聖書箇所:エレミヤ書43章1~13節(旧約P1372、エレミヤ書講解説教73回目)
タイトル:「エジプトではなく、神に」
今日は、エレミヤ書43章から「エジプトではなく、神に」というタイトルでお話します。42章では、ユダの民がエジプトに行くべきか、それともユダの地にとどまるべきかを、エレミヤを通して主に尋ねました。彼らは「それが良くても悪くても、主の御声に聞き従います」(42:6)と言ったにもかかわらず、いざ神の御心が示されるとそれに従いませんでした。ユダの地にとどまるようにという主の御声を退けて、「いや、エジプトに行こう」(42:14)と言ったのです。彼らは、最初から従うつもりなどありませんでした。ただ自分たちの計画に神が同意してくれた時のみ従おうとしていたのです。
かくして彼らはエジプトに下って行くことになりますが、その結果、どうなったでしょうか。主はバビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、ある者たちを殺し、ある者たちを捕虜とし、ある者たちを剣に渡すと語られました。さらにエジプトの神々の神殿を火で焼かれます。エジプトの力を過信して彼らに頼ったユダの民は、神のさばきを受けることになるのです。
いったい何が問題だったのでしょうか。神よりもエジプトを頼ったことです。彼らは神の御声に聞き従わないで、自分の思いを優先しました。エジプトではなく、神に信頼しなければなりません。神は最後の最後まで、ご自身に立ち返ることを願っておられるのです。
Ⅰ.主の御声に聞き従わなかった民(1-4)
まず、神の御声に聞き従わなかったユダの姿を見ましょう。1~4節をご覧ください。
「43:1 エレミヤが民全体に、彼らの神、【主】のことばを語り終えたときのこと。彼らの神、【主】はこのすべてのことばをもって、エレミヤを彼らに遣わされたのであるが、43:2 ホシャヤの子アザルヤ、カレアハの子ヨハナン、および高ぶった人たちはみな、エレミヤにこう告げた。「あなたは偽りを語っている。私たちの神、【主】は『エジプトに行ってそこに寄留してはならない』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。43:3 ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデア人の手に渡して、私たちを死なせるか、あるいは、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。」43:4 カレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちと、民のすべては、「ユダの地にとどまれ」という【主】の御声に聞き従わなかった。」
エレミヤが民全体に、主のことばを語り終えると、彼らは全く受け入れるどころか、それを語ったエレミヤを非難しました。「あなたは偽りを語っている」と。エジプトに行ってそこに寄留してはならないというのは、エレミヤの預言を筆記していたバルクにそそのかされてそう言っているだけで、バルクは自分たちをバビロンに引いて行かせようとしているのだと、「ユダの地にとどまれ」という主の御声に聞き従わなかったのです。
いったい何が問題だったのでしょうか。2節に「高ぶった人たち」とあります。それは彼らが高ぶっていたことです。高ぶっていると神のことばに従うことができません。自分を信頼するからです。謙遜な人は神に信頼しますが、高ぶっている人は自分を信頼します。謙遜な人は神に栄光を帰しますが、高ぶっている人は自分に栄光を帰そうとします。これが問題です。へりくだっているなら神に信頼し、神のことばに従おうとしますが、高ぶっていると神のことばに従うことができないのです。ですから、神の御心に従うためにはへりくだらなければなりません。しかし、このへりくだるということがなかなか難しいのです。
これは寓話ですが、ある若い牧師が、地域のキリスト教団体から、その年の最も謙遜な牧師として表彰されました。教会員もみんな感謝して表彰式に行きました。その式で彼は、最も謙遜な牧師として、謙遜がいかに大切であるかをスピーチしました。ところが次の週、教会員がその表彰状をその団体の本部に返しに来たというのです。その理由は、なんとその牧師はいただいた表彰状を額に入れ、それを教会のロビーに飾ろうとしたからでした。「先生、止めてください。これは返上した方がいいです」と、返しに来たというのです。
この寓話は真理を突いていると思います。へりくだるというのは、それほど難しいことなのです。
18世紀にイギリスのリバイバル運動を指導したジョン・ウェスレー(1703~1791)は、「キリスト者の完全」という本の中でこう言っています。「もしあなたが完全に罪から解放されていると信じるなら、まず高ぶりの罪に警戒しなさい。この罪だけは、あらゆる欲から解放された心の人も捉えることができることを私は知っている。」
なぜ神のことばに従うことができないのでしょうか。なぜ長老たちに従うことができないのでしょう。なぜ互いに従うことができないのでしょうか。高ぶっているからです。これが罪の本質であって、これを克服できるなら、どのような問題も解決することができるでしょう。なぜなら、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みをお与えになられるからです。ですから、聖書はこのように勧めています。
「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロ5:6-7)
ここには、へりくだるとはどういうことなのかが教えられています。それは、あなたの思い煩いのいったい神にゆだねることです。つまり、へりくだるとは、何か特別な思いや取り組みではなく、私たちのありのままの姿を神の前で見つめ、その弱さ、足らなさ、いや罪深い姿を神の御前にさらけ出して、「神さま、どうかよろしくお願いします」と、神様にゆだねる心の営みなのです。
星野富広さんの詩の中に、「あけび」という詩があります。
「あけびを 見ろよ。
木の枝にぶら下がり、体を二つに割って
鳥がつつきにくるのを動きもしないで待っている
誰に教えられたのか あんなにも気持ちよく自分を投げ出せる
あけびを 見ろよ。」
そうです、「あけび」のようになることです。どのような困難が押し寄せようとも、私には全能の神様が付いているから大丈夫だと信じて、その力強い神の御手の下に自分を投げ出すのです。それがゆだねるということです。真に謙遜であるとはそういうことです。それが神のことばに従うために求められるのです。
Ⅱ.エジプトに下って行った民 (5-7)
次に、5~7節までをご覧ください。
「43:5 そして、カレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、散らされていた国々からユダの地に住むために帰っていたユダの残りの者すべて、43:6 すなわち、親衛隊の長ネブザルアダンが、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに託したすべての者、男、女、子ども、王の娘たち、さらに、預言者エレミヤと、ネリヤの子バルクを連れて、43:7 エジプトの地に行った。【主】の御声に聞き従わなかったのである。こうして、彼らはタフパンヘスまで来た。」
こうして彼らは、エジプトの地に下って行きました。彼らは最初から神に従うつもなどなかったのです。ただ自分たちの計画に神が同意してくれる時のみ従おうと思っていただけでした。これは、申命記28章68節でモーセが預言していた通りでした。主はエジプトに下ることを禁じていたのに(出エジプト14:13, 申命記17:16)、彼らは主の御心に背いて下って行きました。
それは私たちにも警告されていることです。彼らが出エジプトという神の恵みにあずかりながら古いエジプトの生活に戻って行ったように、私たちも神の恵みによって罪から救われたにもかかわらず、再びこの世に戻って行ってしまうことがあります。私たちはかつて罪の奴隷として捕えられていましたが、イエス様が十字架でその罪の身代わりとして死んでくださったことによって、神はその罪から救ってくださいました。罪の奴隷から解放してくださったのです。罪の奴隷から神のしもべに、悪魔の支配から神の支配に、暗やみから光の世界へと移してくださったのです。にもかかわらず、かつての古い生活に戻ろうとすることがあるのです。それは、以前の主人であった悪魔が、クリスチャンが新しい主人である神に従うことを憎み、神に従わないようにと、あの手この手を尽くして誘惑し、以前の状態に引き戻そうとしているからです。
たとえば、悪魔は私たちの欲に働きかけて誘惑することがあります。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などです。「もっといい生活がしたい。」「あれもほしい、これもほしい」。そうした欲に働きかけるのです。ユダの民がエジプトに行こうとしたのもそうでした。そこは戦いもなく、パンに飢えることもなく、疫病もないかのように見えました。本当に魅力的な場所に見えたのです。しかし、必ずしも人の目に魅力的に見える場所が祝福される場所であるとは限りません。そこが戦いと飢饉、疫病に満ちたわざわいの地になることもあるのです。大切なのは、神がともにおられるかどうかということです。神がともにおられるなら、そこは祝福に変えられるからです。
あるいは、私たちの人生に起こるさまざまな試練を用いて誘惑することもあります。たとえば、病気とか事故、家庭の問題や人間関係の問題、経済的な問題などです。そうした問題を通して不安を与え、神から遠ざけようとするのです。「なぜ私ばかりこんなに苦しまなければならないのか」、「神がおられるならどうしてこのようなことが起こるのか・・・」と、神の愛に疑問を抱かせて、信仰を捨てるようにと誘惑するのです。
あるいは、試練や苦難ばかりでなく、逆に良いことを通しても誘惑することがあります。たとえば、一生懸命働くこともすばらしいことです。家族を愛することは大切です。休日に余暇を楽しむことも良いことです。しかしそれがどんなに良いことでも神より愛するなら、それが罠となって神から離れてしまうことがあります。イスラエルの民が神から離れたのは、これが一番大きな要因でした。彼らはパンがないとか水がないことによっても神を疑うことがありましたが、それよりも、豊かになった時の方が問題でした。高ぶって神を忘れてしまい、神から離れてしまったからです。
このように、悪魔は私たちが神に従わないようにと、あの手この手を使って誘惑してきますから、私たちはこの悪魔に立ち向かわなければなりません。どのようにして立ち向かったらいいのでしょうか。ヤコブ4章7節にはこうあります。
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」
ですから、神に従わなければなりません。私たちの力では、悪魔に立ち向かうことができないからです。神に従い、神の力をいただいて、悪魔に立ち向かうのです。
あなたをキリストの愛から引き離すものは何ですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、剣ですか。しかし私たちは、これらすべての中にあっても、私たちを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となります。エジプトに行ってはいけません。どんなことがあってもキリストの愛と神の恵みにしっかりとどまっていなければなりません。自分の思いを明け渡して、神の御心をたずね求め、神に従いましょう。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります。
Ⅲ.最後の最後まで(8-13)
最後に、8~13節をご覧ください。エジプトに行った民に対する預言のことばです。
「43:8 タフパンヘスで、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。43:9 「あなたは手に大きな石を取り、それらを、ユダヤ人たちの目の前で、タフパンヘスにあるファラオの宮殿の入り口にある敷石の漆喰の中に隠して、43:10 彼らに言え。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。見よ。わたしは人を遣わし、わたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルを連れて来て、彼の王座を、わたしが隠したこれらの石の上に据える。彼はその石の上に本営を張る。43:11 彼は来てエジプトの地を討ち、死に定められた者を死に渡し、捕囚に定められた者を捕囚にし、剣に定められた者を剣に渡す。43:12 わたしがエジプトの神々の神殿に火をつけるので、彼はそれらを焼き、神々を奪い去る。彼は、羊飼いが自分の衣をまとうようにエジプトの地をまとい、ここから安らかに去って行く。43:13 また、エジプトの地にある太陽の神殿の石柱を砕き、エジプトの神々の神殿を火で焼く。』」」
ユダの残りの民は、タフパンヘスに到着します。そこはナイル川の東にあるエジプト国境にある町です。そこに来たとき、エレミヤに主のことばがありました。それは、大きな石を取り、それをファラオの宮殿の入り口にある敷石の漆喰(しっくい)の中に隠して、彼にこう言えということでした。すなわち、主はバビロンの王ネブカドネツァルを連れて来て、彼の王座をその敷石の上に据え、その石の上に彼が本営を張るというものです。すなわち、主はそこでネブカドネツァルを王座に据え、エジプトを打たれるというのです。これは一つのデモンストレーションでした。神はこの象徴的な行為によって、ご自分が行おうとしていることを預言者エレミヤに啓示し、その意味をタフペンヘスにいるユダの民に告げようとされたのです。
その結果、彼らはどうなりますか。死に定められた者たちを死に渡し、捕囚に定められた者を捕虜とし、剣に定められた者を剣に渡されます。また、エジプトの神々の神殿は火で焼かれるようになります。
これを行うのはバビロンの王ネブカドネツァルですが、主は彼のことを「わたしのしもべ」と呼んでいます。これはネブカドネツァルが神の信者であるということではなく、主の御業を実行する駒として用いられるという意味です。主が人を遣わして、ネブカドネツァルを連れて来させ、ご自身のご計画を成し遂げられるのです。どうして主はこのようなことをされるのでしょうか。それは彼らが真に拠り頼まなければならないのは主ご自身であることを示すためです。彼らは主よりもエジプトを頼りとしました。でも彼らが真に頼りとしなければならないのはエジプトではなく、主ご自身だったのです。
皆さん、どうでしょうか。私たちにもそういうことがあるのではないでしょうか。確かに神は力ある方、全能者、偉大な方であるということはわかっていてもいざ現実の生活の中で問題が起こると、目に見えるものに、エジプトに頼ろうとする傾向があるのではないでしょうか。しかし、そうしたものはあなたを救うことはできません。
イザヤ28章20節には、エジプトのことを指して「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」と言われています。エジプトの寝床は短すぎます。身を伸ばして寝ようとすると、足がベッドからはみ出てしまうのです。また、エジプトという毛布は小さすぎます。どんなに包まろうとしても小さすぎて背中が丸見えになります。そのようなベッドや毛布のように、エジプトはあなたを守ることはできないのです。あなたが拠り所としていたもの、ゆっくりと体を休め、体を温めることができると思っていたものが、いざというときに何の役にも立たないのです。私は生命保険に入っているから大丈夫です。銀行にこれだけ貯金があるから、こういう不動産があるから安心です。株があるから何とかなります。私には健康があるから大丈夫です。健康だけが取り柄です。私にはこの資格、あの資格があるから何とか食べていけますと、この世の毛布に身を包もうとしても、そうしたものは狭すぎるのです。寒いときには暖めてくれるだろうと思っていても、いざという時には何の役にも立たないのです。その究極が「死」です。あなたに死が襲い掛かる時、あなたが拠り所としているこれらのものが、あなたを本当に守ってくれるでしょうか。そうしたものはあなた助けにはなりますが、本当の意味で助けることはできません。あなたを守るには短すぎるのです。狭すぎます。人間的な計画はすべて、神のすぐれた御手の中で水の泡となるのです。ただ神だけが、私たちに真の安全をもたらすことができるのです。
かつて南ユダにヒゼキヤという王様がいましたが、このヒゼキヤの時代、アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲したことがありました。その強大な敵の前に彼らは何のなす術もありませんでしたが、そのような中で彼らどうしたかというと主に祈りました。主に信頼して祈ったとき、主は彼らを助けてくださいました。何とその晩、主の使いがアッシリヤの陣営に出て行き18万5千人を打ち破られたのです。彼らが何かをしたからではありません。ただ彼らが神に拠りすがり、神に祈り求めた結果、神が働いてくださったのです。その結果、アッシリヤの王セナケリブは立ち去りました。主に信頼するなら、主が守ってくださいます。それは短かい寝床のようなものではありません。あるいは、狭くて暖められないような毛布のようなものではありません。あなたを完全に守り、包むことができます。
ですからエジプトではなく、神に頼まなければなりません。神に信頼する者は、決して失望させられることはありません。あなたにとってのエジプトは何ですか。あなたが拠り頼んでいるものは何でしょうか。
ところで主は、ご自身のみことばに従わないでエジプトに行ったユダに対して、なおも語られました。考えてみると、彼らはこれまでもずっと主のみことばに背いてきました。その結果、バビロン捕囚という憂き目に会ったわけですが、普通ならこれで終わりです。にもかかわらず神は、その後も何度も彼らに語られました。主は最後の最後まで語られたのです。一方、ユダの民はというと、最後の最後まで神のことばを拒みました。ここに民をこよなく愛しておられる神と、それを拒むユダの民の悲しい姿が対比されています。私たちはどこで立ち止まり、どこで神に立ち返るのでしょうか。神はあなたを愛しておられます。最後の最後まであなたに語られ、あなたが神に立ち返ることを願っておられるのです。立ち返れ。立ち返れ。立ち返って生きよ。それが神の心からの叫びなのです。
しばらくの間ずっと家内とエゼキエル書を読んで祈りましたが、18章に出てくる「立ち返って、生きよ」ということばが心にとまりました。18章にはこのことばが何度も繰り返して出てきます。最低でも6回出てきます。
「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか─神である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル18:23)
主が喜ばれるのは、私たちが立ち返って生きることです。神はあなたを救うことができます。完全に守ることがおできになるのです。この神に立ち返り、神に拠り頼みましょう。エジプトではなく神に、です。そして、神のことばに聞き従う者でありたいと思います。神に信頼する者は決して失望させられることはありません。このみことばを日々の生活の中で体験させていただきましょう。
カテゴリー: 礼拝メッセージ
行くべきか、とどまるべきか エレミヤ書42章1~22節
聖書箇所:エレミヤ書42章1~22節(旧約P1371、エレミヤ書講解説教72回目)
タイトル:「行くべきか、とどまるべきか」
エレミヤ書42章に入ります。今日のタイトルは、「行くべきか、とどまるべきか」です。どこに行くべきなのでしょうか、どこにとどまるべきなのでしょうか。それはエジプトであり、ユダの地です。エジプトに行くべきか、ユダの地にとどまるべきか、ということです。
前回は41章から、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての高官たちが、ネタンヤの子イシュマエルから取り戻したすべての残りの民を連れて、エジプトに行こうとして、ベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムにとどまったことを学びました。なぜでしょうか?なぜなら、ゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃がしたことで、バビロンの王に疑われ、殺されるのではないかと恐れたからです。そこで彼らはエジプトに行こうとしてやって来たわけですが、そこで悩みます。果たしてそれで良かったのか。このままエジプトに行くべきか、それともユダの地にとどまるべきか。
私たちにもこういう時があります。どうしたら良いか、行くべきか、とどまるべきかと。私たちはいつもこうした選択に迫られながら生きています。そしてそのどちらを選択するかはとても重要です。なぜなら、それによって人生が決まるからです。いったいどうしたら正しい判断をすることができるのでしょうか。
Ⅰ.それが良くても悪くても(1-6)
まず、1~6節をご覧ください。
「42:1 軍のすべての高官たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザンヤ、および身分の低い者も高い者もみな近づいて来て、42:2 預言者エレミヤに言った。「どうか、私たちの願いを受け入れてください。私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、【主】に祈ってください。ご覧のとおり、多くの者の中からわずかに私たちだけが残ったのです。42:3 あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」42:4 そこで、預言者エレミヤは彼らに言った。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、【主】に祈り、【主】があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」42:5 彼らはエレミヤに言った。「【主】が、私たちの間で真実で確かな証人であられますように。私たちは必ず、あなたの神、【主】が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。42:6 それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。」」
総督ゲダルヤが暗殺された後に、バビロンの報復を恐れたヨハナンをはじめとする高官たちは、キムハムの宿場まで行きながら、引き返してエレミヤのところにやって来ると、神のみこころを求めて「あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」(3)と言いました。やはりエジプトに行くことに、ある種のプレッシャーを感じていたのでしょう。エジプトに行くべきか、それともユダにとどまるべきか、彼らは真剣に求めたのです。1節には、軍のすべての高官たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザンヤ、および身分の高い者も低い者もみな、とあります。それは、日ごろは障壁となっている身分の差を超えて、一つにまとまった瞬間でした。彼らは一つの心で神の御心を知りたいと切に願ったのです。神の御心に耳を傾けることは、絶望を希望に変える始まりです。苦しい時、辛い時、あるいは先が見えなくて不安な時、あなたはどこに助けを求めているでしょうか。彼らのように、神の御心を求めて祈る人は幸いです。祈りとみことばの中で新たな力を得るために礼拝の場に出ることが、あなたが神の御心に従うための第一歩だからです。
それに対してエレミヤは、彼らの真実な求めに応じて、主に祈り、主からの答えがあったら、それを彼らに告げると約束しました。何事も隠さないと。預言者エレミヤにとっても真剣にならざるを得ませんでした。そのような求めに応じて、神のことばを取り次ぐことこそ預言者として召された自分に与えられた使命であると思ったからです。
すると彼らはエレミヤにこう言いました。5節と6節の「」のことばをご一緒に読みましょう。
「【主】が、私たちの間で真実で確かな証人であられますように。私たちは必ず、あなたの神、【主】が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。
それが良くても悪くても、私たちは、あなたを遣わされた私たちの神、【主】の御声に聞き従います。私たちの神、【主】の御声に聞き従って幸せを得るためです。」
すばらしいですね。彼らは、何でも主の御声を聞いたならば、その通り行うと応答しました。それが良いことでも悪いことでもです。これこそ、神のみこころを尋ね求める者にとってふさわしい態度です。たとえ自分の目には悪いように見えても、主の御声を聞いたならば、それに従うことが幸せを得る秘訣です。しかし、これがなかなかできません。人はみな自分の思いがあって、そこから離れることができないからです。いつまでもそれに固執しようとするのです。
私はいろいろな方々から相談のメールや電話をいただきますが、その内容のほとんどはこれです。「どうしたら良いか」。そのような時、この方の問題がどこにあるのか教えてくださいと心の中で祈りながらじっと聞いていると、主は聖書のみことばを示してくださいます。ですから、十分お話を聞いた後でそれを伝えると、「そうですよね、ありがとうございました。」と喜んで電話を切る人と、自分の思いをトクトクト話し続ける人がいます。みことばが示されているのに、です。自分の思いに共感してほしいのです。その方は、結局、主の御心を尋ね求めているというよりも、自分の思いを聞いてほしいだけなのです。そこから離れることができません。あくまでも自分の思いを通そうとするわけです。でも大切なのは、それが自分にとって良くても悪くても、神の御心が示されたなら、それに従うことです。なぜなら、「主のおしえは完全でたましいを生き返らせ、主の証は確かで、浅はかな者を賢くする。」(詩篇19:7)からです。
皆さん、電話を発明した人をご存知ですか。電話を発明したのはアレキサンダー・グラハム・ベルというスコットランド出身の科学者です。彼は1875年に、電話機の実験に成功しました。彼が電話機を発明した時に最初に発したことばは、「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」という秘書に対する呼びかけでした。
1876年、彼は特許を取り、翌年にベル電話会社を設立しました。そのベルが次のように語っています。
「一つの扉が閉ざされても、別の扉が開かれます。しかし、私たちは閉ざされた扉ばかりをいつも未練がましく見続けているので、開かれたもう一つの扉が見えずにいるのです。」
皆さん、たとえ一つの扉が閉ざされても、別の扉が開かれます。神がその扉を開いてくださいます。それはあなたの想像を遥かに超えたことかもしれません。それなのにいつまでも自分の思いに固執して閉ざされた扉ばかりを見ているとしたら、開かれているもう一つの扉を見ることはできません。大切なのは自分の思いに固執するのではなく、それを一旦脇に置いておき、すべてを神にゆだねることです。そして神がみことばを通して示してくださることに聞き従うのです。そうすれば、あなたは幸せを得ることができます。神があなたの人生に働いてくださり、最善に導いてくださるからです。あなたに求められていることは、神の最善を信じ、それが良いことでも悪いことでも、神が語られたことに喜んで従うことなのです。
Ⅱ.信仰によって判断する (7-19)
次に、7~19節までをご覧ください。17節までをお読みします。
「7 十日たって、【主】のことばがエレミヤにあった。42:8 エレミヤは、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいる軍のすべての高官たちと、身分の低い者や高い者をみな呼び寄せて、42:9 彼らに言った。「あなたがたは自分たちのために嘆願してもらおうと私を主に遣わしたが、そのイスラエルの神、【主】はこう言われる。42:10 『もし、あなたがたがこの地にとどまるのであれば、わたしはあなたがたを建て直して、壊すことなく、あなたがたを植えて、引き抜くことはない。わたしは、あなたがたに下したあのわざわいを悔やんでいるからだ。42:11 あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼を恐れるな──【主】のことば──。わたしがあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、助け出すからだ。42:12 わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼はあなたがたをあわれんで、あなたがたを自分たちの土地に帰らせる。』42:13 しかし、あなたがたが『私たちはこの地にとどまらない』と言って、あなたがたの神、【主】の御声に聞き従わず、42:14 『いや、エジプトの地に行こう。あそこでは戦いにあわず、角笛の音も聞かず、パンに飢えることもない。あそこに私たちは住もう』と言うのであれば、42:15 今、ユダの残りの者よ、【主】のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『もし、あなたがたがエジプトに行こうと決意し、そこに行って寄留するなら、42:16 あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの地であなたがたを襲い、あなたがたの心配している飢饉が、あのエジプトであなたがたに追い迫り、あなたがたはそこで死ぬ。42:17 エジプトに行ってそこに寄留しようと決意した者たちはみな、そこで剣と飢饉と疫病で死ぬ。わたしが彼らに下すわざわいから、生き残る者も逃れる者もいない。』」
十日たって、主のことばがエレミヤにありました。エレミヤが主に祈ってからすぐに主の答えがあったわけではありません。そのためには10日間待たなければなりませんでした。それは、彼らが主から祈りの答えをいただくために心を準備する時間でした。祈りには、時間をかけて、主を待ち望むことが必要な時があります。彼らにはエジプトに下っていってバビロンから逃れようという焦りしかありませんでした。それでも、待たなければならない時には、待たなければなりません。
ある牧師がこう言いました。「祈りの95%は、主が示される祈りの答えを行うことができるようにするための準備である」と。私たちは気軽に、「主が言われることは何でも行います」と言いますが、本当にそうでしょうか。確かにそれは言うにやすしですが、実行することは難しいことです。私たちはもう一度本当にそうなのかどうか、自分の心を吟味しなければなりません。
さて十日たって、エレミヤに主のことばがありました。それは次の二つのことでした。一つは10~12節にあるように、もし彼らがこの地、すなわちユダの地にとどまるなら、主は彼らを建て直し、壊すことなく、彼らを植えて、引き抜くことはしないということでした。またバビロンの王を恐れなくてもよいということでした。なぜなら、主が彼らとともにいて、彼の手から彼らを救い、助け出してくださるからです。そればかりではありません。主が彼らにあわれみを施されるので、自分たちの土地に帰ることができるということでした。
一方、それに反して、「私たちはこの地にとどまらない」と言って、彼らの神、主の御声に聞き従わず、エジプトに下っていこうと言うのであれば、彼らが恐れている剣がエジプトの地で彼らに襲い、彼らが心配している飢饉が、彼らに追い迫り、そこで死ぬことになります。それは主が下すわざわいで、そこから逃れる者はだれもいません。だから、主はこう言われました。19節です。「ユダの残りの者よ、主はあなたがたに「エジプトへ行ってはならない」
これが主の御心でした。主はご自身のみこころを明白に示されました。それは、彼らにとって歓迎できることではありませんでした。むしろ、エジプトに行った方がどれほど明るい未来があると思ったことでしょう。なぜなら、14節にあるように、そこでは戦いもなく、パンに飢えることもなく、疫病で死ぬこともないかのように見えたからです。しかし、人の目には魅力的に見える場所が、必ずしも祝福される地であるとは限りません。そこが戦いと飢饉、疫病が満ちたわざわいの地となることもあるのです。つまり、神のことばに従わなければ、そこにはわざわいがもたらされるということです。しかし、神がともにおられるなら、そこは祝福に変えられます。最も安全で良い地は、神がともにおられる地です。神がともにおられるなら、砂漠も肥沃な地に変えられ、死の谷も天国に変わるのです。いのちと祝福の源は、神がともにおられるかどうかにかかっているのです。
このことからどういうことが言えるでしょうか。目に見えるところによって歩んではならないということです。たとえそこが魅力的に見えるところであっても、そうしたことによって判断するのではなく、神のみこころは何か、何が良いことで、神に喜ばれることなのかを基準として判断しなければなりません。つまり、信仰によって歩まなければならないということです。
皆さんは、ファニー・クロスビー(1820年~1915年)という賛美歌の作詞者をご存知だと思います。彼女は、その生涯に「十字架のかげに」、「罪、咎を赦され」、「恐れなく近寄れと」等、5000以上の賛美歌を作ったと言われています。
実は、彼女は生涯のほとんどを、盲目の中で過ごしました。生後6週間で眼科医のミスにより失明してしまったのです。その後、すぐに彼女のお父さんが亡くなったので、彼女のお母さんは生計をたてるために、毎日朝早くから、夜遅くまで仕事に出かけなければなりませんでした。ですから、彼女の世話はおばあちゃんがしました。
おばあちゃんはとても信仰に篤い人でした。毎日、自分の手元に彼女を置いて、一生懸命神様の話を聞かせました。そして、聖書の言葉を暗記するように指導しました。だから彼女は小さい時から、たくさんの聖書の言葉を暗記したのです。それが後に、彼女が美しい詩を作っていくための材料になりました。
彼女が8歳の時に作った、こんな詩が残っています。
「他の人なら見過ごしてしまう神の恵みを、私はどれほど多く感じ喜んでいるでしょう。盲目だからと言って泣いたり、ため息をついたりということはできないし、するつもりもありません。」
8歳の子供ですよ。すごいですね。彼女は、肉体の目が見えるということよりも心の目が見えることの方がはるかにすばらしい、という価値観を小さい時から身に付けていたのです。
彼女は、95年の生涯を送っていますが、数え切れないほどの美しい賛美歌を作りました。大人になった彼女は、ある日こう言っています。
「失明したことは、私の人生の中で起こった最高の出来事でした。もし、この目が見えていたならば、私はこんなにもたくさんの詩を作ることができなかったと思います。」
彼女は38歳の時、同じ音楽家と結婚しますが、生まれてきた子供が、すぐになくなってしまいました。そういう悲しみの中でも、彼女はすばらしい詩を作り続けていきました。
彼女を気の毒に思った人もいました。ある宣教師がなぐさめるつもりで彼女に、「神があなたにこれほど多くの賜物を与えながら、視力をお与えにならなかったのは、とても残念です」と言うと、彼女はこれに、信じられないような返答をしました。
「もし生まれるときに願いごとができたなら、私は盲目で生まれさせてくださいと願うでしょう。なぜなら、天国に行って私が最初に目にするのは、私の救い主のお顔だからです。」
彼女が亡くなって100年以上経ちますが、今も世界中で彼女の詩は、歌い続けられています。彼女の詩はいつも、天国の希望に満ち溢れています。 「どんな苦難の中にあっても、神は私と共にあり、私を慰めてくださる。」
これが彼女の信仰でした。彼女はいつも永遠の視点で人生を見ていたのです。私たちが抱える問題は、永遠の光の中では違って見えるのです。ですからパウロはこう言いました。
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリ4:17-18)。
イエスとお会いする栄光の日が来ることを思うと、この世の試練はかすんで見えます。永遠をいかに見るかが、私たちの生き様に影響を与えるからです。だから、見えるものによってではなく、見えないものに目を留めましょう。どんな苦難の中にあっても、神は私と共におられるという信仰によって歩みたいと思うのです。
Ⅲ.私の願いではなく、主のみこころがなりますように(20-22)
ですから第三のことは、自分の思いではなく、主のこころを優先しましょうということです。20~22節をご覧ください。
「42:20 あなたがたは、自分たちのいのちの危険を冒して迷い出てしまったからだ。あなたがたは私をあなたがたの神、【主】のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、【主】に祈り、すべて私たちの神、【主】の言われるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行います』と言ったのだ。42:21 私は今日、あなたがたに告げたが、あなたがたは、自分たちの神、【主】の御声を、すなわち、主がそのために私をあなたがたに遣わされたすべてのことを聞こうとしなかった。42:22 だから今、確かに知らなければならない。あなたがたが、行って寄留したいと思っているその場所で、剣や飢饉や疫病で死ぬことを。」」
エレミヤを通して語られた主のことばに対して、彼らはどのように応答したでしょうか。彼らは「主が私たちのためにあなたを遣わして告げられることばのとおりに、すべて行います。」(5)と言っていたにもかかわらず、エレミヤから告げられた主のことばを聞こうとしませんでした(21)。自分たちの判断を、主のことばよりも優先したのです。彼らは最初から聞く気などありませんでした。彼らはすでにエジプトに下って行くことを決めていて、その思いに神が同意してくれたときのみ、神のことばに従おうと思っていたのです。結局のところ、彼らの従順は中途半端なものであり、ただエレミヤを利用しようとしたにすぎなかったのです。その結果はあまりにも明白です。その結果は何ですか。戦いと飢饉と疫病による死でした。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ3:23)とある通りです。エレミヤは、そのような彼らの姿を見ていて、どれほど歯がゆかったことでしょうか。どれほど悔しかったでしょう。どれほど悲しかったでしょう。
ヘンリー・ブラッカビーが書いた「神の御声にこたえる人生」という本に、こんな話があります。
「私が初めて執り行った葬式は3歳の女の子のものでした。その子が生まれた時のことを覚えています。その子は、あまり聞き分けの良い子ではありませんでした。その家庭を訪問した時、その子は親の言うことを当たり前に無視していました。来いと言えば去って行き、座れと言えば立ちました。親はそんな行動をただかわいらしいと考えていました。そんなある日、子どもが庭から道路へと走って行くのが見えました。そして同時に、向こうから自動車が猛スピードで近づいてきました。子どもは駐車していた2台の車の間をすり抜けて、道路へ向かって行きました。あわてた両親は「だめだよ、帰っておいで!」と叫びましたが、子どもはちょっと立ち止まって親の方をちらっと振り返ると、にこって笑って走ってくる自動車のほうへと走り出しました。そして、車はすごい勢いでその子とぶつかりました。すぐに病院に運ばれましたが、子どもは結局亡くなってしまいました。夫婦が一人娘の死を確認したその時、私も病室に一緒にいました。葬式で響き渡った嘆きの声は、断腸の悲しみでした。その葬式を、私は今でも忘れることができません。」
なぜこんな悲劇が起こってしまったのでしょうか。その子には親の声が聞こえなかったのでしょうか。そうではありません。聞こえていましたが、それに従う訓練がなされていなかったのです。神の御声に聞き従うことが、私たちが生きる道です。私たちに必要なものは、神の御心であるならそのとおりに行うという単純な心、忠実な心、一貫した心です。状況が困難だからと言い訳をしてそこから逃げないことが肝心です。イエス様がゲッセマネの園で祈られたように、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)と祈らなければなりません。
あなたはどうでしょうか。あなたの心は神のことばを受けて良い実を結ぶ良い地ですか。神のことばが根を下ろさないように妨げているものがあるとしたら、それは何ですか。私たちが求めるものと主が望まれるものが違うときき、あなたはどうなさいますか。私たちの人生の主権者は誰なのかを思い起こし、その方のみこころ、ご計画に従う決断ができるように祈りましょう。
みこころを知り、みこころに従う エレミヤ書41章1~18節
聖書箇所:エレミヤ書41章1~18節(旧約P1368、エレミヤ書講解説教71回目)
タイトル:「みこころを知り、みこころに従う」
きょうは、エレミヤ書41章からお話します。タイトルは、「みこころを知り、みこころに従う」です。この41章は、前回お話した40章からの続きとなっています。
前回は、エレミヤがバビロンの王の親衛隊長ネブザルアダンから、あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさいと言われまたが、エルサレムの貧しい民の間に住むことを選択したことを見ました。なぜなら、それが神から彼に与えられた使命、神のみこころだったからです。また、総督ゲダルヤは、ユダに残された民に「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」と言いました。なぜなでしたか?それが神のみこころだったからです。
しかし、そんなゲダルヤでしたが、アンモン人の王によって遣わされたイシュマエルによる暗殺計画を見破ることができませんでした。彼は霊的、信仰的に優れていましたが実際的な面で弱いところがあったのです。ですから、神のみこころに従うためには、それを妨げようとする悪魔の策略に対してしっかりと対処するために、御霊の武具を身にまとい備えていなければなりません。
今回は、その続きです。神のみこころを知り、みこころに従うためにはどうしたら良いのでしょうか。
Ⅰ.高慢は破滅に先立つ(1-10)
まず、1~10節をご覧ください。3節までをお読みします。
「41:1 ところが第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルは、王の高官と十人の部下とともに、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのもとに来て、ミツパで食事をともにした。41:2 ネタンヤの子イシュマエルと、彼とともにいた十人の部下は立ち上がって、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを剣で打ち殺した。イシュマエルは、バビロンの王がこの地の総督にした者を殺した。41:3 ミツパでゲダルヤと一緒にいたすべてのユダの人たちと、そこに居合わせたカルデア人の戦士たちを、イシュマエルは打ち殺した。」
1節の「ところが」とは、イシュマエルが総督ゲダルヤを暗殺しようとしているという知らせをカレアハの子がヨハナンがゲダルヤに伝えたにもかかわらず、ゲタルヤはそれを本気にするどころかヨハナンこそ偽りを語っていると言って受け入れなかったことを受けてのことです。ところが、第七の月に、王族の一人、エリシャマの子ネタンヤの子イシュマエルが、王の高官と10人の部下とともに、ミツパにいたゲダルヤのもとにやって来ると、彼を剣で打ち殺してしまいました。これは、あらゆる面で忌むべきことでした。
第一に、ここに「第七の月」とありますが、これは今の暦で言うと10月に当たります。この第七の月には、ユダヤでは仮庵の祭りをはじめ、さまざまな祭りが行われる月です。そういう最も聖なる月に暗殺が行われたのです。
それだけではありません。ここには「ミツパで食事をともにした」とあります。それは食事の席で行われました。イシュマエルの一行はゲダルヤのもてなしを受けていたのです。中東では食事をともにするというのは、親しい交わりを持つことを意味していました。ですから、ゲダルヤはまさかイシュマエルがアンモン人の王に雇われて反乱を起こすなんて想像もできなかったでしょう。しかし、イシュマエルはその食事の席でゲダルヤを打ち殺したのです。これは本当に卑劣な行為です。
殺されたのはゲダルヤだけでなく、彼とそこに一緒にいたすべてのユダの人たちと、そこに居合わせたカルデアの戦士たちも含まれていました。いったいなぜイシュマエルはこのような反乱を起こしたのでしょうか。
1節には、このイシュマエルについて「王族の一人」と紹介していますが、これは、彼がダビデの家系であったことを表しています。ダビデ王の家系ある自分こそユダを統治するにふさわしい人物であるのに、ゲダルヤがその立場に立っていることを受け入れられなかったのです。また、2節には「バビロンの王がこの地の総督にした者」とありますが、ゲダルヤのことをわざわざこのように紹介しているのは、彼がバビロンの王によって立てられた総督であることを強調するためです。すなわち、イシュマエルの中にバビロンに対する敵対心があったことを表しているのです。そうです、イシュマエルが総督ゲダルヤを殺したのは、バビロンの支配下で営まれる政治を正当なものとして受け入れることができなかったからです。彼はそれらを不当な統治であるとみなし、これを排除しようとしたのです。それは、その後に起こる第二の事件を見てもわかります。4~10節をご覧ください。
「41:4 ゲダルヤが殺された次の日、まだ、だれもそれを知らなかったとき、41:5 シェケム、シロ、サマリアから八十人の者がやって来た。彼らはみな、ひげを剃り、衣を引き裂き、身に傷をつけ、穀物のささげ物や乳香を手にして、【主】の宮に持って行こうとしていた。41:6 ネタンヤの子イシュマエルは、彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行った。そして、彼らに出会ったとき、「アヒカムの子ゲダルヤのところにおいでください」と言った。41:7 彼らが町の中に入ったとき、ネタンヤの子イシュマエルと、彼とともにいた部下たちは、彼らを殺して穴の中に投げ入れた。41:8 彼らのうちの十人がイシュマエルに、「私たちを殺さないでください。私たちには、小麦、大麦、油、蜜など、畑に隠されたものがありますから」と言ったので、彼は、彼らをその仲間とともに殺すのをやめた。41:9 イシュマエルが、ゲダルヤの指揮下にあった人々を打ち殺し、その死体すべてを投げ入れた穴は、アサ王がイスラエルの王バアシャに備えて作ったものであった。ネタンヤの子イシュマエルはそれを、殺された者で満たした。41:10 イシュマエルは、ミツパにいた民の残りの者たち、すなわち王の娘たち、および親衛隊の長ネブザルアダンがアヒカムの子ゲダルヤに委ねた、ミツパに残っていたすべての民を捕らわれの身とした。ネタンヤの子イシュマエルは彼らを捕囚にして、アンモン人のところに渡ろうとして出発した。」
次の日のことです。まだ、だれもそれを知らなかったとき、 シェケム、シロ、サマリアから80人の者が主の宮にささげ物をささげるために、やって来ました。「それ」とは、イシュマエルがゲダルヤを殺害したことです。シェケム、シロ、サマリアといった町々は、北王国イスラエルにある町です。そこはかつて偶像礼拝の中心地でしたが、B.C.722年にアッシリアによって滅ぼされると、そこにユダヤ人とアッシリア人の混血の民サマリア人が生まれ、独自の宗教が始まりました。それにもかかわらず、中には真の神、ヤハウェを信じるユダヤ人たちが残されていて、エルサレムの神殿に上って礼拝をささげていたのです。彼らはエルサレムが破壊されたことを知りながら、なおもそこで礼拝をささげようとしてやって来たのです。5節に、ひげを剃り、衣を引き裂き、身に傷をつけとあるのは、深い悲しみを表しています。神殿が焼失してからしばらく経っていましたが、彼らは秋に行われる祭りを、神に対する悔い改めの日にしようとしたのです。動物のいけにえを持っていなかったのは、それをささげる場所がなかったからです。北王国イスラエルに、このような真の神、ヤハウェを信じる神の民が残されていたことは驚きですね。おそらく南ユダ王国のヒゼキヤ王やヨシヤ王によって行われた宗教改革の影響が残っていたのでしょう。神を求める人はだれもいないと思えるような今日にあっても、私たちの知らないところで、神はこうした残りの民を備えておられるということを知ることは大きな励ましです。
さて、彼らが主の宮にやって来たということを聞いたイシュマエルはどうしたでしょうか。6節を見てください。彼は彼らを迎えにミツパを出て、泣きながら歩いて行ったとあります。それは彼らを騙すための演技でした。そして彼らに出会ったとき彼はゲダルヤの家に誘い込み、彼らを殺してしまいました。何と残虐な行為でしょうか。しかし、彼らのうちの10人が「殺さないでください」と懇願し、小麦、大麦、油、蜜などの提供を約束すると、彼らを殺しませんでした。それでイシュマエルはミツパに残っていたすべての民を捕虜にして、アンモン人のところに渡そうとして出発したのです。彼はゲダルヤを殺害しただけでなく、主を礼拝するために北からやって来た人たちを虐殺したのです。いったいなぜ彼はこんな酷いことをしたのでしょうか。また、なぜ聖書はこの出来事を事細かにここに書き記しているのでしょうか。
多くの学者は、それはこのイシュマエルの残虐な人間性を示すためであったと考えていますが、そのことを示すためにわざわざこの出来事を記録したのでしょうか。それで他の学者は、これは彼の貪欲さを示すためであった考えています。それは8節に、彼らのうちの10人がイシュマエルに小麦とか、大麦、油、蜜などの提供を約束すると、彼は殺すのを止めたとあるからです。確かにそのような理由もあったでしょうが、もっと深い理由があったのではないかと思います。というのは、ただやみくもに通りがかりの人を虐殺したとは考えにくいからです。であれば、その理由とは何でしょうか。
それは、政治的、宗教的な理由です。なぜゲダルヤがエルサレムを治めなければならないのか。エルサレム神殿が破壊されたのに、なぜエルサレムで礼拝をささげなければならないのかということです。エルサレムを治めるのはダビデの家系である自分ではないのか。それなのにバビロンの王はゲダルヤを総督として立てた。そんなの断じて許せないし、認めることなどできない。だからイシュマエルはアンモン人の王と結託してゲダルヤを暗殺したのです。だからイシュマエルはサマリアからやって来た巡礼者一行を虐殺したのです。彼は、自分の先祖ソロモンが建てた神殿以外で行われる礼拝を受け入れることができなかったのです。彼はただやみくもに通りがかりの人を殺したわけではありません。バビロンの支配下で営まれる政治や宗教はすべて偽りであるとみなし、これを排除しようとしたのです。
強いて言うならば、彼は神のみこころを受け入れることができなかったのです。これらのことは、それを拒絶しようという思いから出た行為だったのです。というのは、神のみこころは何でしたか?神のみこころは、彼らがこの地に住んでバビロンの王に仕えることだったからです。40章9節を振り返ってみましょう。ここには、「ガルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」とあります。どうすれば、幸せになりますか?この地に住んで、バビロンの王に仕えるなら、幸せになります。それが神のみこころだったのに、彼はそれを受け入れることができませんでした。「なぜ、バビロンに仕えなければならないのか」、「なぜ異邦人の言いなりにならなければならないのか」、「神は勝利を与えてくださるはずじゃないか。だから最後まで戦うべきではないか。それをしないのは不信仰だ。」と。ですからこれは彼が単に残虐な人間だからとか、貪欲な者であったということを示しているのではなく、神のみこころに従おうとしなかった頑なさが、このような事件を引き起こしたということを示しているのです。このように、イシュマエルの行動の動機というものを、神との関係、宗教的な点に求めてこそ、これらの出来事の本当の原因が見えてくるのです。
それはイシュマエルに限ったことではなく、私たちにも言えることではないでしょうか。私たちも自分の中で受け入れられないことがあると、イシュマエルのような気持ちになることがあります。
先日、ある牧師から電話がありました。その牧師は臨床心理の専門家と協力して心が病んでいる方を助けてあげたいといろいろな情報を発信しているのですがなかなか思うように広がらないので、どうしたら良いかアドバイスしてほしい、ということでした。そんなに親しい方ではないのになぜ私に電話をしてきたのか不思議に思いましたが、ずっと話を聞いていると電波の関係であまりよく聞き取れないこともありましたが鉄砲のように話し続けて止まらないので、聞いていてホトホト疲れ果ててしまいました。一生懸命に説明しようとしているのはわかりますが、そもそも私は人の心を癒すのは神ご自身と神のことばによるのであって、人間の科学や哲学は癒すことはできないと考えているので、「ごめんない。私はすこし体調を崩していることもあって休養しているので、お手伝いしていることはできません。」と丁重にお断りすると、今度はそのことについて突いてくるのです。「先生、信仰はどうしたんですか。そういう時だからこそ信仰が問われているんですよ。信仰は頭だけでなくその実践が大切なんですから」と。
私はそのことばを聞きながらこう思いました。「この牧師は一生懸命なのはわかるけれど一生懸命になりすぎて回りが見えなくなっているんだなぁ」と。だから、そうでない状況を受け入れることができないのです。
これがこの世に対してですと、顕著にみられます。どうして自己中心の塊みたいな夫に仕えなければならないのか、どうして未信者の上司の言うことを聞かなければならないのか、どうして不信者の政治家が作ったこの世の制度に従わなければならないのかと。皆さん、どうしてですか。どうして神を信じていないこの世の言うことを聞かなければならないのですか。それは、聖書にそう書かれてあるからです。ローマ13章1~2節にはこうあります。
「13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。13:2 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。」
これが、聖書が教えていることです。たとえそれが未信者であっても、人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らっているのであって、そのような者は自分の身にさばきを招くことになるのです。
これがイシュマエルの問題でした。これが私たちの問題でもあります。その結果、イシュマエルのように人を殺すようなことはしなくとも、自分の考えに固執するあまり、いつまでも神のみこころに立つことができないでいることがあるわけです。神のみこころに従うというよりも、あくまでも自分の思いを通したいのです。あたかも自分が神になったかのような錯覚をしてしまうのです。これは本当に危険なことです。箴言16章18節に、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とある通りです。
この世は、上へ、上へと、人を追い越していくようにと駆り立てますが、聖書は、キリストが十字架にかかった後によみに下られたように、低いところに下ることの祝福を教えています。つまずき倒れたその先に、自分が知らなかった世界を見出すこともあるのです。水が高い所から低い所に注がれるように、神の恵みも高い所から低い所に注がれるのです。大切なことは神を認め、神のみこころに従うことです。それが謙遜であるということです。神の前になぜと問う前に、みこころが天で行われるように地でも行われますように、私の人生にも行われますようにと祈らなければなりません。
Ⅱ.主のはかりごとだけが成る(11-15)
次に、11~15節までをご覧ください。
「41:11 しかし、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいた軍のすべての高官たちは、ネタンヤの子イシュマエルが行ったすべての悪を聞くと、41:12 部下をみな連れて、ネタンヤの子イシュマエルと戦うために出て行き、ギブオンにある大池のほとりで彼を見つけた。41:13 イシュマエルとともにいたすべての民は、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいるすべての高官を見て喜んだ。41:14 こうして、イシュマエルがミツパから捕らえて来た民のすべては身を翻し、カレアハの子ヨハナンの側についた。41:15 ネタンヤの子イシュマエルは、八人の者とともにヨハナンの前から逃れ、アンモン人のところへ行った。」
イシュマエルの行為に対して、カレアハの子ヨハナンは黙っていませんでした。ヨハナンは、40章でイシュマエルによる暗殺計画を総督ゲダルヤに伝えた人物です。ゲダルヤの死後、ユダに残された将校たちのリーダーになっていた彼は、部下を連れてイシュマエルのあとを追い、ギブオンで彼に追いつくと、捕らわれていた人々は、この時とばかりにヨハナンの側についたので、イシュマエルは生き残っていた自分の部下8人とともにヨハナンの前から逃げ、アンモン人のところへ行きました。
イシュマエルは、ミツパにいたすべての民をとりこにしてアンモンに向かいながら、すべてがうまくいっていると感じたことでしょう。しかし、神は彼の悪い行いをカレアハの子ヨハナンと将校たちを用いて、討ち破られたのです。箴言19章21節に、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」とあります。どんなに人が計画を立てても、主のはかりごとだけが成ります。神のみこころにかなわない計画は絶対に成功しません。表面的には順調に進んでいるかのように見えても、神がともにおられないならば、成功することはないのです。しかし、それがどんなに苦しくても自分に対する神の計画ならば、こんなはずではなかったと思うような出来事や試練に遭遇することがあっても、それは必ず成し遂げられます。むしろ、そのような経験さえも神に出会ったり、大きな祝福に導かれるために用いてくださるのです。
私は18歳の時、ある宣教師と出会い、教会に導かれ、神様に出会いました。ある日曜日の朝、私が自転車で教会へ行こうとしたら、母が私に言いました。
「とみちゃん、どこに行くの?」
どこに行くのって教会に行くので、「ん、教会だよ。」と言うと、
「あんまり深入りしらんなよ」
と言いました。でも、いつしか深入りしてしまいました。
その4年後に、その宣教師と結婚すると教会開拓に導かれました。あれから40年余、いろいろなことがありましたが、振り返ってみると、これが神様の計画だったんだなぁと、つくづく感じます。確かに辛いことや苦しいこともありました。その方が多かったかもしれない。時には辞めたいなあと思うこともありました。でもそのような経験を通して、もっと深く神を知ることができました。「あんまり深入りしらんなよ」と言った母も救われ、65歳の時に洗礼を受けました。どれだけの方々が救われたでしょうか。こんな小さな者を用いて、神様はいくつかの教会も生み出してくださいました。多くの奇跡も体験させていただきました。何よりも神の子としての特権が与えられ、永遠に神とともに生きるいのちが与えられました。これほどすばらしい人生を歩めるのは本当に幸いだと思います。マルチン・ブーマーは、「人生は出会いで決まる」と言いましたが、そのような出会いが与えられたことを感謝しています。それが、神の計画だったんです。もしそれに従わなかったら、今頃どうなっていたか想像することもできません。
私たちには多くの計画がありますが、しかし、主のはかりごとだけが成ります。ならば、私たちに求められていることは、主のはかりごと、主の計画に歩ませていただくことです。あなたに対する神様のご計画は何ですか。それがあなたの思いと違っても、こんなはずじゃなかったと思うようなこともあっても、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じて、あなたに対する神の計画を祈り求め、その道を歩ませていただこうではありませんか。それは人それぞれ違いますが、たとえそれが自分の思いと違っても、「これが道だ。これに歩め」と言われる主の御声を聞き従いたいと思うのです。
Ⅲ.恐れないで主に拠り頼む(16-18)
ですから第三のことは、何も思い煩わないで、神にすべてをゆだねましょうということです。16~18節をご覧ください。
「41:16 ネタンヤの子イシュマエルがアヒカムの子ゲダルヤを打ち殺した後、カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいたすべての高官たちは、ネタンヤの子イシュマエルから取り返したすべての残りの民、すなわちギブオンから連れ帰った勇士たち、戦士たち、女たち、子どもたち、および宦官たちを連れて、ミツパから41:17 エジプトに行こうとして、ベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムへ行き、そこにとどまった。41:18 バビロンの王がこの地の総督としたアヒカムの子ゲダルヤを、ネタンヤの子イシュマエルが打ち殺したため、カルデア人を恐れたからである。」
カレアハの子ヨハナンを中心に、残されたわずかな数の民は思案します。このままでは自分たちはバビロンに疑われ、再び攻撃を受けるのではないかと。なぜなら、バビロンによって総督として立てられたゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃してしまったのですから。そこで彼らが考えたことは、エジプトに一時避難することでした。そこで彼らはミツパからベツレヘムの傍らにあるゲルテ・キムハムへ行き、そこにとどまりました。「ゲルテ」とは「宿場」という意味です。ですから、新共同訳では「ベツレヘムに近いキムハムの宿場にとどまった。」と訳しているのです。
でも、それは主のみこころではありませんでした。なぜなら、昔からイスラエルの民には、エジプトに下ることが禁じられていたからです。たとえば、出エジプト14章13節には、「モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。」とありますし、申命記17章16節には、「ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。【主】は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。」とあります。かつて奴隷として捕えられていたエジプトに帰ることは、出エジプトという神の恵みにあずかりながら、古いエジプトの生活に戻ることであり、神のみこころに反することだったのです。それなのになぜ、彼らはエジプトに行こうとしたのでしょうか。それは18節にあるように、カルデア人を恐れたからです。ゲダルヤを殺したイシュマエルを取り逃がしてしまったことで自分たちが疑われ、再び攻撃されることを心配したのです。
皆さん、恐れや不安があると正しい判断や決定を下すことができません。不安は前をさえぎる黒い雲のようなものです。不安な心は神から与えられるものではなく、自分の思いから出てきます。神とともに歩む人は神が与えてくださる平安の中で、神のみこころに歩むことができるのです。
カレアハの子ヨハナンは有能な将校でした。政治的な判断に優れ、物事の動きを洞察する力がありました。しかし、そんな彼にも欠けているものがありました。それは信仰です。神のみこころはエレミヤが預言したように、この地に住んで、バビロンの王に仕えなさいということでしたが、彼はそれを受け止めることができませんでした。自分たちが疑われるのではないかと心配し、その仕打ちを受けることを恐れて、そこから逃れる道を考えたのです。
私たちにもそういうことがあるのではないでしょうか。困難に直面した時、まだ起こっていなことをあれこれと想像して不安になることがあります。そんな時私たちに求められていることは、自分たちの知恵でそれを解決しようとするのではなく、まず神の御前にひれ伏し、自分自身を点検し、悔い改めて、主のみこころを求めて祈ることです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたかたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
19世紀のアメリカの伝道者W・D・コールは、「平安、天から臨む平安、その愛の波が、とこしえにわがたましいを覆いますように。」と言いました。神から与えられる平安こそ、恐れや困難の中にあっても神のみこころを正しく知り、みこころに従うことができる原動力なのです。
あなたが恐れていることは何ですか。何を心配していますか。それを永遠の避け所である神のもとに持って行き、神に知っていただきましょう。神に拠り頼みましょう。そうすれば、神があなたのことを心配してくださいます。そして、あなたの理解をはるかに超えた神の平安で、あなたの心と思いを守ってくれます。そして主のみこころを悟り、みこころに従うことができるようになるのです。ですから、最後にまとめとして、ピリピ人への手紙4章6~7節を読んで終わりたいと思います。
「4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
混乱と恐れが襲ってくる時には、永遠の避け所である主のもとへ行き、神に拠り頼むことができますように。それがみこころを知り、みこころを行うために私たちにも求められていることなのです。
そうすれば、幸せになる エレミヤ書40章1~16節
聖書箇所:エレミヤ書40章1~16節(旧約P1368、エレミヤ書講解説教70回目)
タイトル:「そうすれば、幸せになる」
エレミヤ書40章に入ります。今日のタイトルは、「そうすれば、幸せになる」です。どうすれば幸せになるのでしょうか。主のみこころに従うなら、です。9節に「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。」とあります。なぜなら、それが神様のみこころだからです。神のみこころに従うなら、あなたは幸せになるのです。
今日は、このことについて三つのことをお話します。第一のことは、エレミヤの選択です。彼はバビロンに行くこともできましたが、エルサレムに留まり、貧しいユダの民の中に住むことを選びました。なぜでしょうか。それが神のみこころであると確信したからです。第二のことは、ユダの総督に任じられた総督ゲダルヤの誓いです。彼はエルサレムに住むユダの民に、バビロンの王に仕えるようにと勧めました。なぜなら、それが神のみこころだからです。そうすれば、幸せになると、彼は確信していたのです。第三のことは、主のみこころに従うためには状況をよく見極める必要があるということです。それを誤ると、とんでもない結果になってしまうことがあります。ですから、神のみこころに従うためにはそれを妨げる悪魔の策略に対処し、状況をしっかりと見極めなければなりません。
Ⅰ.エレミヤの選択(1-6)
まず、1~6節をご覧ください。1節をお読みします。
「40:1 【主】からエレミヤにあったことば。バビロンへ引いて行かれるエルサレムとユダの捕囚の民の間で鎖につながれていたエレミヤを、親衛隊の長ネブザルアダンがラマから釈放した後のことである。」
ここに、「主からエレミヤにあったことば」とありますが、本文を見るとどこにも主のことばは見当たりません。この後で主がエレミヤに語られるのは42章7節です。ですから、このエレミヤにあった主のことばとは、ここから始まるエレミヤ書にとって一つのまとまりとなる45章の終わりまでの表題と考えられます。この一つのまとまりには、エルサレムが陥落した後どのようなことが起こったのかが記録されてあります。それ全体の表題なのです。では、その時どんなことがあったのでしょうか。
この1節の残りの部分には、「バビロンへ引いて行かれるエルサレムとユダの捕囚の民の間で鎖につながれていたエレミヤを、親衛隊の長ネブザルアダンがラマから釈放した後のことである。」とあります。
ここには、捕囚の民として鎖につながれていたエレミヤを、バビロンの親衛隊の長ネブザルアダンが釈放した時のことが記されてあります。「ラマ」とは、エルサレムの北方8キロのところにあるベニヤミン領内にある町ですが、エレミヤはそこで釈放されました。エルサレムが陥落した後、バビロンに捕え移されるユダの人々はこのラマに集められたのですが、その中にエレミヤもいたのです。それを見たバビロンの親衛隊の長ネブザルアダンは、即座に彼を釈放しました。なぜでしょうか?その理由が2節から4節までにあります。
「40:2 親衛隊の長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。「あなたの神、【主】は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。40:3 そして【主】はこれを下し、語ったとおりに行われた。あなたがたが【主】の前に罪ある者となり、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。40:4 そこで今、見よ、私は今日、あなたの手にある鎖を解いて、あなたを釈放する。もし私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私があなたの世話をしよう。しかし、もし私と一緒にバビロンへ行くのが気に入らないなら、やめなさい。見なさい。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行ってよいと思う、気に入ったところへ行きなさい。」
彼はバビロンの親衛隊の長でしたが、エルサレムが陥落した時バビロンの王ネブカドネツァルからこのように命じられていました。39章12節です。
「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ彼があなたに語るとおりに、彼を扱え。」
バビロンの王がなぜこのように言ったのかはわかりません。おそらく彼は、エレミヤが語っていたことを聞いていたのでしょう。つまり、バビロンに降伏することが主のみこころであり、ユダの民が生き残る道であるということを、です。そのように預言していたエレミヤを、ネブカドネツァルはよくしてあげようと思ったのです。それは親衛隊の長のネブザルアダンも同じでした。2節と3節にあるように、彼がエレミヤを連れ出して、彼に、「あなたの神、主は、この場所にこのわざわいを下すと語られた。そして主はこれを下し、語ったとおりに行われた」と言っているように、彼は幾度となくエレミヤの語っていた預言を聞いていたのです。それがそのとおりになったのを見て、それはイスラエルの神、主がなされたことであると認め、その偉大な神の御業のゆえに、エレミヤを釈放しようと思ったのです。
本当に皮肉なことですが、契約の民であるイスラエル人が認めなかったことを、何と異邦人であったネブカドネツァルやネブザルアダンは認めていたのです。彼らの目には、それがイスラエルの神、主の御業であることが明らかだったのです。信者である人たちには見えていないことが、未信者の人たちに見えていることがあるわけです。それで親衛隊の長ネブザルアダンはエレミヤの手にある鎖を解いて釈放し、彼に二つの選択肢を与えました。一つは、彼と一緒にバビロンへ行くか、もう一つは、もし行きたくなければ、どこでも自分の好きなところへ行っても良いということでした。もし彼と一緒にバビロンに行くなら、エレミヤが生活するのに困ることが無いように彼の世話をするとまで約束しました。さあ、このネブザルアダンの提案を聞いて、エレミヤはどのように反応したでしょうか。5節と6節をご覧ください。
「40:5 しかしエレミヤがまだ帰ろうとしないので、「では、バビロンの王がユダの町々を委ねた、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民のうちに住みなさい。でなければ、あなたが行くのによいと思うところへ、どこへでも行きなさい。」こうして親衛隊の長は、食糧と品物を与えて、彼を去らせた。40:6 そこでエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行って、彼とともに、その地に残された民の間に住んだ。」
エレミヤは、なかなか動こうとしませんでした。それはネブザルアダンに対する敬意のゆえでしょう。彼と一緒にバビロンへ行くなら私があなたの世話をしようとまで言ってくれたのに、それをむげに断るのは申し訳ないと思ったに違いありません。そんなエレミヤに対してネブザルアダンは、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤのところへ帰り、彼とともに民のうちに住むようにと勧めました。エレミヤがずっと動かないでいるのを見たネブザルアダンは、それはエレミヤがバビロンに行きたくないという意志表示だと受け止めたのです。それでエレミヤは、ミツパにいるアヒカムの子ゲダルヤのところに行き、彼とともに、その地に残された民の間に住みました。エレミヤにとっては貧しいユダの民と一緒にエルサレムに残るよりは、安定した生活が保障されていたバビロンへ行った方がはるかに良かったはずです。それなのに彼は、ユダにいる残りの民と一緒にいることを選んだのです。なぜでしょうか。2つの理由が考えられます。
一つは、その地の総督に任じられたゲダルヤの存在です。5節には「シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤ」とありますが、彼の父親のアヒカムは、かつてエレミヤのいのちを救った人でした。26章24節には、「しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されることのないようにした。」とあります。これはどういう背景で語られたかというと、当時のユダの王エホヤキムは、エレミヤのように預言していたシェマヤの子ウリヤをエジプトから連れて来させて剣で打ち殺しましたが、エレミヤはその難を逃れることができました。それはこのゲダルヤの父アヒカムの助けがあったからです。アヒカムはエレミヤをかばい、彼が民の手に渡されて殺されることがないように手配したのです。エレミヤはそのことを感謝して、若くして総督となった彼の息子のゲダルヤを支援するために、エルサレムにとどまろうと思ったのかもしれません。
しかし、エレミヤがエルサレムの住むことを選んだ最大の理由は、それが彼に与えられていた使命だったからです。42章2~3節をご覧ください。
「42:2 預言者エレミヤに言った。「どうか、私たちの願いを受け入れてください。私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、【主】に祈ってください。ご覧のとおり、多くの者の中からわずかに私たちだけが残ったのです。42:3 あなたの神、【主】が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」」
ここにはユダに残っていた人々がエレミヤのところに来て、神のみこころを求め、彼らのために祈ってくれるようにと懇願したとあります。バビロンに捕え移された人たちはそこである程度の生活が保障されていましたが、バビロンに連れて行かれずエルサレムに残された民はみな貧民で、日々の生活もままならず、大変混乱していました。エレミヤはそうした状況を見て、そこに残った貧しいユダの民に仕えることこそ神のみこころであり、自分に与えられている使命だと確信したのです。確かにバビロンへ行ってネブザルアダンの保護の下、平和に暮らすことも考えたでしょう。でも彼は自分にとって何が良いかということよりも、神に喜ばれることは何か、何が良い事で神に受け入れられ、完全であるのかを求めたのです。
へブル11章24~25には、「24 信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、25 はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」とあります。聖書ではエジプトとかバビロンはこの世の象徴として描かれていますが、信仰によって、モーセがエジプト王のファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取ったように、エレミヤも信仰によって、この世の楽しみにふけるよりも、神の民とともに苦しむことを選び取りました。それが神のみこころであると受け止めたからです。
皆さんがエレミヤの立場だったらどうしたでしょうか。あなたの好きなようにしても良いと言われたら、「ヤッター!」とこぶしを突き上げて喜びますか。こんな所にいるよりも、ネブザルアダンの保護の下、バビロンで平和に暮した方がよっぽどいい」と決断したでしょうか。それでも良かったんです。それは神が許されていたことでしたから。それでも彼がエルサレムにとどまったのは、自分に与えられている神様からの使命を確信していたからです。
このような時私たちは、自分の愛がどこにあるかが試されます。でもそれを判断する決め手というか、目安は何かというと、このエレミヤのように自分に与えられている使命は何なのか、役割は何かを考えて祈ることです。あなたに与えられている使命は何ですか。神があなたにしてほしいと願っておられることは何でしょうか。それを知ることは、あなたがより良く神のみこころを知り、みこころに従うために有益なことです。
私の友人の牧師に、仙台で牧会しておられる鈴木茂という牧師がおられますが、この年末年始にかけて何度かメッセンジャーでのやり取りをしました。その中で鈴木先生がこのようなことを言われました。
「私たちはここで31年目に入ります。本当に時の流れは速いです。ここでこんなにも長く留まるとは思いませんでした。100%はわかりませんが、でも気持ちの中ではここでよかった、と思っています。我武者羅の期間は、もう過去のことで、今は体が「No」と教えてくれます。これも恵みですね。今思うと、40代前半までは、朝から晩まで、とは言わないですが、水曜日の朝の祈り会の学びの後、個人的な学びや相談を聴いたり、そして夜の祈り会で再び学びを導いたり・・・。今思うと、不思議なことです。今はできません。よかったのかどうか???これも100%わかりません。今は、自分の心、人の心のケアーや形成を中心に歩んでいます。昔のようにはいきませんが、今の方がいいように感じます。ある意味これから、と思える部分もあります。妻も私も今は心のケアーを働きの中心としています。これが私たちの役割なのかな???と思います。と、言っても大したことはできていませんが。」
謙遜な先生らしいことばだなぁと思いますが、このメールを読ませていただいて私の心に留まったのは、「これで良かったのかどうか100%わかりません」という言葉と、「今は心のケアーを働きの中心としています。これが私たちの役割なのかな???と思います。」という言葉です。そうなんですよね、これで良かったのかどうか100%わかる人などいないと思うんです。でもその中で先生ご夫妻は心のケアー、情緒的なケアーを中心に働きをされておられる。それが自分たちに与えられた役割であると受け止めておられるからです。
そうなんです、私たちもこれで100%良かったと言える人なんていないと思うんです。またこれから先、これが道だ、これに歩めというご聖霊様の声を聞いても、100%確信できるかというとそうではないと思います。それが大きければ大きいことであるほど、私たちは悩みます。でもそのような中でもエレミヤのように、あるいは鈴木先生のように、神様から与えられている使命は何か、自分が果たすように神からゆだねられている役割は何かを知るなら、確信をもってその道を選択することができるのではないでしょうか。
いずれにせよ、大切なことは、エレミヤが自分の思いのままに選択したのではなく、神のみこころを求めて祈った結果そのようにしたということです。注意しなければならないことは、それが神のみこころではないのに、ただ自分の思い、自分の心が欲していることなのに、あたかもそれが神のみこころであるかのように思い込んでしまうことです。そういうのを勘違いと言います。そういうことがないように、私たちはいつも本物である神のことばを聞き、それを見分けることができるように祈らなければなりません。
Ⅱ.ゲダルヤの誓い(7-12)
次に、7~12節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。
「40:7 野にいた軍の高官たちとその部下たちはみな、バビロンの王がアヒカムの子ゲダルヤをその地の総督にして、バビロンに捕らえ移されなかった男、女、子どもたち、その地の貧しい民たちを彼に委ねたことを聞いた。40:8 そして彼らはミツパにいるゲダルヤのもとに来た。ネタンヤの子イシュマエル、カレアハの子ヨハナンとヨナタン、タンフメテの子セラヤ、ネトファ人エファイの子ら、マアカ人の子エザンヤ、そして彼らの部下たちであった。」
エルサレムに残った貧しいユダの民の統治のため、バビロンの王ネブカドネツァルは、アヒカムの子ゲダルヤをその地の総督として任命しました。それで野にいた軍の高官たちやその部下たちはみな、ミツパにいたゲダルヤのもとにやって来ました。「ミツパ」はエルサレムの北方10キロにあるベニヤミンの領内にある町ですが、ゲダルヤがミツパにいたのは、エルサレムが焼き払われていたのでそこに行政機関を置くことができなかったからです。それで彼らはみなミツパにいたゲダルヤの下にやって来たのです。
そのときゲダルヤは、彼らとその部下たちに誓って言いました。9節10節です。
「40:9 シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤは、彼らとその部下たちに誓った。「カルデア人に仕えることを恐れてはならない。この地に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたは幸せになる。40:10 この私は、見よ、ミツパに住んで、私たちのところに来るカルデア人の前に立とう。あなたがたは、ぶどう酒、夏の果物、油を収穫して器に納め、自分たちが手に入れた町々に住むがよい。」」
ゲダルヤは、エレミヤの預言をきちんと聞いていました。エレミヤは彼らに、バビロンに服しその中で生きるなら、あなたがたは幸せになると言っていましたが、その通りに伝えたのです。さすがアヒカムの子どもですね。アヒカムについては先ほど見たようにエホヤキム王の時代にエレミヤを救った人物ですが、彼にはそうした霊的な目と、神を恐れる思いがありました。そうした父親の後ろ姿を見て育った彼にも、そうした思いがあったのでしょう。それだけではありません。ゲダルヤの父親の父親、すなわち祖父のシャファンという人物はヨシヤ王の時代に書記を務めていた人です。エレミヤが預言者として召されたのはそのヨシヤ王の第13年でしたが(1:13)、ゲダルヤはこの祖父のシャファンを通してもエレミヤの預言をずっと聞いていて、神のみこころが何であるかをわきまえることができたのです。ですから彼はエレミヤが預言していたとおり、バビロンに服し、バビロンの王に仕えるなら、あなたがたは幸せになると明言することができたのです。
それだけではありません。彼はこのミツパに住んで、自分たちのところに来るカルデア人の前に立とうと言っています(10)。どういうことですか?自分が責任をもってカルデア人と交渉するという意味です。だからあなたがたはぶどう酒、夏の果物、油を収穫して器に納め、自分たちが手に入れた町々に住むようにと勧めたのです。そこには相当の覚悟があったことがわかります。イエス様は、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われましたが、エレミヤ同様彼も、自分のいのちを削っても、他の人にささげる覚悟がありました。なぜ?彼も神のみこころを求め、みこころに従いたいと願っていたからです。
そんな彼のもとに、さらに多くの人たちが集まって来ました。11節、12節には、「11 モアブや、アンモン人のところや、エドムや、あらゆる地方にいたユダヤ人もみな、バビロンの王がユダに人を残したこと、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤを彼らの総督に任命したことを聞いた。12 そこで、ユダヤ人はみな、散らされていたすべての場所からユダの地に帰って来て、ミツパのゲダルヤのもとに行き、非常に多くのぶどう酒と夏の果物を収穫した。」とあります。
これらの人たちは、バビロンが攻めて来たことを知って周辺の諸国に逃亡していた人たちです。そんな彼らもゲダルヤが総督になったといううわさを聞いて、ミツパの彼のもとに集まって来たのです。彼らもまた夏の収穫を採り集め、安定した生活をすることができました。それはみこころに従ったゲダルヤのことばに従ったからです。もちろん、その背後にはエレミヤの助言があったのは間違いありません。主のみこころに従うなら、必ず祝福されるのです。
Ⅲ.ゲダルヤの失敗(13-16)
しかし残念ながら、その安定は長続きしませんでした。その理由は、ゲダルヤが神のみこころを見極めるのを失敗したからです。13~16節をご覧ください。
「40:13 さて、野にいたカレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、ミツパのゲダルヤのもとに来て、40:14 彼に言った。「あなたは、アンモン人の王バアリスがネタンヤの子イシュマエルを送って、あなたを打ち殺そうとしているのをご存じですか。」しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、彼らの言うことを信じなかった。40:15 カレアハの子ヨハナンは、ミツパでひそかにゲダルヤに話して言った。「では、私が行って、ネタンヤの子イシュマエルを、だれにも分からないように打ち殺しましょう。どうして、彼があなたを打ち殺し、あなたのもとに集められた全ユダヤ人が散らされ、ユダの残りの者が滅びてよいでしょうか。」40:16 しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、カレアハの子ヨハナンに言った。「そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ。」」
野にいたカレアハの子ヨハナンと、軍のすべての高官たちは、ミツパにいたゲダルヤのもとに来て、アンモン人の王バリアスがネタンヤの子イシュマエルを送って、ゲダルヤを打ち殺そうとしていることを密告します。なぜアンモン人の王がゲダルヤを打ち殺そうとしたのかはわかりません。おそらくゲダルヤがユダの総督になったとき、アンモンに逃れたユダの民がゲダルヤのところに帰って行くのを見て、快く思わなかったのでしょう。それで彼はネタンヤの子のイシュマエルを送って、ゲダルヤを打ち殺そうとしたのです。しかし、ゲダルヤは彼らの言うことを信じませんでした。むしろイシュマエルの暗殺を逆に申し出たカレアハの子ヨハンナに対して、「そんなことをしてはいけない。あなたこそ、イシュャマエルについて偽りを語っているからだ。」と叱責しました。
カレアハの子ヨハンナは将校として有能で、物事に対処するのに長けた人物でした。ユダの人たちのために総督ゲダルヤを守らなければならない。そしてそのためにだれにもわからないように先制攻撃をした方がよいという助言は、政治的判断としては優れていました。けれども、ゲダルヤ本人はというと、こうした現実的な危機に対しては全く無頓着、極端なお人好しでした。こうした動きに対して先に打ち殺すまではしなくても、自分の周りにたとえば警備兵を置くとか、イシュマエルの動きをしっかり監視するなど、何らかの対策を取るべきだったのに、ヨハンナの助言を聞くどころか、逆に彼がイシュマエルを妬んで彼について悪く言いふらしていると思って叱責したのです。
確かに、このような時、リーダーはどのように対処したらよいか悩むところです。ある面でゲダルヤの対応は神を恐れる者として、陰口とか悪口とか、密告といったことを鵜呑みにせず、真実を確かめるまでは慎重に取り扱おうとしたという点では評価できます。しかし、総督として、また群れのリーダーとして、目の前に起こっている動きを見極めるという点では失敗しました。特に、このネタンヤの子イシュマエルですが、41章1節には「王族の一人」と紹介されていますが、彼の祖父エリシャマは、ダビデの息子の一人でした(Ⅱサムエル5:16)。あのソロモンの兄弟にあたります。ということは、イシュマエルはダビデのひ孫にあたる人物だったのです。ゲダルヤとしては、まさかダビデの家系に属する者が主のみこころに反して自分を暗殺するなどあり得ないと思ったのでしょうが、脇が甘かった。ダビデの家系に属する者だからこそ、そのような危険性があったのです。つまり、イシュマエルは自分がダビデの家系であることから、自分こそユダを統治する人物としてふさわしい者であるという思いから、ゲダルヤに敵対する恐れがあったのです。それを見極めることができませんでした。
リーダーシップの本を開くと、リーダーには未来を見通す目が必要だと異口同音に語られています。ではどうやって未来を見通すことができるのでしょうか。人間には明日のことさえわからないのですから、そのような人間がどうやって未来を見通すことができるのでしょうか。
私の尊敬する牧師の一人に、兵庫県で牧会しておられる大橋秀夫という先生がおられます。私の名前と一字しか違わないので、以前アメリカからロバート・ローガンという教会成長学者が来日した時、先生をBig Ohashiと呼び、私をLittle Ohashiと呼びました。私の方が背が高いのにLittle Ohashiとは失礼じゃないかと思いましたが、私などはこの先生の足元にも及ばないので、やはりLittle Ohashiだと納得したわけですが、このBig Ohashiが「聖書を読むとリーダーシップがわかる!」という本をお書きになり、昨年のクリスマスにわざわざ送ってくださいました。その本の最後のところに、ユダヤ人の時間に対する見方を紹介しておられます。
「彼らは、「時間」すなわち人生を現在から過去を見て前に進むと考えている。ちょうどボートに乗って向こう岸に漕ぎ出すのと同じなのだ。未来は見えない。見えるのは過去だけ。まっすぐに進むために目印となるのは進んできた航跡(こうせき)だ。それによって起動を修正しながら進むと考えている。日記は、そんな自分の人生を進むうえでの航跡と言えるだろう。それをもって人生を紡ぎ、心の闇を克服することができると考える。」
未来を見通すために過去を見る。過去を見て起動を修正しながら進んで行くというユダヤ人の時間に対する見方は見事だなぁと思いました。その過去を見る上で勿論日記をつけるのも良いでしょう。それを見て過去を振り返ることは有益なことです。しかし、その中でも聖書を見て振り返ることはもっと有益なことです。なぜなら、そこには自分の過去だけでなく、この歴史を動かされた神の軌跡を見ることができるからです。
残念ながら、ゲダルヤはそういう目を持っていませんでした。彼には霊的な目と神を恐れる思いがありましたが、過去の歴史から学ぶという実践的な面に欠けていたのです。
かくしてゲダルヤによる統治は、わずか2か月で終わってしまいました。これは、ユダヤ人にとっては衝撃的なことでした。ですから彼らはそれ以来、エルサレムの陥落を記念する断食と並行して、ゲダルヤの死を哀悼するための断食を行うようになりました。それが、第七の月の断食(ゼカリヤ7:5,8:19)です。
私たちは、このゲダルヤの暗殺から何を教訓として学ぶことができるでしょうか。神のみこころに従うためにはそれを妨げる様々な悪魔の策略があるということ、そしてその策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなければならないということです。エペソ6章14~18節には、その武具とはどのようなものかが記されてあります。すなわち、「6:14腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」ということです。それがみこころに生きるために求められているのです。
そうすれば、あなたはしっかりと神のみこころを見極めることができます。そうすれば、あなたは幸せになるのです。たとえそれがこの世の考えと違うことであっても、みことばと祈り、信仰によってみこころに堅く立ち続けるなら、あなたは幸せになるのです。そのような生涯を共に送らせていただきましょう。そのために神のみこころを知り、みこころに従うことを求めていきたいと思います。
一つになってともに生きる幸い 詩篇133:1~3節
聖書箇所:詩篇133:1~3節
タイトル:「一つになってともに生きる幸い」
主の2025年、明けましておめでとうございます。この新しい年も皆さんとご一緒に礼拝することを感謝します。皆さんはどのような思いで新年を迎えられたでしょうか。今年も主の栄光が現わされるように、主のみことばに聞き従い、みことばに歩んでまいりましょう。
この新年礼拝で私たちに与えられているみことばは、詩篇133篇のみことばです。1節には、「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは。」とあります。
皆さん、何が幸せなんでしょうか。何が楽しみなのでしょうか。それは、兄弟たちが一つになって、ともに生きることです。これが主のみこころです。これが今年私たちに求められていることです。私たちは今年、一つとなってともに生きることを求めていきたいと思います。そして、それによってもたらされる主の祝福がどれほど大きいかを味わいたと思うのです。
きょうは、この「一つとなってともに生きる幸い」について、三つのことをお話したいと思います。第一に、兄弟たちが一つとなってともに生きることは実に幸いなことであり、実に楽しいことであるということです。第二に、それはどれほどの幸いなのでしょうか。それは、頭に注がれた貴い油がアロンのひげに、いやその衣の端にまで流れ滴るほどです。また、ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようです。どうしてそれほどの祝福が注がれるのでしょうか。それは、主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからです。ですから第三のことは、私たちも一つになって、ともに生きること求めましょう、ということです。
Ⅰ.一つになってともに生きる幸い(1)
まず、兄弟たちが一つとなってともに生きる幸いから見ていきましょう。1節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。
「133:1見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。」
この詩篇の表題には、都上りの歌。ダビデによる、とあります。この詩篇の作者であるダビデは、「見よ」という呼びかけでこの詩を始めています。とても印象的な表現ではないでしょうか。「見よ。なんという幸せ、何という楽しさであろう。」それはこれを読む人たちに、このことを何としても伝えたい、何としても知ってほしい、という思いが込められているからです。
その思いとは何でしょうか。それは、兄弟たちが一つになって、ともに生きることの幸いです。それはなんという幸せ、何という楽しさであろうか、というのです。ここでダビデは、「なんという」ということばを繰り返すことによって、兄弟たちが一つになってともに生きることの幸いを強調したかったのです。
皆さん、どうでしょうか。兄弟たちが一つになって、ともに生きること、ともに礼拝することは、それほど幸いなこと、それほど楽しいことだと考えたことがあるでしょうか。いや、私はいいです。私はひとりで聖書を読んでいた方が幸せなんです。第一面倒くさいです。他の人に気を使わなければならないし。だったらひとりでいた方がどれほど楽なことか・・・。そういう思いはありませんか。でもここにはそのようには言われていません。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは、なんという幸せ、何という楽しさであろうか、と言われているのです。これは、「都上りの歌」です。都上りの歌とは「巡礼の歌」のことです。主の宮に集まって、主を礼拝すること。それはなんという幸せ、なんという楽しさであろうかというのです。
皆さん、兄弟姉妹が一つとなって主の宮に集まり、ともに主を礼拝することはそれほど楽しいこと、それほど幸せなことなのです。先々週のクリスマス礼拝では、私たちの主イエスは「インマヌエルの主」として生まれてくださったということをお話しました。意味は何でしたか。意味は、「神は私たちとともにおられる」です。私たちはひとりぼっちではありません。イエス様が私たちとともにいてくださいます。嵐の時も、穏やかな時も、いつもイエス様がともにいてくださるのです。それは本当に幸いなことではないでしょうか。けれども、私たちにはそれだけではないのです。それとともにすばらしい祝福が与えられているんです。それは同じ神を信じる兄弟姉妹たちがともにいるということです。
私たちには、ともに生きる神の家族が与えられているのです。不思議ですね、教会って。年齢も、性別も、出身地も、国籍も、みんな違いますが、イエス様を信じたことによって天の神を「アバ」、「お父ちゃん」と呼ぶことができるようになったことによって、お互いが兄弟姉妹とされたのです。どっちが兄で、どっちが弟なのかわからない時もありますが、みんな兄弟姉妹です。相手の名前がわからない時はいいですよ。「兄弟」とか「姉妹」と呼べばいいんですから。最近はなかなか名前が思い出せなくて・・という方は、ただ「兄弟」と呼べばいいので簡単です。特に私たちの教会には世界中からいろいろな人たちが集まっているので、名前を覚えるのは大変です。でも「Brother」とか「Sister」と呼べば失礼にならないので助かります。こうして主イエスを信じる世界中のすべての人と兄弟姉妹であるというのはほんとうに不思議なことです。英語礼拝を担当しているテモシー先生はガーナの出身ですよ。肌の色も違う。何歳かもわかりません。でも兄弟と呼べるというのはすごいことだと思うんです。このように自分と全く違う人たちがイエス・キリストによって一つとされ、ともに生きることは、ほんとうに幸せなこと、ほんとうに楽しいこと、これ以上の幸いは他にはないというのです。
この詩篇は歴史を通してユダヤ人たちにとても愛されてきた、大切にされてきた詩篇なんです。どうしてかというと、ユダヤ人たちは離散の民だったからです。かつてユダヤ人たちは神殿、神の宮ですね、神の宮に集まって主を礼拝していましたが、それが彼らにとって何よりも喜びだった。何よりも幸せだったのです。
ところが、その後ユダヤ人たちは国を失ってしまいました。みんなバラバラになってしまった。多くの人たちが捕囚の民として、外国に連れて行かれました。バビロン捕囚です。他の国に散らされて行った人たちもいます。その置かれた場所で咲きましょう、ではありませんが、彼らは旧約聖書の律法を大切なしながら、そこで信仰を育んでいったのです。
けれども彼らは、かつてのようにみんなで集まって礼拝することができなくなってしまいました。そんなユダヤの民にとってこの詩篇133篇は、かつて彼らが味わった幸せを懐かしく思い出す歌となったのです。そしていつの日か、今はまだその時ではないけれども、もう一度この幸せを味わうことができる日がくる、そんな希望を覚える歌として、大切にされてきたのです。
そのようにしてユダヤ人たちは、自らの過去と未来の両方を思いながらこの歌を味わい、この歌を歌いながら、また希望に思いを馳せながら、共に集まることの幸いを味わっていたのです。
ドイツの牧師で神学者のボンヘッファーは、この詩篇133篇から「ともに生きる生活」という本を書いていますが、その本の中で彼は兄弟姉妹が共に集まって生きることの幸い、そして教会の祝福についてこのように言っています。
「キリスト者の兄弟姉妹の交わりは、日ごとに奪い去られるかもしれない神の恵みの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがて深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないものであるということが、とかく忘れがちである。だからその時まで他のキリスト者とキリスト者としての交わりの生活を送ることを許された者は心の底から神の恵みをほめたたえ、跪いて神に感謝し、我々が今日なおキリスト者の兄弟との交わりの中で生きることが許されているのは恵みであり、恵み以外の何ものでもないことを知りなさい。」
皆さん、これは当たり前のことじゃないのです。兄弟姉妹が一つになってともに生きること、ともに主を礼拝できるというのは神の恵みなんです。恵みの賜物以外の何ものでもない。私たちはこうして毎週集まって礼拝をささげていますが、これはいつ奪い取られるかわからないことなのです。たとえば、新型コロナウイルスが発生した時、多くの教会では集まることができませんでした。そうした教会の中には、それ以降集まることが困難になって閉鎖した教会も少なくありません。当たり前じゃないのです。それは本当にかけがえない恵みであり、本当に幸いなことなんだと、ボンヘッファーは言ったのです。
皆さん、兄弟たちが一つになってともに生きることは、なんという幸せ、何という楽しさでしょうか。そうなんです。兄弟たちがバラバラに歩むのではなく一つになってともに生きることは、本当に幸いなことなのです。文化や習慣、考え方、性格など、それぞれの違いがありながら互いに調和を保っていくことは簡単なことではありませんが、しかしそうした違いを乗り越えて一つなってともに生きることは、本当に幸いなことであり、これ以上の祝福はありません。
Ⅱ.主が注がれるとこしえのいのちの祝福(2-3)
では次に、その祝福がどれほどのものなのかを見ていきましょう。この詩篇の著者はその祝福のすばらしさを、次のように語っています。2節と3節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。
「133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。
133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」
ここには、それは頭に注がれた貴い油のようだとあります。また、それはヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ、とあります。どういうことでしょうか。それほど麗しい豊かな祝福だという意味です。なぜなら、それはただの人間的な楽しさとは違うからです。そこには主のとこしえのいのちの祝福が流れているからです。
まずそれは、頭に注がれた貴い油のようだと言われています。それはひげに、アロンのひげに流れて、衣の端にまで流れ滴ると。どういうことでしょうか。それほど神様の祝福に潤される、満たされるということです。
頭に油を注ぐというのは、整髪料じゃあるまいし、私たち日本人にはあまりピンとこないかもしれませんが、ユダヤの地方には、そういう習慣がありました。福音書の中にも、イエス様の頭に油を注いだ人がいますね。誰ですか? そう、ベタニアのマリアです。彼女はイエス様にいたずらをしようと思ってやったわけではありません。イエス様を驚かせようとしたわけでもないのです。イエス様に対する愛と感謝を表すためにしたのです。その香油はあまりにも高価なものだったので、それを見ていた弟子の一人のイスカリオテのユダは、「どうして、そんな無駄なことをするのか。この香油なら300デナリ(300日相当の労働の対価)で売れるのだから、それを貧しい人に施せばいいじゃないか」、と言って憤慨したほどです(ヨハネ12:5)。香油というのはそれほど高価のものでした。それほど高価な香油を、彼女はイエス様の頭にガバッーと注いだのです。ですからイエス様はそのことをとても喜ばれ、彼女の行為を高く評価されたのです。
しかしここでは、それはただの香油ではないことがわかります。ここには「アロンのひげに流れて」とあります。アロンとはモーセのお兄さんのことですが、彼は大祭司として任職されました。その任職式の時に油が注がれたのです。それがこの貴い油です。その時の様子がレビ記8章12節にありますが、その量は中途半端なものではありませんでした。大量の油が注がれたのです。それがどれほどのものであったかを、ここでは何と表現されていますか。それはアロンのひげに流れて、とあります。さらにはアロンの着ていた衣の端にまで流れ滴る、とあります。アロンの胸には大祭司が身に着けるエポデという胸当てがありましたが、そこにはイスラエル12部族を表わしている12の宝石が埋め込まれてありました。アロンの頭に注がれたその貴い油はアロンのひげに流れると、そのエポデも全部覆って、やがてアロンが着ていた衣の端にまで流れ滴ったのです。それほど豊かな油であったというのです。ここでは「流れて」とか「流れ滴って」とことばが繰り返されてありますが、それは、上から下へと流れる、天の神様の祝福の豊かさを強調されているのです。そしてその祝福こそが教会に流れている幸せと祝福の源なのです。
さらにその祝福は、もう一つのたとえによっても描かれています。それはヘルモン山から下りる露です。3節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。
「133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。」
ヘルモン山というのは、ガリラヤ湖の北東約50キロにある山です。標高は海抜2,814メートルと言われていますから、相当高い山です。ですから、その山頂は万年雪となっていて夏でもスキーができるほどなんです。一方、シオンの山々とはというと、イスラエルの南、死海近辺にあるエルサレムの山々のことです。そこは草も生えないような乾燥地帯、山岳地帯となっています。そこがヘルモンの山頂にある雪解けの水が露となって滴り落ち、潤されるようだというのです。どういうことでしょうか。
実際にはヘルモン山から南のシオンの山々までは約200キロメートルも離れていますから、その山の露がシオンの山々にまで降りるということは考えられません。でも神様の祝福というのはそんな人間の理解とか想像も及ばないほど豊かで、まるでヘルモンの山からシオンの山々にまで降り注ぐ大量の露のようだというのです。兄弟たちが一つとなってともに生きることは、それほど私たちを豊かに潤してくださるということです。どんなにカラカラに乾いていても、神様の祝福というのは、そんな乾いた全地を潤すほどの祝福なのです。
ところで、この3節にある「降りる」という言葉ですが、これは2節に出て来た「流れる」という言葉と同じ言葉です。ですから、この詩篇の作者はこのことばを3回も繰り返すことによって、上から下へと注がれる神様の祝福がどれほど豊かであるかを表したかったのです。どうしてそんなに豊かなのか。それは、主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからです。その恵みの大きさを覚えて主に心から賛美を捧げようではありませんか。
兄弟たちが一つになって、ともに生きることは、それほどの幸せ、それほどの楽しさなのです。カラカラに渇いているあなたのたましいまでも満たしてくれる。そういうまさに天来の祝福、天来の幸せ、天来の喜びで溢れるのです。
Ⅲ.一つになってともに生きる(3)
であれば第三のことは、私たちも一つになって、ともに生きることを求めましょう、ということです。もう一度3節の最後のことばに注目してください。ここには、「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」とあります。
私たちが互いに愛し合う、その交わりの中に、主がとこしえのいのち、永遠のいのちの祝福を注いでくださいます。なぜなら、それは何よりも神様のみこころであり、そのために私たちは召されているからです。それなのに、私たちの側で心の眼が曇らされてしまって、互いにさばき合ったり、ねたみ合ったりして、こんなにも豊かな神様の祝福を閉ざしてしまうことがあるとしたら、何ともったいないことでしょう。ですから私たちはこの詩篇の作者が「見よ」と呼び掛けて、「なんという幸せ、なんという楽しさだろう」と、声を大にして伝えているこのこと、すなわち兄弟たちが一つになって、ともに生きるというこの歩みを、大切にしていきたいと思うのです。いつでもこの教会を、神様のとこしえのいのちの祝福が覆ってくださるように、そしてそれを私たちが豊かに感じながら、ただ神様に感謝と礼拝をささげていくことができるように、私たちは一つになってともに生き、その祝福の流れに乗り続けていきたいと思うのです。
いったいどうしたらそんな歩みができるのでしょうか。その鍵は「御霊によって一致」することです。パウロはエペソ4章1~3節の中でこのように勧めています。
「4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び
4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」
ここでパウロは、エペソの兄弟たちに対して、召された者はその召しにふさわしく歩むようにと勧めています。召しとは救いへの召しのことです。かつては罪の奴隷であった者が、そこから解放されてキリストのしもべとして召されました。それがクリスチャンです。クリスチャンとは「キリストのしもべ」という意味です。私たちはイエス様を信じたことでクリスチャンとして召されたのです。ですから、その召しにふさわしく歩まなければならないのです。それはどのような歩みでしょうか。ここには、謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、同じ神の霊、聖霊を受けている者として、御霊による一致を熱心に保ちなさい、とあります。私たちが頑張って一致するというのではありません。私たちはそのように召された者なのだから、キリストにある者とされたのだから、そり召しにふさわしくキリストにあって歩むのです。それが召しにふさわしい歩みです。それが、御霊による一致を保つということなのです。
それは、言い換えると「互いに愛し合う」ということです。主イエスはこう言われました。
「13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:34~35)。
イエスが愛したように、私たちも互いに愛し合うこと、それが、主イエスが命じておられることです。ここには「新しい戒め」とありますね。これは新しい戒めなんです。古い戒め、すなわち旧約聖書の中にも隣人を愛さなければならない、という戒めがありました。たとえば、レビ記19章18節には、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」とあります。ですから、互いに愛し合うとか、隣人を愛するというのは別に新しい戒めではないはずなのです。それなのにどうしてイエスはこれを新しい戒めと言われたのでしょうか。それはどのように愛するのかという点においてです。確かに旧約聖書にも「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とありますが、イエス様が言われたのは、あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさいというのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しなさい」ということでした。あなたの隣人をあなた自身のように愛するというのは、あなたが自分を愛するのと同程度に愛するということですが、イエスが愛したように愛するというのは、それを越えているのです。そのように愛しなさいというのです。
ではイエス様はどのようにあなたを愛してくださったのでしょうか。イエス様は弟子たちにその模範を示されました。それが弟子たちの足を洗うという行為でした。それはただ兄弟姉妹の足を洗い合えばいいのかというとそういうことではなく、そこに込められている意味を実践しなさいということです。それは何でしょうか。それはしもべとして生きるということです。イエス様はしもべとして死に至るまで相手に仕えられました。その究極が十字架だったのです。聖書は十字架を指してこう言っています。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)
皆さん、どこに愛があるのでしょうか。聖書は「ここに愛がある」と言っています。それは、私たちの罪のために、宥めのささげ物として御子を遣わされたことの中にあると。神の愛はイエスの十字架によって完全に表されました。多くの人は、「愛」を表すのに、「ハート」の形を使いますが、聖書的にいうなら、愛の「形」は、「ハート」ではなく、「十字架」です。イエス様は、この十字架の愛に基いてこう言われたのです。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。これは言い換えると、一つになって共に生きるということです。私たちが一つになってともに生きるなら、それによって私たちがキリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになるのです。
元旦の朝、私たち夫婦はいつものように二人で一緒に聖書を読んで祈りました。新年の最初の日ですから、神様はどんなみことばを与えてくださるかと期待して開いた聖書箇所は、エゼキエル書5章でした。そこにはバビロンに連れて行かれた預言者エゼキエルが、エルサレムに向かって神のさばきを語るという内容でした。新年から神のさばきかとちょっとがっかりしましたが、そこに神のみこころが記されてありました。それは、イスラエルの民が置かれている所はどこか、ということです。5章5節にこうありました。
「神である主はこう言われる。「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民のただ中に置き、その周りを国々が取り囲むようにした。」」
彼らが置かれていたところはどこですか。これがエルサレムです。主は彼らを諸国のただ中に置き、その周りを国々が取り囲むようにした、とあります。何のためでしょうか。それは彼らが主のみこころに歩むことによって、そうした周りの国々も主を知り、主に立ち返るようになるためです。それなのに、自分たちが選ばれたことに優越感を持ちその使命を果たすことをしなかったら、主はどれほど悲しまれることでしょうか。事実、エルサレムは神の定めを行いませんでした。それどころか、彼らの周りの国々の定めさえも行わなかったのです。それゆえ、主は彼らをさばかれたのです。
これを読んだ時、それは私たちにも言えることではないかと思わされました。私たちがここに置かれているのは何のためでしょうか。それは、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方のすばらしい栄誉を告げ知らせるためです。それなのに、その使命を忘れ、自分が好きなように、自分がしたいように生きるとしたら、それこそイスラエルと同じではないかと思ったのです。神によって救いに召された私たちに求められていることは、このすばらしい神の栄誉を告げ知らせることです。どうやって?互いに愛し合うことによってです。互いの間に愛があるなら、それによって私たちがキリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。私たちは今年、そのような年になることを求めていきたいと思います。
昨年のクリスイヴのことですが、と言ってもつい2週間ほど前ですが、その日に2人の方からお電話をいただきました。「今晩は、クリスマス礼拝がありますか」と。一人は日本人の女性の方で、これまで一度も教会に行ったことがないという方でした。もう一人はインドの方で、クリスチャンの方でした。仕事で東京から来ているがクリスマス礼拝があれば行きたかったということでした。やはりクリスマスは人々の心が開かれる時なんだなぁと思いましたが、ふと、今年のクリスマスを私はどのように過ごしたらよいか、どのように過ごすことを神は願っておられるかという思いが与えられました。勿論、家族で過ごすのもすばらしいことです。でもそれだけでよいのか、教会に来たくても来れない方がいるならその方を訪問して一緒に礼拝することを、神は喜ばれるのではないかと示され、施設に入所している方々を訪問することにしたのです。それは私が目の手術で入院していた時、誰にも会うことができないという状況の中で、深い孤独と寂しさを経験したからです。
最初に下野姉が入所している施設を訪問しました。下野姉を訪問したのは2回目でしたが、本当に喜んでくれました。マタイの福音書から私たちの主はインマヌエルとして来てくださり、いつも下野さんとともにおられますから安心してくださいとお祈りすると、帰りに「先生、握手」と握手まで求められ、掴んだ手をずっと握り締めて離しませんでした。それほど不安だったんでしょう。それほど寂しかったんでしょう。最後に「先生、その時にはよろしくお願いします」と言われました。それはご自分が主のもとに行かれる時のことを言っておられるんだなぁと思い、「わかりました。大丈夫です。安心してください」と言ってお別れしました。
その足で和気姉が入所している施設に向かいました。和気姉もだいぶお身体が弱くなり、こちらから話しかけてもあまり応答できなくなりましたが、クリスマスなので一緒に賛美しましょうと「きよしこの夜」を歌うと、「きよし、このよる」と、自分のすべての力をふり絞るかのように大きな声で賛美されました。驚きました。じゃ、もう一曲賛美しましょうと、次に「雨には栄え」と賛美すると、これも大きな声で歌われたのです。何も覚えていないようでも賛美歌は覚えておられるんだ、と感動しました。私は時間のことを心配していましたが、もう時間のことも忘れてしまうくらいそこには神の臨在と祝福が満ち溢れ、さながら天国にいるかのような心地でした。まさに兄弟が一つとなってともに生きることは、なんという幸い、なんという楽しさでしょう。これ以上のない喜び、楽しさ、幸せはありません。
皆さん、私たちはこれまでもそうであったように、これからも互いに愛し合い、一致し、ともに生きる、ともに歩んで行く、そんな教会でありたいと思います。あり続けたいと思います。それはなんという幸せでしょうか。なんという楽しさでしょうか。それほど幸せなことはありません。それほど楽しいことはない。それほど麗しい交わりはありません。ともにそのような教会を目指してまいりましょう。それが今年私たちに求められていることなのです。
焼かれても、再び エレミヤ書36章1~32節
聖書箇所:エレミヤ書36章1~32節(旧約P1360、エレミヤ書講解説教66回目)
タイトル:「焼かれても、再び」
今日は、エレミヤ36章全体からお話します。少し長い箇所ですが、全体を通して見ていきます。その方が流れを掴むことができわかりやすいと思います。今日のメッセージのタイトルは「焼かれても、再び」です。主はエレミヤに、あなたは巻物を取り、これまで語ってきたことを書き記すようにと命じたので、エレミヤは書記のバルクを呼んで主のことばを口述筆記させましたが、それを知ったユダの王、ヨシヤの子エホヤキムは、その書き記された神のことばを、暖炉の火で燃やしてしまいます。もうこれで終わりかと思いきや、主は再びエレミヤに、もう一つの巻物を取って、エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せと言われました。プラス、さらに同じような多くのことばもそれに書き加えられました。それが、私たちが今持っているエレミヤ書です。結果的に、最初の巻物が焼かれることによって神はもっと内容が豊かで、また詳しく明瞭な形でご自身のことばを残してくださいました。神のことばは決して滅びることはありません。この神の言葉を握って離さず、それに従って歩むなら、どんな困難の中でも、知恵と力が与えられ、真っ直ぐに進むことができます。走っても倒れることはありません。御言葉を握る人には勝利と祝福が与えられるからです。
Ⅰ.巻物に書き記されたみことば(1-10)
まず1~10節をご覧ください。1-3節をお読みします。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」
これは、ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年のことです。エホヤキムの第四年とは紀元前605年のことです。これは35章でレカブ人の忠実さの話がありましたが、それよりも更に数年前の出来事です。この年は古代近東の国際情勢においては重要な年でした。それはこの年にバビロンがユーフラテス河畔のカルケミシュでアッシリアを滅ぼし、そのアッシリアを助けようとしてやって来たエジプトも壊滅的に討ち破ることによって、その覇権を確立した年だからです。そしてこの年にネブカドネツァルがナボポラッサルに代わって正式に王位を継承しました。その年に主からエレミヤに次のようなことばがありました。2節と3節です。
「2あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」
主はエレミヤに、ヨシヤの時代から今日までの間に、主が彼に語ったことばをみな、巻物に書き記すようにと言われました。エレミヤが預言者として召されたのはヨシヤ王の治世の第13年ですから、紀元前627年のことです。その時からこの時に至るまでの約20数年の間に主が彼に語られたことことばをみな、巻物に書き記すようにというのです。いったいなぜ神はこのように命じられたのでしょうか。それは語られた神のことばを文字にすることによってそれをユダの民に明確に伝えるためです。皆さんもそうでしょう。「私は説教を聴いても、こっちの耳から入ってすぐこっちの耳から出ていくんですよ!」と言われるのをよく聞くことがありますが、御言葉を聞くだけだとなかなか記憶に残すことができません。それで神はこのように巻物に書き記すことによっていつでもその内容を確かめることができるようにしたのです。それは1日や2日でできるものではありません。数日間、あるいは数十日に及ぶ大仕事だったでしょう。それでも神がエレミヤにそのように命じられたのは、3節にあるように、もしかすると、主が彼らに下そうとしているわざわいを聞いて、彼らがそれぞれ悪の道から立ち返るかもしれないと思われたからです。そうすれば、主も彼らの咎と罪を赦すことができます。つまり、主がエレミヤにご自身のみことばを書き記すようにと言われたのは、ユダの民の罪、咎を赦すためだったのです。主はどこまでもあわれみ深い方です。あなたの下には永遠の腕があるのです。
4節をご覧ください。それでエレミヤは、ネリヤの子バルク呼びました。口述した主のことばを巻物に書き記すためです。それは、この時エレミヤは閉じ込められていて、主の宮に行けなかったからです。なぜ彼は閉じ込められていたのでしょうか。それは彼が神殿で語った説教に対して、当時の祭司や預言者たちが反感を持っていたからです。たとえば、6章には、当時の預言者や祭司たちが、平和がないのに「平和だ、平和だ」と言っているのを聞いたエレミヤは、それは偽りだと糾弾しました(6:14)。また、7章には、彼らが「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と語っていたのに対して、そういうことばに騙されてはならない、と叫びました。それよりも、あなたがたの生き方と行いを改めるようにと(7:4-5)。そうしたエレミヤの態度に対して、エホヤキム王はじめ当時の宗教指導者たちが怒り、彼が主の宮に出入りできないようにしていたのです。
しかし、いかなる人間も、いかなる方法も神のことばを妨げることはできません。神のことばを語れないならば文書によって、自分が監禁されて語れないならば代理者を通してでも、神はご自身のことばが語られるようにされたのです。エレミヤはバルクを呼び、エレミヤに語られた主のことばを、ことごとく巻物に書き記しました。そしてその巻物に記された主のことばを、断食の日に主の宮で民に読み聞かせました。それはユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第五年、第九の月のことです。ということは、この巻物が書き記されるまでに約1年のかかったということです。バルクは、エルサレムのすべての民と、ユダの町々からエルサレムに来ているすべての民に、断食が布告された日に、主の前でこれを読み聞かせました。
それは第九の月の断食の日でした。この第九の月の「断食の日」とは、大贖罪日と呼ばれる日で、ユダの民にとって特別な日でした。この日は悔い改めと罪の赦しを受ける日なのです。この日は過去も現在も、イスラエルの民にとって最も大切な日の一つになっています。今日のイスラエルでも、この日はすべての仕事が休みとなり空港すら閉鎖されるという、イスラエルの暦において最も厳粛かつ重要な日なのです。その日にはすべての民は断食して、これまで犯してきた罪を悔い改め、神に赦しを願うのです。そのような日にバルクは神殿でエレミヤから託された巻物を読み上げたのです。それは、人々に悔い改めを促すには最もふさわしい日でした。
神のことばは、誰が伝えても同じ力を現わします。ですから、「誰を通して」伝えられるかが重要なのではなく、「誰の」ことばが語られるのかが重要なのです。エレミヤが伝えた時も神の力が現れましたが、バラクが書き記した御言葉を読んだ時も同じ力が現れました。それは彼らが伝えたことばが全能なる神のことばだからです。バラクは神のことばを書き記すのに1年もかかりました。バラクはそれを主の前で断食が布告された日に、書記シァファンの子ゲルマヤの部屋で、すべての民の前で民全体に聞こえるように、大胆に読み上げました。何が彼をこんなに勇敢な者に変えたのでしょうか。それは神のことばに対する信頼です。神のことばに対する信頼こそ、私たちをもそのような者に変えるのです。
Ⅱ.焼かれた神のことば(11-26)
そのバルクが語った神のことばに対して、人々はどのように応答したでしょうか。次に、11~26節をご覧ください。まず20節までをお読みします。「11 シャファンの子ゲマルヤの子ミカヤは、その書物にあるすべての【主】のことばを聞き、12 王宮にある書記の部屋に下ったが、見よ、そこには、すべての首長たちが座っていた。すなわち書記エリシャマ、シェマヤの子デラヤ、アクボルの子エルナタン、シャファンの子ゲマルヤ、ハナンヤの子ゼデキヤ、およびすべての首長たちである。13 ミカヤは、バルクがあの書物を民に読んで聞かせたときに聞いた、すべてのことばを彼らに告げた。14 すべての首長たちは、クシの子シェレムヤの子ネタンヤの子ユディをバルクのもとに遣わして言った。「あなたが民に読んで聞かせたあの巻物、あれを手に持って来なさい。」そこで、ネリヤの子バルクは、巻物を手に持って彼らのところに入って来た。15 彼らはバルクに言った。「さあ、座って、私たちにそれを読んで聞かせてくれ。」そこで、バルクは彼らに読んで聞かせた。16 そのすべてのことばを聞いたとき、彼らはみな互いに恐れおののき、バルクに言った。「私たちは、これらのことばをすべて、必ず王に告げなければならない。」17 彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、あなたがこれらのことばをすべて、どのようにして書き留めたのか、私たちに教えてくれ。エレミヤが口述したことばを。」18 バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらのことばをすべて私に口述し、私は墨でこの書物に記しました。」19 すると首長たちはバルクに言った。「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」20 彼らは巻物を書記エリシャマの部屋に置き、王宮の庭にいる王のところに行って、このすべてのことを報告した。」
神のことばは生きていて力があります。両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します(ヘブ4:12)。バラクが読んだ御言葉は大きな反響を巻き起こしました。エレミヤの預言にこれといった反応を示さなかった首長たちが、巻物の内容を確かめたいと、バルクに求めたのです。そこでバルクは彼らの前で再び巻物に記された御言葉を読みました。バルクが御言葉を読んでいる間、16節にあるように、御言葉が彼らの心を刺し通したので、彼らは驚きと恐れでいっぱいになりました。そこには重大な警告とさばきの内容が込められていたからです。さばきの内容とは、バビロンによって滅ぼされるということです。すると彼らは、このことは必ず王に告げなければならないと言いました。しかし、そうなれば彼らの身に危険が迫るのではないかと心配して、バルクにこう言いました。19節です。
「行って、あなたもエレミヤも身を隠しなさい。あなたがたがどこにいるか、だれにも知られないようにしなさい。」
神のことばによって心が動かされた首長たちは、行動によってその変化を表しました。エレミヤの自由を拘束していた彼らはエレミヤとバルクをかくまい、巻物を王にもっていく伝達者となりました。こうした劇的な行動の変化の中心には、いつも神のことばがあります。神のことばによって神を恐れる心が、私たちの行動を変えるからです。
次に、21~26節をご覧ください。ここにはその神のことばを聞いたエホヤキムの反応が記録されてあります。「21 王はユディに、その巻物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。ユディはそれを、王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。23 ユディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火に投げ入れ、ついに、巻物をすべて暖炉の火で焼き尽くした。24 これらすべてのことばを聞いた王も、彼のすべての家来たちも、だれ一人恐れおののくことはなく、衣を引き裂くこともしなかった。25 エルナタンとデラヤとゲマルヤが、巻物を焼かないようにと王に懇願しても、王は聞き入れなかった。26 王は、王子エラフメエルと、アズリエルの子セラヤと、アブデエルの子シェレムヤに、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえるように命じた。しかし、【主】は二人を隠された。」
この巻物のことを聞いたエホヤキム王は、ユディに命じてそれを取りに行かせました。ユディはそれを書記エリシャマの部屋から取ってくると、それを王と王の傍らに立つすべての首長たちに読んで聞かせました。すると王は、とんでもない行動に出ました。何とそれを小刀で裂いては暖炉の火の中に入れてしまったのです。そして巻物のすべてを暖炉の火で焼き尽くしてしまいました。それは第九の月のことでした。ユダヤの暦の第九の月とは、私たちの暦では11月の終わりから12月にかけての頃ですが、海抜800メートルにあるエルサレムの冬は寒さが大変厳しくなります。部屋には暖炉がたかれていました。するとユディが3,4段落を読むごとに、エホヤキム王は書記の小刀でそれを裂いては暖炉の火の中に入れたのです。これらのことばを聞いても、王も家来たちもだれ一人恐れおののくことなく、衣を引き裂くこともしませんでした。悔い改めようとしなかったのです。巻物を燃やすことに反対する人はいましたがそれはごく小数の人たちで、大半の人たちはそうではありませんでした。そればかりか、王はバルクとエレミヤに逮捕状を出し、彼らを捕らえるようにと命じたのです。
しかし、主が二人を隠されました(26)。どのように隠されたのかはわかりません。ただ言えることは、主のことばを信じそこに生きる人には主の守りがあるということです。どうしてそのようになったのかはわからないけれども、神様が成してくださったとしか言いようがない場合があります。皆さんもそういうことを体験したことがあるのではないでしょうか。私もたくさんあります。人間的には考えられないことを神様が成してくださったということが。それはまさに神様の不思議であり、神様の御業です。神に信頼する者には必ず神の恵みと神の祝福だけでなく、神の守りがあるのです。
ここで一つ考えてみたいことは、実はこの出来事の約20年前に、彼の父親であるヨシヤ王が神殿修復の際に「律法の書」を発見した時どのような態度を取ったかということです。それはエホヤキム王とは正反対の態度でした。彼らは親子ですが、彼らほど対照的な親子も珍しいと思います。ヨシヤ王は書記シャファンが巻物に記された「律法の書」を朗読したとき、深い悔い改めを表しました。Ⅱ列王記22章11節にはこうあります。
「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。」
ヨシヤ王は神のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いて悔い改めました。彼はまず自分自身が真剣に悔い改め、そして民にも悔い改めを求めました。それ以降、ユダ王国ではヨシヤの宗教改革と言われる霊的リバイバルが起こったのです。その結果、神はヨシヤ王と民を祝福されました。しかしその子どもであるエホヤキム王は、父がしたように衣を裂いて悔い改めることをしませんでした。むしろ、自分が気に食わない神のことばを聞いてそれを焼き、滅ぼそうとしたのです。神のことばをいのちと祝福として受け入れる人は神の祝福を受けますが、そんなの関係ない、不必要なものだとみなす人は、神の怒りを免れることはできません。
最近、私たちの教会のために毎月祈りをもって捧げてくださっている方からこんなメールがありました。
「先生、こんばんは。私は、人手不足なので助けて応じ介護施設で働き始めました。しかし、ベテラン職員の思わぬイジメに合いました。一部職員が職員を、入居者さんを感情むき出しに声を荒げています。悲しいです。仕事が仕事だけについ感情的になるのでしょう。僕は、イエス様が弟子の足を洗った様にこれでいいかなと自問しながら仕事をしてます。」
これが神を恐れる人とそうでない人の違い、神のことばに従って生きる人とそうでない人の違いです。神のことばに従って生きる人は、イエス様が足を洗った様に生きます。そしてそこには神の祝福が必ずもたらされるのです。
私は毎年、赤い羽根の共同募金に協力させていただいているのですが、集金に来られた方がこういうのです。「教会に来られる方はみんな、何と言うか、お顔が優しいですよね。この前教会の前を通った時そこに2~3人のご婦人たちがいたのでお話させていただいたんですが、皆さんとてもほがらかでした。それはやっぱりキリスト教の教えから来ているんですかね。」
私はそれを聞いて、正直、とても嬉しかったです。もしかすると募金に協力したので少し良いことを言おうと思ったのかもしれませんが、神のことばは生きているなぁと思いました。神のことばを聞いてそれを受け入れ、それに従って生きる人は、神が祝福してくださり、そのようにお顔まで穏やかになるんだと。これは本当だと思います。もしこれが週1回の礼拝だけでなく毎日だったら、どれほど穏やかな顔になるでしょう。
1840年、ロンドンのある洋服屋に、一見何の取り柄もなさそうな店員がいました。彼は御言葉を愛し、毎日御言葉を読みました。今日で言えば、毎日喜んでディボーションをして神を喜んでいるような人です。そんなある日、彼は自分の人生を変える御言葉を目にしました。
「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(Ⅰコリント15:2)
この御言葉を読んだ瞬間、彼は「これだ」と思いました。そして、彼はすぐにその御言葉を握り締めました。何の取り柄もない自分のような者でも、御言葉を固く握るなら、主は必ず用いてくださると確信したのです。そして、数人の青年たちとともに日曜日ごとに集まりを始めました。それがYMCAの始まりでした。皆さんは、YMCAを始めた人をご存知でしょうか。ジョージ・ウイリアムズという人です。あの有名なジョン・ワナメーカーではありません。ジョン・ワナメーカーはYMCAの建物を建てた人ですが、YMCAを始めた人はジョージ・ウィリアムズです。
御言葉を握る人には神の恵みと祝福があります。そして神はそのような人をご自身の働きのために用いてくださいます。そして主が用いる人を、主は必ず守ってくだるのです。
バルクが読み上げた御言葉によって変えられた首長たちは、巻物の内容をエホヤキムに伝えました。彼らの願いは巻物に記された預言のことばを聞いて、エホヤキム王が変えられることでした。しかし王はそれを受け入れるどころか、エフディが読み上げるごとにそれを裂いて暖炉に投げ入れました。エホヤキムの態度は、神のことばを聞いて嘆き悲しみ、衣を裂いて悔い改めた父のヨシヤ王とはあまりにも対象的でした。神のことばはすべての人に平等に与えられていますが、すべての人が同じ反応をするとは限りません。あなたはどのような反応をしていますか。ヨシヤ王のようにそれを聞いて衣を裂いて悔い改めていますか。それとも、このエホヤキム王のようにそれを軽んじ暖炉に燃やすでしょうか。どのように受け入れるかは、あなたの選択にかかっているのです。
Ⅲ.決して滅びない神のことば(27-32)
エホヤキム王によって暖炉の火に燃やされた神のことばですが、それで滅びてしまったかというとそうではありません。神のことばは決して滅びることはありませんでした。27~32節をご覧ください。「27 王が、あの巻物、バルクがエレミヤの口述で書き記したことばを焼いた後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。28 「あなたは再びもう一つの巻物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた最初の巻物にあった最初のことばを、残らずそれに書き記せ。29 ユダの王エホヤキムについてはこう言え。【主】はこう言われる。あなたはこの巻物を焼いて言った。『あなたはなぜ、バビロンの王は必ず来てこの地を滅ぼし、ここから人も家畜も絶えさせる、と書いたのか』と。30 それゆえ、【主】はユダの王エホヤキムについてこう言われる。エホヤキムには、ダビデの王座に就く者がいなくなり、彼の屍は捨てられて、昼は暑さに、夜は寒さにさらされる。31 わたしは、彼とその子孫、その家来たちを、彼らの咎のゆえに罰し、彼らとエルサレムの住民とユダの人々に対して、わたしが告げたが彼らが聞かなかった、あのすべてのわざわいをもたらす。」32 エレミヤは、もう一つの巻物を取り、それをネリヤの子、書記バルクに与えた。彼はエレミヤの口述により、ユダの王エホヤキムが火で焼いたあの書物のことばを残らず書き記した。さらに同じような多くのことばもそれに書き加えた。」
エホヤキム王は巻物を燃やしてしまいましたが、それで神のことばが破壊されたわけではありません。その後、主はエレミヤに、焼かれた巻物に書かれた内容をもう一度書き記すようにと命じられました。時間をかけてやっと完成した巻物が焼かれてしまった後で、再び初めから書き直すという作業は、いかに困難で忍耐を要することでしょうか。
まだワープロの時代です。私が牧師になって10年くらい経った頃でしょうか、ワープロを使って毎週日曜日の説教の原稿を書いていました。今もそうですが、私は昔から完全原稿と言って、一字一句すべて書く完全原稿を書くようにしています。そうすれば、あとはレンジでチンするだけで済みますから。そのワープロで土曜日の夜、翌日の説教の原稿を書いて完成したときです。まだ3歳くらいだった二番目の娘がそのワープロと遊んでいて、デリートキーを押してしまったのです。私は青ざめました。何時間もかけて完成した説教の原稿です。それが一瞬にして消えてしまったのです。私は元々こうした機器の取り扱いが苦手で、もしかするとCtrlキー+Zで復元できたのかもしれませんが、そんな知識など全くなかった私はただオドオドするばかりでした。「どうしよう。明日の朝までもう1回書かなければならないのか」何時間もかけて書いた説教をもう一度書くなんて考えられません。でもやるしかありませんでした。娘には「絶対触っちゃだめだからね。」と厳しく叱りつけ、そして一晩かけて一から書き直したのです。それを考えたら、1年以上もかけて書き上げた巻物をすべて失ってしまい、その後で、「もう一度初めから書くように」と言われたら、再度、それに取り組む意欲が起こるだろうかと、考えてしまうところです。
しかし、エレミヤは、もう一つの書物を取ってそれをバルクに与え、バルクは再びエレミヤが口述した内容を書き記しました。何という忍耐深さ、何という行動力でしょうか。それは神のことばはどんなことがあっても決して滅びることはないということを示しています。だれかが聖書を撲滅しようとも、神のことばである聖書は決して滅びることはありません。フランスの哲学者ヴォルテールは、「キリスト教が確立するまで数世紀かかったが、私は、一人のフランス人が50年間でこれを破壊できることを示そう。」と豪語しましたが、彼が死んで20年経ってから、そのヴォルテールの家をジュネーブ聖書協会が買い取り、そこで聖書が印刷されるようになりました。人々がどのように神のことばから逃れようとしても、神のことばは決して滅びることはないのです。
それどころか、最初の巻物は焼かれましたがそれによってよりすばらしい第二の巻物が完成しました。第一の巻物はヨシヤの時代からエホヤキムの治世の第四年までの預言でしたが、第二の巻物はそれ以降の新しい預言も含まれたものだからです。私たちが今手にしているエレミヤ書は、この第二の巻物が書かれたものです。それは最初のものよりも更に詳しく、さらに内容が豊かになったものです。神の計画や神のことばを破壊しようとする試みは必ず失敗に終わります。しかし、神のことばは決して滅びることはありません。第二の巻物が新たに書き記されることによって伝承され続けました。神殿が焼失し、国が滅び、民が祖国から切り離され捕囚とされることがあっても、神のことばは人々に命を与えることばとして残ったのです。しかし、神のことばを無きものにしようとしたエホヤキムの行為は、ダビデ王家とその王国、その領土を失うことを決定付けました。このことにエホヤキムは気付きませんでした。そこに気付くことから真の悔い改めが生まれます。そのために神のことばは新たに書き直され、残っているのです。ここに希望があります。神のことばは絶対に滅びることはありません。そればかりか、神のことばは生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。今もあなたの心に力強く働いてくださいます。この神のことばに信頼し、神のことばに堅く立ち続けましょう。神は必ずあなたの人生の中に働き、あなたが考えられないような不思議な御業を成してくださいますから。
レカブ人から学ぶ エレミヤ書35章1~19節
聖書箇所:エレミヤ書35章1~19節(旧約P1359、エレミヤ書講解説教65回目)
タイトル:「レカブ人から学ぶ」
きょうは、エレミヤ35章から、「レカブ人から学ぶ」というタイトルでお話します。レカブ人とはモーセのしゅうとイテロの子孫でミディアンの地に住んでいた遊牧民族ケニ人の子孫と考えられています。彼らは、イスラエル人がモーセによってエジプトから救い出され時、イスラエル民族に加わり、エルサレム近郊に定住しました。そのケニ人の話がここに出てくるのです。なぜでしょうか?レカブ人の模範的な態度を取り挙げることによってユダの民の罪を指摘するためです。良い手本を挙げて過ちを指摘するのは効果的です。その良い手本とはどのようなものでしょうか。それはどこまでも妥協しない忠実な生き方です。彼らは異邦人でありながら、先祖レカブが自分たちの命じたことばに従って誠実さを貫きました。その忠実な態度がここで主に称賛されているのです。それに対してイスラエルはそうではありませんでした。彼らは先祖の言葉どころじゃない、最も大切な方である神の言葉に聞き従おうとしませんでした。
それはユダの民だけのことではありません。それは私たちにも言えることです。私たちは主イエスによって罪から救い出され神の民となったにも関わらず、あまりにも簡単に神への忠実さを忘れて、自分の思いを優先させてしまっていることはないでしょうか。レカブ人たちは確かに狭いところはありますが、彼らのように譲れないところは譲れないと、天地創造の神への信仰をしっかり表明し、その信仰の現れとして、日々御言葉に従って生きる誠実さが求められているのです。しっかりと神の御言葉に聞き従う者となるために、レカブ人の誠実な生き方から学びたいと思います。
Ⅰ.レカブ人から学ぶ(1-11)
まず1~11節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの時代に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「レカブ人の家に行って彼らに語り、【主】の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」3 そこで私は、ハバツィンヤの子エレミヤの子であるヤアザンヤと、その兄弟とすべての息子たち、レカブ人の全家を率いて、4 【主】の宮にある、イグダルヤの子、神の人ハナンの子らの部屋に連れて来た。それは首長たちの部屋の隣にあり、入り口を守る者、シャルムの子マアセヤの部屋の上であった。5 私は、レカブ人の家の子らの前に、ぶどう酒を満たした壺と杯を出して、「酒を飲みなさい」と言った。6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。というのは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。8 私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従ってきました。私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生ぶどう酒を飲まず、9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持たず、10 天幕に住んできました。私たちは、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、従い行ってきました。11 しかし、バビロンの王ネブカドネツァルがこの地に攻め上ったとき、私たちは『さあ、カルデアの軍勢とアラムの軍勢を避けてエルサレムに行こう』と言って、エルサレムに住んだのです。」
1節に「ユダの王、エホヤキムの時代に」とあります。前回の34章はユダの王ゼデキヤの時代のことでしたから、さらにそれ以前の話となります。ちなみに、ユダの王はゼデキヤの前がエホヤキン(エコンヤ)、その前がエホヤキムです。ここではそのエホヤキムの時代のことが取り上げられているのです。年代的には、紀元前597年の第二次バビロン捕囚の少し前になります。その時代に、主からエレミヤに次のようなことばがありました。
「レカブ人の家に行って彼らに語り、【主】の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」
レカブ人とは、先程お話したようにそのルーツはモーセのしゅうとイテロで、もともとミディアンの地に住んでいた民族ですが、イスラエルがエジプトを出た時、彼らと一緒にカナンに来てそこに定住しました。そのレカブ人の家に行って彼らに語り、主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよというのです。不思議な命令です。何か祝い事でもあったのでしょうか。そうではありません。レカブ人たちの忠実さを試そうとしたのです。レカブ人はぶどう酒を飲みません。それは6節にあるように、先祖ヨナタブが「あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。」と命じていたからです。それはこの時から約200年も前のことです。ヨナタブが命じたのは実はそれだけではありませんでした。7節にあるように、家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、所有したりしてはいけないということも命じていました。いったいなぜ彼はこんなことを命じたのでしょうか。それは当時の北王国イスラエルではバアル礼拝が盛んに行われていたからです。そしてその原因は都市型の生活を送っているからだと考えたのです。都市型の生活をしていると世俗化し、偶像礼拝に陥りやすいと感じた彼は、自分の子孫たちがそうならないために、この誓いを守り通すようにと命じたのです。その一つのことがぶどう酒を飲んではならないということだったのです。それなのに主はそのレカブ人の家に行って、彼らに酒を飲ませよと言われました。なぜでしょうか。それは彼らの忠実さを試すためでした。彼らが先祖ヨナタブの命令にいかに忠実であるかをイスラエルに示すためだったのです。忠実さはイスラエルの民が最も必要としていたことでした。サタンは、罪を犯させるために私たちを誘惑しますが、しかし神は、私たちの信仰を成長させるために私たちを試されます。エレミヤの勧めに対して、レカブ人はどのように応答したでしょうか。6~7節をご覧ください。
「6 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。というのは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。7 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。」
レカブ人たちはすぐにエレミヤのことばを拒絶しました。彼らの先祖ヨナタブの命令に背くことなどは、彼らには考えられないことだったからです。続いて彼らはこう言いました。8~10節です。
「8 私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従ってきました。私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生ぶどう酒を飲まず、9 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持たず、10 天幕に住んできました。私たちは、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、従い行ってきました。」
彼らは先祖ヨナタブが命じたすべての命令に聞き従ってきました。この時点ですでに200年も経過していました。それでも彼らはずっと先祖ヨナタブの命令を守り、そういう生活を続けてきたのです。聖書には禁酒禁煙も天幕生活も命じられていません。勿論、あなたがたのからだは神から受けた聖霊の宮であり、その自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい(Ⅰコリント6:19-20)という御言葉に照らし合わせて考えると、お酒やたばこは避けた方が鶏鳴なのは確かです。でもそれはお酒やたばこに限らず、からだに悪影響を及ぼすすべてのことに言えることでしょう。しかし、彼らがそうした生活を貫き通したのはそうした理由からではなく、自分たちの弱さや不安定さのゆえに、他民族に隷属しない生き方をするためにはこの戒めを守ることが必要だと判断したからです。
「朱に染まれば赤くなる」という言葉がありますが、それは人との出会いや付き合いがそれだけ重要だという意味です。モーセの子孫であるレカブ人は、カナンでの生活と宗教に反対し、ぶどう酒も飲まず、天幕生活を続けました。彼らは世俗から離れて暮らすことによって、物質的な豊かさよりも、先祖との霊的交わりを重視したのです。
聖書の中には、彼らと同じように世俗を離れ、荒野で暮らし、主との濃密な霊的交わりを保とうとした人たちがいます。たとえば、バプテスマのヨハネはその一人でしょう。彼は荒野で叫ぶ声となって、主が来られるために人々の心を備えました。彼はらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜でした。
旧約聖書に出てくる「サムソン」もそうです。彼はナジル人といって神から特別な使命が与えられて生まれてきた者として、ぶどう酒は飲んではならない、汚れたものには触れてはならない、頭にかみそりをあててはならないという決まりがありました。残念ながら彼はそれをいとも簡単に破ってしまいましたが・・。
現代ではカトリックの修道院などはその一つです。彼らは世俗から離れてただひたすら祈りとみことばに励んでいます。
しかし、レカブ人たちは先祖ヨナタブが自分たちの祝福のためにはこれを守らなければならないということをずっと守り通してきたのです。彼らは何から何まで融通のきかない人たちだったわけではありません。11節には、彼らがエルサレムに定住するようになったいきさつが記されてありますが、それはバビロンの王ネブカドネツァルが北イスラエルを支配していたアッシリアを攻め上って来たのでそれを避けるためでした。それまで彼らは北王国イスラエルを転々としていましたが、その危険から身を避けるためには先祖レカブの命令から外れても安全に住むことができるエルサレムに定住したのです。つまり、彼らは定住してはならないというレカブの命令に固執しなかったということです。しかし、生き方については拘りを見せました。たとえ、主の宮に招かれ、神の人である預言者エレミヤから酒を飲むようにと勧められても、それを拒否しました。それを200年も250年も続けて来たのです。確かにレカブ人の考え方はセクト的で狭いと思われるかもしれません。彼らは世俗の文化を拒否し、禁欲し、神の言葉よりも教祖の言葉を重んじます。しかし彼らのそうした揺るがぬ信仰とその純粋性には学ぶべきものがあるのではないでしょうか。
みなさんは、アーミッシュをご存じでしょうか。アーミッシュは、16世紀のオランダ、スイスのアナバプティスト(再洗礼派)の流れをくむプロテスタントの一派ですが、彼らは基本的には、農耕・牧畜を行って、自給自足で生活しています。自分たちの信仰生活に反すると判断した新しい技術や、製品、考え方は拒否します。この現代において、自動車を使わず馬車に乗っているのですよ。電気は引いていません。もちろん、テレビ、パソコン、家電などは使いません。風車・水車の蓄電池を使ったり、ガスでうっすら明かりをつけたり、調理したりしています。中には、それすら使わない人たちもいるそうです。収入は、キルトや蜂蜜の販売、一部の地域では、レストランや馬車での観光を行って得ています。現在、北アメリカに約38万人、世界に約85万6000人いるといわれていると言われています。
アーミッシュには、神との霊的交わりを保つために、『オルドゥヌング』という戒律があります。それは以下のようなものです。
・交通手段は馬車を用いる。屋根付きの馬車は大人にならないと使えない。
・ アーミッシュの家庭においては、家族のいずれかがアーミッシュから離脱した場合、たとえ親兄弟の仲でも絶縁され、互いの交流が疎遠になる。
・怒ってはいけない。喧嘩をしてはいけない。
・読書をしてはいけない(聖書と、聖書を学ぶための参考書のみ許可される)。
・讃美歌以外の音楽を聴いてはいけない。
・避雷針を立ててはいけない(雷は神の怒りであり、それを避けることは神への反抗と見なされるため)。
・義務教育(8年間)以上の高等教育を受けてはいけない。それ以上の教育を受けると知識が先行し、謙虚さを失い、神への感謝を失うからだとされる。
・化粧をしてはいけない。派手な服を着てはいけない。(決められた服装がある)
・保険に加入してはいけない(予定説に反するから)。
などなど。他にもたくさんの戒律がありますが、原則として、快楽を感じることは禁止されています。このような戒律を破った場合、懺悔(ざんげ)や奉仕活動の対象となります。改善が見られない場合はアーミッシュを追放され、家族から絶縁されることもあるそうです。
ここまでいくとどうかなぁと思いますし、私たちは彼らのような狭い考え方に倣わなければならないということはありませんが、彼らの愚直なまでの誠実さには学ぶべきものがあるのではなでしょうか。私たちは神に選ばれて救われ、神の民とされた者として、どれだけ神の言葉に忠実に生きているでしょうか。人から何かを勧められた時、それをみことばと照らし合わせて、譲れないものは譲れないと、確固たる生き方をしているでしょうか。私たちはレカブ人がカナンに定住しながらもその文化や習慣に流されないで生きていたように、この世にあって神の御言葉にしっかりと立った生き方が求められているのではないでしょうか。
Ⅱ.ユダの民の不従順(12-17)
次に、12~17節をご覧ください。「12 すると、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言う。行って、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『あなたがたは訓戒を受け入れて、わたしのことばに聞き従おうとしないのか──【主】のことば──。14 レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲んでいない。ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞き従わなかった。15 わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わして、さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、行いを改めよ、ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない、わたしがあなたがたと先祖たちに与えた土地に住め、と言った。それなのに、あなたがたは耳を傾けず、わたしに聞かなかった。16 実に、レカブの子ヨナダブの子らは、先祖が命じた命令を守ってきたが、この民はわたしに聞かなかった。17 それゆえ──イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる──見よ。わたしはユダと、エルサレムの全住民に、わたしが彼らについて語ったすべてのわざわいを下す。わたしが彼らに語ったのに、彼らは聞かず、わたしが彼らに呼びかけたのに、彼らは答えなかったからだ。』」」
主はなぜエレミヤに、レカブ人にぶどう酒を飲ませよとの命令を与えたのでしょうか。主はここでその理由を説明されます。それはユダの民の不従順さを責めるためです。レカブ人たちは、先祖の命令を守りぶどう酒を飲まなかったのに対して、ユダの民は、預言者が語り続けた神の言葉に聞き従わず、自分勝手な道を歩んできました。人は信頼する相手のことばに耳を傾けるものですが、ユダの民にはそのような態度が見られませんでした。15節には、「ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない」とありますが、これは十戒の第一戒の戒めを破ることでした(出エジプト20:3)。それゆえ、イスラエルの神万軍の主は、ユダとエルサレムの住民に、「すべてのわざわいを下す」と言われたのです。具体的には、バビロン捕囚という出来事です。エルサレムはバビロンによって滅ぼされ、その住民はバビロンに捕え移されることになります。
しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、ここでレカブ人たちが称賛されているのは彼らの信仰ではなく、彼らが家を建てないで荒野に住んだことや、ぶどう畑を所有しなかったことではなく、あくまでも先祖レカブの命令にどこまでも忠実であったという点です。というのは、モーセの律法では逆にそのようにするようにと命じているからです。もし彼らがイスラエル人であるなら、彼らは家を建て、ぶどう畑を所有し、定住生活をしなければなりませんでした。しかし、彼らは異邦人であったためその必要がなかっただけのです。ですから、彼らが称賛されたのはそういう点ではなく、あくまでも先祖の命令にどこまでも忠実であった、誠実であったという点においてなのです。この点を見落としてはなりません。
Ⅲ.レカブ人たちへの祝福(18-19)
一方、レカブ人たちには祝福が宣言されます。18~19節をご覧ください。「18 エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行った。19 それゆえ──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも絶えることはない。』」」
レカブ人たちへの祝福は、「レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも絶えることはない」ということです。どういうことでしょうか。「わたしの前に立つ人」というのは、祭司職を意味する表現ですが、先程も申し上げたように、彼らは異邦人で先祖を信仰していたので、「神殿に仕える人」という意味ではなさそうです。この「神の前に立つ人」とは、永遠に途絶えることがないという意味です。つまり、今日でもこの地上のどこかにレカブ人の子孫が生存していることになります。ただイザヤ書66章18~21節には、千年王国においてはイスラエル人だけでなく、異邦人の祭司も立てられると預言されているので、もしかするとその中にレカブ人も含まれるということを示しているのかもしれません。いずれにせよ、レカブ人は先祖の命令に聞き従い、そのすべての命令を忠実に守り、彼が命じたとおりに行ったので、神から祝福されたのです。
これはレカブ人だけではありません。私たちにも求められていることです。異邦人のレカブ人がその先祖の命令に対してそこまで忠実に守り続けてきたのならば、神に選ばれてクリスチャンとされた私たちは、神に対してもっと忠実でなければなりません。彼らのように譲れないところは譲れないと、天地創造の神への信仰をしっかり持ち、その信仰の現れとして、日々神の言葉に従って生きるという誠実さが求められているのです。
皆さんは、NHKの朝の連続テレビ小説の「とと姉ちゃん」をご存知でしょうか。これは、戦後すぐに創刊され、日本中の多くの家庭で読まれた生活総合雑誌「あなたの暮らし」の創刊した大橋 鎭子(しずこ)をモデル化した小説ですが、主人公の常子の家には父竹三が決めた3つの家訓がありました。それは、一つ。朝食は家族皆でとること。一つ。月に一度、家族皆でお出掛けすること。一つ。自分の服は自分でたたむこと。父竹三は娘とたちが幼いうちに病気で亡くなりますが、この家訓は生きていて、この家族はこの家訓に従って生きていくのです。
昔は、多くの家にこのような家訓のようなものがあり、それに疑問をはさむことは許されませんでした。それに対する反動なのでしょうか。今の時代は、価値観が多様化し、善悪の基準も不明確になっています。しかし、どこかで、「譲れないものは譲れない。これは守らなければならない」という不動の軸になるものが必要なのではないでしょうか。神の民にとってそれは神の言葉である聖書です。私たちは自分たちの譲れない生き方として、天地創造の神への信仰をしっかり持ち、その信仰の現れとしての祈りと御言葉の時を持ち、それに聞き従うというそうした生き方を貫いていきたいと思うのです。置かれた状況によって意見が変わる人など、信頼されることはありません。忠実さこそ信頼の鍵なのです。
心を翻すことなく エレミヤ書34章1~22節
聖書箇所:エレミヤ書34章1~22節(旧約P1357、エレミヤ書講解説教64回目)
タイトル:「心を翻すことなく」
きょうは、エレミヤ34章から、「心を翻すことなく」というタイトルでお話します。「心を翻す」とは、心を変えること、考えを改めることです。私たちは、聖書の御言葉を聞いたり、読んだりする中で、その御言葉に一度は従おうと決意するも、次の瞬間には、目先の利益を優先して、再び心を翻すという弱さがあるのではないでしょうか。主に救われ、主のみこころに歩む者として、私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことです。一度主の御言葉に従うと決めたら、心を翻すことなく、聖霊の助けを受けながら、どこまでも主の言葉に従うことが求められているのです。
きょうの箇所には、ゼデキヤとユダの民が一度は主の御言葉に従って奴隷の解放を宣言するも、状況が変わると目先の利益を優先して、心を翻してしまいました。それは主のみこころを損うことでした。その結果、彼らは神のさばきを受けることになります。私たちは心が動かされやすい者ですが、主の助けを受けて、一度神の前で誓った誓いを最後まで果たさなければなりません。
Ⅰ.ゼデキヤ王への警告(1-7)
まず1~7節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルとその全軍勢、および彼の支配下にある地のすべての王国とすべての民族が、エルサレムとそのすべての町を攻めていたとき、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「イスラエルの神、【主】はこう言う。行って、ユダの王ゼデキヤに告げよ。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。3 あなたはその手から逃れることができない。あなたは必ず捕らえられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く。4 ただ、【主】のことばを聞け、ユダの王ゼデキヤよ。【主】はあなたについてこう言われる。あなたは剣で死ぬことはない。5 あなたは平安のうちに死ぬ。人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために埋葬の香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よ、と言ってあなたを悼む。このことを語るのはわたしだ──【主】のことば。』」6 そこで預言者エレミヤは、ユダの王ゼデキヤに、エルサレムでこれらすべてのことばを語った。7 そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらが、ユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。」
前章の33章ではエレミヤはゼデキヤによって監視の庭に監禁されていましたが、この34章ではエレミヤはゼデキヤ王の元に自由に出入りしています。すなわち、この34章の出来事は33章以前の出来事、すなわち、まだ監禁されていなかった時のことです。エレミヤ書は、年代順ではなくテーマ順に並べられているので、話が遡ることがあるのです。
1節には、「バビロンの王ネブカドネツァルとその全軍勢、および彼の支配下にある地のすべての王国とすべての民族が、エルサレムとそのすべての町を攻めていたとき、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。」とあります。これは、バビロンの王ネブカドネツァルが、エルサレムとそのすべての町を攻めていたときのことです。そのとき主からエレミヤに主の言葉がありました。それは2~5節にある内容ですが、エルサレムはバビロンの手によって落ちるということ、そしてゼデキヤはその手から逃れることはできないということ。彼は捕らえられて、ネブカドネツァルの手に渡されるからです。それは主によって定められた避けることができないことなのだから、それを受け入れるべきだ、ということでした。そうすれば、彼は剣で死ぬことはなく、処刑されたりすることなく、平安のうちに死ぬことができると。「平安のうちに死ぬ」とは、自然に死ぬということです。彼はそれ以前の王たちと同じように、ユダヤ人の習慣に従って丁重に葬られることになるということです。
そこでエレミヤは、ユダの王ゼデキヤに、エルサレムでこれらすべてのことばを語りました。そのとき、バビロンの王の軍勢は何をしていたかというと、エルサレムとユダに残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていました。これらが、ユダの町々で城壁のある町として残っていたからです。ラキシュはエルサレムから南西に45㎞にある町で、アゼカはラキシュの北東16㎞にあった町です。バビロン軍はまずこの町を攻撃しました。それはこの町が堅固な要塞都市だったからです。かつてアッシリアがイスラエルを攻撃した時も、この堅固な要塞都市であるラキシュを攻めてから、満を持してエルサレムを攻めました。バビロンも同じルートでエルサレムを攻略しようとしたのです。籠城攻めは日本では豊臣秀吉が得意としていた戦法ですが、敵を城に閉じ込めて、相手が飢えや渇きに疲れ果てるのを待つのです。この籠城攻めは援軍が来ない限り解かれることはありません。バビロン軍はそのことをよく知っていました。ですから、誰も助けに来られないように、エルサレム以外の主要都市のすべてを攻め滅ぼしてから、エルサレムを包囲したのです。
エルサレムに閉じこもっていたゼデキヤは、もはやイスラエルの国内からの援軍は期待できませんでした。残る頼りは、ひそかに同盟を結んでいたエジプトからの援軍だけです。きっとエジプトが来て助けてくれると期待していましたが、待てども暮らせど、エジプトからの援軍はやって来ませんでした。バビロン軍は、難攻不落の呼び声高いエルサレムを無理に攻め落とそうとはしないで、彼らが外に出られないように中に閉じ込めました。これが18か月、1年半にも及びました。エルサレムの人は城壁の外に一歩も出られず、バビロンがいつ攻めてくるかと脅える毎日でした。しかもそれが1年半も続いたのです。精神的に追い詰められ、おかしくなってもおかしくありません。食料も底をつき、飢えと渇きで兵士の士気もどんどん落ちていきました。そこで彼はエレミヤのところにやって来て、神の助け求めたのです。その時のやりとりがエレミヤ書21章1~2節の内容です。
「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
2節に「主がかつてあらゆる奇しいみわざを行われたように」とありますが、これはエレミヤから遡ること100年前のヒゼキヤ王の時代のことです。エルサレムがアッシリアの王セナケリブの猛攻を受けて陥落寸前になったとき、ヒゼキヤ王が部下を預言者イザヤに遣わしたときの出来事です。その時どんなことが起こったのでしょうか。その時イザヤは力強く、主が救ってくださると答え、実際にアッシリア軍は一晩で18万5千人もの兵が疫病で死んでしまいました。それで彼らはエルサレムから逃げ去ったのです。ゼデキヤ王はその時のことを思い出し、その時のように主が救ってくださることを期待して、自分の部下をエレミヤのところへ遣わしたのですが、イザヤの時とは違い、エレミヤの返事はつれないものでした。2節の後半と3節をご覧ください。主はこう言われました。「見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼く。あなたはその手から逃れることはできない。あなたは必ず捉えられて、彼の手に渡されるから」です。何と主はバビロンと戦ってくれるというのではなく、反対にゼデキヤをバビロンの手に渡すと言われました。そしてエルサレムに住む者は、人も家畜も疫病で死んでしまうと。そして最後はゼデキヤとその家来、その民はバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されることになるというのです。助かる道はたった一つしかありません。それはバビロンに降伏することです。そうすれば彼は剣で死ぬことを免れ、平安のうちに死ぬことができます。3節には「必ず」とありますが、それは必ず起こることです。主が「必ず」と言われることは、必ずそうなるからです。バビロンの王に服することは屈辱的なことではありますが、そうすることで、捕囚の地でゼデキヤが安らかに死ぬことができるのであったなら、どんなに幸いであったかと思います。また、その死を悼む民がいたということも大きな慰めであったはずです。
しかし、ゼデキヤはそうしませんでした。この後の39章4~7節をご覧いただくとわかりますが、彼は最後までバビロンの王に降伏しませんでした。その結果、ゼデキヤはエレミヤが預言した通り悲惨な死を遂げることになります。39章4~7節にはこうあります。
「4 ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出た。5 カルデアの軍勢は彼らの後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。6 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺した。7 さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめた。」
ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見ると逃げ、夜の間に、王の園の道伝いにある、二重の城壁の間の門を通って都を出て、アラバへの道に出ましたが、カルデアの軍勢、これはバビロンの軍勢のことですが、彼らの後を追うと、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕らえ、ハマテの地のリブラにいたバビロンの王ネブカドネツァルのもとに連れてきました。ネブカドネツァルはゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダのおもだった人たちもみな虐殺しました。さらに、バビロンの王はゼデキヤの目をつぶし、バビロンに連れて行くため、彼に青銅の足かせをはめたのです。最後は獄中で死んでしまいます。彼が最後に自分の目で見たのは、自分の目の前で自分の息子たちが虐殺されるということでした。何とむごいことでしょうか。いったいなぜそこまで悲惨な死に方をしなければならなかったのでしょうか。それは、彼がエレミヤを通して語られた神のことばを受け入れなかったからです。エレミヤのことばを聞いて彼がそれを受け入れていたならば、彼の死は本当の意味で「安らかな死」となっていたことでしょう。それは私たちへの教訓でもあります。神が語られたことは必ずそのようになるのですから、私たちは心を頑なにしないで、神のことばに素直に従わなければなりません。
皆さんは、アテローム性動脈硬化という病気をご存知ですか。これは、コレステロールの蓄積と動脈の壁の傷跡のせいで起こる動脈硬化のことです。 霊的心の硬化も起こることがあります。 心の硬化は、神の真理を示されたのに、それを認めることも受け入れることも拒否することで起こります。箴言4章23節に、「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」とあります。あなたはどうでしょうか。あなたの心は硬化してはいないでしょうか。何を見張るよりも、あなたの心を見守らなければなりません。いのちの泉はそこから湧くからです。
Ⅱ.心を翻したゼデキヤとエルサレムの民(8-11)
次に、8~11節をご覧ください。「8 ゼデキヤ王がエルサレムにいる民全体と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言した後、【主】からエレミヤにあったことば。9 その契約は、各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないというものであった。10 契約に加わったすべての首長と民は、各自、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから奴隷を去らせた。11 しかしその後で、彼らは心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させた。」
ゼデキヤは、エレミヤの告げる神の言葉に心底から耳を傾けて真剣に聞こうしませんでしたが、そのことばを気にしていたのでしょう。彼はエルサレムにいた民全体と一つの契約を結びました。それは、奴隷を解放するということです。おそらく彼は、自分に向けられる神の怒りをなだめる方法を考えていたのでしょう。そこで、バビロンから独立を勝ち得るために神の恵みと祝福が必要だと感じたのです。それで彼はエルサレムにいる民全体と契約を結び、彼らを解放しました。奴隷というのは、同じユダヤ人の奴隷のことです。レビ記には、ユダヤ人は、神の奴隷であるから奴隷にしてはならない、と規定されてあります(レビ25:42,55)。しかし当時、経済的な理由から自発的に奴隷になる者がいたのでしょう。そのような場合は、奴隷は6年間働いて、7年目には解放されることになっていました(申命記15:12~18)が、彼らの先祖たちは、それを守ってこなかったのです。それを今、解放しようというのです。それは主の目にかなうことでした。
しかし、その後で、彼らは心を翻し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させたのです。いったい何があったのでしょうか。11節をご覧ください。「しかしその後で、彼らは心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らを奴隷や女奴隷の身分に服させた。」
一度はエルサレムの民全体とユダヤ人の奴隷を解放すると契約したのに、どうして彼らは心を翻してしまったのでしょうか。ここには記されてありませんが、その背景にはエジプトのファラオの軍勢が彼らを助けるためにやって来たことがあります。そのことはエレミヤ書37章5節にありますが、そこにはこうあります。「また、ちょうど、ファラオの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデア人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから引き揚げたときであった。」
待ちに待ったエジプトの援軍がやって来たのです。カルデヤ人とはバビロン人のことですが、彼らはエジプト軍がエルサレムを救出するためにやって来たことを知り、一時エルサレムの包囲を解くのです。エルサレムの人たちは大喜びでした。やった、危機は去った。エジプトさえ来てくれれば、もうバビロンなど恐れるに足らずだ、私たちは自由だ、と小躍りしました。しかし、その自由の喜びはとんでもない行動に現れてしまいました。それがこの11節の背景にあることです。それを見た民は、心を翻してしまいました。奴隷を取り戻したいという思いにかられるようになったのです。バビロンに包囲されている間は奴隷も大した仕事もなかったのであまり必要ではありませんでした。むしろ、奴隷を養うにはお金がかかります。ただ飯を食わせるよりは、解放した方がましだと考えましたが、バビロンの包囲が解かれたというのなら話は別です。いてもらった方がどんなに楽なことか・・・。彼らは急に心を翻しました。神聖な神との契約を踏みにじってしまったのです。
苦しい時の神頼みではありませんが、人が神を求めるのは、結局自分都合であったりすることが多いのです。それは、現代の私たちも同じではないでしょうか。自分の都合で信仰を持つ。いわゆるご利益信仰です。ご利益を求めて祈ること自体は悪いことではありませんが、私たちが考えるご利益と神が与えようとしておられるご利益とではちょっと違いがあります。私たちは目先の状況に左右されその利益を考えてすぐに心を翻してしまいますが、神はそのような方ではありません。神は約束されたことを最後まで忠実に守られます。神が私たちに約束しておられることは、わざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。それは言い換えると、神のようになる、ということです。そのために神はあらゆる方法を用いておられるのです。それは時には嬉しいことであったり、時には受け入れがたい辛いことであるかもしれませんが、どのような道を通させるにしても、最後は希望なのです。それなのに、目先の利益を優先し、それに振り回され、神との契約を軽んじることがあるとしたら、中身はこの世の人と何ら変わらないということになります。ただ礼拝の習慣を持っているだけの、取ってつけたような信仰にすぎないだけです。もしそうであるなら、このゼデキヤと同じように、神の御怒りから逃れることはできません。神を信じているというのであれば、心から神を恐れ、神を敬い、神につながった、神第一の歩みを求めるべきなのです。
Ⅲ.どんな境遇にあっても(12-22)
その結果、どうなったでしょうか。最後に12~22節をご覧ください。12~16節をお読みします。「12 すると、【主】からエレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「イスラエルの神、【主】はこう言われる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの地、奴隷の家から導き出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。14 「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間あなたに仕えさせ、その後あなたは彼を自由の身にせよ」と。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けもしなかった。15 ところが、あなたがたは今日、立ち返って、各自が隣人の解放を告げてわたしの目にかなうことを行い、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。16 それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚した。あなたがたは、それぞれ、いったん彼らの望むとおりに自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷の身分に服させた。』」
イスラエル人は知っていました。「七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない」と。しかし、彼らの先祖は、主の命令に聞き従わず、耳も傾けませんでした。ところが、ゼデキヤはじめ、この時代のユダヤ人たちは違います。彼らは今日、立ち上がって、各自が隣人の解放を告げて主の目にかなうことを行いました。ここではそのユダの民がほめられているのです。しかし彼らは息つく暇が出来ると、以前の状態に戻ってしまいました。神の名で呼ばれる家、神の前に立てた契約をあまりにも簡単に捨ててしまったのです。彼らは神がどのような方かを知っていたのに、自分の利益のために神を侮る態度を取ったのです。それで神は「わたしの名を汚した」と叱責されました。人の心はころころ変わるから”こころ”と名付けられたそうです。とにかく定まりません。チョッとした事でもスグにぐらついてしまいます。しかも、自分だけではないし周りに色々な人がいるものだから、違うココロや価値観に触れるとたちまち心が揺さぶられてしまうのです。
そんな心が変わらないでいることは、私たちの力でできることではありません。そこには聖霊の助けが必要なのです。そして、目先の状況で心を変えないためには、神がどのような方なのかという事実に目を向けなければなりません。パウロは、ピリピ4章11~14節でこう言っています。「11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。12 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」
アーメン!パウロはどんな境遇にあっても満ち足りる秘訣を知っていました。それは神の救いイエス・キリストでした。ですから、目先の状況がどうであっても、彼の心は変わらなかったのです。彼は彼を強くしてくださる方によって、どんなことでもできことを知っていました。心が変わらないということも、です。それは彼が神の恵みを深く知っていたからです。それは私たちも同じです。神の恵みによって、イエス・キリストを信じる者に約束された聖霊の助けによって、私たちもどんなことでもできるのです。自分の思い通りにいかないこともあるでしょう。でも聖霊の導きに従って歩むなら、決して肉の欲を満足させることはありません。心がころころ変わることはないのです。
ロシアの文豪ドストエフスキーは、知恵の種に出会って人生の方向を変えることができました。1866年に発表された小説「罪と罰」は、このような変化が実を結んだ作品です。彼が若かった頃、青年作家として多くの作品を執筆したことで傍若無人で高飛車な態度を取っていました。そんな彼が秘密警察に加担して逮捕され、シベリアへ流刑されました。自分を知る人が誰一人いない場所で、無期で強制労働に服する生活が続きました。昼は強制労働を強いられ、夜は厳しい寒さの中暗い屋根裏部屋で一人絶望に陥りながら過ごしました。
その頃、誰かがドストエフスキーに聖書を手渡しました。それで、彼は毎晩聖書を読むようになりました。そして、聖書の中で神に出会い、みことばを通して神の御声を聞いたのです。ついに、彼は後年心血を注いで一つの作品を書き上げました。それが「罪と罰」です。これは彼がみことばにって新しく生まれ変わった者として、人間の良心の問題を取り扱った作品となっています。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。みことばには人を変える力があります。それは、みことばが読まれると同時に読む人の心に働くからです。
しかし、ユダの民は簡単に心を翻してしまいました。それゆえ神は厳しいさばきを宣告されます。それが17~22節にある内容です。17節には、「それゆえ、【主】はこう言われる。『あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに──【主】のことば──剣と疫病と飢饉の解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。」とあります。つまり、心を翻したユダの民に対して「剣と疫病と飢饉の解放を宣言する」と言われたのです。また、18節には、彼らが神の前で結んだ契約のことばを守らず、神の契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする、と言われました。これは神とアブラハムとの間で契約を結ぶ話の中でも述べられています(創世記15章)。これは、双方の契約当事者が向かい合った引き裂かれた動物の間を通ります。もし、その契約をどちらかが破れば、その引き裂かれた動物のようになる、つまり、二つに引き裂かれるというものです。
いったんは退却したバビロン軍ですが、彼らは引き返して来て、エルサレムとユダの町々を破壊することになります。そして22節にあるように、「彼らはこの都を攻め取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。」のです。神との契約を守るということは、それほど重いことなのです。
旧約聖書の中に、この神との誓いを果たした美しい女性の話が出てきます。それは「ハンナ」です。長年不妊に悩んでいたハンナは、誰も見ていないところで、「神様、わたしに男の子を授けてください。もし願いが叶いましたなら、その子を一生神様にお献げします」と祈りました。神はそれをご覧になり、彼女にサムエルを授けてくださいました。ハンナとしてはやっと手に入れた待望の子ども、しかもかわいい盛りの赤ん坊でしたが、そのサムエルを「この子を主にお渡しいたします」と言って、祭司エリの養子にしたのです。誰も聞いていない、誰も見ていない、神への独り言と思えるような言葉も、ハンナは神への約束として忠実に果たしたのです。このような信仰こそ、神が喜ばれるものです。神はサムエルのことも、ハンナのことも豊かに祝福されました。
一方、祭司エリの4人の息子のうち2人の息子のホフニとピネハスは、ペリシテ人との戦いによって戦死します。それは彼らが主を軽んじたからです。主は、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」(Ⅰサムエル2:30)と言われました。
あなたはどうでしょうか。状況の変化に心が揺さぶられ、目先の利益を優先して、一度は主の御言葉に従うと決意しても、それを翻す弱さがあるのではないでしょうか。主に救われた者として私たちが何よりも優先しなければならないことは、主を愛し、主を恐れ、主に従うことです。「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを軽んじる者は軽んじられる。」のです。主に心を定め、心を翻すことなく、主の御言葉に従いましょう。自分が動かされやすい者であることを自覚し、主の助けを求めて祈りながら、主との約束を果たしていきましょう。
主は私たちの救い エレミヤ書33章14~26節
聖書箇所:エレミヤ書33章14~26節(旧約P1356、エレミヤ書講解説教63回目)
タイトル:「主は私たちの救い」
きょうは、エレミヤ33章後半から、「主は私たちの救い」というテーマでお話します。16節には「主は私たちの義」とありますが、同じ意味です。創造主訳聖書では「義」を「救い」と訳していて、こちらの訳の方がわかりやすいと思ったので、そのようなタイトルにしました。
前回の箇所で主は、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」と語られました。この「大いなること」とは、エルサレムの回復のことです。エルサレム(イスラエル)は神に背き、神の戒めを守らなかったので主は彼らから御顔を隠されましたが、もし彼らが主を呼ぶなら、主は彼らが知らない理解を超えた大いなることを告げてくださいます。今回はその続きです。主がどのようにエルサレムを回復なさるのかをご一緒に見ていきましょう。
Ⅰ.主は私たちの義(14-16)
まず14~16節をご覧ください。「14 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす。15 その日、その時、わたしはダビデのために義の若枝を芽生えさせる。彼はこの地に公正と義を行う。16 その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの都は『【主】は私たちの義』と名づけられる。」」
「見よ、その時代が来る」ということばは、世の終わりを示す特徴的な語です。そのとき、どんなことが起こるのでしょうか。ここには、「そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束を果たす」とあります。「イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみの約束」とは、サムエル記第二7章12、13節で語られたことばのことです。主はダビデに次のように言われました。「12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」
これは主がダビデと結ばれた契約なのでダビデ契約と言われているものですが、主はこの契約に基づいて、その日、ダビデのためにいつくしみの約束を果たすというのです。具体的にはダビデのために義の若枝を芽生えさせるということです。これはイエス・キリストによって成就するメシヤ預言です。すでにエレミヤ書23章5節にもこのことばが出てきました。主は、イスラエルとユダに語られたいつくしみの約束のゆえに、ダビデの子孫からメシヤを起こし、公義と正義によってエルサレムを治めてくださると言われました。その結果、エルサレムは安らかな町、「主は私たちの義」と呼ばれるようになるのです。すばらしいですね、主はご自分がダビデと交わした約束のゆえに、エルサレムを救い、そこで公義と正義を行い、そこが(エルサレム)が安らかに住めるようにしてくださるのです。そしてそこは「主は私たちの義」と呼ばれるようにしてくださるのです。これはイエス・キリストが最初に来臨した時に成就しましたが、実はそれだけのことではありません。来るべき千年王国において、エルサレムに完全な平和をもたらしてくださるのです。
ここではエルサレムは擬人化されています。これは私たちのことでもあるからです。「エルサレム」ということばに自分の名前を入れてよんでみるとわかりやすいと思います。その日、大橋富男は安らかに住み、こうして大橋富男は「主は私たちの救い」と名付けられる。その日がやってきます。私たちはかつてエルサレムのように神に背き、自分勝手な道を歩んだことでバビロンに滅ぼされたような者ですが、主はそんな私たちを救うためにご自分の永遠の契約に基づいて神の救い、神の御子イエス・キリストを与えてくださり、すべての罪からきよめてくださいました。それで私たちも「主は私たちの救い」と呼ばれるようになったのです。
パウロはこのことをエペソ2章1~8節でこう述べています。「1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」
これは神の賜物です。自分の罪過と罪との中に死んでいたということは、もはや自分では何もできないということです。そんな死人同然の者を、神はキリスト・イエスにあって私たちとともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださったのです。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。
そのことをここでは「いつくしみの約束」ということばで語られています。エルサレム(イスラエル)は、バビロンによって滅ぼされもはや死んだも同然、自分たちの力ではどうしようもない状態でしたが、神はそんな彼らを救い、安らかに住むことができるようにしてくださったのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか?それは神が彼らといつくしみの契約を結んでくださったからです。
詩人の谷川俊太郎さんが、「ぼくのゆめ」という題の詩を書きました。
「おおきくなったら なにになりたい?/と おとながきく/いいひとになりたい/と ぼくがこたえる/おこったような かおをして おとなはいう/もっと でっかいゆめがあるだろ?/えらくならなくていい/かねもちにならなくていい/いいひとになるのが ぼくのゆめ/と くちにださずに ぼくはおもう/どうして そうおもうのかわからない/だけど ほんとにそうおもうんだ/ぼんやり あおぞらをみていると/そんぐ(ぼくがかっているうさぎ)のあたまを なでていると」。
皆さんは、自分の子どもが大きくなったら何になりたいと聞かれ、「いい人になりたい」と言ったら、どう反応するでしょう。ある生命保険会社の調査によると、昨今の子どもがなりたいと思っている第一位はユーチューバーだったそうです2位はマンガ家、イラストレーター、プログラマー、アニメーター、3位は芸能人、4位、ゲームクリエーター、5位はパティシエ、だそうです。牧師になりたいという人はだれもいませんでした。この時代をよく反映しているなあと思いますが、他方、親たちはどう考えているかというと、親たちが「子どもについてほしくない職業」としてあげたのは、1位ユーチューバー、2位芸能人、3位自衛隊、4位政治家、5位は介護士でした。まあ、ユーチューバーや芸能人とあげたのは、これらは不安定な仕事ですから、もっと安定した職業に就いてほしいと思うのはわかるような気がします。世界で戦争や紛争が絶え間なく起こっている現代では、命を大切にしてほしいという気持ちもわかるような気がします。政治家も国のビジョンを描いていくのはカッコいいなぁと思いますが、やはりあまりに利権にまみれ、金まみれの世界に不快感を持つのでしょう。意外なのは、「介護士」ですね。おそらく親たち自身もお世話になるであろうエッセンシャルワーカーであるにもかかわらず、大切な仕事には間違いありませんが、あまりにも過酷すぎるという思いがあるからでしょう。
いろいろな職業がある中でも、どの人にも共通していることは、みんな「いい人になりたい」と思っていることです。でも、そもそもいい人とはどんな人なのでしょうか。エレミヤ17章9節に「人の心は何よりねじ曲がっている。それは癒しがたい。」とあります。そんな心がねじ曲がった人間が、いったいどうやっていい人になることができるのでしょうか。できません。私たちがどんなに頑張っても、自分ではいい人だと自負している人でも、神の目にかなったいい人になることはできないのです。それがイスラエル、エルサレムの結果でした。そしてバビロン捕囚という悲劇を生んだのです。
そんな中でもし私たちがいい人になりたいと思うなら、それはひとえに神の恵みでしかあり得ません。たとえばここに「公正」と「義」ということばがありますが、およそあらゆる政治において、この二つのものは欠くべからざる礎であるのは確かですが、いったいこれがどこからもたらされるのかというと、それは私たち人間ではなく、実に神の恵みから来るのです。
ですから、14節で主は「そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみ約束を果たす。」と言われたのです。これは「いつくしみの約束」なのです。私たち人間には到底できないことですが、神が一方的に与えてくださいました。その日、神はイスラエルとユダにいつくしみの約束を果たしてくださいます。良いことを成し得ない悲しいこの世に、神はご自身の「よいこと」をしてくださるのです。それがきたるべきメシヤ、イエス・キリストです。主は私たちを悪から救ってくださいます。私たちが救いなのではありません。救いは主です。主が私たちの救いなのです。その主が私たちを救い、安らかに住まわせてくださるのです。
この「主は私たちの義」という語は、エレミヤ23章6節にも出てきましたが、ヤハウェなる神は、救いという面だけでなく、すべての点でご自分の民の必要となってくださいます。戦いで勝利が必要なときには「ヤハウェ・ニシ」となってくださいます。意味は「主は旗」です。心の平安が必要な時には「ヤハウェ・シャローム」(主は平安)となってくださいます。今のエルサレムに最も必要なのは、公義と正義です。ですから主が「私たちの正義」になってくださるのです。
そしてすばらしいのは、主ご自身が正義であられるというだけでなく、エルサレムの町も同じ名前で呼ばれるようになることです。それは私たちがキリストを信じたことによってキリストと一つにされたからです。その結果、あなたのただ中にキリストの義がとどまるようになりました。これはすごいことです。私たちはクリスチャンと呼ばれていますが、どうしてそのように呼ばれるのでしょうか。それはキリストの義が転嫁されたからです。罪深い私たちはとても義なる者とはかけ離れた者ですが、キリストを信じたことで、キリストの義が転嫁されたのです。パウロはこのことをこう言っています。Ⅱコリント5章21節です。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)キリストの義が転嫁されたからです。
私たちはエルサレムのように救いも希望も何一つない荒れ果てた人生でしかありませんでしたが、神は、罪を知らないこの方を、私たちの代わりに罪としてくださったので、罪から救われ、神の都に安らかに住むことができるようになりました。それは神の豊かな恵みによるものです。このことを忘れないようにしましょう。そして、キリストと一つにされていることを喜び、キリストに感謝したいと思います。
Ⅱ.いつまでも絶えることがない神の契約(17-22)
次に、17~22をご覧ください。「17 まことに【主】はこう言われる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない。18 また、レビ人の祭司たちには、わたしの前で全焼のささげ物を献げ、穀物のささげ物を焼いて煙にし、いけにえを献げる者が、いつまでも絶えることはない。」19 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。20 【主】はこう言われる。「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、21 わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。22 天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」」
「まことに【主】はこう言われる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に就く者が断たれることはない。」これはエレミヤ書22章30節で、主がエホヤキムの子エコンヤに語られたことばです。エコンヤは神の指輪の印のように尊く権威ある存在でしたが、「わたしは聞かない」と神のことばに従わなかったことから、神はご自分の指輪の印であるエコンヤを抜き取り、バビロンの王ネブカデネザルの手に渡すと言われました。彼はそこで死ぬことになります。ということはどういうことかというと、ダビデ王家が絶たれてしまうということです。しかし、神はダビデの子エコンヤの子孫であるヨセフの子を通してではなく、ダビデの別の息子ナタンからこの王家を起こされるのです。つまり、ダビデの息子ナタンの子孫マリヤを通してこれを実現なさるのです。詳しくは22章のメッセージを読み返してください。このようにして主は再び来られて、ダビデの座に着いてくださるのです。何を言いたいのかというと、神の契約はどんなことがあっても変わることはないということです。ダビデの王家は断絶したが、主はその切り株から新しいダビデ王家につながる王(正義の若枝)を通してご自身が約束されたことを果たされるのです。
それは、その次に出てくるレビ人の祭司たちについても言えることです。18節には、「また、レビ人の祭司たちには、わたしの前で全焼のささげ物を献げ、穀物のささげ物を焼いて煙にし、いけにえを献げる者が、いつまでも絶えることはない。」とあります。エルサレムが崩壊すれば、当然神殿も崩壊します。そうなると、レビ人の祭司たちは無用の人となってしまいます。必要なくなるわけです。しかし主はそんな祭司たちを励ますために、レビ人の祭司たちの制度は永遠であると再確認しているのです。そのことは民数記25章10~13節で約束されていたことでした。つまり、神の契約はいつまでも絶えることはないのです。もちろん、祭司たちの活動が再開されるのは、神殿が再建されてからのことですから、これは千年王国でのことを表しているのでしょう。
それゆえ主は、こう言われるのです。20~22節です。「「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、21 わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。22 天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」」
このように神は、ご自分の契約を絶対に破棄することはなさいません。このことを思うとき、私たちはどんな状況の中にあっても勇気と希望をいただくことができます。目に見えることでがっかりしないでください。目に見えることで自分には無理だとあきらめないでください。主の偉大さを祈りの中で認め、果敢に前進していこうではありませんか。
Ⅲ.神の契約はまだ続いている(23-26)
最後に、23~26節をご覧ください。「23 エレミヤに次のような【主】のことばがあった。24 「あなたはこの民が、『【主】は自分で選んだ二つの部族を退けた』と話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民を侮っている。『自分たちの目には、もはや一つの国民ではないのだ』と。」25 【主】はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、26 わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」」
ここに、主が選んだ二つの部族とありますが、これはユダとイスラエルのことです。彼らは、自分たちは見捨てられたと思っていました。それで彼らは絶望していたのです。しかしそんな彼らに神は、いや契約の民はまだ残っている、続いていると慰めるのです。夜と昼の法則、天地運行の法則が変わらない限り、彼らと結んだ契約が破棄されることはないと、力強く宣言するのです。「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」とは、神の民イスラエルのことですが、神は契約に基づいて、そのイスラエルの民を祖国へと帰還させてくださるのです。
このことは、異邦人クリスチャンである私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。それは、イスラエルが神によって選ばれたのと同じように、私たちもまた選ばれた者であるということです。このことをパウロはエペソ1章4~5節でこう言っています。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
信じていない人たちについて、彼らは選ばれていないと言ってはなりません。聖書は、そのようには教えていないからです。すべての人が、イエス・キリストによって救いに招かれています。この選びは、永遠に変わることはありません。あなたは神によって救われるように選ばれているのです。私たちはここに慰めを求めたいと思います。目に見える現実がそうでなくても、たとえ明日が見えない夜でも、あなたに対する神の約束はどんなことがあっても絶対に変わることはありません。このみことばの約束をしっかり握って、その偉大な主とともに歩んでいこうではありませんか。主は私たちの救い。そして主はあなたの救いなのです。
わたしを呼べ エレミヤ書33章1~13節
聖書箇所:エレミヤ書33章1~18節(旧約P1355、エレミヤ書講解説教62回目)
タイトル:「わたしを呼べ」
きょうは、エレミヤ33章前半の箇所から、「わたしを呼べ」というタイトルでお話したいと思います。
Ⅰ.わたしを呼べ(1-9)
まず1~3節をご覧ください。「1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような【主】のことばがあった。2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」
エレミヤは、ユダの王最後の王ゼデキヤによって監視の庭に監禁されていました。それは、ゼデキヤがバビロンの王の手に渡されるということをエレミヤが預言をしたからです。ゼデキヤにとってエレミヤは、ユダにとって不幸なことしか預言しない不吉な預言者のように思えたのでしょう。そのエレミヤがまだ監視の庭に監禁されていたとき、再びエレミヤに主のことばがありました。それは2節と3節にある内容です。「2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」
主はエレミヤに「わたしを呼べ」と言われました。英語では「Call to me」、わたしを呼び求めよ、です。そうすれば、主はあなたに答え、あなたが知らない大いなることを、あなたに告げてくださいます。「大いなること」とは何でしょうか。これはエルサレムの回復のことです。神は、エルサレムの住民たちがカルデア人と戦っても、必ず敗北すると告げられました。なぜなら、5節にあるように、彼らのすべての悪のゆえに、主がエルサレムから御顔を隠されたからです。しかし、神は彼らを懲らしめて終わりではありません。そんな彼らを赦し、彼らを初めのように回復させ、建て直してしてくださるというのです。それが6~9節にある内容です。「6 見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。7 わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す。8 わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。9 この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる。』」
ユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直すなんてあり得ないことです。しかし、たとえ人間の目で不可能なことでも、神にはどんなことでもおできになります。あなたが神を呼び求めるなら、神はあなたの知らない理解を超えた大いなること、すなわち、エルサレムを初めのように回復させ、建て直してくださいます。もしあなたが神を信じ、神とともに歩み、神との交わりの中にいるなら、神はあなたが考えられないような偉大なことをしてくださるのです。でも私たちはそれを信じられないのでこういうのです。「ウッソ!」無理、無理、無理ですよ、どうやってそんなことができるんですか・・・。
このときのエレミヤもそうでした。神さまはイスラエルがバビロンに連れて行かれてから70年後に再び祖国に戻すとは聞いていましたが、いったいどのようにしてそれを無そうとしているのかはわかりませんでした。前回のアナトテの畑を買うこともそうです。神様は監禁されていたエレミヤに、アナトテにある畑を買いなさいと言われました。いったいどうして?崩壊寸前になっていたアナトテの畑を買ったって二束三文です。なぜ買わなければならないのか、さっぱりわかりませんでした。そんなエレミヤに、神さまはその理由を告げられるんですね。それが32章15節のみことばです。「なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』」つまり、彼らはそのバビロンから解放されて祖国に戻り、再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからです。いったい誰がそんなことを考えることができたでしょうか。70年ですよ、そんなに長い間バビロンで奴隷として生きていた彼らが、どうやって祖国に戻ることなどできるでしょうか。しかし、そんなエレミヤに神はこう言われました。「『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』それはあなたにはわからないことです。しかし、あなたが神を呼ぶなら、神はあなたに答え、あなが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げてくださいます。なぜなら、神さまは全能者であられるからです。
2節をご覧ください。ここには、「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。」とあります。主はこの天地を創られた創造主です。この方にとってできないことは一つもありません。ヨブは自分に降りかかる数々の災難がどうして起こるのかがわからず、そのことを神に問うわけですが、その中で彼が見出した答えは、これでした。神にはどんなことでもできるということです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました。」(ヨブ42:2)神にはどのような計画も不可能ではありません。そのこと信じなければなりません。神に「どうしてですか」と問う前に、あなたは神を呼び求めなければならないのです。そしてその声を聞かなければなりません。そうすれば、主はあなたに答え、あなたの知らない理解を超えた大いなることを告げてくださいます。
人は目先の現象に一喜一憂しやすいものです。しかし、自分には分からないことが沢山あることを謙虚に認めて主を呼ばなければなりません。そうすれば、主は、私たちの理解を超えた大いなることを告げてくださいます。
たとえば、アブラハムが99歳になったとき、主はアブラハムと契約を結ばれました。それは彼が多くの国民の父となるということでした。でも彼にはまだ子どもがいませんでした。どうやって多くの国民の父になることができるでしょうか。そのとき神さまは具体的に彼に直系の男の子が与えられ、その名は「イサク」と言いますが、彼を通してその契約を成し遂げてくださると明かしてくれました。まさか100歳の者にどうやって子どもが与えられるでしょう。サラだって90歳になっていました。考えられません。なかなか信じられません。そんなアブラハムとサラに主はこのように言われました。「14 【主】にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」【主】はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。」(創世記18:14)
皆さん、主にとって不可能なことは一つもありません。たとえあなたにとって不可能なことでも、主にとっては何でもないことです。あなたにとって必要なことは、この全能者であられる主を呼ぶことなのです。
6~9節をご覧ください。この時、主はエレミヤにエルサレムの傷を癒やし、回復し、彼らに平安と真実を豊かに示すと言われました。7節には、分断されていたユダとイスラエルを回復させるとあります。彼らが犯したすべての咎から彼らをきよめ、咎を赦すと約束させ、以前のように彼らを建て直というのです。主は、彼らが犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らの背いた咎をすべて赦してくださいます。でもこれらは彼らが良いことをしたからではありません。それは新しい契約に基づく神の一方的な恵みによるものです。 新しい契約については31章で見たように、御子イエスの血によって、信じるすべての者をきよめてくださるという神様の一方的な恵みの契約でした。御子イエスを信じる者は、すべての罪、咎がきよめられ、神がいつまでも共にいてくださいます。あなたがどんなにひどい罪を犯したとしても、あなたがその罪を認め、神に立ち返るなら、神はあなたを捨てることは絶対にありません。どんなに自分でこすり落とそうとアタックを使っても、あなたの罪は決して拭い落とせるものではありませんが、神さまはキリストの血によってそれを行なってくださったのです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)とある通りです。御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。何という恵みでしょうか。神はキリストによって彼らと新しい契約を結んでくださいました。神はキリストによってあなたとこの契約を結んでくださいました。ですから、どんなことがあってもあなたが滅びることはありません。あなたが神を呼ぶとき、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをしてくださることを信じましょう。
Ⅱ.その恵みはとこしえまで(10-11)
次に、10~11節をご覧ください。「10 【主】はこう言われる。「あなたがたが、人も家畜もいない廃墟と言うこの場所で、人も住民も家畜もいない、荒れすたれたユダの町々とエルサレムの通りで、11 楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」」
人も家畜もいない廃墟となった場所で、人も住民も家畜もいない荒れすたれたユダの町が、いったいどうして楽しみと喜びの声が聞かれるようになるのでしょうか。それは、主がそうされるからです。主がこの地を回復させ、以前のようにされるのです。それは人の理解をはるかに超えた驚くべき大いなること、大いなる神の恵みでした。あれほど廃墟となった町が再び建て直されるなんて考えられないことです。いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか。主がそれをしてくださいます。主は約束を反故にされ方ではありません。主が語られたことは必ず実現してくださるのです。主はそのように約束してくださいました。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」(イザヤ30:3) それはここだけではありません。エレミヤはバビロンに連れて行かれたユダの民が祖国に帰り、そこを元通りにすると何度も何度も語られました。主はそのことばりのとおりにされたのです。
アメリカに自動車を欲しがる息子がいました。彼は父親に大学の入学祝いに自動車を買ってくれとせがみました。父親は「自動車もいいが、みことばを読み、祈る生活をしなさい。」と言いました。そして、みことばと祈りには、自動車だけでなく人生に必要なすべてが込められていると言って、自動車の代わりに聖書をプレゼントしました。息子は大学の寮に入って学校が始まってからも父親からもらった聖書に一度も目を通しませんでした。父親が自動車を買ってくれなかったことに対する不満でいっぱいだったからです。
休みで家に戻って来た息子は、まだ父親に腹を立てていました。そのことを察した父親は息子に、なぜ聖書を読まないのかと尋ねました。息子は「自動車を買ってくれないのに、なぜお父さんの言うことを聞かなければならないんですか」と反発しました。父親は「息子よ、ピリピ4章9節を開いてみなさい。そこには自動車があるはずだ」と言いました。そこで息子は大学の寮に帰ると、聖書を手に取り、ピリピ4:19を開きました。驚いたことに、そのページに自動車が買える小切手がはさまれてあったのです。そして、その箇所には線まで引いてあったのです。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:9)
廃墟となった町が、再び喜び踊る人々で満ち溢れるようになる。なんという劇的な変化でしょうか。主はご自身のあわれみと、ご自身のお約束のゆえに、必ずそれを実現してくださいます。私たちの嘆きを賛美に、悲しみを楽しみと喜びに変えてくださるのです。それは人にはできません。でも神にはどんなことでもできるのです。たとえあなたが今深い泥沼に沈んでいても、たとえ先が見えない絶望の中に置かれていても、あなたが神を呼ぶなら、神はあなたの声に答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをあなたに告げてくださるのです。11節に、「楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」とありますが、私たちもこの万軍の主に感謝し、賛美と感謝をささげようではありませんか。主はかならずあなたに大いなることをしてくださるからです。
Ⅲ.満ち満ちた神の恵み(12-13)
最後に、12~13節をご覧ください。「12 万軍の【主】はこう言われる。「人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできる。13 山地の町々でも、シェフェラの町々、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、群れが再び、数を数える者の手の下を通り過ぎる──【主】は言われる。」」
人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできるようになります。回復の範囲が、約束の地の全行に及ぶようになります。山地の町々でも、シェフェラの町々でも、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、群れが再び、数を数える者の手の下を通りすぎようになるのです。これは牧者が羊の数を数える場面を思い浮かべますが、これはユダの全地で羊を飼うことが日常化し、家畜が豊かにあふれることを表しています。神がなされる回復は完全であるということです。あなたの人生がどんなに荒廃していても、物質的に不足を感じることがあっても、ダビデが「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追ってくるでしょう。」(詩篇23:6)と告白したように、神はあなたを豊かに満たしてくださるのです。神を読んでください。そうすれば、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることをあなたに告げてくださいます。
ある人が、神さまを信じてからも、古い習慣が根強く残っていました。それは、何かあるとすぐに人に頼り、聞いてもらい、答えを得る事でした。それで彼女は聖書の学びを通して、まず主に祈る事にしました。それまでは何か問題が起こると、その頃はまだ携帯が無かったので、次々と友人たちに電話をしました。ところが次々と電話しても、何と全員が出かけていて留守録だったのです。
その時彼女はハッとして、このみことばを思い出しました。まず人に頼るのでなく、主に頼り、祈る事だと。主の示しを感じました。その問題をまず祈りに持って行きました。するとその祈りが次々と答えられるのを体験しました。ある時は経済的苦境に陥りました。突然の大変な出費があり、給料前で手元にお金が無くなった。赤ん坊のミルクとオムツが無い。どうしようもなく、未信者の夫が、友人に少し借りて来ると言いました。給料日にすぐに返せるからと。でも彼女は、まず主に祈り、主に頼りたかったのです。そして心の中でその事を祈りました。すると夫が、行く前に、近くに住む一人暮らしの義父をのぞいて来ると言いました。主に感謝して、夫が出た時間、必要を求めて、心を注ぎ出して祈りました。長く祈っていて、ふと背後に人の気配を感じました。すると何と夫が、両手にミルク缶とオムツの袋を持ち、立っていた。驚いて聞くと、行くと丁度、職場の上の人が義父の見舞いに来てくれ、見舞金を置いて行ったというのです。とりあえず必要な物を買って来たと。即、祈りに答えられ心から感謝しました。そして主のご愛に触れて、心は喜びで満ちたのです。
どうしてこういうことが起こってしまったのかと思うとき、あなたは自分で悩み、落ち込み、自分で解決することを止めて主を呼ぶことです。 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」主があなたのために立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものだと信じて、主を呼び求めましょう。主に祈り、主に信頼して歩みましょう。主があなたも知らない、あなたの理解をはるかに超えた大いなることをあなたに告げてくださるからです。