幸せな人 伝道者の書5章10~20節

2020年11月22日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書5章10~20節(旧約P1144)

タイトル:「幸せな人」

 

 きょうは、伝道者の書5章後半から、「幸せな人」というタイトルでお話しします。20節に、「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」とあります。どういう人が、自分の生涯のことをあれこれ思い返さないのでしょうか。どういう人が、神によって心を喜びで満たされる人なのでしょうか。私たちはいつも自分の生涯のことをあれこれ思い返しては、心を煩わせることがあるのではないでしょうか。しかし聖書は、「こういう人は」神によって心を喜びで満たされると言っています。それはどういう人なのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

 

 Ⅰ.どんな境遇にあっても満足することを学ぶ人(10-12)

 

 第一に、どんな境遇にあっても満足することを学ぶ人です。10~12節までをご覧ください。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた空しい。 財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の成功だろう。それを目で眺めているだけだ。働く者は少し食べても多く食べても、心地よく眠る。富む者は満腹しても、安眠を妨げられる。」

 

「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。」金銭を愛することへの警告です。金銭そのもの、富そのものは決して悪いものではありません。仕事をする時に、その労働の対価として与えられる恵みを感謝し、喜びを味わうことは自然なことです。ところが、その富を愛することが様々な災いをもたらすことになると、聖書は教えています。その一つが金銭に満足しない、収益に満足しないということです。いくら富を蓄えても、それで満足することがありません。いつも、まだ足りない、まだ足りない、もっともっと、と欲しがるのです。欲張り、貪欲です。そのことからわかることは、富によっては決して「満足」を買うことはできないということです。商売の利益、銀行の利子、株の配当、株の売買益など、これら一切がさらに欲望をかきたてるのです。

 

この「金銭」と訳されたことばは、へブル語では「銀」ということばです。ですから、新共同訳ではこれを「銀を愛する者は銀に満足することがない。」と訳しているのです。銀に満足しなかった人はだれですか。そう、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダです。彼は銀貨30枚でイエス様を売り渡しました。彼は銀貨を愛していました。弟子たちの会計係として金入れを預かっていましたが、そこからいつも銀貨を盗んでいたのです。そして、遂には銀貨30枚のために自分の主であったイエスを売り渡してしまいました。それで彼は満足したでしょうか。いいえ、最後に彼はその銀貨を神殿に投げ込むと、出て行って首を吊って死んでしまいました。銀貨を愛する者は銀貨に満足しないのです。

 

Ⅰテモテ6:10には、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」とあります。また、へブル13:5には、「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。」とあります。大切なのは金銭を愛することではなく、今持っているもので満足することです。確かに、「生活に不安がある」状態では満足を得られないかもしれません。かといって、不安から解放されれば満足できるかというとそうでもないのです。なぜなら、真の満足はどれだけ持っているかとか、どのような境遇にあるかによって決まるのではなく、どのような心を持っているかによって決まるからです。

 

古代ペルシャに古くから伝わる伝説です。昔、神様が「幸せの鍵」を、お作りになられました。これを一生懸命捜して見つけた人に「幸せの扉」を開けさせたいと考えたのです。

そこで「幸せの鍵」をどこに隠すかという話になりました。天使たちがいろいろアイデアを出し合いました。

「高い山の上がいいんじゃないか」「地の深い所にしよう」「深い海の底はどうか」しかし、どのアイデアもいま一つでした。誰でも見出せるけれど、なかなか見つけられない所はないのか。

そして、とうとう理想的な場所を見つけ出しました。それは「人間の心の中」に隠すことでした。

 

 そうです、幸せの鍵は私たちの心の中に眠っているのです。それを掘り出して、用いる人が豊かな人生を歩むことができます。そのことをパウロはピリピ人への手紙の中でこう言っています。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11-13)

パウロは、どんな境遇にあっても満ち足りることを学んだと言っています。貧しさの中でも、富んでいても、そのような境遇が彼の幸せを奪うことはありませんでした。なぜなら、彼はイエス・キリストを知っていたからです。イエス・キリストによってどんな境遇にあっても満ち足りることを学んでいたのです。金銭を愛する者は金銭に満足しません。富を愛する者は収益に満足しないのです。これもまた空しいことです。しかし、イエス・キリストにあるなら、どんな境遇にあっても満足することかできます。これは幸いなことではないでしょうか。

 

11節をご覧ください。「財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の成功だろう。それを目で眺めているだけだ。」

財産が多くなると、それをあてにして群がる者たちが現われるということです。そのために出費が増え、財産の所有者はその恩恵に与ることができません。彼にできるのは、せいぜい預金通帳の数字を目で眺めていることくらいです。これもまた空しいことです。

 

12節には、「働く者は少し食べても多く食べても、心地よく眠る。富む者は満腹しても、安眠を妨げられる。」とあります。働く者が少し食べても多く食べても、心地よく眠ることができるのは、心配がないからです。貧乏人は失うものがないので怖いものがありません。株価が上がろうが下がろうが関係ないのです。でも財産がある人はそういうわけにはいきません。満腹しても、心配事が山のようにあるため、安眠することができないのです。彼は床の中で、資産の運用のことや、税金の支払い、財産が盗まれるのではないかと不安になり、よく眠ることができません。皆さん、寝る前にいろいろ考えない方がいいでよ。考えると眠れなくなりますから。というか、皆さんは考える必要もないようですね。でも、そんなに持っていなくても、もっと増やそうと貪欲になると眠れなくなりますよ。

 

以前、関西に住んでおられる方から電話で相談がありました。その方は、自分のおこずかいの中から株を始めたのですが、前年に大失敗をして大きな損失を出してしまい、どうしたら良いものかと夜も眠れないというのです。それで、お金ではなくもっと大切なものを持つといいですよと言うと、後日、こんなメールがきました。

「お金より大事なものって、結局何なのでしょうか・・・?大きなお金を失ってまで気づく大事な事はあるのでしょうか。今朝目をつけていて、でも買わなかった株が、今日一日で10万円以上上がっていて、買っておけばよかったと、まだ思ってしまい、、、昨年の失敗をいい教訓に、これから慎重に銘柄を選んだり、頑張れば少し取り戻すことはできるのではないかと、少し思いますが、時間はとられます。今、損をしたままやめてしまっても、このあとの人生、そういうものが見つかると思っていいのでしょうか?もし、分かりやすい言葉で、それが何か教えていただけるのであれば、教えていただきたいと思いまして、大変厚かましいのですが、メールをさせていただきました。本当に申し訳ありません。」

 

この方は寝ても覚めても株なのです。株のことが気になって仕方がないのです。それで、星野富弘さんの「いのちよりも大切なもの」という詩を送りました。

「命がいちばんだと思っていたころ 生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」

短い詩ですが、とても大切なことが教えられると思うのです。「いのち」とは肉体のいのちのことです。そのいのちがいちばん大切だと思っていたころは、生きるのが苦しかった。でも、そのいのちよりも大切なものがあると知った日、生きるのが嬉しくなった。いのちよりもたいせつなものとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストにあるいのち、永遠のいのちのことです。それがあると知った日、生きるのが嬉しくなりました。そうしたものに執着しなくてもよくなったからです。神が与えられたいのちに生きればいい、そう思うと生きるのが嬉しくなります。

 

すると、彼女からメールがありました。「よく分かりました。頑張って、教会に通ってみたいと思います。星野さんがイエス・キリストに出会われていたことも知りませんでした。詩集も読んでみます。」

まあ、頑張って行く必要もありませんが、その方にとって教会は初めての所ですから敷居が高かったんでしょうね。頑張って行ってみます。

すると、しばらくしてメールがありました。「おかげさまで、近くの教会に昨日で3回目行かせていただきました。星野富弘さんの本も、図書館で数冊読み、感動しました。その中で奥様との出会いや家族の方々の優しさにも感動しました。 

今朝、突発的に全部の持ち株を処分してしまったのは、昨日も残っている資金で株を買い、少し下がると怖くなって売り、1万6000円の損を出し、懲りずに今朝も買った株が下がりだし・・

その株を売ると同時に、持ち株全部、衝動的に処分したわけなのですが、その時、昨日も今日も、失敗を重ね、「これでもまだやめないのか」「これでもまだ分からないのか」って、ふと神様に言われているような気がして、本当に衝動的に全部売ってしまいました。全く、まだ売るつもりもやめるつもりもなかったのに、です。

1月からも、買っては小さな損をする、を繰り返していて、「これでもまだ懲りないのか」って、あまりの失敗続きに、失敗を重ねるたびそう言われているような気がなんとなくしていました。考えすぎでしょうか?神様がこれほどの大きな損失を出さないと分からない私を正してくださったのでしょうか?

 とにかく、そう思って、これからは、だんだん生活と私自身の心を改善させていくよう、努力したいと思います。」

 

その後、どうなったかはわかりませんが、近くの教会に通い、そこでいのちよりもたいせつなもの、イエス・キリストのいのち、永遠のいのちを得ることができたらと願っていますが。金銭を愛する者は金銭に満足しません。富を愛する者は収益に満足しないのです。そのような人は満腹してよく眠ることができません。むしろ、すべてを豊かに与えてくださる神に感謝し、イエス・キリストと共にあることこそ、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣であることを覚え、そこに目を留めたいと思うのです。

 

Ⅱ.なくならない食物のために働く人(13-17)

 

ここで教えられる幸せの第二の鍵は、なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食物のために働く人です。13~17節をご覧ください。まず13節と14節をお読みします。「私は日の下に、痛ましいわざわいがあるのを見た。所有者に守られていた富が、その所有者自身に害を加えることだ。その富は不運な出来事で失われ、息子が生まれても、その者の手もとには何もない。」

 

「痛ましいわざわい」とは、単なる悪しきことというレベルではなく、恐ろしい悪、決定的な打撃のことです。金持ちがいかに心を労し、富を守ろうとしても、その富が所有者自身に害を加えることがあります。たとえば、突然不幸な出来事が襲って、その富が一挙に失われ、子どもに残してやる財産すら無くなってしまうとかです。私たちは時々そのようなことを耳にします。株価や市場の暴落によって、持っていた財産の価値がなくなってしまったというニュースを。そのようにニュースに触れるたびに、できれば多くの財産を持っていたいと思う反面、経済って本当に怖いなあと思い知らされます。明日どうなるかなんてだれにもわからないのですから。伝道者自身、金持ちが突然の不幸に襲われ、一夜にして貧困のどん底に投げ込まれるのを目撃したのでしょう。このような経験から、伝道者は、次のような結論に導かれるのです。15,16節です。「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く。自分の労苦によって得る、自分の自由にすることのできるものを、何一つ持って行くことはない。これも痛ましいわざわいだ。出て来たときと全く同じように去って行く。風のために労苦して何の益になるだろうか。」

 

人はこの世に裸で生まれてきました。同じように、この世を去る時何一つ携えて行くことはできません。それがこの世の定めなのです。にもかかわらず、人はこの地上生涯においてその富を蓄積するために労苦するわけです。これも痛ましいわざわいです。それはまさに風のために労苦するようなものです。何の益もないのです。

 

そればかりではありません。17節には、「しかも、人は一生、闇の中で食事をする。多くの苛立ち、病気、そして激しい怒り。」とあります。どういうことでしょうか。これは夜中、ごはんを食べる話ではありません。その一生は、多くの苛立ち、病気、そして激しい怒りが伴うということです。それが闇の中で食事をするということです。

ここで伝道者が警告しているのは、神を信じないで、自分のために労苦する一生の空しさです。13節には「日の下に」ということばがありますが、それは、神様抜きの、神様無しの、神を除外したという意味です。神を除外して自分のために富を得ようとあくせく働くことがもたらす悲劇とはこのようなものであるというのです。

 

しかし、日の上には、喜びと楽しみがあります。その人の一生は、闇の中で食事をするのではなく、光の中で食事をするようになります。主イエスは言われました。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

主イエスの招きに応じて心の戸を開き、主イエスを心の中に迎えるなら、主がその人の中に入ってその人とともに食事をし、その人もまた彼とともに食事をします。苦痛も、病気も、怒りも、嘆きもありません。闇の中で食事をするのではなく、光の中で食事をするようになるのです。神の聖霊があなたに臨み、あなたのすべての罪が赦され、あなたは神の子とせられ、神との親しい交わりを持ちことができます。あなたの一生は、良いもので満たされるのです。

 

ですから、大切なのは何のために働くのかということです。あなたは、何のために働いていますか。なくなる食べ物のためにあくせくと働いてはいないでしょうか。イエス様は言われました。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」(ヨハネ6:27)

富のために労苦するなら、その富がわざわいをもたらすことになります。それは風のために労苦するようなものです。何の益にもなりません。そのような人の一生は、苛立ちであり、病気であり、激しい怒りです。闇の中で食事をするようなものです。けれども、日の上には喜びがあります。神が共におられるからです。富のためではなく、神のために、なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きましょう。それこそ、人の子が与えてくださる食べ物なのです。

 

Ⅲ.主の恵みを数える人(18-20)

 

ですから、結論は何かというと、幸せな人とは神が与えてくださる恵みを数え、それを喜び楽しむ人であるということです。18~20節をご覧ください。「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」

 

「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととはとは、こうだ」とは、伝道者がこれまで語って来たことを受けての結論です。それは、神によって与えられた日々の生活を楽しむということです。そうすれば、何が起こっても、人生の喜びを奪い去られることはありません。人生は短いのだから、神によって与えられているものを思う存分楽しむのが、最善の策であるというのです。このような思想は、2:24や3:13にもありましたが、伝道者はここでそのことを繰り返して語っているのです。繰り返して語っているというのは、それだけ重要なことであるということです。なぜこのことが重要なのでしょうか。それは、神がどのような方であるかを示しているからです。そうです、神は私たちに必要なものを与え、これを楽しむことを許してくださる方なのです。18-20節には、「神」の名が4回も出てきていますが、いずれの場合も、「神」は「与える方」として表現されています。

 

19節には、「実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」とあります。何が神の賜物なのでしょうか。これこそ神の賜物です。神は食べたり飲んだりするだけでなく、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされました。これこそが神の賜物なのです。

 

伝道者はここで、神というものを強く意識し、また、これを読む者に神から与えられた人生がどれほどすばらしいものであるかに目を向けさせているのです。であれば、私たちはこのことを理解し、自分が神よって受ける分を喜ぶことが求められています。そういう人は、自分に与えられた労苦(仕事)を、自分にゆだねられたものとして楽しむことができるようになりますが、そうでないと、自分の置かれた境遇を嘆き、文句タラタラ言いながら生きることになってしまいます。本当に不思議ですね。同じ境遇でも一方はそれを感謝して、前向きに受け止めることができる人がいれば、一方ではいつも周りの人と自分を比較して、自分に無いものに目を留めて失望したり、不平不満に陥っている人がいます。いったいその違いはどこにあるのでしょうか。それは神によって与えられた賜物を、自分の分としてしっかり受け止めることができるかどうかです。

 

新聖歌172番に「望みも消え行くまでに」という賛美があります。

1. 望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ 主の恵み 汝(な)が心は安きを得ん

数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

2. 主の賜いし十字架を 担いきれず沈むとき  数えてみよ 主の恵み つぶやきなど如何であらん
数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

3. 世の楽しみ 富 知識 汝が心を誘うとき 数えてみよ 主の恵み 天つ国の幸に酔わん
数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

 

この賛美は、E.O.エクセルという人によって作られました。エクセルという人は、この歌の題を「Count your blessings」と名付けています。「Count your blessings」。文字通り、「あなたに賜った恵みを数えなさい」という意味です。望みも消えそうになるほどの この世の嵐に悩むとき 数えてみてください 主の恵みを。あなたの心は安らぎ得るでしょう。主から賜った十字架を担いきれず 心沈むようなとき 数えてみてください 主の恵みを。あなたの心からつぶやきなど消え去るでしょう。この世の楽しみ 富 知識が あなたの心を誘惑するとき 数えてみてください 主の恵みを。さながら天国のような心地に 心躍るでしょう。数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み。

 

魂に平安がなく、私たちの内に不平不満が絶えない原因は、問題が大きいからではありません。エジプトを脱出した後のイスラエルの民に呟きが絶えなかったのは、あの救いの御業を忘れてしまったからです。詩篇103:2には、「わがたましいよ 主をほめたたえよ 主がよくしてくださったことを何一つ忘れるな。」とあります。主が良くしてくださったことを何一つ忘れないこと、そうです、主が良くしてくださったことを一つ一つ数えて感謝すること、それが幸福の秘訣なのです。

 

毎年11月第四木曜日は、アメリカではサンクスギビングを迎えます。1620年9月16日、信教の自由を求め102名の人を乗せて英国のプリマスを出航した船は、66日間の航海の後11月21日にアメリカ東部マサチューセッツ州プリマスに到着しました。慣れない土地で、森の木を切り、丸太で家を建て生活を始めますが、多くの人は都会育ちで農業に慣れておらず、新天地での生活は困難を極めました。冬の半年間に約半数の人たちが飢えと寒さで死にました。春に親しくなったインディアンから、トウモロコシやえんどう豆、小麦、大麦などの種まきを教えてもらい、2度目の秋には沢山の収穫が与えられたことから、秋の収穫物を前にインディアンの友を招き、神の恵みに感謝して収穫感謝礼拝を行ったのです。あれから400年、アメリカ人はそのことを忘れないようにと、毎年盛大にこれをお祝いするのです。というわけで、私はアメリカ人ではありませんが、家内がどうしてもというので、今週はターキーを焼いて盛大にお祝いすることになっています。

 

それはアメリカだけてのことではなく、私たちの人生においても言えることです。食べたり、飲んだりすることは日常茶飯事です。普段、食事がことさら楽しいと感じることはないでしょう。しかしその日常の小さな幸いこそが「神の賜物」であり、「幸福」なのです。私たちの人生は神に与えられた短い人生の日々です。残りわずかな人生の日々に、汗をかいて労し、食事ができることは、なんと幸いなことでしょう。それを神の賜物として受け入れ、喜んで生きることが大切なのです。

 

20節をご覧ください。「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」

こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返しません。自分が不幸だとか、神は不公平だとか、人生は悲劇で満ちているとか、思わなくなるのです。つまり、自分の人生をくよくよ思わなくなるということです。なぜ?神が彼の心を喜びで満たされるからです。その人の心には、神が下さる喜びが満ちているからです。

結局のところ、私たちの幸いは自分にどれだけの富や財産があるかとか、どんな仕事をしているか、どのようにうまくいっているかということではなく、神によって心が喜びで満たされているかどうかで決まるのです。自分に与えられたすべてのものが神の賜物であると受け止め、これを喜び、楽しみましょう。こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返すことはしません。まことに幸いな人だと言えるのです。

クリスチャンの生き方の原則 ローマ人への手紙14章13~23節

2020年11月15日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙14章13~23節

タイトル:「クリスチャンの生き方の原則」

 

 テキサス州アントニオにあるオーク・ヒルズキリスト教会牧師で「たいせつなきみ」という絵本を画いたマックス・ルケードは、子供にも大人にも好まれる作品を書くベストセラー作家です。その彼の著書「特別な愛」の中で、こんなエピソードを紹介しています。彼の奥さんの名前はデナリンといいますが、デナリンさんにはある一つの癖がありました。それは車庫に車を駐車する時、真ん中に駐車してしまうということです。ですから、夫のマックスが車庫の扉を開けると、彼が駐車するスペースの半分くらいを占領していることがあるのです。優しい夫のマックスは、そのような時には何気なくヒントを投げかけます。「どこかの車がうちの車庫の真ん中に居座っているね。」このようなことを言うと、日本では「何それ、嫌み?」なんて言われるので、このようなアプローチはなかなかできませんが、アメリカでは通じるのです。

 ある日、少し強い口調で彼が言うと、奥さんがどのようにそれを受け止めたかはわかりませんが、そのときから駐車するときには気をつけるようになりました。ある日、娘が母親に「ママ、どうして車を真ん中に駐車しないの?」と聞くと、彼女はこう答えました。「そうね。ママはあまり気にならないんだけど、パパが嫌いらしいのよ。パパが嫌がることはママも嫌なの。」自分が気にならないことでも相手が嫌なことはしない。それがキリストの弟子としての生き方の大切な一つのポイントです。

きょうのところでパウロはこう言っています。14、15節です。「私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。」

彼は、食べ物のことで、それ自体で汚れているものは何一つないと考えていました。しかし、そのことで気になる人もいて、そのことで心を痛めている人がいるなら、もはや愛によって歩んでいるとは言えません。その人への配慮が必要であるということです。

 

 Ⅰ.愛の配慮を(13-16)

 

 まず、13~16節までをご覧ください。「こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。」

 

 前回の箇所でパウロは、信者相互の対人関係において、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(1)と勧めました。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。十人十色で、教会には実にさまざまな考えを持った人がいます。それが聖書の教えと反しない限り、そうした考えを受け入れることが求められているのです。ここには「信仰の弱い人」とありますが、それは、律法に囚われてキリストにある自由を享受できないでいた人たちです。食べ物や日のことで、「こうしなければならない」という教えに縛られていました。しかし、信仰の強い人はそうではなく、生きるにしても、死ぬにしてもキリストのために生きているわけですから、律法を完全に成就された主に喜ばれることは何かを求めて生きていたので、そうした律法に囚われた生き方から解放されていました。真の意味でキリストにある自由を享受していたのです。しかし、そうでない人たちもいたのです。その人たちは、「信仰が弱い人たち」と言われていますが、そういう人たちをさばいてはいけないし、受け入れるようにいなければならないのです。

 

 きょうのところでは、13節ですが、ここでは、「いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。」とあります。兄弟に対して妨げになるものとか、つまずきになるものとは、そうした自分の考えこそ正しくて、相手の考えは間違っていると断罪することによって、その人が信仰につまずいてしまう、信仰から離れてしまうようになることです。そのように妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい、と言うのです。

 

 パウロ自身はどうであったかというと、旧約聖書には汚れた食べ物について記されてありますが、彼自身は食べ物それ自体で汚れているものは何一つないと考えていました。それが彼の確信だったのです。言わば、彼は信仰が強い類の人に分類される人でした。そうした律法には捉われることはなく、何を食べても、何を飲んでも問題ない、問題は何のために食べ、何のために飲むのかということです。ですから、彼はⅠコリント10:31でこう言っているのです。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにする。それが彼の生きる目的であり、基準でした。だから、そうした律法からは完全に解放されていたのです。

 

 しかし、一方でそうでない人たちもいました。何かが汚れていると考える人には、汚れているのです。それがレビ記にある「汚れた動物」のことなのか、コリント書にある「偶像にささげられた肉」のことなのかわかりませんが、そうした宗教的な理由から、それらのものを食べようとしないクリスチャンがいたのです。そして、もし食べ物のことで、その人たちが心を痛めているならば、それは愛によって行動しているとは言えないのです。なぜなら、キリストはその人のためにも代わりに死んでくださったのであり、そのような人を、食べ物のことで滅ぼすようなことがあるとしたら、愛によって行動しているとは言えないからです。先ほどのマックス・ルケードの例で言えば、奥さんにとっては車庫の真ん中に駐車することはあまり気にならないことだけれども、そのことでもし夫が気になっていり、嫌に思っているならば、そのようなことはしないと決心することこそ、思いやりであり、愛の配慮であるということです。

 

 パウロがここで教えている原則は、教会においては、信仰の強い人は弱い人のことを配慮しなければならないということです。この原則はきわめて重要であって、教会における一致は、いつでも強いと思われている者が譲歩することによって図られるべきであるということです。これは何度も言うようですが、あくまでも、聖書の原則に照らし合わせてみて、聖書もその行動を避難していないという確信の下でのことです。

 

 アメリカのチャールズ・スウィンドル牧師は、次のように言っています。「神の被造物はそれ自体良いもので、私たちはその被造物を十分楽しむ権利を持っています。しかし、信仰が成熟していない人々にとって妨げとなる場合には、私たちの権利を自制しなければなりません。そうする必要がある時は、愛が、私たちの自由を制限するように命令します。クリスチャンの自由の使用が、神の御業を損なう恐れがあるときには、まことの愛による分別力をもって、私たちの自由を用いなければなりません。」

 

 15章3節を見ると、「キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。」とあります。キリストご自身も自分の権利を自制されました。いや、放棄されました。キリストは神でありながら神であるという考え方に固執しないで、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。キリストが十字架につけられた時、それをながめていた民衆は「おい、おまえが救い主なら、自分を救ってみろ」とののしりましたが、彼はそのようにはしませんでした。できなかったからではありません。キリストがその気だったら十字架から飛び降りて、そのように言う人を裁き、地獄に送ることもできたでしょう。しかし、キリストはそのようにはされませんでした。なぜなら、そんなことをしたらキリストは十字架にかかって死ななければならないという神のみことばが実現しないからです。キリストはまだだれも経験したことがない、神に捨てられ、神にさばかれるということによって信じる者がみな永遠のいのちを受けたるために、十字架で死なれる道を選ばれたのです。つまり、キリストが十字架で死なれたのは私たちの益のためであったということです。キリストは自分を喜ばせるためではなく、私たちのために、私たちの益となることを考えてそうされたのです。これが愛によって行動するということです。つまり、自分の考えによって行動するのではなく信仰の弱い人のことを考え、その人の益のために行動するということです。それはその人もまたキリストが代わりに死んでくださったほどの人だからです。それなのに、食べ物のことでその人を滅ぼすようなことがあるとしたら、それこそ愛によって行動しているとは言えません。

 

 Ⅱ.大切なのは本質的なこと(17-19)

 

 第二のことは、信仰の本質とは何か、神の国の本質とは何なのかを考えるということです。17~19節までをご覧ください。なぜ私たちは信仰の弱い人を配慮すべきなのでしょうか?ここには、「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(17節)とあります。

 

 パウロがここで強い関心を抱いていることは、神の国とは何なのかということです。神の国の本質は飲み食いすることではなく、聖霊による義と平和と喜びなのです。義とは神様との正しい関係のことです。つまり、キリストの福音によって神様との正しい関係に入れられたことです。平和と喜びとは、その結果得られる神との関係、そして人との関係のことです。これが神の国の本質的なことなのです。何を食べるのかとか、何を飲むかということではありません。であれば、飲み食いのことで多少意見の違いがあったとしてもそれはある意味どうでもいいことであって、時には譲歩しなければならない時もあるわけです。この本質的なこととそうでないことの判断基準間違うと、教会が混乱してしまうことになります。そして、教会では意外とこのようなことで争いが起こることが多いのです。

 

 1994年に山形県米沢市で、東北リバイバルミッションが行われました。会場は、米沢市の郊外にある恵泉キリスト教会のミーコ記念ホールでした。私も実行委員の一人として準備に当たっていましたが、その中で意外なことが話題になりました。それは、当日の夕食をどうするかということでした。遠くから来られる方もいるので、夕食のことも考えておいた方が良いのではないかというのです。まさに五つのパンと二匹の魚です。「こんなへんぴな所でそれだけの人数分の食事を用意するのは大変ですよ。めいめいが食べるにしても、周りにはコンビニ一つありません。すると、実行委員長をしておられた千田次郎先生がこう言われたのです。「いや、食べ物が大切なんだよね。意外とみんな食べ物のことを気にしているのよ。そして、結構こういうことで問題になることが多いから、ちゃんと用意した方がいいんじゃないですか」

そんなものかなぁと思って夕食も準備し当日を迎えましたが、千田先生が言われたとおりでした。食べ物になるとみんな目の色が変わるのですね。食べ物なんてどうでもいいことなのに、意外と深刻な問題になるケースが多い。そういえば、初代教会で最初に起こった問題も食べ物のことでした。ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、へブル語を使うユダヤ人たちに苦情を申し立てたのです。それは、彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給のことでなおざりにされていたからです。このように、食べ物のことでは問題が起こりやすいのです。あるいは、食べ物のようなことでは問題が起こりやすいと言った方がいいかもしれません。しかし、このときは千田先生の経験から出た知恵によって美味しい食事を用意したこともあって、とても和やかな、温かい集会になりました。

 

 しかし、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです。それが教会の本質的なことなのです。ですから、本質的なことにおいては決して曲げたり譲ったりしなくとも、そうでないことについてはできるだけ丁寧に、忍耐強く対処しなければなりません。そして、時には相手に一歩譲るといった広い心が求められるのです。すなわち、19節にあるように、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めていかなければならないということです。

 

  Ⅲ.信仰によって生活する(20-23)

 

第三のことは、自分の信仰の確信によって行動しなさいということです。20~23節をご覧ください。「食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。 あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」

 

 パウロの確信は、食べ物のことで汚れているものは何一つないということでした。しかし、そのことで兄弟が心を痛めるようなことがあるとしたら、もはや愛によって行動しているとは言えません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことで滅ぼしてしまうことになるからです。ですから、本質的でない事柄については譲歩することも必要なのです。

 

それとは逆に、食べてはいけないと思っていたのに食べても全く問題がないのよと説得された場合はどうしたら良いのでしょうか。自分で納得して食べたのであれば問題はありませんが、そうでないのに食べるということがあるとすると、良心に責めを感じてしまうことになります。その場合の原則は、22節にあるとおりです。「あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。」

 

あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなければなりません。前回のことばで言うと、5節にあります。「それぞれ自分の中で確信を持ちなさい。」ということばです。人から言われたからと言って、疑問を抱きながら食べるとしたら、それは罪です。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪なのです。ですから、自分の確信を持っていなければなりません。そういう意味では、だれかほかの人が何と言ったかということが重要ではなく、自分自身が聖書の言うところの「自由」の教理をよく理解し、それをバランスよく自分自身に適用しなければなりません。そのようにして、自分の確信を持っていなければならないのです。そうすれば、ほかの人が言ったことばに振り回されることなく、自分の確信として行動することができるようになるはずです。

 

 今、C-BTEの学びが行われていますが、ちょうど先週の木曜日で取り扱った箇所が、このローマ14章でした。そこでは、私たちの信仰は、規則という土台の上に建て上げられているか、原則という土台の上に建て上げられているかで決まるということを学びました。原則を理解して初めて、他人の意見に左右されずに、信仰に建て上げられるようになるからです。そして、この箇所をその原則に生き、キリストにある自由を守るための大事な箇所として学んだわけです。その原則とは何か、それは、それぞれが神の御前で自分の信仰としての確信を持っているということです。そうすれば、つまずいたり、さまたげられることもありません。

 

 以前、福島で牧会していたとき、ある人から「先生、クリスチャンがカラオケに行くのはどうなんですかね」と聞かれたことがありました。私は一度もカラオケに行ったことがないので、正直のところ、カラオケがどういうところなのかわからないのです。それで、ある日曜日の礼拝後に青年たちが集まって討論することになりました。テーマは「カラオケは罪か」です。おもしろかったですね。いろいろな意見が出ました。カラオケに行くには問題ないけれども、そこで飲んだり、騒いだりするのはどうかとか、カラオケに行くなら、自分の家で賛美した方がいいんじゃないかとか、いや、友達に伝道するためにそうした付き合いで行くのは問題ないんじゃないかとか、です。皆さん、どうですか。カラオケは罪ですか。

 今日の聖書の箇所は、このように「白黒の判断をつけることが難しい領域」に直面した時、どうしたら良いかのヒントを与えてくれます。それは、神の御前で自分の信仰の確信を持っていなさい、ということです。しかも、その確信を相手に押し付けるのではなく、相手の考えも受け入れなければなりません。キリストはその人も哀詞、その人のために変わりに死んでくださったほどの人だからです。その人の意見をさばくのではなく、尊重しなければなりません。それは、神の国は食べたり、飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。これをカラオケに適用するとしたら、神の国はカラオケに行っても良いかどうかということではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めるべきです。

 

 どうですか、何だからスッキリしませんか。私たちはとかくこれをしても良いのか悪いのか、そうした規則という土台の上に立ちがちですが、大切なのは、この福音の原則に立つことです。その中から、私たちはどうすべきなのかを判断することです。そういう意味で重要なのは、私たちが福音をどのように理解しているか、聖書の自由の教理をどのように理解し、それをバランスの取れた、成熟した適用をしているかどうかということです。そして、そこにはたえず信仰の仲間がいるわけで、不必要にその人たちの感情を害さないようにその自由を控えめに、無理に人に押し付けることをせずに用いるということです。

 

 皆さんの行動の基準は何でしょうか?クリスチャンは正しい人でなければなりませんが、正しい人であるというだけでは駄目です。正しい人であると同時に広い心、寛容な心を持っていなければなりません。批判するのではなく受け入れることが必要です。それは教会も同じで、教会は福音の真理の上に立たなければなりません。しかし、それだけではだめです。それと同時に、兄弟姉妹に対して寛容でなければなりません。互いにさばきあうのではなく、互いに平和に役立つこと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めていこうではありませんか。

出エジプト35章

2020年11月11日(水)祈祷会メッセージ

聖書箇所:出エジプト35章

 

出エジプト記35章を開いてください。金の子牛の事件によって神との契約を取り消されたイスラエルでしたが、モーセのとりなしによって神の赦しを得て、再び神との契約を結ぶことができました。モーセは40日40夜、シナイ山で主とともにいました。彼が山から降りて来ると、彼の顔が輝きを放っていました。それでモーセはイスラエルの民と話し終えると、顔に覆いを掛けました。その輝きを失わないためです。そして主と語るために主のもとに行く時は、その覆いを外していました。それは、律法の限界を示していました。確かに、律法にはそれなりの輝きがありますが、それによって救われることはありません。けれども、人が主に向くならその覆いは取り除かれます。そして鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行くのです。それが御霊の輝きです。その輝きは律法のように一時的なものではなく永続した輝きです。

 

そして35章に入ります。ここには、モーセがシナイ山で受けた幕屋と祭司の事柄について記されてあります。幕屋は神の臨在が現われる場所です。モーセは、その幕屋を建設するにあたり、主が行えと命じられたとおりに行っていきます。これは25~31章で語られた内容の繰り返しです。このように繰り返して記されてあるということは、それだけ重要であるということです。ここから私たちは、どのようにして主の働きをしていったら良いかを学びたいと思います。

 Ⅰ.安息日の規定(1-3)

 

まず、1~3節をご覧ください。「モーセはイスラエルの全会衆を集めて、彼らに言った。「これは、【主】が行えと命じられたことである。六日間は仕事をする。しかし、七日目は、 あなたがたにとって【主】の聖なる全き安息である。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。安息日には、あなたがたの住まいのどこであっても、火をたいてはならない。」」
 

これから幕屋の材料を集めること、幕屋を造る作業を開始させるのですが、その初めに安息日についての規定について語られました。それは、彼らが本当に大切なもの、第一にすべきものを見失わないようにするためです。本当に大切なものとは何でしょうか。主を礼拝することです。言い換えると、主ご自身を求めることです。以前にもお話ししましたが、主のための働きは主を礼拝するという行為があってこその働きです。主を礼拝することこそ本質的なことであって、それに伴う作業はその次のことなのです。

 

クリスチャン生活と教会、諸活動の中心は、主を礼拝することです。信仰生活の他の点でどんなに成長していても礼拝の生活が確立されていなかったら、あるいはまた、教会のどの活動に力を入れても、礼拝がその中心に据えられていなかったら、すべては空回りしてしまいます。礼拝こそ信仰の中心であり、礼拝によって強められ、励まされ、燃やされ、一週間の生活に遣わされていきたいと思います。


Ⅱ.進んでささげるささげ物(4-19)

 

次に、4~9節をご覧ください。まず、9節までをお読みします。「モーセはイスラエルの全会衆に告げた。「これは【主】が命じられたことである。あなたがたの中から【主】への奉納物を受け取りなさい。すべて、進んで献げる心のある人に、【主】への奉納物を持って来させなさい。すなわち、金、銀、青銅、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。」


モーセはイスラエルの全会衆に、主への奉納物を持ってくるように命じました、これらは25:4~7

にもあった15種類の材料です。ここでは、そのささげものを献げるにあたっての心構えが記されてあります。それは、「すべて、進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい」ということです。義理とか、義務感からではなく、心から、喜んでささげる者から受け取るようにということです。Ⅱコリント9:6~7でパウロは、このように言っています。「私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」

これが献金についての原則です。献金について聖書の中で貫かれている原則は、自分自身のもの、特に自分にとって尊いものを主に献げるということと同時に、それらが自分の意思で、主体的に、喜んで献げるということです。他の人が献げているからとか、牧師にそのように言われたからとかではなく、自分の心で決めたとおりに、喜んで献げるということです。神は喜んで献げる人を愛してくださいます。実際、スラエルの民は、心から進んで献げました(35:21,22,29)。その結果、あり余るほどのささげものが献げられたのです(36:5-7)。

 

次に、10~19節をご覧ください。「あなたがたのうち、心に知恵ある者はみな来て、【主】が命じられたものをすべて造らなければならない。幕屋と、その天幕、覆い、留め金、板、横木、柱、台座、 箱と、その棒、 『宥めの蓋』、仕切りの垂れ幕、机と、その棒とそのすべての備品、臨在のパン、ともしびのための燭台と、その器具、ともしび皿、ともしび用の油、香の祭壇と、その棒、注ぎの油、香り高い香、そして幕屋の入り口に付ける入り口の垂れ幕、全焼のささげ物の祭壇と、それに付属する青銅の格子、その棒とそのすべての用具、洗盤とその台、庭の掛け幕と、その柱、その台座、庭の門の垂れ幕、幕屋の杭、庭の杭、そのひも、聖所で務めを行うための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。」」

 

 ここには、ささげられた材料を使って幕屋やその中にあるもの、あるいは祭司の装束を造るようにと言われています。誰にそのことが命じられているかというと、「心に知恵のある者」です。心に知恵のある者はみな来て、主が命じられたものをすべて造らなければなりませんでした。心に知恵のある者とはどういう人でしょうか。それは人間的な言い方をすれば職人さんたちのことでしょう。ただの職人さんではありません。これは神の知恵、神の霊に満たされた、御霊の賜物が与えられていた人たちです。このようなものを巧みに造ることができる特別な能力を神から与えられている人がいます。そのような人たちに命じられているのです。30~31節には、「モーセはイスラエルの子らに言った。「見よ。【主】は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。」とあります。また、「ダン部族のアヒサマクの子オホリアブ」にもそのようにされました。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、神から与えられた仕事を成し遂げるためです。

 

同じように神様は、私たち一人一人を召し、主から与えられた仕事を成し遂げるために、御霊の賜物を与えてくださいました。Iコリント12章には、「奉仕にはいろいろな種類があり、働きにはいろいろな種類がありますが、主は同じ主です。みなの益になるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」(12:4-7)とあります。神から与えられている賜物は、それぞれみな違います。ちょうど人間のからだは一つでも、そこに多くの器官があるように、キリストのからだにもいろいろな種類の賜物が与えられた人たちがいるのです。それぞれに与えられた賜物を通して、主のからだである教会が建て上げられていくのです。それはどういうことかというと、第一に、私たちはそれぞれを必要としているということです(12:21)。それぞれ互いに補い合ってこそ、教会はしっかりと建て上げられていくのです。第二のことは、比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものであるということです。私たちはからだの中で比較的に尊いとみなす器官をことさらに尊ぶ傾向がありますが、神は違います。劣ったところをさらに尊んで調和させてくださいます。そうやってキリストのからだが立て上げられていくのです。

 

 Ⅲ.心を動かされた者、霊に促しを受けた者(20-35)
 

それに対して、民はどのように応答したでしょうか。20~29節をご覧ください。「イスラエルの全会衆はモーセの前から立ち去った。心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、【主】への奉納物を持って来た。進んで献げる心のある者はみな、男も女も、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を【主】に献げる者はみな、そのようにした。また、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。銀や青銅の奉納物を献げる者はみな、それを【主】への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のあらゆる仕事のためにそれを持って来た。また、心に知恵ある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。部族の長たちは、エポデと胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石を持って来た。また、ともしび、注ぎの油のため、また香りの高い香のために、香料と油を持って来た。イスラエルの子らは男も女もみな、【主】がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして【主】に持って来た。」

 モーセの前から立ち去った民はどのように応答したでしょうか。「心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持ってきた。」(21)

ここで繰り返して記されていることは、「心を動かされた者」、「霊に促しを受けた者」です。つまり、彼らは自分のものをささげるときに、いやいやながらではなく、また強制されてでもなく、自分でささげたいと思って、それを心から喜んでしたということです。そこには聖霊による感動がありました。それは、金の子牛の事件の罪が赦されたという感動でもありました。さらに、主の栄光が再び宿るという恵みへの感動でした。

 

 29節をご覧ください。ここには、「イスラエルの子らは男も女もみな、【主】がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして【主】に持って来た。」とあります。ここには、「イスラエルの子らは男も女もみな」とあります。金の子牛を作るためにアロンが指定したのは金だけでした。金を持っていない人たちはそれに参加することができませんでした。しかし、幕屋の建設は違います。幕屋の建設のためには15種類のものが必要とされました。つまり、誰でも参加することができたのです。事実、民は主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、あり余るほどのささげものを献げました。神の事業には、全員が参加するのです。

 

それは、神の教会も同じです。教会は牧師だけの働きによって成し遂げられるものではありません。信者全員が参加することによって建て上げられていくものです。まさに全員野球です。そのことを覚え、喜んで主の働きに参与させていただきましょう。

 

 最後に、30~35節をご覧ください。「モーセはイスラエルの子らに言った。「見よ。【主】は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、意匠を凝らす仕事をするためである。また、彼の心に人を教える力をお与えになった。彼と、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブに、そのようにされた。主は彼らをすぐれた知恵で満たされた。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、彫刻する者、設計する者、青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺?する者、また機織りをする者の仕事を成し遂げるためである。」

 

祭具や祭司の彫刻において細工が必要ですが、そのために主はベツァルエルを名指しで召されました。そして、彼が幕屋のあらゆる仕事を成し遂げるために、彼に知恵と英知と知識を与えました。神の霊で彼を満たされたのです。神は、ご自身の働きのために召してくださった人にこのように神の霊を与えてくださるのです。教会において、神の働きにおいて必要なのは能力がある人ではなく、神の霊に満たされた人です。神の霊、知恵と英知と知識なのです。

 

もうひとりはオホリアブという人物です。彼はベツァルエルの補助者となりました。彼はダン部族の出身でした。最大のユダ部族からベツァルエルが召され、最小のダン部族からオホリアブが召されました。ここから、神はイスラエル12部族のすべてを用いようとしておられたことがわかります。主は彼らをすぐれた知恵で満たされました。それは彼らがあらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、神の幕屋を制作するという仕事を成し遂げるためです。これは主が名指しで召したとあるように、神の主権によって成されたことでした。

 

この原則は、新約の時代の教会にも言えることです。エペソ4:11~13節には、「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」とあります。

 

主は、キリストのからだを建て上げるために、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある日外たちを牧師また教師としてお立てになりました。名指しで召されたのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きを指せ、キリストのからだを建て上げるためです。ですから、他の兄姉に与えられた賜物をねたんだり、うらやましがったりする必要はありません。互いの賜物を認め合い、キリストが建て上げられていくことを求めて、自分に与えられた賜物を喜んで主に用いていただきましょう。

神は天に、あなたは地に 伝道者の書5章1~9節

2020年11月8日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書5章1~9節(旧約P1143)

タイトル:「神は天に、あなたは地に」

 

 伝道者の書5章に入ります。伝道者は、日の下で益になるものはないかといろいろと探究しましたが、日の下には人の益になるものは何もありませんでした。「空の空。すべては空。」です。結局のところ、人は神から離れて、だれも食べたり、楽しんだりすることはできません。

 しかし、伝道者の探究はこれで終わりません。であれば、宗教はどうなのか。熱心に宗教をすれば心が満たされるのではないかと思うのです。しかし、残念ながらそうではありません。大切なのは、宗教に熱心であることではなく、宗教が目指している神との関係がどうであるかということです。すなわち、神と正しい関係を持つことです。この伝道者のことばで言えば、7節にありますが、「ただ、神を恐れよ」ということです。きょうは、このことについてお話ししたいと思います。 

 

 Ⅰ.神の宮へ行くときは(1-3)

 

 まず、1節から3節までをご覧ください。「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」

 

「神の宮へ行くときは、自分の足に来につけよ。」とは、教会に行くときには、車の運転に気を付けよ、という意味ではありません。まあ、車の運転には十分気をつけてほしいと思いますが、そういうことではないのです。神の前に立つ時には、その態度に気をつけるようにということです。つまり、神を礼拝する時の姿勢について語られているのです。どういうふうに気をつけなければならないのでしょうか。

 

 その後のところには、「近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。」とあります。どういうことでしょうか。信仰において大切なのは、近寄って聞くことだということです。どんなにいけにえを献げたとしても、主が自分に何を語っておられるのかを知り、それに聞き従うのでなければ何の意味もありません。イスラエルの最初の王サウルの問題はここにありました。彼は預言者サムエルを通して、「行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。」(Ⅰサムエル15:3)と命じられましたが、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しませんでした。後でサムエルが彼のもとに来て羊や牛の鳴き声を聞いたとき、「この声は何ですか」と尋ねると、彼は、「あなたの神、主にいけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを取っておきました。しかし、残りのものは聖絶しました。」(Ⅰサムエル15:15)と答えました。それは主にいけにえを献げるために取っておいたと言ったのです。もったいないから。でも神様の命令は何でしたか。すべてのものを聖絶せよ、ということでした。すべてのものですから、最も良いものもそうでないものもすべてです。しかし、彼はその命令を守りませんでした。自分に都合が良いように受け止めたのです。

それに対してサムエルは何と言ったでしょうか。彼はこう言いました。

「主はあなたに命じて言われました。「行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。」なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」(Ⅰサムエル15:18-19)

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)
 主の御声に聞き従うことは、いけにえにまさります。自分がどんなに献げものをしたからといっても、主の御声に従うことがなければ何の意味もありません。

 

人は本能的に宗教的なものを求めています。宗教といえば、一般にキリスト教もその一つと言えるでしょう。いわゆる宗教としてのキリスト教はあります。けれども、教会に通いながらもなおキリストにある神との生きた関係を持つのでなければ、どんなにそれに付随したことに熱心であっても、それは空振りに終わってしまいます。そのような宗教は、ソロモンが他の分野に求めたもの、たとえば、知恵、知識、富、名誉、財産といったものと同じように空しい結果をもたらすことになります。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからです。それもまた風を追うようなものです。信仰生活において大切なのは、近くに行って聞くこと、主の御声に聞き従うことです。あなたはどうでしょうか。主の御声を聞いておられるでしょうか。聞いて従っているでしょうか。

 

2節をご覧ください。ここには、「神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」とあります。

神の前ではどうあるべきか、ということです。ここには、「神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな」とあります。どういうことでしょうか。神の前では、それが誓いであれ、祈りであれ、軽率なことばは控えるべきであるということです。私たちが神に対して熱心であればあるほどことば数も多くなります。賛美であれ、祈りであれ、感謝であれ、多くの言葉を口にするのです。そのこと自体は悪いことではありませんが、注意しないと、それがただ口先だけの表面的なものになってしまうことがあります。私たちにとって必要なのは、神の前で心焦ってことばを出すことではなく、神の声を聞くことなのです。

 

そのことについてイエス様は、山上の説教の中でこのように教えられました。少し長いですが、引用したいと思います。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(マタイ6:1-8)

偽善者たちの問題は何だったのでしょうか。それは人に見せようとしたことです。自分を人に見せようと思うとことば数が多くなります。自分の前でラッパを吹いてしまうわけです。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っていますが、実際のところはそうではありません。大切なのはことば数の問題ではなく、それが真実な祈りであるかどうかということです。伝道者はその理由を次のように言っています。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」どういうことでしょうか。これはきょうのメッセージのタイトルです。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」つまり、神は天におられ、私たちに必要なものが何であるかを知っておられるからです。私たちは地にいますが、神は天におられます。そして、私たちに必要なもののすべてを知っておられるのです。であれば、私たちはこの神にすべてをゆだねて、人前ではなく、隠れたところにおられる主に、心から祈りをささげるべきではないでしょうか。

 

3節をご覧ください。「仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」これは2節で語られたことを強調するために引用した格言です。仕事が多いと悪夢にうなされます。それと同じようにことば数が多い人は、愚かなことばを口にするようになるということです。それは祈りにおいても、日常会話においても同じです。言わなくてもいいようなことをついつい言ってしまいます。新約聖書のヤコブ書にもありますが、舌は小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。それを制御することは簡単なことではありません。馬を御するためには、その口にくつわをはめればできますが、この舌を制御することはなかなかできません。だからこう祈りなさいと、イエス様は教えてくださいました。それが主の祈りです。

「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。

 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:9-13)

 

私たちも神の宮へ行くときは、このことに心を留めたいと思います。神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すのではなく、逆に、神の近くに行って神の御声を聞き、心からの祈りをささげたいと思います。

 

Ⅱ.神に誓願を立てるときには(4-6)

 

次に4~6節をご覧ください。私たちは神の前でどうあるべきなのか、次に、伝道者が取り上げるのは「誓願」についてです。「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。あなたの口が、あなた自身を罪に陥らせないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。」

 

ここには、神に誓願を立てるときにはどうしたら良いかについて教えられています。「誓願」とは、広辞苑を見ると、神や仏に誓いを立て、物事が成就するように願うこと、とあります。その誓願を立てるときは、それを果たすのを遅らせてはなりません。人は安易に、「主よ。もし・・のことをしてくださるなら、私は・・のことをします」と誓いますが、いざとなると、それを果たすことを忘れてしまったり、先延ばしにしてしまうことがあります。しかし、誓っても果たさないなら、誓わないほうがましです。なぜなら、そのように誓うことによって、あなたの口が罪を犯すことになるからです。申命記23:21-23にはこうあります。「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。なぜなら、あなたの神、主は必ずあなたからそれを要求し、こうしてあなたが罪責を負うことになるからである。 誓願をやめる場合、あなたに罪責は生じない。あなたの唇から出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行わなければならない。」

 

聖書にはこの誓願に関していくつかの例が見られます。たとえば、ハンナの誓願ですね。彼女は夫エルカナに愛されながらも、胎は閉じられていて、子どもがありませんでした。しかし第二夫人であったペニンナには多くの息子と娘たちがいて、夫に愛されているハンナを憎み彼女をいらだたせるようなことをしていました。それでハンナの心は痛み、主の宮で主に祈って激しく泣きました。そのとき、彼女は主に誓願を立てました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(1サムエル1:11)

すると、このハンナの祈りは聞かれ、男の子が与えられました。そして生まれた男の子の名前をサムエルと名づけました。第一子は母親にとって最も大切な存在です。その子が乳離れした頃、彼女は主に誓ったとおりに主にささげたのです。具体的には、祭司エリのもとに預けました。このようにして、誓願を立てて与えられたサムエルは、やがてイスラエルの歴史の舵取りをしていく者となったのです。

 

また、エフタの誓願もあります。士師記に出てきます。イスラエルの士師、さばきつかさであったエフタはアンモン人と戦っていましたが、その戦いがいよいよ激しくなったとき、彼は主に誓願を立てて言いました。「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」(士師11:30-31)

すると、主はアンモン人をエフタの手に渡されたので、彼はアンモン人に勝利することができました。しかし、彼が戦いに勝って自分の家に帰ると、なんと、自分の娘がタンバリンを鳴らして、踊りながら迎えに出て来たのです。エフタは唖然としました。もしアンモン人に勝利することができたら、自分が無事に家に帰ったとき、その戸口から最初に自分を迎えに出て来た者を、主への全焼のいけにえとしてささげると誓っていたからです。いったい彼はどうしたでしょうか。聖書にはこうあります。「父は誓った誓願どおりに彼女に行った。」(士師11:19)彼は誓ったとおりに彼女に行ったのです。このことについては、文字通り全焼のいけにえとしてささげたということなのか、終生幕屋で仕えるために主に捧げられたということなのか意見が分かれるところですが、はっきり言えることは、彼は自分が誓ったとおりに行ったということです。

 

それにしても、人はなぜこのように誓願をするのでしょうか。ハンナにしても、エフタにしても、それだけ強い願いがあったからでしょう。ハンナは何としても子どもがほしいという思いがあったでしょうし、エフタにしても、アンモン人との戦いが激しさを増したとき、何としても勝利したいという気持ちが強かったのだと思います。それが、このような誓いという形になって出てきたのでしょう。でもまさか自分の娘が戸口から出てくるなんて思ってもいませんでした。いや、もしかしたらそのような可能性も考えられたかもしれませんが、それよりも勝ちたいという思いが、性急な誓いという形となって出て来たのではないでしょうか。

しかし、こうした性急な誓いは後悔をもたらします。また、神へ誓いは、神に何かをしていただくためではなく、すでに受けている恵みに対する応答としてなされるべきです。ですから、エフタの誓願は、信仰の表れというよりは、むしろ彼が抱いていた不安の表れにすぎなかったのです。

 

このように軽々しく誓うことが私たちにもよくあります。それが自分の力ではどうすることもできないと思うような困難に直面したとき、「神様助けてください。もし神様がこの状況を打開してくださるのなら、私は・・・をささげます」というようなことを言ってしまうのです。イエス様は「誓ってはいけません。」と言われました。誓ったのなら、それを最後まで果たさなければなりません。果たすことができないのに誓うということは、神との契約を破ることであり、神の呪いを招くことになります。ですから、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言うべきです。それ以上のことを口にするのはよくないことです。サタンの罠にかかる恐れがあるからです。エフタは自分の直面している困難な状況を、誓願を通して乗り越えようとしましたが、軽々しく誓うべきではなかったのです。

 

私たちはきょう「プリンセス」の献児式を行いました。献児式とは何でしょうか。献児式とは、神から賜った我が子を神様にお返しする式です。それは神のものですから神にお返しするのです。その中で、神から授かった子として神のみこころにかなった子どもとなるように大切に育てていく責任が両親に与えられているのです。ただのセレモニーではありません。「プリンセス」は神に献げられた神のものですから、両親はこの子を神から託された大切な子として神の愛をもって育てていかなければなりません。そして、やがてこの子が神を信じて神のもとに帰ることができるように、私たちも常に祈るものでありたいと願います。

 

Ⅲ.ただ神を恐れよ(7-9)

 

神の前でどうあるべきなのか、第三のことは、だから、ただ神を恐れよ、ということです。7-9節をご覧ください。「夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。ただ、神を恐れよ。ある州で、貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからだ。国にとっての何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。」

 

「夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。」とは、3節のことばを受けてのことでしょう。「仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」非現実的にことばを多く発するよりも、神を恐れることを学べということです。

預言者ヨエルは、やがて聖霊が降るとき、息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る、と言いました。しかし、それが神に栄光を帰すためではなく、神なしに見る夢は空しいだけで、悪夢にすぎません。

私が小さい頃、「いつでも夢を」という歌が流行っていました。橋幸夫さんと吉永小百合さんがデュエットです。

「星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘はいつも 歌ってる
声が聞こえる 淋しい胸に 涙に濡れた この胸に
言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を
星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘はいつも 歌ってる

 歩いて歩いて 悲しい夜更けも あの娘の声は 流れ来る
すすり泣いてる この顔上げて きいてる歌の 懐かしさ
言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を
歩いて歩いて 悲しい夜更けも あの娘の声は 流れ来る」

 

これは、昭和37年、日本レコード大賞グランプリに輝いた曲ですが、グランプリに輝いた、と云う割りに、あまり内容のない歌詞ですね。場面のイメージが湧いてきません。タイトルだけが独り歩きしているような感じです。とある人は言っています。神なしに見る夢には空しさがあるのです。

 

また、ことばが多いところにも空しさがあります。先ほども言いましたが、口を制御しない無節制なことばの習慣は、自分の過ちをあらわにします。多くの夢とことばに縛られて忙しく生きるより神を恐れて生きること、それが最も重要なことなのです。

 

それは、8-9節を見てもわかります。ある地域で貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚く必要はないと伝道者は言っています。なぜなら、その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからです。これは、堕落した官僚制度のことです。それぞれの段階で、各人が何らかの利益を得ています。上役には下の者を監視する役割が与えられているのに、現実にはそのようになっていません。しかし、虐げる者たちの上には、彼らよりもさらに高い神がおられ、すべてを見ておられます。

 

9節には「国にとって何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。」とありますが、何のことを言っているのかよくわかりません。この聖句は、伝道者の書の中でも最も難解な箇所の一つだと言われています。へブル語の原文の確定が難しいからです。その中で最も意味が通じる訳は、英語訳(NIV)ではないかと思います。英語訳(NIV)では、「王もまた農地の収穫から利益を得ている」となっています。この場合、下級官僚から王に至るまで、腐敗の官僚体制が出来ているという意味になります。その点に関しては、ソロモンの王国も例外ではありませんでした。彼の王国も重税によって民は苦しめられていました。それはソロモンの時代だけではありません。現代でも言えることです。それはいつの時代でも横行している悪なのです。子どもの7人に1人が貧困に喘ぐ今の日本にあって、いったいどこに希望があるのでしょうか。

 

 ソロモンは、その現実を見てこう言うのです。「ただ、神を恐れよ」と。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」私たちにとっての希望は、天におられる神が、地にいる私たちの歩みをご覧になっておられるということです。「主は天から目を注ぎ人の子らをすべてご覧になる。御座が据えられた所から地に住むすべての者に目を留められる。」(詩篇33:13-14)だから、ただ神を恐れ、神に従うこと、これがすべてです。これが唯一の希望であり、救いであり、神の御前における正しい人間の姿、神との正しい在り方なのです。

 

箴言14章27節には「主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。」とありますが、私たち一人ひとりを生かし、治めておられる主を知ること。人のいのちとたましいに対する権威を唯一持っておられる方を恐れて生きること。それを抜きにして人は真の平安を得ることはできません。神は天におられ、あなたは地にいるからです。この神を恐れ、神に聞き従いましょう。これが人間にとってすべてであり、神の前にある正しい姿なのです。

三つ撚りの糸は簡単には切れない 伝道者の書4章1~16節

2020年11月1日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書4章1~16節(旧約P1142)

タイトル:「三つ撚りの糸は簡単には切れない」

 

 伝道者の書4章に入ります。「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」と、日の下での労苦、神様抜きの、神様無しの労苦がいかに空しいものであるかを語ってきた伝道者ですが、その中にも光る言葉というか、含蓄のある言葉が散りばめられています。今日のみことばもその一つでしょう。「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」今日は、この「三つ撚りの糸は簡単には切れない」というテーマでお話ししたいと思います。

 

 Ⅰ.片手を満たして憩いを得る(1-6)

 

 まず、1節から6節までをご覧ください。3節までをお読みします。「私は再び、日の下で行われる一切の虐げを見た。見よ、虐げられている者たちの涙を。しかし、彼らには慰める者がいない。彼らを虐げる者たちが権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。」

 伝道者は改めて、日の下で行われている一切の虐げを見ました。虐げる者たちが力で人々を虐げ、ねじ伏せているのです。虐げられている人たちは無力で、何の抵抗もできません。彼らはただ涙するだけで、立ち上がることすらできないのです。しかも、そんな彼らを慰める者もいません。どうしようもない非情な社会です。

この伝道者の生きていた時代がどういう時代であったのかわかりませんが、伝道者が見ていた状況は、現代にとても似ています。この伝道者の時代も格差社会だったのでしょう。今、日本では経済的格差がどんどん広がり、富める人はますます富み、貧しい人は貧しいまま、負のスパイラルから抜け出せずにいます。

 

伝道者はこうした現実を見てこう言います。2節です。「いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。」いのちがあって虐げられながら生きている人よりは、死んだ人のほうがましだということです。死人は、地上での労苦から解放されているからです。生きていても虐げから逃れることができず、涙するしかないのであれば、むしろ死んだ人の方が幸いではないか、というのです。これはいじめられた人がよく口にすることです。「こんなことなら死んだ方がましだ」。いじめや虐待は、それほど辛いものなのです。

 

それだけではありません。3節には、「また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。」とあります。すごいことばです。「この両者」とは、「いのちがあって生きながらえている人」と「すでに死んだ死人」のことを指しています。この両者よりももっと良いのは、今までに存在しなかった者、最初から生まれて来なかった者だと言うのです。なぜなら、最初から生まれて来なければ、日の下で行われる悪いわざを見ることがないからです。虐げられることもありません。しかし、これは伝道者がこの世に存在することを否定しているのではなく、日の下で行われている現実を見て、それがいかに空しいものであるのかを述べているだけです。いったい問題はどこにあるのでしょうか。それは、彼が日の下の現実だけを見ていたことです。1節には「日の下で行われる一切の虐げを見た」とありますし、3節にも「日の下で行われる悪いわざ」とあります。「日の下で」ということが強調されているのです。すなわち彼は、日の上を見ませんでした。

 

伝道者はここで、虐げられている者には慰める者がいないと言っていますが、果たしてそうでしょうか。確かに「日の下」だけを見たらそうでしょう。しかし、「日の上」には慰めがあります。そうした虐げられている人たちの背後には神がおられ、彼らの嘆きの声を聞き、その歩みを守っておられるのです。詩篇10:17-18にはこうあります。「主よ。あなたは貧しい者たちの願いを聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし耳を傾けてくださいます。みなしごと虐げられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや彼らをおびえさせることがないように。」

 

「それでも夜は明ける」という映画を観ました。原作は「トゥエルブ・イヤーズ・ア・スレーブ」ですが、奴隷制度がはびこっていたアメリカを舞台に、自由の身でありながら拉致され、南部の綿花農園で12年間も奴隷生活を強いられた黒人男性の実話を描いた映画です。主人公が体験した壮絶な奴隷生活と、絶望に打ち勝つ希望を描き出している映画です。実際はもっとひどかったんだろうなあと思いながら観ていましたが、こんな人生なら死んだ方がましだと思ったことでしょう。「日の下」の現実だけをみたらそうなんです。どこにも希望など見いだすことなどできません。しかし、日の上を見るなら、そこに貧しい者たちを顧みてくださる神がおられます。そして、その神が慰めと希望、耐える力を与えてくださいます。それが「ゴスペル」です。ゴスペルは、そんな黒人の奴隷たちが、神の助けとあわれみを求めて魂を注ぎ出して歌った歌なのです。その映画の中にも奴隷生活を強いられていた人たちが魂を注ぎ出して神に歌うシーンがあって、とても印象的でした。

 

キリストはこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)この方は、あなたを休ませてくれます。この地上でどんなに虐げられていても、その人を自由にし、罪から解放してくださいます。あなたがこの方のもとに来るなら、あなたも虐げという苦しみから解放され、平安と慰めを得ることができるのです。

 

次に、4節をご覧ください。4節には「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」とあります。

次に伝道者は、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見ました。しかし、それは人間同士のねたみと嫉妬が動機で行われているのを知るのです。ある人がすべての才能を用いて努力し、労苦して成功すると、周りの人々はそれを喜ぶどころかかえってねたむという現象が生じます。そこには、相手を蹴落とさなければ生き残れないという競争原理が働いているからです。しかし、あらゆる労苦とあらゆる仕事の目的が、そのように人間同士が競い合うことにあるとしたら、何と空しいことでしょうか。それもまた風を追うようなものです。

 

5-6節をご覧ください。「愚かな者は腕組みをし、自分の身を食いつぶす。片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」どういうことでしょうか。

その反面、怠惰で愚かな者は、何もしないでただ傍観し、自分のからだを弱らせるだけだということです。5節の「愚かな者は腕組みをし、自分の身を食いつぶす。」は、新改訳改訂第3版では、「愚かな者は、手をこまねいて、自分の肉を食べる。」となっています。「手をこまねく」とは、「怠ける」という意味です。ですから、愚かな者は怠けて、自分の身を食いつぶす、すなわち、自滅するのです。

 

しかし、それとは反対に、賢い人の生き方があります。それが6節にあることです。「片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」どういうことでしょうか。新共同訳ではここを、「片手を満たして、憩いを得るのは 両手を満たして、なお労苦するよりも良い。」と訳しています。つまり、あれも欲しいこれも欲しいと、両手ですべてをつかみ取ろうとしてあくせく働くよりも、片手でもいいから得られるもので満足し憩いを得る方がずっと良い、ということです。今あるもので満足するという知恵です。箴言30:8には、「むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。」とあります。貧しさも富も私に与えないで、ただ、私に定められた食物で、私を養ってくださいとは、このことです。自分に与えられたもので満足するということです。皆さんはどうでしょうか。自分に与えられたもので満足しているでしょうか。それとも、もっと良いものをと、両手に労苦を満たしているでしょうか。

 

ヘブル13:5にはこうあります。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」」いま持っているもので満足するのです。古代ギリシャの哲学者ソクラテスはこう言いました。「いま持っているものに満足しない者は、ほしいものを手に入れても満足しない」満足とは欲しいものを得ることではなく、今あるもので十分だと思うことです。片手を満たして、憩いを得るのは 両手を満たして、なお労苦するよりも良いのです。片手を満たして憩いを得る人生を、いま持っているもので満足する、そういう人生を求めたいと思います。

 

Ⅱ.三つ撚りの糸は簡単には切れない(7-12)

 

第二のことは、共同体の力についてです。7節から12節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。「私は再び、日の下で空しいことを見た。ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。」

伝道者は再び、日の下で空しいことを見ました。それは、ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人です。その人は朝から晩まで仕事、仕事、仕事と、仕事に依存的になっています。その労苦には終わりがありません。しかもそれは世のため、人のためではなく、自分のため、自分の富を得るためです。もっと多くの富を持とうと目をギラギラさせ、ただ労苦して働く毎日です。1年365日、寝ても覚めても仕事のことばかり。ひたすら働き続ける企業戦士というイメージです。そこには飽くなき欲望があります。

しかも、「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」と自ら問うこともしません。つまり、自分は何のために働いているのか、だれのためにこんなに自分を犠牲にしているのか」と考えることすらしないのです。いわゆる思考停止状態です。現代に生きる私たちに対する警鐘と受け取れる言葉ではないでしょうか。

 

いったいどこに問題があるのでしょうか。ひとりで労苦していることです。ひとりで労苦するよりも、人と力を合わせて生きる方がどんなに美しいでしょう。家族や信仰の共同体もなく、ひとりで生きることは辛いことです。孤独に生きて絶えず働いても、自分のものに満足できず、財産や名誉に執着して神に与えられた人生を味わえないなら、それはとても不幸でむなしい人生です。

 

ですから、伝道者はそのことを勧めるために、次のように語るのです。9節から12節です。ご一緒に読みたいと思います。「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」

 

「二人は一人よりもまさっている。」という言葉は、よく結婚式で引用される言葉です。人はひとりでは生きられない、という共に生きることのすばらしさを教えてくれます。しかし、これは結婚においてだけ言えることではなく、この社会全体に言えることです。一人よりも二人、二人よりも三人と、共に生きて互いに力を合わせるほうがまさっています。なぜでしょうか。伝道者はその理由を次のように述べています。

「二人の労苦には、良い報いがあるからだ。」その方がもっと良い報酬が得られます。また10節には、「どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。」とあります。二人なら、どちらか一人が倒れても、もう一人がその仲間を支えて起こしてあげることができます。さらに11節には「二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。」とあります。寒い日に寝るとき温まることができます。だんだん朝晩が寒くなってきました。足が冷たいとなかなか寝付かれません。ひどい時には一晩中眠れないこともあります。でも、どうでしょう。そんな時でも妻の足で暖めてもらうとよく寝ることができます。妻は「や~だ、冷たい!」と嫌がりますが、聖書は何と言っているかというと、二人が一緒に寝ると温かくなる、と教えています。これが戦争などの場合であれば、もっと実感するでしょう。兵士たちが寒さをしのぐために身を寄せ合って寝るなら、温かく寝ることができるでしょう。つまり、一人よりも二人、二人よりも三人です。互いに力を合わせて一つになれば、ひとりでいる時よりも強い力を発揮することができるのです。これにもし神が結び合わされたらとしたらどうでしょう。それは強力な絆になります。簡単には切れません。

 

12節をご覧ください。ここには、「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」とあります。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。さらにそこに神がともにおられるなら、その絆はもっと強くなります。三つ撚りの糸は簡単には切れないのです。これは夫婦関係においても、家族においても、学校や職場、社会全体においても、そして信仰の共同体である教会にも言えることです。どんなことがあっても分かち合って共に歩む信仰の共同体は、神が私たちに与えてくださったすばらしい贈り物なのです。

 

地球上で最大の哺乳動物と言われているシロナガスクジラは、ジェットエンジンよりも大きな声で歌うことで有名です。驚いたことに、全世界のシロナガスクジラが同時に同じ歌を歌えるそうです。実験の結果、太平洋のシロナガスクジラが歌を変えると、大西洋のシロナガスクジラも歌を同じように変えることがわかりました。まるで指揮官がいるように合唱するのです。

神は、私たちがひとりでどれほどうまくやれるかを見ておられるのではなく、それぞれ任されたパートをしっかりと演奏し、一つの美しいハーモニーを奏でるオーケストラのように、共同体の中で一致することを望んでおられるのです。

「自分ひとりで」信仰生活をするほうが楽だと言う人がいます。集まること自体が負担で時間の浪費だと考えるのです。しかし、ひとりで信仰生活をしようとする人は、苦難の波が襲ってくる時もひとりで耐えなければなりません。私たちの人生はそれほど簡単なものではありません。時には倒れ、時につまずき、時には苦しむことがあります。そんな時起こしてくれる人がいないとしたら、どんなに大変なことでしょうか。二人は一人よりもまさっています。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。三つ撚りの糸は簡単には切れないのです。

 

ずっとうまくいっていた事業が破綻した中年男性が、次のように言いました。「事業の失敗によって経済的損失を被ったことはもちろんつらいですが、周りの人々がみな自分を無視して去って行き、ひとり残されたことが最もつらいです。」

つらいとき、そばにいてくれる人がいるだけでも慰められ、苦難を克服する力になります。信仰の共同体の中にいるなら、つまずいたり倒れたりしても、周りの兄弟姉妹たちが支えてくれる力によってもう一度立ちあがることができます。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。三つ撚りの糸は簡単には切れないのです。

 

Ⅲ.人の評判を気にしない(13-16)

 

第三のことは、人の評判を気にしないということです。なぜなら、人気とか評判といったものは、人の気まぐれによっていつでも変わるものだからです。13節から16節までをご覧ください。13節と14節をお読みします。「貧しくても知恵のある若者は、忠告を受け入れなくなった年老いた愚かな王にまさる。そのような若者は、牢獄から出て王になる。たとえ、その王国で貧しく生まれた者であっても。」

 

伝道者はここで、貧しくても知恵のある若者と、年老いた王を比較しています。この若者には何の影響力もありませんが、彼には知恵がありました。一方、年老いた王は、若い時に幾多の試練を乗り越え、ついに王位に就きましたが、しかし年をとると頑固になり、他人からの忠告に耳を貸さなくなりました。受け入れなくなったのです。年を取ると丸くなるというのは間違いです。年をとればとるほど反対に頑固になっていきます。丸くなるというのはいちいち口論したり、抵抗したりするのが面倒くさくなるのでそのように見えるだけです。でも心の中では全くもって納得できず、逆に苦々しい思いを持ってしまうのです。自分でも気づかないうちに頑固になっていきます。この年老いた王がソロモン自身なのかわかりませんが、もしかすると、自分の経験から言ったのかもしれません。いずれにせよ、そのように貧しくても知恵のある若者と、忠告を受け入れなくなった年老いた愚かな王ではどちらがまさっているでしょうか。貧しくても知恵のある若者です。たとえ彼が牢獄から出て王になったとしても、あるいは、その王国で貧しく生まれた者であったとしても、です。

 

しかし、事はそれだけでは終わりません。15節と16節をご覧ください。「私は見た。日の下を歩む生きている者がみな、王に代わって立つ、後継の若者の側につくのを。その民すべてには終わりがない。彼を先にして続く人々には。後に来るその者たちも、後継の者を喜ばない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」どういうことでしょうか。

これは、ちょっとわかりづらい訳です。新共同訳では16節をこのように訳しています。「民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にも/この少年について喜び祝う者はない。これまた空しく、風を追うようなことだ。」つまり民衆は、先の王に代わった後継の若い王に対して、最初のうちは期待してその若者の側につくかもしれませんが時間が経つうちに不満を抱くようになり、次第に彼を喜ばなくなる、ということです。初めは賢くていい王だなぁと思っていても、慣れてくると、やっぱりこの王も幼いところがあるなとか、ああいう考えはおかしいなどと批判するようになるのです。民衆はそのようなことを限りなく続けているわけです。「その民すべてに終わりがない」とはそういうことです。明後日はアメリカの大統領選ですね。トランプかバイデンか、どちらが大統領になるかわかりませんが、どちらが大統領になっても言えることは、評判がいいのは最初のうちだけで、そのうち批判されるようになるということです。飽きてくるのです。国民はそういうことを限りなく続けています。それを見た伝道者は何と言っていますか。これもまた空しく、風を追うようなものだ。あんなにすばらしいと絶賛した人を、今度はこき下ろすかのように忌み嫌う民衆の態度に空しさを覚えているのです。

 

いったい何が問題なのでしょうか。15節にあるように、彼の心が日の下のことに奪われていることです。日の下を歩む人たちはみな、そうなのです。そのすべてに終わりがありません。それは果てしなく続くのです。なぜでしょうか。人の心とはそのようなものだからです。人の心はそれほど移ろいやすく、気まぐれなものであり、頼りないものなのです。人の心はコロコロ変わるからこころと言うんだ、と言った人がいますが、人の心はそれほど変わりやすいものなのです。そんな人の評判を気にし、それを人生の最終目標とするなら、そこには何の満足も安心も得られないでしょう。私たちは、日の下のそうした人の評判や評価ではなく、神の評価、神の評判を求めなければなりません。

 

一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。神を中心とした共同体の中で、兄弟姉妹の語る神の声に耳を傾けながら、神の評価を求めながらいきていく、そういう人生こそ真に幸いな人生であり、いつまでも人々の尊敬を受ける知恵ある生き方なのではないでしょうか。

出エジプト記34章

2020年10月28日(水)祈祷会

聖書箇所:出エジプト記34章

 

 出エジプト記34章から学びます。まず、1~3節をご覧ください。

 

Ⅰ.主の御名(1-9)

 

「主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」

 

主はモーセに、「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。」と言われました。主は、モーセが砕いた石の板にあった、あのことばをその石の上に書き記そうとされたのです。「あのことば」とは「十戒」のことです。神は、ご自分の指で書かれた二枚の石の板をモーセに授けられました(31:18)が、モーセはそれを山のふもとで砕いてしまいました(32:19)。宿営に近づくと、民が金の子牛を拝んで踊っているのを見たからです。それでモーセの怒りは燃え上がり、持っていた二枚の石の板を砕いてしまったのです。しかし、モーセの必死のとりなしによって、神は彼らとともにいて、ご自身の栄光を現してくださると約束してくださいました。

 

そして、モーセに「前のものと同じような二枚の板を切り取れ。」と言われました。その石の板の上に、前の石の板にあった、あのことばを書き記すためです。神はまた同じ祝福を、イスラエルの民に注がれようとされたのです。私たちも、一度失敗しても、神は以前と変わらずまったく同じように、私たちに祝福することがおできになります。やり直しを与えてくださる神なのです。こうしてモーセはシナイ山に登りました。

 

次に、4~5節をご覧ください。「そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、【主】が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。【主】は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、【主】の名を宣言された。【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」」

 

モーセは、主が命じられたとおりに、二枚の石の板を取って、山に登りました。これが三度目の登頂です。毎回、40日40夜山頂にとどまりました。

すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセとともに立って、主の名を宣言されました。主の名を宣言するとは、主のご性質を明らかにされたということです。御名とは神の本質であり、それこそモーセが祈りの中で願っていたことです。モーセは祈りの中で「どうかあなたの栄光を私に見せてください。」(35:18)と祈りましたが、神はご自身のご性質を示すことによって栄光を現そうとされたのです。それが6,7節にあることです。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

 

「主はあわれみ深く、情け深い方」というのは、一般の日本人が抱いている神の概念とはだいぶ違います。一般に日本人は、神は怖い方、たたりをもたらすような方恐ろしい方だと思っています。「さわらぬ神にたたりなし」なるべく神に関わらないようにしたい。人生の節目、節目にお参りして、厄払いをしてもらって、そうしたたたりが起こらないようにしようと考えているのです。

しかし、聖書の神はそのような方ではありません。「主は、あわれみ深く、情け深い方」です。このことを理解することはとても大切です。33:19にも「主の名」が出てきました。そこには「あらゆる良きものをあなたの前に通らせ」とありました。主は良い方、あらゆる恵みとあわれみに富んだ方であり、それを私たちにお与えになる方です。そのように理解することで、自ずと神に近づき、神と交わりを持つことができます。恐れがあると、必ず退いてしまいます。神が良い方であると理解していないと、神は自分を罰して、自分に意地悪をするのではないかと恐れて、神から遠ざかることになってしまいます。それではサタンの思うつぼです。神はあわれみ深く、恵み深い方であることを知っているからこそ、自ずと悔い改めに導かれ、その神のあわれみを求めて祈るように導かれるのです。

 

このことはクリスチャンにとっても大切なことです。クリスチャンの中にも間違った神概念をもっている人がいます。すなわち、旧約聖書の神は怖い神で、新約聖書の神は優しい、愛の神だといった理解です。旧約の神と新約の神を分けてしまうのです。しかし、そうではありません。旧約の神も、新約の神も同じ神です。旧約聖書にもこのように「主はあわれみ深く、恵み深い方」であることが語られているし、新約聖書にも、特に黙示録などを見ると、罪を裁かれる神として描かれています。ですから、旧約聖書と新約聖書の神は同じ神なのです。神はあわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられる方。この神理解をしっかりと持つことが重要です。

 

「あわれみ深く」とは、当然受けるべきものを受けないということです。私たちは罪ゆえにさばかれても当然な者でしたが、神はそのさばきを受けないようにしてくださいました。それが「あわれみ」ということです。これに似たことばで「恵み深い」ということばがあります。これは当然受けるに値しない者が受けることです。私たちは罪深い者であるがゆえに、当然永遠のいのちを受けるに値しない者ですが、そんな者が受けるとしたら、それは恵みです。私たちはそれだけの価値などないにもかかわらず、それを受けるとしたら、それは神からの一方的な恵みでしかないのです。そう、恵みとは過分な親切とも言えます。神は、恵みとまことに富んでおられる方です。これは主イエスについても言われています。「この方は恵みとまことに富んでおられた。」(ヨハネ1:14)とあります。これが神のご性質です。

 

しかし、ここには「恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」とあります。そして、父の咎を子に、子の子に、三代に、四代に報いる者である。」とあります。これはどういうことでしょうか。これは、親の犯した罪が遺伝のように子どもに受け継がれていくということではありません。エゼキエル18:1-4には、「次のような【主】のことばが私にあった。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』という、このことわざを繰り返し言っているが、いったいどういうことか。わたしは生きている──【神】である主のことば──。あなたがたがイスラエルでこのことわざを用いることは、もう決してない。見よ、すべてのたましいは、わたしのもの。父のたましいも子のたましいも、わたしのもの。罪を犯したたましいが死ぬ。」とあります。ですから、自分の状況が悪い時、それを親のせいにしたり、先祖のせいにするのは間違っています。

 

しかし、父の咎を受けなくとも、その影響は子どもに与えてしまいます。子どもがすることで、何でこんなことをしてしまったのかと思うとき、よく考えてみると、それがまさに自分の姿であるのを見ることがあります。自分の醜さなり、自分の弱さ、自分のあり方が子どもに受け継がれていくことがあるのです。良いことも、悪いことも。ですから、霊的なことにおいてはできるだけ子どもに良い影響を及ぼすように努めていかなければなりません。でも、たとえ悪いからといってあきらめる必要はありません。それを断ち切ることはいくらでもできます。それは断ち切る祈りをするということではなく、主のみことばを学び、謙虚に主の前にひざまずくことによってです。

 

8,9節を見ると、モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏したとあります。なぜでしょうか。主はあわれみ深く、恵み深い方であることを知り、その主のご性質に信頼して祈ろうと思ったからです。彼はこう祈りました。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」(9)

イスラエルの民はうなじのこわい民で、決して主に受け入れられるような者ではありませんでしたが、主があわれみ深い方であることを知って、どうか主が自分たちのただ中いて、進んでくださるように、と祈ったのです。

ここに礼拝者としてのモーセの姿が描かれています。モーセは神のご性質の前にひれ伏し、ありのままをさらけ出して祈る礼拝者でした。別に何も隠し立てすることなく、弱さを持ったままの人間として、それを正直に主の前に告白し、主のあわれみを求めて祈ったのです。私たちにもこの神の恵みとあわれみが差し出されています。それゆえに、モーセのように、神のあわれみを求めてひれ伏し、ひざまずいて祈ろうではありませんか。

 

Ⅱ.契約の更新(10-28)

 

次に、10~28節をご覧ください。まず、20節までをお読みします。「主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、【主】のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。わたしが今日あなたに命じることを守れ。見よ、わたしは、アモリ人、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。あなたは、あなたが入って行くその地の住民と契約を結ばないように注意せよ。それがあなたのただ中で罠とならないようにするためだ。いや、あなたがたは彼らの祭壇を打ち壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。あなたは、ほかの神を拝んではならない。【主】は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。あなたはその地の住民と契約を結ばないようにせよ。彼らは自分たちの神々と淫行をし、自分たちの神々にいけにえを献げ、あなたを招く。あなたは、そのいけにえを食べるようになる。彼らの娘たちをあなたの息子たちの妻とするなら、その娘たちは自分たちの神々と淫行を行い、あなたの息子たちに自分たちの神々と淫行を行わせるようになる。」

 

主は、ご自身のご性質を示された後で、イスラエルと契約を結ぶと言われました。神との契約を守るなら、彼らがどの地にいても、どの国にいても、かつてなされたことのない奇しいことを行うというのです。その契約とはどのようなものでしょうか。その内容は20~23章に記されてあるシナイ契約にあるものと同じです。つまり、主はイスラエルの民と再びシナイ契約を結ぶと言われたのです。

 

その具体的な内容は、まず、彼らが入って行くその地の住民と契約を結ばないようにということでした(12)。いや、彼らの祭壇を取り壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければなりません。彼らの娘たちを自分のり息子にめとらせるようなことはしてはなりません。どうしてでしょうか。その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕って、みだらなことをさせるようになるからです。つまり、罠に陥ってしまうことになるからです。ここでいう罠とは、自分たちの神である主ではなく、その地の神々を慕って、みだらなことをしたり、拝んだりすることです。主はそれを忌み嫌われます。なぜなら、主はねたむ神だからです。

 

 第二のことは、自分のために鋳物の神々を造ってはならないということです。17節をご覧ください。「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」

鋳物の神々とは何でしょうか。ここには偶像と言わないで鋳物の神々と言われています。偶像は鋳物の神々のことです。自分の好きな形にかたどり、自分の欲望に合わせて造られた神、それが偶像です。しかし、真の神は違います。真の神は鋳物でかたどって造られたものではなく、私たちを造られた創造主なる神です。私たちのために命を捨てて、私たちを罪から救い出してくださった神、この方こそ真の神なのです。それ以外の神を拝んではなりません。

 

第三のことは、種を入れないパンの祭りを守らなければならないということです。18節をご覧ください。「あなたは種なしパンの祭りを守らなければならない。アビブの月の定められた時に七日間、わたしが命じた種なしパンを食べる。あなたはアビブの月にエジプトを出たからである。」

種を入れないパンの祭りとは、過ぎ越しの祭りに続いて行われた祭りのことです。その祭りを通して、出エジプトの出来事を思い起こし、神に感謝と賛美をささげなければならなかったのです。パン種とは罪を象徴していました。罪のない神の子キリストがあなたのために十字架に掛かって死んでくださることによって、あなたの罪を贖ってくださいました。イスラエルがエジプトから脱出したことを思い出したように、あなたが罪の奴隷から救われたことを思い出す必要があったのです。

 

第四のことは、19-20節にあります。「最初に胎を開くものはすべて、わたしのものである。あなたの家畜の雄の初子はみな、牛も羊もそうである。ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折る。また、あなたの息子のうち長子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。」

最初に生まれるものはすべて主に捧げなければなりません。なぜなら、最初に胎を開くものはすべて、主のものだからです。彼らの家畜の雄の初子はみな、牛も羊も主にささげなければなりませんでした。「初物」とは最高のもの、ベストなものという意味です。残りものではなく、最初のものを、良いものを、最高のものを主にささげなければなりませんでした。

ただし、ろばの初子は羊で贖われなければなりませんでした。すべての初子は、主のものですが、ろばはきよくない動物であったためいけにえとしてささげることができなかったからです。神はきよくないものを受け入れることができなかったので、贖わなければならなかったのです。それを贖ったのが羊でした。

これはどういうことかというと、私たちと救い主イエス・キリストのことを示しています。私たちはきよくないろばです。そのろばが贖われるためには贖われなければならなかったのですが、それが小羊であられるキリストだったのです。キリストが代わりに死んでくださいました。私たちは罪に汚れたものなので神に受け入れられませんでしたが、その罪を小羊であられたキリストが贖ってくださったのです。そうでなければ、私たちは永遠の死に落ちなければなりませんでした。しかし、傷のない小羊がすでに私たちのために血を流し、致命的な律法ののろいから私たちを解放してくださいました。この傷のない小羊に対する私たちの感謝を主にささげようではありませんか。

 

その後のところをご覧ください。ここには、「だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない」とあります。これはどういうことでしょうか?いつでも主にささげる用意をして、主の前に出るようにということです。私たちが普通主の前に出るのは主に祝福してもらうためだと考えています。それもあります。しかし、もっと大切なのは主にささげることです。私たちは主に賛美をささげ、主に感謝をささげ、主を喜ぶために主のもとに来るのです。だから主の栄光をほめたたえるために、私たちのすべてのものを持って、主の前に出なければならないのです。

 

第五は、安息日を守ることです。21節をご覧ください。「あなたは、六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時にも刈り入れの時にも、休まなければならない。」

安息日を守るように命じられています。それは主を覚えるためです。主の偉大な御業を覚えて礼拝するために、六日間は働き、七日目を休まなければならなかったのです。ところで、ここには「耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。」とあります。どういう意味でしょうか。最も忙しい時もということです。猫の手も借りたいような時でもです。そのような時に休むのには信仰が試されます。最も忙しい時にその手を離すことはチャレンジです。しかし、それによってだれが一番重要なのか、何を一番大切にしているのかがわかります。どんなに忙しくても本当に大切な人のためなら時間を取るはずです。それを最優先にするでしょう。何とか時間をやりくりして都合をつけるはずです。それを神のためにするようにということです。そうでないと輝きを失ってしまいます。これは決して律法ではありません。あくまでも私たちが輝くためです。忙しくて教会に行けない。忙しいとは心を亡くすと書きます。それは祝福を失ってしまうことになります。イスラエルで安息日を迎えることは私たちがお正月を迎えるようなものでした。家族そろって喜んで迎えたのです。そのように安息日を迎えなければなりません。

 

22節の、「小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の代わりには収穫祭を行わなければならない。」とは、「七週の祭り」と「仮庵の祭り」のことです。「七週の祭り」は、別名「ペンテコステ」とも言います。過越の祭りから数えて七週+1日で50日、これをペンテコステと言うのです。この日に何があったか覚えていますか?使徒2章を見ると、この日に聖霊が降臨して教会が誕生しました。ですから、ペンテコステは教会が誕生した日です。初穂とは、過越の祭りから最初の日曜日に行われました。これが、主が復活した日です。主は過越しの小羊として十字架で死なれ、三日目によみがえられました。それは死んでも生きるという永遠のいのちの初穂としての復活だったのです。その記念のために七週の祭りを行うのです。教会に集まって主の復活を祝う。これがないと輝きません。なぜなら、クリスチャンには充電が必要だからです。たまにくればいいというものではなく、いつも、週ごとに集まって主の復活を祝い、主を礼拝することで、聖霊に満たされるのです。

 

それだけではありません。「年の変わり目には収穫祭を行わなければならない。」とあります。これは仮庵の祭りのことです。かつてイスラエルが荒野で40年間過ごしたことを思い出すために、神が定めてくださったお祭りです。自分たちで作った小屋(キャンプテントのような)で、神がかつてイスラエルを荒野で守ってくださったことを思い出したのです。これは主イエスが再びこの地上に戻って来て、この地上に千年王国を打ち立ててくれることの預言でもあります。そのとき完全に成就します。だから、この仮庵の祭りは、主の再臨を待ち望むことでもあるのです。このように主を待ち続ける人は幸いです。

 

これが、先の種を入れないパンの祭り(過越しの祭り)と合わせて、イスラエルの三大祭りです。イスラエルには例祭が七つあって、その中でもこの三つの祭りは重要でした。イスラエルの成人男性はみな、主の前に出なければなりませんでした。それが23節で言われていることです。ここで「男子」と言われているのは、男子が義務づけられていれば、妻やこどもたちも自動的に着いてきたからです。イスラエルは年に三度、神の前に出て、これを祝わなければなりませんでした。それはこの世俗から離れ、主の御名の栄光を求めたということです。どんなにこの世にいても自分たちは主のものであって、主に従って歩む民であるということを、このような形で示したのです。それは年に三度そのようにしなければならないということではなく、私たちの心のあり方にとって必要なことでもあります。いつも主の前に出て、主の御顔を仰ぐ者でありたいと思います。特に男性は一家の大黒柱として、いつも主の前に出て、家族の霊的祝福を祈らなければなりません。教会も牧師が主の前に出ないと、教会全体が曇ってしまいます。霊的リーダーとして建てられていることを覚えて、その務めを果たしていかなければならないのです。

 

24節には、そのように年に三度、主の前に出るために上る間、家も、土地も守られるという約束です。祭りに参加するなら、主があなたの家と土地を守ってくださるのです。

 

25~26節をご覧ください。ここには、「わたしへのいけにえの血を、種入りのパンに添えて献げてはならない。また、過越の祭りのいけにえを朝まで残しておいてはならない。あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、【主】の家に持って来なければならない。あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。

いけにえの血とは、礼拝でささげる血のことです。それを、種を入れたパンに添えて献げてはなりませんでした。なぜなら、種は罪を象徴していたからです。礼拝でささげるものの中に罪が入っていてはならないということです。肉的な思い、自己中心的な思いからではなく、純粋に主を求め、主に礼拝を献げなければなりません。

 

26節の「最上のもの」とは、十分の一献金のことです。初穂は最上のものでした。それは主のものです。だから、それを主にささげなければならなかったのです。

「子やぎをその母の乳で煮てはならない」というのは、肉と乳製品を一緒に煮てはならないということです。それはカナン人たちの慣習であったからです。彼らは子やぎを母の乳で煮て食べました。それが豊穣の神への礼拝だったのです。だから、それは偶像礼拝を避けよということです。クリスチャンが日本の伝統行事だからといって豆まきをしたり、門松を飾ったり、鏡餅を置いたりしてはなりません。それは悪鬼を追い払う行事として行っていたもので、そのようなものから遠ざかるようにしなければなりません。

 

27,28節をご覧ください。「【主】はモーセに言われた。「これらのことばを書き記せ。わたしは、これらのことばによって、あなたと、そしてイスラエルと契約を結んだからである。」モーセはそこに四十日四十夜、【主】とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。」

 

モーセは四十日四十夜、主とともにいました。彼はパンも食べず、水も飲まずにいたのです。普通は何も食べず、何も飲まないと9日で死んでしまいます。しかし、モーセは四十日四十夜、何も食べず飲みませんでした。主イエスもそうです。モーセは神と会見していたので、何も食べなくても大丈夫だったのです。それでモーセはガリガリになったかというそうではありません。彼の顔は光を放っていました(29)。私たちも主とお会いすると輝きを放ちます。神と会見し、神を礼拝したのに輝かないとしたらどこかおかしいと言えます。それは主と顔と顔とを合わせていなかったことになります。何か考え事をしていたり、全く別の世界にいたり、よからぬ事を考えたりしていると輝くことはありません。しかし、主に向くなら輝きます。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記しました。

 

Ⅲ.モーセの輝き(29-35)

 

最後に、29~35節をご覧ください。「それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。モーセが彼らを呼び寄せると、アロンと、会衆の上に立つ族長はみな彼のところに戻って来た。モーセは彼らに話しかけた。それから、イスラエルの子らはみな近寄って来た。彼は【主】がシナイ山で告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えると、 顔に覆いを掛けた。モーセが主と語るために【主】の前に行くとき、彼はその覆いを外に出て来るまで外していた。 外に出て来ると、 命じられたことをイスラエルの子らに告げた。イスラエルの子らがモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は輝きを放っていた。 モーセは、 主と語るために入って行くまで、 自分の顔に再び覆いを掛けるのを常としていた。」

 

モーセが山から降りて来ると、主と話したために顔の肌が輝きを放っていました。モーセは主の栄光を見たために、月が太陽の光を反射させるように、主の栄光を反射させていたのです。モーセ自身はそのことを知りませんでしたが、アロンと、イスラエルの子らはそれを見て、モーセに近づくのを恐れました。それで、モーセは彼らを呼び寄せて、主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じました。

 

モーセはイスラエルの民に語り終えたときに、再び顔に覆いをかけました。語っているうちにその輝きが消えていくからです。それが律法の輝きです。Ⅱコリント3:6-18には、それはやがて消え去る栄光とあります。それが律法の輝きです。古い契約は一時的なもので、やがい消え去って行くものです。しかし、新しい契約によってもたらされる栄光は、永遠に消えることがありません。モーセは消え去る栄光を見られまいとして顔に覆いを掛けましたが、福音を信じることによって与えられる御霊の務めとその栄光は決して消え反ることのない輝きです。ですから、モーセが消え失せるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けるようなことはしません。それなのに、イスラエルの人々の思いは鈍くなったので、今日に至るまで、そのおおいが取れのけられていません。古い契約が朗読されるときはいつでも、いつでも同じおおいが掛けられているのです。

しかし、人が主に向くなら、おおいは取り除かれます。それはキリストによって取りのけられるものだからです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな顔のおおいが取のけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのです。

 

モーセは「どうか、あなたの栄光を見せてください」と言いました(33:18)。私たちにとっての最高の喜びは主の栄光にあずかることです。主のご臨在。そのために必要なことは主の恵みとあわれみのご性質に基づいて祈り、主が与えてくださった恵みの契約を行っていくこと。つまり、主に向いて、主のみこころを求めて生きることです。そうすれば、主の御霊が私たちを輝かせてくださるのです。

 

人は獣にまさっているのか 伝道者の書3章16~22節

2020年10月25日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書3章16~22節(旧約P1142)

タイトル:「人は獣にまさっているのか」

 

 きょうは、伝道者の書3章後半から学びます。前回のところで伝道者は、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある」と語りました。そして、神のなさることのすべてを私たちは見極めることができませんが、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のだから、その神にすべてをゆだね、永遠の今を生きることが大切だと言いました。

 

けれども、その目を一旦日の下に向けると、上向いた伝道者の心がまたダウンします。さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見たからです。それでは獣と同じではないか、人は獣にまさっているのか、まさっていない、と結論付けるのです。皆さん、どうですか、人は獣にまさっているのでしょうか。よく「あの人は動物以下だ」というのを聞くことがありますが、人は動物以下の存在なのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。きょうは、このことについてご一緒に考えてみたいと思います。

 

 Ⅰ.神のさばき(16-17)

 

 まず、16節と17節ご覧ください。16節、「私はさらに日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。」

 神のなさることは、すべて時にかなって美しいと、神の計画の完全さを述べた伝道者は、ここではそれとは裏腹に、日の下で行われている空しさの一つの事例を取り上げています。それは、さばきにおいて不正が行われているという現実です。この「さばきの場」とは、正義が行使されるはずの法廷のことを指しています。その後の「正義の場」とは、これも「さばきの場」と同じ意味です。ある人(G・A・バートン)はこの「正義の場」を「さばきの場」と区別して、「正しい人の場」、つまり、神との関係においての正しい場のことであると解釈していますが、そういう意味ではありません。むしろ、同じことを、異なった言い方で二度繰り返して強調することによって、正義のみが行使されるはずの法廷において、不正がはびこっているということを訴えているのです。法律が曲げられている。法律が機能していません。そういう社会の現実を見たのです。

 

 17節、「私は心の中で言った。「神は正しい人も悪しき者もさばく。そこでは、すべての営みとすべてのわざに、時があるからだ。」

このような社会の矛盾を見て、伝道者は心の中でこう考えました。神は悪者を決して見逃しはしない。いつか正しい人も悪者も裁かれるが、それは人間が考える時ではなく、神が定めた時である。今それがなされないのは、すべての営みと、すべてのわざには、神の時があるからだと。

 

皆さん、すべての営みには時があります。これは前回のテーマでもありました。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」(3:2-8)

神が裁きを行われることにも時があります。たとえ、この地上で不正が見逃されたとしても、最終的に神のさばきがあります。へブル9:27には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。最終的な神はさばきの時に、すべての正しい人と悪しき者の行いを義によってさばかれるのです。世のさばきは正しくなくても、神のさばきは正しく行われます。であれば私たちは、正しくさばかれる神の御前に、しっかりと備えておかなければなりません。どのようにして備えていたら良いのでしょうか。イエス・キリストを信じて罪を赦していただき、神の子としていただくことです。イエス様を信じる者はさばかれることがありません。

 

使徒パウロは、ローマ2:16で「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。」と言っています。神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われます。それが明らかにされるのはいつでしょうか。終わりの日です。ですから、このさばきの日に備えて、イエス・キリストによって私たちの心の隠れた事柄がさばかれても大丈夫なように、備えていなければなりません。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているからです。ですから、神のさばきに対して、永遠のいのちをはじめ、栄光と誉れと、平和を得るために、悔い改めて、神の義であられるイエス・キリストを信じて罪を赦していただき、神に喜ばれる歩みを求めて生きなければなりません。

 

アメリカにミッキー・クロスというヤクザ出身の伝道者がいました。彼はその昔、ニューヨークの暗黒街のボスでした。警察が肝を冷やすほどの悪人で、淫行、放火、殺人、強盗をしました。彼が手にできなかったものは何一つありませんでした。お金、お酒、女性、とにかく彼は、自分が望むすべてのものを手に入れることができました。にもかかわらず、彼には平安がありませんでした。夜寝る時には部屋に幾つもの鍵をかけ、枕の下にはいつも拳銃を置いて眠り、いつも部下の裏切りを監視していなければなりませんでした。絶えることのない不安と恐怖の中で暮らしていたのです。夜更けに一人でいるとき、涙で枕をぬらしたことも度々ありました。心の孤独と悲しみやつらさに、来る日も来る日も身震いしながら過ごしていたのです。イザヤ48:22に「悪者どもには平安がない」とありますが、彼には平安がなかったのです。これが裁きです。

 

数年前、韓国である人が罪を犯して逃亡しました。その人が犯した罪は6年で時効でしたが、この人は計算を間違えて、三日ほど早く自首してしまい、捕まってしまったのです。普通なら、「しくじった」「何ということをしたのか」「本当についてない」と言うところでしょうが、逮捕されたこの人が言ったことは、「ああ、すっきりした。本当にすっきりした」ということでした。「この間、俺がどれほど不安だったことか。捕まったんだから、しっかり罰を受けてゆっくり眠ろう」と言ったのです。逃亡中、彼には平安がありませんでした。

 

終わりの日に受ける神のさばき。神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に対して、明確な解決を持っていない人はみな同じです。このさばきに対するしっかりとした備えがないために、不安を抱えながら生きていかなければならないのです。しかし、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあります。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28)

 

あなたは、このさばきに備えておられますか。イエス・キリストを信じて救われていますか。キリストのくびきを負って、キリストから学んでおられますか。キリストの下に来てください。そうすればたましいに安らぎが来ます。どんなさばきがあろうとも何も恐れることはありません。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちが与えられ、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、神の怒りと憤りがくだるのです。そのさばきがいつであるかはわかりません。すべての営みと、すべてのわざに、神の時があるからです。しかし、それがいつであっても「備えあれば憂いなし」です。確かな神のさばきに備えて、救い主イエス・キリストを信じ、神の御心に歩もうではありませんか。

 

Ⅱ.人は獣にまさっているのか(18-21)

 

次に、18-21節までをご覧ください。18節には、「私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試みて、自分たちが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」とあります。

正義の場に不正がはびこり、それが当然のような社会が存在するのはどうしてなのか、伝道者はここでもう一つの理由を述べています。それは、人間を試みて、彼らが獣にすぎないということに気付かせるためです。人間と動物は何ら変わらない、同じだというのです。

 

皆さん、どう思いますか。輪廻転生を信じている人は、「そのとおり」と言うかもしれませんね。彼らは、死んであの世に行った霊魂は、また生まれ変わってくると信じています。つまり、輪廻と転生を繰り返すと考えているのです。どんな世界に生まれ変わるのかというと、仏教では人の生まれ変わりには、生前の悪行が関連していて、それに応じて六道のいずれかに生まれ落ちると言います。つまり、必ずしもまた人に生まれ変われるとわけではないのです。もしかすると、動物に生まれ変わるかもしれません。「ワン、ワン」、「ニャーン」です。「あら、また会いましたニャン」とか、「元気でしたワン」とか言うのです。

 

しかし、これはウソです。人間は動物とは全く違います。なぜ伝道者はそのように言っているのでしょうか。19節と20節をご覧ください。ここには、伝道者がそのように言う理由が記されてあります。「なぜなら、人の子の結末と獣の結末は同じ結末だからだ。これも死ねば、あれも死に、両方とも同じ息を持つ。それでは、人は獣にまさっているのか。まさってはいない。すべては空しいからだ。すべては同じ所に行く。すべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る。」

なぜ、人と獣は何ら変わらないのか、伝道者は、その結末が同じだからだと言います。これも死ねば、あれも死ぬ。どちらも同じ所に行きます。すなわち、すべてのものは土から出て、土に帰るからです。つまり、人も獣も、どちらも最終的には死を迎えるということです。

 

さらに、21節には「だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に昇り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。」とあります。これは伝道者が死という点では同じだが、その霊の行き着く所は人の子らと獣とでは違うと言っているのではありません。実際にはそのとおりで、人の子らと獣が行くところは違いますが、この時点で伝道者がそのように悟っていたわけではないのです。ここで伝道者が言いたかったことは、「人の子らの霊が上に昇るかどうか、また、獣の霊が下に降りて行くかどうかを、だれが知るだろうか、だれも知らない。」ということです。つまり、人間の行きつくところと獣の行きつくところ、その運命は同じであるということです。それゆえ、人は獣にまさっているのかというとそうではありません。まさっていない。人も獣も同じです。すべては空しいからです。これが、伝道者の結論でした。

 

けれども、そうでしょうか。注意して見てください。この時、伝道者の信仰はバックスライドしていました。日の下で行われる一切のことを見て、すべては空だと思っていました。この世の何をもってしても自分の心を満たすものがないのを見て、すべてが空しいと感じていたのです。何のために生きているのかがわかりませんでした。人生に失望し、落胆していたのです。信仰によって物事を見ることができませんでした。ですから彼は、この世の人たちと何ら変わらない目しか持っていなかったのです。その目で見たら、人も獣もみな同じでしょう。人が獣よりもまさっているのは何もないと思ったのです。

 

しかし、そうでしょうか。これは完全に間違っています。もし進化論に立てばそうかもしれません。進化論では、宇宙の起源を物質と考えています。進化論者たちは、宇宙と人間の起源が、水や火、土、空気、原子、アメーバのようなものから始まり、今日のような世界ができたと考えています。ですから、すべては偶然であり、人生や宇宙には何の意味もないということになります。試験管を振ったら偶然にいのちが生まれたというようなものです。すべては偶然なのです。だとしたら、それは空しいことです。

 

一方、聖書では何と言っているのかというと、聖書は、人間は決して偶然の産物ではなく、神様によって造られたと教えています。神様は天と地と海と、その中に住む一切のものを造られ、最後に人を創造されました。しかし、人はそれまで造られたものとは全く違います。それは、神のかたちに造られたという点です。創世記1:26には、「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」とあります。そして、こう仰せられました。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(1:27)。

神のかたちとして造られたとはどういうことでしょうか。それは霊を持つ者として造られたということです。この霊をもって神に祈り、神に感謝し、神を賛美し、神と交わりを持つためです。そうです、私たち人間は、霊的に造られたのです。私たちは肉体と精神を持っていますが、そればかりではなく、霊を持つ者として創造されました。ですから、どの時代の、どの民族であれ、どんな人でもみな手を合わせて生きてきたのです。それがどういう神であるかは別として、人はみな神を礼拝する者として造られているのです。これが動物とは決定的に違う点です。動物は肉体と本能を持っていますが、この霊を持っていません。これは人間にだけ与えられているものです。皆さん、動物が祈っているのを見たことがありますか。かわいい犬が手を組んで「ワン、ワン」と祈ったり、猫が目を閉じて「ニャン、ニャン」と祈っているのを見たことがあるでしょうか。ないでしょう。もしかると、祈っているのかなと思うような行動をしているのを見たことがあるかもしれませんが、それは単に甘えているか、じゃらけれているだけです。祈っているのではありません。しかし、人はいつの時代でも、どんな人でも、手を合わせます。なぜ?そのように造られているからです。11節には、「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」とありますね。第三版では、「永遠の思いを与えられた」となっています。人にはそのような思いが与えられているのです。

 

娘が小学生の時、バスケットボールの試合で青森に行く機会がありました。先生や父兄の方々は飲み会ばかりやっていましたが、あまりおもしろくなかったので、一人で青森市内にある三内丸山遺跡を見に行きました。三内丸山遺跡は、日本最大級の縄文時代の集落跡です。今から約4,000年から~5,000年前の人々はどんな暮らしをしていたのかとても興味がありました。

行ってみると、その集落の真中に大きなやぐらが建っていました。地面に穴を掘って、直径1mもあるクリの木を6本立て、それを組み合わせて作ったものです。高さは15mくらいありました。いったいどうして集落の真中にこんなに大きなやぐらが建てたのかと不思議に思いガイドさんに尋ねてみたら、それはいろいろな用途のために作られたようですが、中でもそこで暮らす人たちが農業の収穫に感謝して、神を礼拝する祭りのために作られたのではないか、と教えてくれました。

今から5,000年も6,000年も前の人たちはすでに、神に祈ることをしていたのです。それは、人は神によってそのように造られているからであり、永遠を思う心が与えられているからです。そのように造られた人によってむしろそれは自然の営みなのです。

 

ですから、人は死んだら肉体はちりに帰りますが、霊はこれを造られた神に帰るのです。伝道者も、後でこのことに気付きます。12:7に「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」とあります。しかし、この時点ではまだそのことに気付いていませんでした。全部一緒じゃないか。人も獣もみんな一緒。すべてのものは土から出て、土に帰る。人が獣にまさっていることなど何もない・・と。

 

しかし、そうではありません。人は神の計画によって、特別に神のかたちに造られました。そして、やがてその霊は神のもとに帰るのです。ですから、伝道者の「それでは、人は獣にまさっているのか。」という問いに対しては、私たちはこのように答えることができます。「Yes,人は獣にまさっています。神の計画によって、特別に神のかたちに造られたのですから。」決して人の子と獣の結末は同じではありません。「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」のです。

 

であれば私たち人間には、私たちを造られた方、創造者の目的があるはずです。それは何でしょうか。それは神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。ウエストミンスター小教理問答書第一問にはこうあります。

「人のおもな目的は何ですか。」

「人のおもな目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。」

これが私たちに与えられた人生の目的です。この目的に従って生きるとき、私たちの心は真の満たしを受けます。そうでしょ、たとえば、ここにマイクがありますが、このマイクは何のためにあるのかというと、ここで話をする人の声を大きくし、聞きやすくするためです。もしこれが故障していてその役割を果たさなかったら、逆に、ハウリングを起こして使いものにならないとしたら何の意味もありません。同じように、私たちも私たちを造られた創造主なる神の目的に従って生きるとき、すべては空しいのではなく、真の喜びと満足を得ることができるのです。

 

Ⅲ.だれが、これから後に起こることを見せてくれるか(22)

 

 最後に22節をご覧ください。「私は見た。人が自分のわざを楽しむことにまさる幸いはないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。」

人生の目的がわからなかった伝道者は、ここで一つの結論を見出します。それは、生きているうちに楽しむ以外に良いことはないということです。それにまさる幸いはないと。なぜなら、これから後に起こることを見せてくれる人がいないからです。「これから後に起こること」とは、これから後の将来のことという意味もありますが、むしろ、死後のことを意味しています。人は死んだらどうなるかということです。人は死んだらどうなるかなんてだれもわからないのだから、生きている今を思う存分楽しむしかない、それが人の幸いというものだ、というのです。それが人の受ける分であるからだ。果たしてそうでしょうか。

 

もしこれから後に起こることがわからなければ、そうかもしれません。この先どうなるのかがわからなければ今を存分に楽しむしかないでしょう。しかし、もしこれから後に起こること、死んだらどうなるのかを見せてくれる人がいるとしたら、そしてそれが真実であると受け止めることができるなら、そのような価値観は一変し、それに備えた生き方をするようになります。そして、「これから後に起こること」を見せてくれることができる方がおられます。だれですか。そうです。死からよみがえられた方、私たちの主イエス・キリストです。

 

キリストはソロモンよりも偉大な方です。ソロモンは偉大な知恵の持ち主で、シェバの女王がその知恵を聞くためにはるばる地の果てからやって来たほどですが、そのソロモンさえわからなかったことを、キリストは知っておられるのです。なぜなら、この方は天から来られた方だからです。ヨハネ3:13には「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来られた者、人の子は別です。」とあります。キリストは天から下って来られました。永遠の神であられるお方が人の姿を取って、この地上に来てくださったのです。ですから、この方は別格です。この方は生も死も、また永遠の世界も、また三位一体の神の関係についても、目に見えない世界のこと、天地創造以前の世界についてもすべてご存知であられました。ソロモンとは比較にならないほどの知恵を持っておられた方なのです。この方は、死からよみがえられました。ですから、これから後こと、すなわち、死後のことまでも完全に知っておられたのです。このような方は他にはいません。確かに、これまで死んで蘇生した人はいます。しかしそのような人たちは、やがてまた死んで行きました。けれども、キリストは死からよみがえられただけでなく、永遠に死ぬことのないからだによみがえられました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。

 

伝道者ソロモンはここで、「だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。」と言っていますが、キリストはこの問いに対する明確な答えをもっておられるのです。私たちはよく「死ぬのが怖い」と言いますが、なぜ怖いのでしょうか。先が見えないからです。死んだらどうなるのかがわかりません。だから怖いと感じるのです。しかし、私たちにはそれを見せてくださる方がいます。だから、私たちは不安に苛まれる必要はありません。恐怖に脅える必要もないのです。イエス・キリストが答えです。神はイエス・キリストを信じる者に永遠の命を約束されました。主イエスを信じる者は、信仰によって、死を越え、決して消えることがない希望を持っているのです。

 

プロテスタントのホーリネス系の団体で日本宣教会という団体がありますが、その創立者の一人で、相田登代という先生がおられました。この方は新潟県の有名な神社の神主の娘でしたが、キリストを信じ、さらに伝道者とて歩まれました。先生はお元気な時に、説教の中で「死を恐れてはなりません。一階から二階に上がるように、私達にとって死は、この地上の住まいから、天の御国に移ることなのです。」と言いました。

 

すばらしいですね。死は一階から二階に上がるように、この地上の住まいから、天の御国に移ることです。確かに、愛する者との一時的な離別では悲しみが伴いますが、それは永遠の離別ではありません。天に於いて、再び、愛する者と再会します。そして永遠に、喜びと祝福、そして愛に満ちている御国に住むのです。神はイエス・キリストを信じる者にこの永遠の命を約束されました。主イエスを信じる者は、信仰によって死を越え、決して消えることがない希望を持っているのです。

 

私たちはイエス・キリストを通して、この希望を持っているのですから、ここで伝道者ソロモンが言っているようにこの地上で楽しむことがすべてだと言わなくても良いのです。私たちはイエス・キリストによって永遠のいのちが与えられていることを感謝し、この地上での生涯を、日々神と交わりながら、すべてを神にゆだねて生きていくことができるのです。

さばいはいけません ローマ人への手紙14章1~12節

2020年10月18日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙14章1~12節

タイトル:「さばいはいけません」

 

 きょうは「さばいてはいけません」というタイトルでお話したいと思います。ある有名なキリスト教雑誌が、牧師たちを対象にアンケート調査をしました。それは「教会で一番困る人はどういう人ですか?」というアンケートでした。そして、第一は「四十日間断食をした人」、二位が「徹夜祈祷をよくする人」、三位は「神学を勉強した人」でした。断食、徹夜、神学の勉強、これらのことは個人の霊的成長にとってとても重要なものです。それなのに、なぜこれらのことが問題になったのでしょうか?それはこれらのことを経験したかなり多くの人が、その恵みを自分の成長に適用するのではなく、他人に適用してさばいてしまうためです。四十日間も断食祈祷をすれば、どんなに恵まれることでしょうか。それなのに断食祈祷が終わるとすぐに、「うちの牧師は恵みがないなぁ」とか、「うちの役員たちはもっと祈らなくちゃ」と言ってしまうのです。祈ったのであればより謙遜に、よりへりくだり、より恵みに溢れるはずなのに、かえって人をさばいてしまいやすくなるのです。私たちはみな心配するか、批判するかのどちらかに傾きやすい性格を持っています。比較的に弱い人は心配し、強い人は批判しやすいのです。人が集まるところには必ず問題が生じます。人によって性格も違えば考え方も違いますし、育った環境や年代、培われてきた信仰の背景、信仰生活のカラーなどが違うからです。十人十色ということばがありますが、十人いれば十人の色や考え方があるわけですから、違って当然なのです。大切なのは、そうした違いを批判したり、責めたりするのではなく認め合うことです。

 

 きょうは、この「さばいてはいけません」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一に、クリスチャンが他人をさばいてしまう原因の一つは、信仰の理解に差があるためです。何でも食べてよいと信じている人もいれば、野菜の他には食べないという人もいます。第二のことは、他の人をさばかないために必要なことは、自分の立場をわきまえることです。第三のことは、クリスチャンにとって最も重要なことは何のためにするのかということです。すなわち、クリスチャンは主のために生きているという意識をしっかりと持つことです。

 

 Ⅰ.食べる人と食べない人(1~4)

 

 まず1~4節までをご覧ください。「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」

 

 ここでパウロが触れている問題はどういうことかというと、信仰の弱い人と強い人との摩擦の問題です。1節には、「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」とあります。この弱い人とは体の弱い人のことではなく、信仰の弱い人のことです。その人は信仰がないわけではなく、信仰はあるのですが弱いのです。イエス・キリストを信じたことによって救われていますが、それでも信仰が弱い人たちがいます。どういう人たちでしょうか。

 

 信仰の共同体の中で他人をさばいてしまう原因の一つは、聖書の理解、信仰の差があるためです。この手紙が書き送られたローマはその当時世界の中心都市でしたから、そこにはいろいろな人々が集まっていました。ユダヤ教から回心した人がいれば、ギリシャ的な背景のある人、ローマ的な背景の人、あるいは肌の色もさまざまで、奴隷もいれば、高貴な人もいました。また、教養のある人もいれば、ない人など、実にさまざまな人々いたのです。いろいろな人がいればいろいろな考え方があって当然ですが、ここで問題になっていたのは、聖書の解釈に基づく違いに原因がありました。2,3節には食べ物の問題が、そして5,6節には日の問題があげられていますが、こうした問題に関しての理解に違いがあったのです。

 

 まず食べ物についてですが、ある人たちは何でも食べてよいと信じている人がいれば、野菜よりほかに食べてはならないと信じている人がいました。それは、いわゆる菜食主義の人たちのように健康的な理由から主張していたのではなく、宗教的な理由からそのように主張していたのです。当時、いわゆる信仰が強いという人々は、キリストの福音によって旧約の律法と伝統から自由になったと信じていたので、旧約聖書のレビ記(11~16節)には汚れた食べ物に関する規定がありましたが、そういうことを気にせず食べていました。また、コリント人への手紙第一8章4節に出てくる「偶像にささげられた肉」についても、偶像の神がいるわけじゃないし、そんなことを気にしていたら何も食べることができないと、何でも食べていいと信じていました。このような人たちは福音がもたらした自由というものがどういうものであるかをよく知っていましたので、そうしたことにこだわっている人たちを見下げていたのです。

 

 あるいは、5,6節を見ると、ある人たちはある日を、他の日に比べて大事だと考える人たちもいましたが、どの日も同じだと考える人もいました。これはクリスチャンになっても依然として安息日をはじめとした旧約聖書に規定されている日を特別な日として守っていた人たちのことだと思われますが、律法から解放されたと信じていたクリスチャンにとっては、いまだに律法に捕らわれた生き方をしていた彼らの生き方、考え方を受け入れることができず、さばいていたのです。

 

 しかし、そのように信仰において意見や考え方が違ってもさばいてはいけません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけないのです。神がその人を受け入れてくれたからです。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことでさばき、滅ぼすようなことがあっては神様に申し訳ありません。神が受け入れてくださったのであれば、私たちも受け入れることは当然です。

 

 しかし、自分はクリスチャンだと自認している人でも、神に受け入れられていない人もいます。どういう人でしょうか?それは、こうした食べ物や飲み物についてではなく、救いに関して間違った教理を持っている人です。救いは主イエスにあります。そのイエスを主と告白しなければ救われません。にもかかわらず、イエス様を神と認めなかったり、イエス様を信じるだけでは救われないと言う人たちがいるのです。いわゆるリベラル派の人たちです。自由主義神学と言います。リベラル派の中にもいろいろな人たちがいるので一概にこうだとは言えませんが、その特徴の一つは、聖書の無謬性、無誤性を信じていないことです。聖書の無謬性とか無誤性というのは、聖書は誤りのない神のことばであるということです。それを信じていません。ですから、たとえば天地創造とか、ノアの箱舟、バベルの塔の物語があるでしょ。そうした物語は科学的・歴史的に事実ではなく、宗教的に有益な神話であるとみなすのです。一部の甚だしく急進的な派では、イエスの母マリアの処女懐胎やキリスト教信仰の中心ともいえるイエスの復活をも事実とはせず、神の存在をも否定するのです。そんなの関係ないのです。大切なのはそれが事実であるかどうかではなく、そこから何を読み取るのか、何を学ぶのかということです。この自由主義神学の立場に立つドイツの神学者にルドルフ・ブルトマンという人がいますが、彼は聖書の非神話化に取り組んだ人です。聖書の中から神話的な要素を取り除き、それが意味していることを信仰によって受け入れるという取り組みでしたが、その結果何も残りませんでした。聖書はそれほど人間の想像を超えた記述に満ちているということです。その内容を受け入れないとしたら、それはもはやキリスト教だとは言えなくなってしまいます。だって聖書の信条や、歴史的なキリスト教の正統信仰の枠から、完全に逸脱することになるからです。それは異端というより、その宗教そのものが根本から問われることになります。ですから、こういうのは論外です。クリスチャンであると言いながら、こうした聖書の救いに関する基本的な教えを曲解したり、受け入れていないとしたら、そのような教えの風やだましごとの哲学には、断固反対すべきです。

 

 1910年にエディンバラで世界宣教会議が行われましたが、その時の資料の中に「腐った鰯(いわし)は肥やしになるが、腐った教会はごみ捨て場からも拒否される」ということばがありました。しかし、それは事実です。本当に神様はいらっしゃる、イエス様の十字架の血潮が救ってくださる、イエス様以外に救いはないと、神様を、イエス様を、聖霊様を、そして、イエス様の十字架の贖いを信じない教えは腐っているとしか言いようがありません。私たちは毎週礼拝で使徒信条を唱えていますが、それは聖書の基本的な信条だからです。そのことばを信じることによって救われるのであって、それ意外に救われる道はありません。このような根本的な問題については、はっきり間違っている人と、私たちは袂(たもと)を分かたなければならないのです。

 

 しかし、グレーな部分があります。たとえば、バプテスマのやり方などはそうでしょう。ある人たちは、バプテスマは水を垂らすだけでいい、これを滴礼と言いますが、そう人たちがいれば、いやバプテスマというのはもともと「浸める」という意味だから全身を水に浸さなければならないと主張する人たちもいます。私たちが属している保守バプテスト同盟はバプテストの流れを汲んでいますから、中には滴礼で洗礼を受けた人が教会の会員として加わる時にもう一度バプテスマを受けてもらう教会もあります。しかし、大切なのはどのような方法で洗礼を受けたかということではなく、信じてバプテスマを受けるということです。信じてバプテスマを受ける者は救われるのです。たとえ、そのやり方が違っても信じてバプテスマを受けたのであればそれは神様に喜ばれることであると、私たちは考えています。ですから、このようなことで考え方が違うからと言ってさばいてはいけないのです。

 

 このようなことは、バプテスマのやり方ばかりでなく、クリスチャン生活のこまかな点でも言えることです。ある人は、クリスチャンはお酒やたばこを飲んではならないと考える人がいれば、そうしたことは自由だと考える人もいます。コーヒーや紅茶など、カフェインが入っている飲み物を飲んではならないと主張するクリスチャンがいれば、映画館や劇場に入ってはならないとか、男女の交際をしてはならないと考えているクリスチャンもいます。ひどいのになると、女性はズボンをはいてはならないと主張するクリスチャンもいます。もし女性がズボンをはいてはならないとしたら、クリスチャンの女性の方はスカートをはいて田植えをするのでしょうか?それも大変です。しかし、そのように考えている人もいるのです。しかし、それはその人の考えであって、その意見をさばいてはいけません。受け入れなければならないのです。

 

 アメリカのチャールズ・スウィンドルという牧師は、クリスチャンが他の人を批判してはいけない七つの理由を次のように述べました。

1.私たちはすべての事実をみな知らない。2.私たちはその動機を完全に理解できない。3.私たちは完全に客観的な考えをすることはできない。4.その状況にいなければ正確に知ることはできない。5.私たちには見えない部分がある。6.私たちには偏見があり、視野が薄れていることがある。7.私たちは不完全で、一貫性がない。です。

 考えてみると、ほんとうに私たちが知っていることは一部分であり、自分に都合がいいようにしか受け取らない傾向があります。自分を中心に物事を見ていく癖があるのです。そのような私たちが、ほかの人をさばくようなことがあるとしたら、それこそ問題ではないでしょうか。

 

 イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」と言われました。(マタイ7:1~5)私たちがさばかなければならないのは他の人ではなく、自分自身です。まず自分の目から梁を取り除かなければなりません。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができるでしょう。

 

 信仰の共同体(教会)の中にはいろいろな人がいます。そこにいろいろな違いがあってもそれをさばくのではなく、互いに認め合い、互いに受け入れ合うべきなのです。自分の考えだけが正しいと言える人は誰もいません。黙想に慣れている人は、一斉に大きい声で祈る人々を狂信的だと言わないでください。また、いつも叫んで祈っている人は、静かに祈る人を見て、霊的に冷え切っているなどと言わないでください。叫んで祈ろうが、黙想して祈ろうが、祈ればいいのです。ただ「自分とは違うスタイルで恵みを受けているんだ」と考えることです。それが寛容であるということではないでしょうか。

 

 Ⅱ.自分の立場をわきまえる(4)

 

 第二のことは、私たちは自分の立場をわきまえなければならないということです。4節をご覧ください。「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」

 

 なぜ、信仰の弱い人を受け入れなければならないのでしょうか?なぜ、その意見をさばいてはならないのでしょうか?そのことを教えるためにパウロはここで、私たちがどのような身分、立場であるかに目を向けさせています。それはしもべにすぎないということです。それなのになぜ、他人のしもべをさばくのですか?この「しもべ」ということばは家の使用人のことです。ある人の家で使われている使用人について、他人がとやかく言う権利があるでしょうか?ありません。もしあるとしたら、それはその家の主人だけです。ましてや同じしもべの身分にすぎない者が、他の家のしもべについて何かを言う権利などありません。もしそのようなことがあるしたら、それこそ自分の立場をわきまえない証拠です。それは神のみわざに対する中傷であり、越権行為です。越権行為とは、自分の権利を超えているということです。そのようなことを平気でしているとしたら、それこそ罪であり、厳に戒められなければならないのです。

 

 Ⅲ.主のために生きる(5-8)

 

 ではどうしたらいいのでしょうか?ですから第三のことは、主のために生きなさいということです。これがクリスチャンにとって最も重要なことであり根本的なことです。5~8節までをご覧ください。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

 

 ここには「・・のために」ということばが7回も出てきます。つまり、食べるとか食べない、日を守るとか守らないということが大切なのではなく、何のために食べ、何のために食べないのか、何のために日を守り、何のために守らないのかということが重要であるということです。そしてクリスチャンにとって重要なことは、それが「主のために」ということです。食べる人は主のために食べるのであって、食べない人も主のために食べないのです。日を守る人も主のために守り、主のために守らないのです。それぞれどのように行動するかは自分の心の中で確信を持って行動すべきであって、何よりも重要なことは、それが主のためなのかどうかです。私たちが主のために生き、主のために死ぬのかどうか、そこにかかっているのです。

 

 パウロはローマ人への手紙6:12で、「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」と言いました。いったいなぜ、私たちの体を罪の支配にゆだねて、情欲に従ってはいけないのでしょうか?その理由をパウロは、その後のところで次のように言っています。6:18です。「罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」イエス・キリストを信じ、キリストにつぎ合わされ、キリストの奴隷、義の奴隷となったのですから、罪の支配にゆだねてはならないのです。ガラテヤ2:20にはこうあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」キリストとともに十字架につけられ、キリストとともに古い罪の生活に死に、キリストにあって生きる者へと変えられたので、私たちはそのように生きるのです。主のために生きる者に変えられた。これがクリスチャンにとって最も重要なことであり、根本的なことなのです。

 

 皆さんは何のために生きていらっしゃいますか?クリスチャンはだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬ。そう告白して生きるのがクリスチャンなのです。

 

 先週も紹介しましたが、ドイツの有名な音楽家ヨハネ・セバスチャン・バッハですね、彼はあるとき宗教改革をしたマルチン・ルターに手紙を書き送りました。その中で彼は「音楽の唯一の目的は、神の栄光が現され、人々の魂が新たにされることでなければならない」と言いました。少なくともバッハはそう思ったのです。ですから、彼が書いた楽譜の最後のところにはいつも「S・D・G」とサインしたのです。これはある言葉の頭文字です。その言葉とは「Soli Deo Gloria」です。これはラテン語でが、「神にのみ栄光あれ」という意味です。彼は新しい曲を作るたびに、この曲が神の栄光を現すものでありますように、そしてこれを聴く人の魂が新たにされますようにという祈りを込めて、曲を作っていたのです。バッハの目的は、神の栄光が現されることだったのです。

 

 白衣の天使と言われたナイチンゲールは、クリミア戦争中にスパイとして追われ死刑に処せられました。敵は治療するな、という軍の命令に逆らったためです。そのナイチンゲールが死刑に処せられる直前に語ったこと言葉があります。それは「愛国心だけでは足りません」という言葉です。愛国心だけでは足りません。もっと大きな愛が必要です。そう言って彼女は敵、味方関係なく傷ついた人々を介抱しました。その結果、スパイとして処刑されましたが、この言葉は、私たちクリスチャン一人一人が心に刻まなければならない叫びです。正義だけでは足りません。愛がなければなりません。正しい人であるだけでは駄目です。受け入れる広い心が必要です。クリスチャンには広い心が必要です。批判せずに寛容でなければなりません。信仰の弱い人を受け入れるべきです。その意見をさばいてはいけないのです。そのような生き方の中にこそ、神の栄光が現されるのです。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものですと告白しながら生きるクリスチャンにとって、それは難しいことではないのです。

出エジプト記33章

2020年10月14日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記33章

 

 出エジプト記33章を学びます。前回のところで、イスラエルの不信仰について学びました。イスラエルは金の子牛を造ってそれを拝み、その回りで踊り狂うという信じられないことをしました。山から下りて来てそれを見たモーセは、二枚の石の板を粉々に砕くと、金の子牛を砕いてそれをイスラエルの民に煎じて飲ませました。それでも反抗する民がいたので、主につく者たち(レビ族)は、公然と反抗する者たちを殺しました。そしてモーセは、もし彼らが救われるのなら、自分の名がいのちの書から消されても良いと、とりなしの祈りをします。すると主は、「わたしが告げた場所に民を導くように」と言われました。きょうの箇所は、その続きです。まず、1-6節をご覧ください。

 

Ⅰ.わたしは上らない(1-6)

 

まず、1-6節をご覧ください。3節までをお読みします。「【主】はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」」

 

主はモーセに「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。」と言われました。主は彼らを滅ぼそうとされたのではなく、約束の地に導こうとされたのです。そこは、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに「これをあなたの子孫に与える」と約束された地です(創世記12:7,26:3)。主は、どのように導いてくださるのでしょうか。ここには、「わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし」とあります。

「一人の使い」とは、天使のことです。23:23には「わたしの使いがあなたの前を行き」とありますが、ここでは「一人の使い」となっています。「わたしの使い」とは「主の使い」、すなわち、受肉前のキリストのことですが、ここでは「一人の使い」になっているのです。どうしてでしょうか。理由は3節にあります。彼らはうなじを固くする民なので、もし主が彼らの近くにいたら、その途中で彼らを滅ぼしてしまうことになるからです。うなじを固くするとは、強情になって神の仰せに聞き従わないことです。そのようにして罪を犯すので、聖なる神が近くにいたらたちまち滅ぼされてしまいます。そういうことがないように、民がそのまま生きているためには、聖なる神がそばにいることはできません。これは、約束された地は与えられているが、主がともにおられないということです。

 

皆さんは、これをどのように受け止めたらいいのでしょうか。別に神がいなくても約束されたものを手に入れることができればそれでいいじゃないかと思われますか。もしそのように受け止めるとしたら、それは私たちの信仰が少し歪んでいることになります。というのは、私たちの信仰は神ご自身を求めることだからです。クリスチャンがクリスチャンであることの特権と祝福は、神がともにおられることが確信できることです。主イエスは、そのためにこの世に来てくださいました。主がこの世に来られたことで「インマヌエル」、訳すと「神がともにおられる」という約束を成就してくださったのです。時が良くても悪くても、祝福の時も逆境の時も、どのような時も主がともにおられるという確信があるからこそ、私たちには平安があるのです。自分の人生がどんなに順調に進んでいるようでも、主がともにおられなかったら悲惨なのです。ダビデは詩篇27:4でこのように言っています。「一つのことを私は【主】に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り【主】の家に住むことを。【主】の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」それなのに、ここで主は「わたしは、あなたがたの中にあっては上らない」と言われたのです。

 

それに対して、民はどのように応答したでしょうか。4-6節をご覧ください。「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。【主】はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。」

 

彼らはこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいませんでした。なかった。その悪い知らせを聞いて嘆き悲しんだのです。だれも飾り物を身につける者はいませんでした。それは、「飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。」と、主が命じておられたからです。

この「飾り物」とは、金の子牛の周りで踊った時に身に着けていた物です。民はそれを取り外しました。それは自らの罪の悔い改めるしるしでした。イスラエルの民は自らの罪によって主との交わりを失ったことを大いに悲しみ、悔い改めたのです。神との交わりを回復するためには、罪を悔い改め、罪から離れることが求められるのです。

 

Ⅱ.顔と顔とを合わせて(7-11)

 

 次に、7-11節をご覧ください。「さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。だれでも【主】に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのを常としていた。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。」

 

金の子牛の事件後、神と民との会見に変化が生じました。それまでは、神の栄光は宿営の中に宿っていましたが、その事件後は宿営から離れてしまいました。それでモーセは宿営から離れたところに天幕を張ったのです。これが「会見の天幕」と呼ばれるものです。モーセは主と会見するために特別な場所を設けたわけです。この天幕は幕屋とは違います。ヘブル語で幕屋を「ミシュカー」と言いますが、これはテントのことです。単なる天幕です。モーセは神と民の和解のために、神と会見する必要がありました。それが会見の天幕です。それは宿営の真ん中ではなく、宿営から離れた所、宿営の外にありました。どうして宿営の外にあったのでしょうか。それは宿営の中はうるさかったからです。静かな場所が必要でした。イエス様もよく荒野に退いて祈っておられましたが、それはそこが静かな場所だったからです。モーセはその会見の天幕に行って祈りました。それはモーセにとって簡単なことではありませんでした。何しろ300万人もの民を率いてキャンプしていたのです。毎日の忙しい業務から離れて宿営の外に行くには、かなりの犠牲が強いられたことでしょう。しかし彼はそれだけの犠牲を払っても主が言われるように宿営の外に天幕を張り、主と会うためにそこへ行ったのです。

 

主とお会いするということはそういうことです。そこには犠牲が伴いますが、日々の雑多な生活の中から身を引いて主に向き合い、ひとり静まって祈ることが必要なのです。私たちは礼拝や祈祷会、聖書の学び、ディボーションを通して主に向かいますが、なぜそれが必要なのかというと、それはまさにモーセのように幕屋、テントを張るようなものだからです。あらゆる犠牲を払い会見の天幕に行かなければならないのです。

 

モーセが会見の天幕に行くとき、民はどのようにしていたでしょうか。8節には、「モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。」とあります。彼らはみな立ちあがり、自分の天幕の入口に立って、彼が天幕に入るまで見守りました。かつて民は、「あのモーセという者」と言ってモーセを蔑みましたが今は違います。モーセをリーダーとして、神の器と認めました。そして、神と民の仲介者として敬ったのです。

 

モーセが天幕に入ると、雲の柱が下りて来て、天幕の入口に立ちました。これは主が降りてこられたことのしるしです。こうして主はモーセと語られました。そのとき自分の天幕の入口にいた民も立ちあがって、それぞれ自分の天幕の入口で主を伏し拝みました。モーセが神と話しているという事実の前に、畏怖の念を感じたのでしょう。

 

11節には、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られた。」とあります。これは文字通りモーセが神の顔を見たということではありません。なぜなら20節には「あなたはわたしの顔を見ることはできない」とあるし、Iヨハネ4:12にも「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。」とあるからです。人となられた神の子イエスを見ることはできますが、父なる神を見ることはできません。神の栄光に与ることはできますが、神を見ることはできないのです。ですから、「顔と顔を合わせて」とはそれほど親しく語られたということです。私たちが友と話をするときは顔と顔とを合わせて語ります。それと同じです。

 

モーセ以前にも、神の友と呼ばれた人がいました。アブラハムです(ヤコブ2:23,Ⅱ歴代20:7)。主は人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセと語られましたが、同じように神はアブラハムに包み隠すことなく語られました。そしてそれはモーセやアブラハムだけでなく、私たちも同じです。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られたように、私たちを友と呼ばれ、私たちのために命を捨ててくださいました。ヨハネ15:13には、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。イエス様は私たちを「友」と呼んでくださいました。そのイエス様は今私たちの心に住んでおられます(エペソ3:17)。友なるイエスが、聖霊によって、私たちの心に住んでおられるのです。顔と顔とを合わせて見ることができるのです。それなのに、私たちはこの主との会見を楽しんでいるでしょうか。主との語らい、主とともにいること、主ご自身を喜んでいるでしょうか。どちらかというと、日々にことで忙しく、主ご自身と顔と顔とを合わせることを後回しにしていることはないでしょうか。クリスチャンの祝福とは、いろいろな祝福を受けることよりも、その祝福を与えてくださる主とともにいること、主と顔と顔とを合わせて語り合うことなのです。

 

Ⅲ.モーセの祈り(12-23)

 

最後に、12-23節をご覧ください。ここでモーセは、神に三つの祈りをささげています。その一つが12-14節にある内容です。「さて、モーセは【主】に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」」

 

第一の祈りは、「あなたの道を教えてください」というものでした。主は、「一人の使い」を使わすと言われましたが、だれを遣わしてくれるのかがわかりませんでした。そこで彼は、主がともにおられるのでなければ、自分たちは進んでいくことができない。主がともにいて行くべき道を示してほしいと言ったのです。モーセは、主が彼に約束してくださったこと、すなわち、「あなたは名指しで選び出した」とか、「あなたは特にわたしの心にかなっている」ということを取り上げ、だから、自分から離れないで、あなたの道を教えてくださいと祈ったのです。

 

 それに対して主は、こう答えました。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(14)

第三版では、「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」とあります。主はモーセとともにあって、彼を休ませてくださると約束してくださったのです。それは、モーセにとってどれほどの慰めであったことでしょう。

 

それでモーセはさらに主に祈ります。15-16節です。「モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」

 

主のことばに対してモーセは、自分だけでなく民とともにいてほしいと訴えます。もし、神がいっしょでなければ、自分たちをここから上らせないように(15)と。ここでモーセは民と一体化しています。モーセは民のためにとりなしているのです。そして、モーセとイスラエルが、この地上の民と区別されるのは、主がともにおられるかどうかということによるのですから、どうかイスラエルとともにいてほしいと訴えたのです。

 

それに対して主は何と言われましたか。17節です。「【主】はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」」

イスラエルの民ともいっしょにいてくださるという約束です。すごいね。主がイスラエルとともにいると言われたのは、モーセのとりなしによるものでした。それと同じように、主が私たちとともにいてくださるのは、主イエスのとりなしのゆえです。私たちにはこのような祝福や特権にあずかる資格はありません。ただ主イエスのとりなしのお陰なのです。

 

第三の祈りは18-23節にあります。「モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、【主】の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また【主】は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」」

 

 するとモーセは、主がともにいてくださるというだけでなく、「あなたの栄光を見せてください」と言いました。「栄光」とはヘブル語で「シェキーナー」語です。これはどういうことかというと、主ご自身を見たいということです。これは人間には不可能なことですが、信仰者であればだれもが抱く願いではないでしょうか。自分が信じている主をおぼろげながらではなく、顔と顔とを合わせてはっきり見たい。自分を救ってくださった主を、もっと知りたいという願いです。

 

 これが信仰の本質です。信仰とは主を知ることです。主イエスは「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)と言われました。またIヨハネ1:1にも「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」とあります。永遠のいのちとは、主を知ることです。主を知ることを求め、このことから目を離していなければ、私たちの信仰の生活は安定し充実したものになっていきます。このことから離れると、とたんに永遠のいのちがわからなくなってしまいます。自分の思い込みの信仰になり、安定性に欠けることになります。主を知ること、主を見続けること、それが信仰の歩みなのです。

 

それに対して、主は何と言われましたか。19節には「主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、【主】の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」とあります。

神の栄光を見せてくださいというモーセに対して、主は「わたしのあらゆる良きものをあなたの前を通らせ、主の名であなたの前に宣言する。」と言われました。どういうことでしょうか。神の栄光が現される時には必ずあらゆる良きものが見られるということです。「善」と「栄光」は切っても切り離せない関係にあります。神の栄光を体感しているという人は、神の善を体感していると言い換えることもできます。God is so Good.なのです。神の良きものを経験している人は、まさに神の栄光を見ているのです。

 

そして、「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」と言われました。これは、神は主権者であられるということです。これはローマ人への手紙9章の主題でもあります。。神は一方的にあわれまれるということです。私たちの行いとは全く関係ありません。神の善というのは、私たちの行いには左右されないのです。あくまでもご自分の主権として一方的にあわれまれるのです。私たちの善は条件付きです。これだけのことをしたから恵みを受けるとか、これだけの人だからあわれまれて当然といったところがありますが、神は違います。一方的な神のあわれみによるのです。主の一方的な恵みとあわれみによって私たちは救われました。それはただ主の自由な意志によるのです。

 

主はまた言われました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。」モーセは主の顔を見ることはできません。なぜなら、神の顔を見て、なお生きていることはできないからです。人間の限界性のゆえに、モーセは神の栄光のすべてを見ることはできなかったのです。聖書の中に、主の栄光を見て圧倒された人たちがいます。たとえば、イザヤ(6:5)もそうですし、ダニエル(10:8)もそうです。また、使徒ヨハネ(黙示録1:17)もそうです。主のすべてを見て、なお生きることができるのは、子なる神であられるキリストだけです(ヨハネ1:18)。Iテモテ6:16には、「人間がだれひとり見たこともない、見ることができない方」とあります。いまだかつて神を見た者はひとりもいません。モーセは神を見せてくださいと願いましたが、叶いませんでした。見たら死んでしまうからです。神はそれほど聖なる方なのです。

 

そこで主が言われたことは、「岩の上に立て」ということでした。主の栄光が通り過ぎるとき、主はモーセを岩の裂け目に入れるからです。そのとき、主がそこを通り過ぎるまで、主の手で彼をおおわれるためです。これはどういうことかというと、23節にあるように、主の手をのけるとモーセは主のうしろ姿を見るが、主の顔は決して見られないということです。チラッと見せてあげるということです。

 

しかし、新約時代に生きる私たちは、主の栄光をはっきりと見ることができます。それは、神のひとり子イエス・キリストを通してです。そして、その栄光は十字架の上に表されました。この岩とは、イエス・キリストのことです。この岩が裂けたのはキリストが十字架に掛かられたということです。その裂け目に入れると言われました。キリストの十字架という岩の裂け目に入るなら、神の栄光を見ることができます。そして、イエス・キリストの贖いを信じキリストの義の衣を着るなら、神の栄光を見ることができます。それ以外に方法はない。神の栄光を見たければ、キリストのうちにあることです。そこにいれば神に打たれることはありません。キリストがおおっていてくださるからです。

すべての営みに時がある 伝道者の書3章1~15節

2020年10月11日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書3章1~15節(旧約P1141)

タイトル:「すべての営みに時がある」

きょうは、伝道者の書3章前半から学びます。「空の空。すべては空」と言った伝道者は、その空しさを埋めるものを日の下で徹底的に追及してきました。たとえば、知恵と知識を身につけたり、快楽を味わってみたり、さらには事業を拡大して、ありとあらゆる金、銀、財宝を手に入れ、立派な邸宅を建て、森を造成したり、美しい庭を造り、そこで最高のエンターテインメントを催したりしましたが、それもまた空しいものでした。彼は、おおよそ人間が望むもの、これさえあれば、あれさえあれば、自分は満足できるのではないかといったすべてのものを手に入れましたが、それらのもので満たされることはなかったのです。「ヘベル、ヘベル。すべてはヘベル」です。日の下で行われるわざは、すべは空しく、風を追うようなものでした。

そのような中で伝道者は、一つの真理を見出します。それは、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」ということです。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.すべての営みに時がある(1-8)

まず、1節から8節までをご覧ください。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」

有名な「時の詩」です。天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時があります。この「営み」とは、人間が意図的に行う行為のことです。ここには全部で28の営みを列挙していますが、これは、人生全体を示していると言えるでしょう。動詞に注目していただくと分かりますが、対句になっていて、それが14回繰り返されています。

まず、2節をご覧ください。ここには、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。」とあります。人生には始まりと終わりの時があるということです。その時を自分で決めることはできません。親でさえ、わが子の誕生の時を知りません。誰もその時を選ぶことができないのです。生まれるときと死ぬ時は、神によって定まっているのです。これは単なる運命論ではありません。私たちは神の時に生まれ、神の時にこの地上での生涯を送り、神の時に召され、やがて神のもとに帰るのです。

次にソロモンは、農業のサイクルに言及しています。「植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。」植える時と収穫の時には、神が決めた時があるのです。昨日はアジア学院で収穫感謝礼拝が行われそこでメッセージをしましたが、講壇の前にはこの秋に収穫された作物がきれいに並べられているのを見て、収穫を与えてくださった主に心から感謝しました。植える時と収穫の時を誤ると、その恵みを逃すことになります。

3節をご覧ください。「殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。」
「殺すのに時がある」とは、人を殺すのに時があるということではありません。おそらく、人のいのちが取り去られることにも時があるということでしょう。それは事件や事故、戦争などすべての営みの中においてです。癒すのにも時があります。たとえば、大切な人と死別する時だれでも痛みと悲しみを持ちますが、その悲しみが癒されるのにも時があります。何らかのことで受けた心の傷が癒されるのも同じです。癒されるのに時があるのです。
また、古くなった建物を取り壊し、そこに新しい建物を建てるのにも時があります。それは建物だけではなく、たとえば、組織の態勢の立て直しにおいても言えることです。崩すのに時があり、建てるのに時があるのです。

4節には、「泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」とあります。私たちの人生は悲劇と祝福の繰り返しです。良い事ばかりあればいいのすが、そういうわけにはいきません。逆に、どうしてこんなに不幸が続くのだろうと思うような中にも、必ず良いことがあります。人生は悲しみと喜びの繰り返しですが、その時も神によって定められているのです。

5をご覧ください。「石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。」
「石を投げ捨てる」とは、耕作に適した農地を開墾するために、石を取り除くことを指しています。イザヤ5:2には、「彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。」とあります。これはイスラエルをぶどうの木にたとえ、良いぶどうがなるのを期待していた神が、農地を開墾して、石を取り除き、心待ちにしている様子を描いたものです。神はイスラエルが良い実を結ぶように石を取り除いて、開墾したのです。逆に、「石を集める」とは、家や塀などを作るのに石を集めることを示唆しています。それぞれの行為には、定まった時があるのです。
「抱擁するのに」とは、愛を表現するのにという意味です。愛を表現する時も2種類の時があります。それは、抱擁によって積極的に愛を示す時と、抱擁をやめることによって愛を示さない時です。抱擁をやめる時とはどういう時のことかというと、それが不道徳の場合のことでしょう。ですから、やみくもに抱擁すればいいということではなく、抱擁するのにも時があり、抱擁をやめるのにも時があるのです。

6節には、「求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。」とあります。ビジネスや商売をやっている人はわかりますが、あるいは、それ以外の事に携わっている人にも言えることですが、求めるのに時があり、あきらめるのに時があります。すべての物事が順調に進んで行けばいいのですが、いつもそうとは限りません。今日はうまくいっても、明日はどうなるかなんてだれにもわかりません。自分の力ではどうしようもないこともあるのです。また、それがいつ逆転するかもわかりません。求めるのに時があり、あきらめるのに時があるのです。
また、保つのに時があり、投げ捨てるのに時があります。「断捨離」がブームですね。断捨離とは、不要なものを捨てるというイメージが強いですが、実はそうではなく、物の整理を通して人生が変わる効果的な方法だと言われています。その「もの」でさえ、保つのに時があり、捨てるのに時があるのです。

7節をご覧ください。「裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。」
「裂く」と「縫う」とは、衣服に関する表現です。「裂く」とは、激しい悲しみを表現する際に衣を引き裂くという、イスラエルの習慣から来ています。創世記には、息子ヨセフが死んだと思い激しく痛み悲しんだヤコブが、自分の着ていた衣服を引き裂く場面があります(創世記37:34)。この裂く時が喪に服することを表現しているのならば、「縫う時」とは喪に服していた期間が終了した時のことを指していると考えられます。
黙っているのに時があり、話すのに時があります。私たちの人生には黙っているべき時と、反対に、口を開いて話さなければならない時があります。黙っていなければならない時に話し、話さなければならない時に話さないで失敗することがどれだけあるでしょう。黙っているのに時があり、話すのに時があることを心に留めたいと思います。

そして、8節です。「愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」どういうことでしょうか。当時ソロモンの回りでも紛争が絶えなかったのでしょう。戦闘、殺戮、破壊といった悲劇的な事件が、日常的に繰り返されていました。そうした戦いに翻弄され、多くの涙が流されていたのです。そのような中で、束の間の愛する時、平和の時を経験していたのだと思います。

このように私たちの人生には定まった時期があり、すべての営みには時があります。その「神の時」に逆らうのではなく、今がどういう時なのかを見極めてその「時」に従って生きる人生こそ、幸いな人生だと言えるのです。

ドイツの作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、1748年に両眼の視力を失ってしまいました。そのころライプチヒに来ていた英国の名医によって二度も手術を受けましたが、ついに全くの盲目になってしまいました。それ以来、バッハの生活は昼も夜も暗黒に包まれてしまいました。しかし、作曲活動は依然として続けられ、ついにその暗黒の日々の中からカンタータ第106番「神の時は最上の時なり」を作り上げたのです。
「神の内に私たちは生き、動き、在在する 神の意思であるかぎり。
私たちは最善の時に神の中で死ぬ、神が望まれる時に。
あぁ主よ、私たちの心に刻んでください、我々が死すべき者であることを、我々が賢明になるために。
あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ 生き続けるのではない。
これが いにしえの契約;人は必ず死ぬ。
そうです、主イエスよ、来てください!」
(「カンタータ第106番「神の時は最上の時なり」対訳:国井健宏」

ここに、バッハの心の思いが表れています。私たちは、神の内に生き、動き、在在しているのです。そして、神の最善の時に死にます。この神の時が最上の時なのです。自分であれこれと頑張らなくてもいいのです。神の時を待ち望むことが重要なのです。すべてのことに定まった時があるのですから。それゆえ、この神にすべてをゆだね、神のみ旨に生きる人こそ、真に幸いな人だと言えるのではないでしょうか。

Ⅱ.神のなさることは時にかなって美しい(9-11)

次、に9-11節をご覧ください。「働く者は労苦して何の益を得るだろうか。私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

9節は、1節から8節までの結論です。すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時があるのならば、私たち人間がどんなに頑張ってもそれに何かを付け加えたり、差し引いたりすることはできません。したがって、私たちがどんなに労苦しても何の益も得られないということになります。

しかしその一方で、伝道者は「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と言っています。すばらしいことばです。天の下のすべての営みには時がありますが、神がなさることは、すべて時にかなって美しいのです。

この「時」とは、へブル語で「エーマ」と言いますが、これは時間で計ることができる「時」ではなく、計ることができない時です。私たちは、有限な時間の中に生きていますが、この「神の時」はその時間の中に、突如として現れるものです。人生には、「あのとき、あの人に出会ったから、今ここにいる」とか、「あのときあの場所に行ったから、あの人に出会うことができた」ということがあります。あとから振り返ってみると、それは私たちの運命を決める決定的瞬間の「時」であったわけです。ある人はそれを偶然と言う人もいるし、神の摂理だという人もいますが、私たちの人生には、確かにそういう時があるのです。一瞬、時間が止まり、突然、神が介入したかのような不思議な「時」です。その時が人生を決めることがあります。神のなさることは、すべてその時にかなって美しいのです。

「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」第三版には、「永遠の思いを与えられた」とあります。人は本能的に、有限な時間の先に何かがあることを感じながら生きています。なぜなら、神は人を造られた時、ご自身のかたちに創造さられたからです。永遠に神とともに生きるように造られました。ですから、人間の中にはどこか永遠の世界へのあこがれがあるのです。動物が巣に帰る、帰巣(きそう)本能があるように、人間も本来いるべきところに帰りたいという本能があるのです。この伝道者が「空の空。すべては空。」と言ったのはそのためです。心の赴くままに、ありとあらゆることを楽しんでも空しさを感じたのは、この地上は永遠の世界ではないからです。人の心に永遠の思いが与えられているならば、その永遠の今を生きることこそ、真の解決につながるのです。

ところで、その後の言葉を見てください。ここには、「しかし人は、神が行うみわざを始まりから終わりまで見極めることができない。」とあります。人間は絶対者であられる神が持っている計画の全貌を知ることができません。神の計画を知らないでいくら労しても、それは空しい結果をもたらすだけです。せっかく上向いてきた伝道者の心が、ここでまたトーンダウンしています。「やっぱりだめだ」という思いになっているのです。いったいこれはどういうことでしょうか。

すべての営みに時があります。そして、神のなさることは、すべてその時にかなって美しいのです。神は、私たちの思いをはるかに超えた神のタイミングで、また、想像もしなかったご自身の方法でその御業を成してくださいます。しかし、その時は隠されているため、人はその時を見極めることができないのです。確かに、生まれる時と死ぬ時は、どんなに知恵を尽くしても、力を尽くしても、人には知ることも、変えることもできません。私たちは、そのことを理解しているので、人間の誕生の神秘に驚いたり、死の厳粛さを覚えるのです。しかし、ほかの「時」はどうでしょうか。日々のスケジュールを自分で決めて、人生の選択を自ら下しながら生きています。そのため、自分の人生は自分で完全にコントロールしている、コントロールできるものだと思い込んでいます。

ですから伝道者はここで、「しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」と言ったのです。「神の時」は、いつ、どんな形でやってくるかわかりません。であれば、私たちは、この「時」を支配しておられる神の前にひれ伏し、へりくだるしかありません。「神の支配」と聞くと、「自分の人生は自分で決めるんだ」と反発する人もいるかもしれません。もちろん、人生は各人が自由に選択して、主体的に生きていくべきです。しかし、神の行うみわざを、初めから終わりまで見極めることはできないのは事実です。であれば、私たちにできることは何でしょうか。その神の時に身を任せ、その中で、神の時を待ち望むことではないでしょうか。

愛喜恵のためにお祈りいただきありがとうございます。愛喜恵はシカゴの大学を卒業することができ、現在は来年1月から大学院で学ぶための準備をしています。しかし、生活のために何らかの仕事をしなければならないと、3月頃からずっと仕事を探していましたが、コロナウイルスの影響もあってなかなか見つけることができませんでした。車いすの状態ということもあって仕事も限られおり、どうしようかと悩んでいましたが、奇跡的に与えられました。それはノースとリッジグループという会社なのですが、電話でクレームの対応をしている人を評価する仕事です。その会社の顧客には日本の会社もあるので、日本語ができて、なおかつ日本人の心というか、文化もある程度理解できる人ということで採用されたようです。それは意外と時給も高く、チャレンジのある仕事で、自分のスケジュールに合わせて働くことができるので大学院での学びにも影響することがないという点でベストな仕事でした。本人もよほどうれしかったんでしょうね、珍しくラインでメッセージが届きました。
「神様は、いつも祈りに答えてくれる。それが、グレースが願っていた時と違うかもしれないけれども、神様は人生において、完璧な計画を持っていて、神様のタイミングで、恵みを与えてくださる!・・・3月から仕事を探していて、9からの仕事。半年間、仕事が見つかるかとか、インタビューしても、返事がなかったり、ストレスや困難が続いていたけれども、恵みに満たされて、神様はいつもその痛み、嘆きを聞いてくださる!」
本人としては、かなりストレスがあったんでしょう。そんな苦しみの中で主に祈ったとき、主がベストのタイミングで、ベストの仕事を与えてくださいました。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。このみことばは、あなたの人生においてもしかりです。神は、あなたの人生にも時にかなって美しいことをされるのです。そのことを信じて、神にすべてをゆだねて歩みたいと思います。

Ⅲ.神がなさることは永遠に変わらない (12-15)

最後に12-15節を見て終わりたいと思います。「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを神はなおも求められる。」

ここでのキーワードは「知った」という言葉です。この言葉が繰り返して使われています。伝道者は何を知ったのでしょうか。まず12節には、「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。」とあります。彼は、人の心には永遠の思いが与えられていることを知っていました。しかし、働く者が労苦して何の益もないとしたらも、果たして人生にはどんな意味があるというのでしょうか。彼は、人は生きている間に喜び楽しむことのほかは、何も良いことがないことを知ったのです。しかし、これまでの心境に変化が見られるのは、それだけで終わっていないことです。13節では、「また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」と言っています。人が食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことができるとしたら、それもまた神の賜物だということも知ったのです。

伝道者はまた、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことも知りました。それゆえ、それに何かをつけ加えたり、取り去ったりすることはできません。人間は何かとつけ加えたがります。たとえば、神の救いについても、キリストの十字架だけでは足りないと、それに何かをつけ加えようとするのです。たとえば、信じるだけでは足りない、もっと聖書を読まなければならない。もっと祈らなければならない。もっと奉仕をしなければならない。もっと献金をしなければならない。もっと伝道しなければならない。もっといい人にならなければない、といろいろとつけ加えようとするのです。律法主義と呼ばれるものです。そうでないと救われないし、神に祝福してもらえない、神に認めてもらえないと考えるのです。しかし、そうではありません。神の救いの御業は完了しているのです。あなたはそれに何かをつけ加える必要は全くないのです。

また、取り去ろうとしてもなりません。神が語られることについて、それをすべて自分に語られたこととして受け入れなければなりません。それが他人について語られている分にはうなずいて、その通りだと言いますが、自分に語られていることだと思うと、どこか割り引いて受け止めようとする傾向があります。そして、自分に都合の良い部分だけを選り好みして聞いてしまうのです。そのように自分の都合に合わせた受け止め方、自分主体になるのではなく、神主体に、神が語られたすべてを受け入れなければなりません。それは、私たちが神を恐れるようになるためであり、神の計画に従って生きるためです。

15節には「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを、神はなおも求められる。」
神が支配される歴史は、同じことの繰り返しです。今あることは、すでにあったこと、これからあることも、すでにあったことです。追い求められてきたことを、神はなおも求められます。つまり、永遠に変わることのない完全な神の御業を認め、その神を恐れて生きることこそ、それがすべての問題の解決なのです。

私たちの人生は空です。それはほんの束の間です。しかしその空しい人生は、神が定めた「時」に支配されています。その不思議な神の時で満ちた人生は、謎に満ちていると言うほかありません。生まれる時も、死ぬ時も、いや私たちの人生のすべてが、神の時で満ちているのです。

人間は、有限な時間のあとを追いかけるようにして生きています。しかし、どんなに「時」をつかもうとしても、決して掴むことはできません。この手で「時をつかんだと思っても、すぐに指の間からこぼれ落ち、手には何も残りません。それだけではありません。人生には、どんなに避けようとしても、避けられない「時」もあります。すべてのことには定まった時があるのです。その「時」は、悪い時だけではありません。今、悪い時と思っても、あとから振り返ると、意味のある時だったとわかる時がくるでしょう。そんな今という「時」が、神からの賜物として私たち一人一人に与えられているのです。

であれば、たとえ人生が空、ヘベルであっても、あるいは、人生に悲しみや痛み、辛さといったものがあっても、いや、そうした現実だからこそ、むしろ、神から与えられた今という「時」を生きるようにと伝道者は語っているのではないでしょうか。すべての営みには時がある。その神の時を見極めながら、神のなさることに期待して、永遠の今を生きていきたいと思うのです。