、絵を描き始めました。すると名人の手によって、ある足跡は梅の花びらに用いられ、ある足跡は梅の木の節目に用いられ、絵が完成した時、どこに猫の足跡があったか全く分からなくなりました。

 

同じように、私たちが全能なる神の御手に人生で起こるすべてのことを委ねるなら、苦しみも悲しみも痛みもすべてが益と変えられ、私たちの人生にすばらしい彩り(いろどり)を添えてくれるのです。すべては神のみわざです。理解できないこの世の不条理すらすべて益としてくださる神に信頼し、神にすべてを委ねましょう。神はあなたを顧みてくださり、あなたの生涯を必ずや美しいものにしてくださるからです。

出エジプト記39章

2021年1月27日(水)バイブルカフェ

出エジプト記39章

 

出エジプト記も残すところ39章と40章だけとなりました。ここには、かつて主がモーセに命じられた祭司の装束を、彼らがどのように行ったかについて記されてあります。まず1~3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.祭司の装束(1-31)

 

まず1~31節までをご覧ください。3節までをお読みします。「彼らは、青、紫、緋色の撚り糸で、聖所で務めを行うための式服を作った。また、【主】がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、エポデを作った。彼らは金の板を打ち延ばして金箔を作り、これを切って糸とし、青、紫、緋色の撚り糸に撚り込み、それぞれ亜麻布の中に意匠を凝らして織り込んだ。」

 

「彼ら」とは、知恵の御霊に満たされた職人たちのことです。彼らは、幕屋の中にあるさまざまな用具を作りました。ここで彼らはアロンの聖なる装束を作りました。金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いてエポデを作ったのです。彼らは、金を延ばして、それを撚り糸の中に織り込みました。金は神のご性質と神の栄光を表していました。

 

次に、4~7節をご覧ください。「エポデに付ける肩当てが作られ、それぞれがエポデの両端に結ばれた。エポデの上に来るあや織りの帯はエポデと同じ作りで、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、エポデの一部となるようにした。【主】がモーセに命じられたとおりである。彼らは縞めのうを金縁の細工の中にはめ込んだ。それには、イスラエルの息子たちの名が、印章を彫るように刻まれていた。彼らはそれらをエポデの肩当てに付け、イスラエルの息子たちが覚えられるための石とした。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

大祭司が着るエポデには、左右両方に肩当てが作られ、それぞれエポデの両端に結ばれました。その肩当てには、金の枠にイスラエルの息子たちの名が刻まれていた縞めのうが付けられていました。それは、イスラエルの息子たちが覚えられるための石です。これは、大祭司がイスラエルの民を代表していることを象徴していました。また、イザヤ46:3-4に、「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とありますが、主が彼らを背負って救い出すことを表していました。また、エポデの上に来るあや織りの帯をエポデと同じように作りました。これは主がモーセに命じられたとおりです(28:6-14)。

 

次に、祭司の胸当てです。8~14節をご覧ください。「また、意匠を凝らして、エポデの細工と同じように、金色、青、 紫、 緋色の撚り糸、 それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、胸当てを作った。正方形で二重にしてその胸当てを作った。 長さは一ゼレト、 幅一ゼレトで、 二重であった。その中に四列の宝石をはめ込んだ。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。第二列はトルコ石、サファイア、ダイヤモンド。第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。第四列は緑柱石、縞めのう、碧玉。これらが金縁の細工の中にはめ込まれた。これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個であった。それらは印章のように、それぞれに名が彫られ、十二部族を表した。」

 

彼らはまたエポデを作る時と同じように、金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で胸当てを作りました。これは正方形で二重になっていました。これは「さばきの胸当て」と呼ばれていたもので、その中にウリムとトンミムと呼ばれる石が入れられていました(28:30)。

この胸当てには肩当てと同じように宝石が3個ずつ4列に埋め込まれました。この宝石もイスラエル12部族の民を表していました。大祭司の心にこの12の部族が刻まれていたのです。それは同時に、私たちクリスチャンが大祭司であられるキリストの心に刻まれていることを表しています。クリスチャンはみなそれぞれ違う石で、輝きも違いますが、どれもみな宝石のように価値あるものです。キリストによって贖われたので、代価を払って買い取られたので、価値ある者にされたました(イザヤ43:3-4)。クリスチャンはみなキリストの胸にしっかりと刻まれているのです。

 

ここに出てくる宝石は、黙示録に出てくる新しいエルサレムの都を構成している宝石にとても似ています(黙示録21:11-21)。それらの土台石は12使徒を表わしていましたが、そのうち9つがここの宝石と同じものです。門はイスラエル12部族を表していましたが、それらはみな真珠で出来ていました。それは神の栄光の中にイスラエルがおり、そして教会も存在していることを象徴しています。

次に、純金の鎖です。15~21節をご覧ください。「また、胸当てのために、撚ったひものような鎖を純金で作った。彼らは金縁の細工二個と金の環二個を作り、二個の環を胸当ての両端に付けた。胸当ての両端の二個の環には、二本の金のひもを付けた。その二本のひものもう一方の端を、先の二つの金縁の細工と結び、エポデの肩当ての前側に付けた。さらに二個の金の環を作り、それらを胸当ての両端に、エポデに接する胸当ての内側の縁に付けた。また、さらに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の前に、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に、向かい合うように付けた。胸当ては、その環からエポデの環に青ひもで結び付け、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデから外れないようにした。【主】がモーセに命じられたとおりである。」


この鎖は胸当てをエポデに固定するためのものです。胸当ての四隅に金の環が付けられ、それを青いひもで

結んだのです。なぜこんなことをしたのかというと、胸当てがエポデからずり落ちないためです。この胸当てには

12の宝石が埋め込まれてありましたが、これはイスラエルの12部族、また、私たちクリスチャンのことを表して

いました。これが主の胸からずり落ちないためです。私たちはこの青いひもでしっかりと結ばれているので、決し

てずり落ちることはありません。ちなみに金の環は神の愛、青いひもは天の恵みを表しています。ですから、私

たちが神の愛からずり落ちないのは、一方的な神の愛によるのです。彼らは主がモーセに命じられたとおりに行

いました(28:22-30)。

 

次に、22~26節をご覧ください。「また、エポデの下に着る青服を、織物の技法を凝らして青色の撚り糸だけ

で作った。青服の首の穴はその真ん中にあり、よろいの襟のようで、ほころびないようにその周りに縁を付けた。青服の裾の上に、青、紫、緋色の撚り糸で撚ったざくろを作った。また彼らは純金の鈴を作り、その鈴を青服の裾周りの、ざくろとざくろとの間に付けた。すなわち、務めを行うための青服の裾周りには、鈴、ざくろ、鈴、ざくろとなるようにした。 【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

これは、エポデの下に着る長服のことです。これは1枚の布でできた筒状の長福で、頭を入れる穴だけ開いていました。その裾にはざくろと純金の鈴がつけられました。それは、風が吹いても長服の裾がめくれないようにするためです。ざくろは、肥沃と豊かさ、そしていのちを象徴していました。それはキリストのいのちの豊かさを象徴していたのです。鈴は、大祭司が至聖所で聖なる務めを果たしていることを音によって外部の人に知らせるためのものです。それは金で出来ていました。それはキリストのとりなしを象徴していました。同じ鈴が香炉にも付けられていたからです。キリストは私たちの大祭司となって、私たちのために神にとりなしてくださいます。彼らはこれも主がモーセに命じられたとおりに作りました(28:31-35)。

 

次に、27~29節です。「彼らはアロンとその子らのために、織物の技法を凝らして、亜麻布の長服を、亜麻布のかぶり物、亜麻布の麗しいターバン、そして撚り糸で織った亜麻布のももひきを作った。また、撚り糸で織った亜麻布と、青、紫、緋色の撚り糸を用い、刺繍を施して飾り帯を作った。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

また、彼らはアロンとその子らのために、織物の技法を凝らして、亜麻布の長服と、亜麻布のかぶり物、亜麻布のターバン、そして、撚り糸で織った亜麻布のももひきを作りました。この「ももひき」は、彼らの裸が祭壇の上にあらわにならないためです(20:26)。これも、主がモーセに命じられたとおりでした(28:39-40)。

 

さらに、30~31節をご覧ください。「また、聖別の記章の札を純金で作り、その上に印章を彫るように「【主】の聖なるもの」という文字を記した。これに青ひもを付け、それを、かぶり物に上の方から結び付けた。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

さらに、彼らは聖別の記章の礼を純金で作り、その上に印象を掘るように「主の聖なるもの」という文字を記し、それを青ひもで、かぶり物の上の方に結び付けました。これはアロンがイスラエルの代わりに咎を負い、彼らが主への聖なるものとしてささげられることを表していました。これは私たちの罪咎を負って十字架で死んでくださったイエス・キリストを表しています。エペソ1:17には、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」とありますが、そのことです。私たちは、大祭司であられるイエス・キリストの贖いによって罪が赦され、聖い者とされているのです。これも、主がモーセに命じられたとおりでした(28:36-38)。

 

Ⅱ.主が命じられたとおりに行ったイスラエルの子ら(32-42)

 

次に32~42節をご覧ください。「こうして、会見の天幕である幕屋のすべての奉仕が終わった。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに行い、そのようにした。彼らは幕屋をモーセのところに運んで来た。天幕とそのすべての備品、留め金、板、横木、柱、台座、赤くなめした雄羊の皮の覆い、 じゅごんの皮の覆い、 仕切りの垂れ幕、あかしの箱と、その棒、「宥めの蓋」、机と、そのすべての備品、臨在のパン、きよい燭台と、そのともしび皿、すなわち一列に並べるともしび皿、そのすべての道具、ともしび用の油、金の祭壇、注ぎの油、香り高い香、そして天幕の入り口の垂れ幕、青銅の祭壇と、それに付属する青銅の格子、その棒、そのすべての用具、洗盤とその台、庭の掛け幕と、その柱、その台座、庭の門のための垂れ幕と、そのひも、その杭、会見の天幕の幕屋の奉仕に用いるすべての用具、聖所で務めを行うための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った。」

 

こうして、彼らは会見の天幕のすべての奉仕を終えました。ここに何度も繰り返されている言い回しがあります。それは、「主が命じられたとおりに、行なった」という言葉です。5節、7節、21節、26節、29節、31節、そして、今読んだ32節と42節です。彼らは自分たちで考え自分たちの方法で幕屋を作ったのではなく、すべて主が命じられたとおりに行いました。自分の方法ではなく、神の命令に従ったのです。

 実は、出エジプト記はこの言葉によって事が進展しています。モーセが燃える柴を見たときいろいろな言い訳をしました。「私は、口べたで、預言をすることはできません。」とか、「イスラエル人たちが、私があなたから遣わされたのを信じないでしょう」とか、私が、彼らが、・・という人間のレベルの話をしていました。しかし、モーセとアロンがファラオのところに行ってからは、主が命じられたとおりに行なった、という言い回しが続くのです。その中で十の災いがエジプトに下り、ファラオはイスラエルをエジプトから出て行かせることになります。自分の世界ではなく、神の世界の中に生きるようになったのです。

 

このことは、私たちクリスチャンのあるべき姿でもあります。私が何々をした、というのではなく、主がこう言われたということが中心になるべきなのです。そうすることで、その人の生活を見るときに、確かに主がこの人のうちに働かれていることを認めることができるようになるのです。

 

Ⅲ.モーセによる祝福(39:43)

 

それを見たモーセはどうしたでしょうか。43節をご覧ください。「モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、【主】が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した。」

 

モーセがそのすべての仕事を見ると、彼らは、主が命じられたとおりに行っていたので、モーセは彼らを祝福しました。一度は金の子牛を造り、それを礼拝した民でしたが、ここではモーセから祝福を受けているのです。民が主の命じられたとおりに行ったのを見たとき、モーセは感動したのでしょう。このように、イスラエルの民が祝福を受けたのは、モーセから聞いた主の命令に彼らが忠実だったからです。

 

それは、私たちにも言えることです。主イエスはこのように言われました。「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:14-15)

イエスを愛することは、その戒めを守ることです。私たちも主の戒めを守るなら、主は私たちを祝福してくださいます。この新しい年も、主のみことばをしっかりと握り締め、主のみことばに歩みましょう。主のみことばに歩むお一人お一人に、主の祝福が豊かにありますようにお祈りします。